1. 選手経歴
デール・スウェイムは、アマチュア時代からメジャーリーグ選手としての引退まで、その野球選手としてのキャリアを多くの球団で積み重ねた。
1.1. アマチュア時代とドラフト
スウェイムはピノールバレー高校時代からスポーツで才能を発揮し、アメリカンフットボールではオールアメリカンのクォーターバックとして名を馳せた。野球とバスケットボールも並行してプレイしていた。
1982年のMLBドラフトにおいて、彼はミルウォーキー・ブルワーズから1巡目(全体25位)で指名され、プロとしてのキャリアをスタートさせた。
1.2. メジャーリーグ選手時代
1986年5月12日にメジャーリーグデビューを果たしたデール・スウェイムは、その後1999年に引退するまで12シーズンにわたりMLBでプレイし、通算で打率.236、69本塁打を記録した。
彼の選手キャリアにおける最高のシーズンは、1987年とされる。この年、彼は主にブルワーズの打順9番打者として、25本塁打、95打点を記録した。特に印象的な出来事として、シーズン序盤の4月19日(イースターの日曜日)にはミルウォーキー・カウンティ・スタジアムでテキサス・レンジャーズ戦において、チームを6対4の勝利に導くサヨナラ本塁打を放った。この勝利により、ブルワーズはシーズン12連勝を達成した。同年7月17日には、カリフォルニア・エンゼルス戦で3本塁打6打点の大活躍を見せ、チームの12対2での大勝に貢献した。
しかし、1988年9月3日、スウェイムはチームメイトのダリル・ハミルトンとの激しい衝突事故に巻き込まれ、左足を重傷骨折した。この怪我により、彼は1988年シーズン残りの試合を全て欠場し、続く1989年シーズンもメジャーリーグでの出場はなかった。この間、マイナーリーグで17試合に出場するに留まった。
メジャーリーグでの最初の3シーズンは、打率が最低でも.242を維持していたが、1990年のメジャー復帰後は、9シーズンで打率.241を超えたのはわずか2回であった。
選手時代には、後に最優秀監督賞を受賞する5人の監督のもとでプレイした経験を持つ。これにはトニー・ラルーサ(オークランド時代)、ジム・リーランド(ピッツバーグ時代)、ジーン・ラモント(シカゴ・ホワイトソックス時代)、ルー・ピネラ(シアトル時代)、そしてジョー・トーリ(ニューヨーク・ヤンキース時代)が含まれる。
デール・スウェイムが所属した主要なメジャーリーグの球団は以下の通りである。
- ミルウォーキー・ブルワーズ
- フィラデルフィア・フィリーズ
- シカゴ・ホワイトソックス
- オークランド・アスレチックス
- シアトル・マリナーズ
- ピッツバーグ・パイレーツ
- ニューヨーク・ヤンキース
2. コーチ・監督経歴
デール・スウェイムは選手引退後、野球指導者としての道を歩み、様々な球団でコーチや監督を歴任した。
2.1. 初期コーチングキャリア
スウェイムは2001年から2003年まで、ピッツバーグ・パイレーツ傘下のAA級チームで監督を務め、213勝211敗の記録を残した。2003年には、野球専門誌「ベースボール・アメリカ」からイースタンリーグにおける「最もメジャーリーグの監督になる可能性を秘めた人物」と評価された。
その後、2004年から2005年までボストン・レッドソックスのコーチングスタッフに加わり、テリー・フランコーナ監督(ブルワーズ時代の元チームメイト)のもとで三塁コーチを務めた。2005年シーズン終了後、レッドソックスを離れてミルウォーキー・ブルワーズにベンチコーチとして復帰した。

2.2. ミルウォーキー・ブルワーズ時代
ミルウォーキー・ブルワーズ復帰後、スウェイムは2006年にはベンチコーチを務め、2007年10月30日には再び三塁コーチに転任した。
2008年9月15日、ブルワーズは当時の監督であったネッド・ヨーストを解任し、83勝67敗とワイルドカード争いでタイに並んでいたものの、直近14試合で11敗を喫していたチームの立て直しを託されたスウェイムが暫定監督に就任した。スウェイムは暫定監督としてシーズン残りの12試合で7勝5敗の成績を収め、チームを1982年のワールドシリーズ出場以来となる26年ぶりのプレーオフ進出に導いた。しかし、ナショナルリーグディビジョンシリーズではフィラデルフィア・フィリーズに4試合で敗退した。
シーズン終了後、ブルワーズのゼネラルマネージャーであるダグ・メルビンは、スウェイムを正式な監督候補から外し、ケン・マチャが後任に就任した。スウェイムはその後もブルワーズに残り、2009年から2011年まで打撃コーチを務めた。
2.3. シカゴ・カブス時代
