1. 幼少期と学歴
デイビッド・A・ホッブスは、自身の競技経験と教育に基づき、バスケットボール指導者としての道を歩み始めた。
1.1. 出生と背景
デイビッド・A・ホッブスは、1949年4月25日にアメリカ合衆国バージニア州リンチバーグで生まれた。妻はバーバラ・"スキート"・フリート・ホッブスで、ヘザーとデイビッド・ジュニアの二人の成人した子供がいる。
1.2. 学歴と選手経歴
ホッブスは、大学バスケットボール選手として、まずバージニア州のフェラム短期大学で2シーズンプレーした。その後、バージニア・コモンウェルズ大学(VCU)に編入し、ジュニアシーズンとシニアシーズン(1970年から1971年)にバスケットボール選手としてレターマン(大学スポーツで優秀な成績を収めた選手に与えられる称号)を獲得した。1972年には、VCUで教育学の学士号を取得している。
2. コーチングキャリア
ホッブスのコーチングキャリアは、高校のランクから始まり、大学のアシスタントコーチ、ヘッドコーチ、そしてナショナルチームのヘッドコーチに至るまで、多岐にわたる。彼の指導力は、数々のチームを成功に導き、多くの選手の育成に貢献した。
2.1. 高校コーチ時代
ホッブスのコーチングキャリアは、バージニア州メカニックスビルにあるメカニックスビル高校(日本の情報源ではリー=デイビス高校とも表記)で始まった。ここで8シーズンを過ごし、最後の3年間はヘッドコーチを務めた。
2.2. 大学アシスタントコーチ時代
ホッブスは、複数の大学でアシスタントコーチとして重要な役割を果たし、チームの成功に貢献した。
2.2.1. バージニア・コモンウェルズ大学
大学コーチングの最初の職は、母校であるバージニア・コモンウェルズ大学(VCU)で、1980年から1985年までの6年間アシスタントコーチを務めた。ここでは、J・D・バーネットヘッドコーチの下で、タビー・スミスとともにコーチングスタッフの一員として活動した。
2.2.2. アラバマ大学
1985年、ホッブスはアラバマ大学にアシスタントコーチとして招かれ、ウィンプ・サンダーソンヘッドコーチの下で7年間この職を務めた。この期間中、クリムゾンタイドはSECチャンピオンシップを1回、SECトーナメントを4回制覇し、NCAAトーナメントのスイート16に4回進出した。アシスタントコーチとして、彼はロバート・オーリー、ジェームズ・ロビンソン("ハリウッド"ロビンソン)、ラトレル・スプリーウェルなど、後にオールSECに選ばれる多くの優れた選手を指導した。
2.2.3. ケンタッキー大学
2000年、デイビッド・ホッブスはケンタッキー大学のスタッフに加わり、タビー・スミスヘッドコーチの下で7年間アシスタントコーチを務めた。このうち5年間はアソシエイトヘッドコーチを務めた。この期間、ケンタッキー大学は5年連続でNCAAトーナメントに出場した。彼はこの地で、テイショーン・プリンス、キース・ボーガンス、チャック・ヘイズといった、後にNBAで活躍する選手たちの指導に当たった。2007年にスミスがチームを去った後、ホッブスは大学に残留しなかった。
2.3. アラバマ大学ヘッドコーチ時代
サンダーソンが1992年シーズン後にアラバマを去ると、ホッブスはヘッドコーチに任命された。彼の最初のシーズンでは、チームは16勝13敗の成績を収め、NITに進出した。1994年と1995年には、将来のNBAオールスター選手であるアントニオ・マクダイスの活躍により、アラバマは20勝を達成し、NCAAトーナメントに進出した。1996年には、19勝13敗の成績でチームをNITファイナルフォーに導いた。彼は1997-98シーズン後に辞任するまでの間、通算110勝76敗(勝率59.4%)の記録を達成し、9人のオールSEC選手を輩出した。
2.4. ケンタッキー大学退任後
ケンタッキー大学を離れた後も、ホッブスはバスケットボール界での活動を続けた。
2.4.1. NBAスカウト
ケンタッキー大学を離れた後、ホッブスは2年間、NBAのシャーロット・ボブキャッツでスカウトを務めた。
2.4.2. バスケットボール男子日本代表
2009年には、短い期間ながらバスケットボール男子日本代表チームのヘッドコーチを務めた。彼は東アジアバスケットボール選手権で日本代表を準優勝に導く成績を残した。しかし、大会前から体調が思わしくなく、大会後に休養に入ったため、アジア選手権では倉石平強化部長が彼の代わりを務めた。その後、病気休暇中にこの職を解任された。
2.4.3. アイオワ州立大学アシスタント
ケンタッキー大学を離れた後、ホッブスは一時、アイオワ州立大学のスティーブ・プローームヘッドコーチの特別アシスタントを務めた。
3. 私生活
ホッブスはバーバラ・"スキート"・フリート・ホッブスと結婚しており、ヘザーとデイビッド・ジュニアの二人の成人した子供がいる。
4. ヘッドコーチ戦績
4.1. 大学
シーズン | チーム | 全体成績 | カンファレンス成績 | カンファレンス順位 | ポストシーズン |
---|---|---|---|---|---|
1992-93 | アラバマ | 16-13 | 7-9 | 4位 (西地区) | NIT 1回戦 |
1993-94 | アラバマ | 20-10 | 12-4 | 2位 (西地区) | NCAAディビジョンI 2回戦 |
1994-95 | アラバマ | 23-10 | 10-6 | 3位 (西地区) | NCAAディビジョンI 2回戦 |
1995-96 | アラバマ | 19-13 | 9-7 | 3位 (西地区) | NIT 4位 |
1996-97 | アラバマ | 17-14 | 6-10 | 4位 (西地区) | |
1997-98 | アラバマ | 15-16 | 6-10 | 4位 (西地区) | |
合計 (アラバマ) | 110-76 (.594) | 50-46 (.521) |
5. 功績と影響
デイビッド・A・ホッブスのコーチングキャリアは、その長い期間にわたる成功と、多くの才能ある選手を育成した点で特筆される。彼は通算400以上の勝利を挙げ、チームを18回のポストシーズン、中でも16回のNCAAトーナメントへと導いた。
彼の最大の功績の一つは、指導した多くの選手が大学レベルで成功を収め、さらにNBAのようなプロリーグで活躍する基盤を築いたことである。ロバート・オーリー、アントニオ・マクダイス、テイショーン・プリンスといった、ホッブスの教え子たちは、それぞれがプロの世界で重要な役割を果たした。これは、彼が単に試合に勝つだけでなく、若者の潜在能力を引き出し、彼らを人間として、またアスリートとして成長させることに深くコミットしていた証拠である。
また、バスケットボール男子日本代表のヘッドコーチとして、短い期間ながらも国際大会で準優勝という成績を残したことは、彼の指導力が国境を越えて通用する普遍的なものであることを示した。ホッブスは、そのキャリアを通じて、バスケットボールというスポーツの発展と、関わる選手たちの人生に多大な影響を与えた指導者として、その名を残している。
- 主な育成選手:**
Category:アメリカ合衆国のバスケットボール指導者
Category:アラバマ大学のバスケットボール選手
Category:バージニア・コモンウェルズ大学のバスケットボール選手
Category:アラバマ・クリムゾンタイド男子バスケットボールのヘッドコーチ
Category:バスケットボール男子日本代表のヘッドコーチ
Category:1949年生
Category:リンチバーグ (バージニア州)出身の人物
Category:存命人物