2011年11月16日、シカゴ・カブスは空席となっていた監督の座をスウェイムに打診し、翌11月17日には彼がその申し出を受諾したことが発表された。11月18日には正式にカブスの新監督として紹介された。
しかし、スウェイムは2012年と2013年の2シーズンにわたってカブスの監督を務めたが、通算127勝197敗と成績が振るわず、2013年9月30日に解任された。
一方で、2017年8月16日には、カブスが長年の悲願であったワールドシリーズ優勝を果たした際、スウェイムがチームからワールドシリーズの優勝リングを授与されるという特別な出来事があった。これは、彼が監督として在籍した時期のチームの再建に向けた貢献が、現在のチームによっても評価されたことを示している。
2.4. カンザスシティ・ロイヤルズ時代
シカゴ・カブスを解任された後、デール・スウェイムは2013年10月3日にカンザスシティ・ロイヤルズのコーチ兼内野手インストラクターとして就任することが発表された。この就任により、彼はブルワーズ時代に師事したネッド・ヨースト監督と再び同じチームで働くこととなった。
2014年5月29日には、チームの打撃成績が低迷していたため、ロイヤルズの打撃コーチに昇格した。その後、2018年にはベンチコーチに転任し、2019年にヨースト監督が引退するのに伴い、ロイヤルズを去った。
3. 監督成績
デール・スウェイムがメジャーリーグで監督を務めた際のシーズンごとの成績は以下の通りである。
球団 | 就任 | 退任 | レギュラーシーズン | プレーオフ | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
勝利 | 敗戦 | 勝率 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | |||
ミルウォーキー・ブルワーズ | 2008年 | 2008年 | 7 | 5 | .583 | 1 | 3 | .250 |
シカゴ・カブス | 2012年 | 2013年 | 127 | 197 | .392 | 0 | 0 | .000 |
合計 | 134 | 202 | .399 | 1 | 3 | .250 |
4. 詳細情報
デール・スウェイムの選手としてのキャリアにおける詳細な統計データは以下の通りである。
4.1. 年度別打撃成績
年度 | 球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年 | MIL | 91 | 356 | 317 | 35 | 78 | 13 | 2 | 7 | 116 | 35 | 4 | 3 | 5 | 1 | 32 | 0 | 1 | 63 | 7 | .246 | .316 | .366 | .682 |
1987年 | 153 | 586 | 535 | 86 | 135 | 27 | 3 | 25 | 243 | 95 | 2 | 6 | 5 | 5 | 40 | 4 | 1 | 133 | 11 | .252 | .303 | .454 | .757 | |
1988年 | 129 | 495 | 467 | 41 | 113 | 14 | 4 | 9 | 162 | 51 | 1 | 0 | 3 | 3 | 21 | 0 | 1 | 122 | 6 | .242 | .274 | .347 | .621 | |
1990年 | 48 | 133 | 117 | 15 | 23 | 7 | 0 | 1 | 33 | 12 | 0 | 1 | 0 | 2 | 12 | 0 | 2 | 30 | 2 | .197 | .278 | .282 | .560 | |
1991年 | 90 | 308 | 266 | 33 | 64 | 19 | 1 | 4 | 97 | 43 | 2 | 4 | 5 | 4 | 32 | 0 | 1 | 78 | 8 | .241 | .320 | .365 | .685 | |
1992年 | PHI | 54 | 153 | 133 | 13 | 24 | 4 | 0 | 2 | 34 | 16 | 0 | 0 | 0 | 2 | 16 | 4 | 0 | 39 | 5 | .178 | .261 | .252 | .513 |
CWS | 40 | 131 | 114 | 15 | 25 | 9 | 0 | 2 | 40 | 12 | 1 | 1 | 2 | 3 | 12 | 0 | 0 | 29 | 1 | .219 | .287 | .351 | .638 | |
'92年計 | 94 | 284 | 247 | 28 | 49 | 13 | 0 | 4 | 74 | 28 | 1 | 1 | 2 | 5 | 28 | 4 | 0 | 68 | 6 | .197 | .273 | .297 | .570 | |
1993年 | OAK | 30 | 96 | 79 | 12 | 14 | 2 | 1 | 2 | 24 | 6 | 0 | 0 | 1 | 0 | 16 | 1 | 0 | 21 | 2 | .177 | .316 | .304 | .620 |
1994年 | SEA | 10 | 29 | 27 | 3 | 5 | 0 | 0 | 1 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 10 | 1 | .185 | .241 | .296 | .537 |
1996年 | PIT | 12 | 40 | 34 | 9 | 12 | 5 | 0 | 1 | 20 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 6 | 0 | .353 | .450 | .588 | 1.038 |
1997年 | 126 | 339 | 306 | 30 | 80 | 20 | 1 | 12 | 138 | 47 | 0 | 3 | 4 | 2 | 27 | 2 | 0 | 81 | 8 | .250 | .316 | .341 | 0.657 | |
1998年 | NYY | 30 | 64 | 58 | 6 | 9 | 0 | 0 | 0 | 9 | 3 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | 0 | 16 | 2 | .155 | .203 | .155 | .358 |
1999年 | PIT | 49 | 80 | 71 | 7 | 15 | 5 | 1 | 3 | 31 | 13 | 0 | 0 | 1 | 1 | 7 | 1 | 0 | 28 | 0 | .211 | .278 | .437 | .715 |
MLB:13年 | 862 | 2810 | 2526 | 305 | 597 | 125 | 13 | 69 | 955 | 340 | 10 | 18 | 26 | 25 | 227 | 12 | 6 | 656 | 53 | .236 | .298 | .378 | .676 |
4.2. 年度別守備成績
年度 | 球団 | 一塁(1B) | 二塁(2B) | 三塁(3B) | 遊撃(SS) | 左翼(LF) | |||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
1986年 | MIL | - | 13 | 29 | 23 | 1 | 6 | .981 | 65 | 45 | 122 | 26 | 8 | .865 | 13 | 18 | 34 | 3 | 5 | .945 | - | ||||||||||
1987年 | - | 13 | 21 | 35 | 2 | 7 | .966 | - | 142 | 221 | 361 | 21 | 82 | .965 | - | ||||||||||||||||
1988年 | - | 1 | 1 | 5 | 0 | 1 | 1.000 | - | 127 | 208 | 370 | 27 | 93 | .955 | - | ||||||||||||||||
1990年 | 5 | 17 | 0 | 0 | 1 | 1.000 | 16 | 22 | 30 | 1 | 6 | .981 | 22 | 17 | 28 | 4 | 2 | .918 | 5 | 3 | 5 | 1 | 1 | .889 | - | ||||||
1991年 | - | 2 | 3 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | 38 | 26 | 62 | 4 | 9 | .957 | 51 | 56 | 125 | 6 | 24 | .968 | - | |||||||||||
1992年 | PHI | 4 | 20 | 5 | 0 | 1 | 1.000 | - | 5 | 2 | 4 | 0 | 1 | 1.000 | 34 | 56 | 91 | 8 | 17 | .948 | - | ||||||||||
CWS | 2 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | - | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 37 | 39 | 97 | 8 | 19 | .944 | - | |||||||||||
'92年計 | 6 | 23 | 6 | 0 | 1 | 1.000 | - | 7 | 3 | 4 | 0 | 1 | 1.000 | 71 | 95 | 188 | 16 | 36 | .946 | - | |||||||||||
1993年 | OAK | 14 | 116 | 5 | 3 | 11 | .976 | 4 | 4 | 7 | 0 | 1 | 1.000 | 7 | 5 | 4 | 0 | 1 | 1.000 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- |
1994年 | SEA | - | - | 3 | 2 | 8 | 1 | 0 | .909 | - | - | ||||||||||||||||||||
1996年 | PIT | - | - | 10 | 4 | 17 | 2 | 1 | .913 | - | - | ||||||||||||||||||||
1997年 | 21 | 105 | 5 | 0 | 10 | 1.000 | 2 | 3 | 5 | 1 | 1 | .889 | 47 | 17 | 78 | 6 | 4 | .941 | 28 | 29 | 54 | 1 | 14 | .988 | - | ||||||
1998年 | NYY | 21 | 108 | 9 | 3 | 9 | .975 | - | 6 | 4 | 6 | 1 | 0 | .909 | - | - | |||||||||||||||
1999年 | PIT | 4 | 23 | 2 | 0 | 5 | 1.000 | 2 | 1 | 2 | 0 | 1 | 1.000 | 12 | 2 | 15 | 1 | 0 | .944 | 4 | 1 | 5 | 0 | 1 | 1.000 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
MLB | 71 | 392 | 27 | 6 | 37 | .986 | 53 | 84 | 109 | 5 | 23 | .975 | 217 | 125 | 344 | 45 | 26 | .912 | 442 | 634 | 1143 | 75 | 256 | .960 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
- 各年度の太字はリーグ最高
4.3. 背番号
デール・スウェイムは選手およびコーチとしてのキャリアを通じて、以下の背番号を着用した。
- 27(1986年)
- 7(1987年 - 1988年、1990年 - 1991年)
- 8(1992年 - 同年途中)
- 42(1992年途中 - 同年終了)
- 6(1993年)
- 36(1994年)
- 17(1996年 - 1998年)
- 11(1999年)
- 41(2004年 - 2005年)
- 29(2006年 - 2011年)
- 33(2012年 - 2013年)
- 21(2014年 - 2017年)
- 26(2018年)
- 46(2019年)
5. 私生活
デール・スウェイムには、元MLBのオールスター選手であるジョン・オルルドといういとこがいる。
6. 評価と影響
デール・スウェイムの野球キャリア全体は、選手としての長期的な貢献と、その後の指導者としての確かな実績によって特徴づけられる。彼は選手として大怪我を乗り越え、チームの中心選手として活躍した時期もあり、その粘り強さは指導者としての姿勢にも影響を与えた。
特に、2008年にミルウォーキー・ブルワーズの暫定監督として、チームを26年ぶりのプレーオフ進出に導いた功績は、彼のリーダーシップと危機管理能力を示すものとして高く評価されている。この短期的な成功は、彼が単なる統計上の数字だけでなく、チームの士気を高め、結束させる能力を持っていたことを証明している。
シカゴ・カブスでの監督時代は、チームの成績が振るわず解任されたものの、数年後にカブスがワールドシリーズで優勝した際、チームから優勝リングを授与されたエピソードは、彼のカブス再建初期における貢献が、後の成功へとつながる重要な基盤を築いたとして認識されていることを示している。これは、組織内での彼の人間的魅力と、野球界における尊敬の念が深かったことを物語るものであり、彼のキャリアを通じてのポジティブな影響を象徴する出来事と言える。
選手引退後も長きにわたりコーチや監督としてプロ野球界に留まり続けたことは、彼が野球というスポーツに深く根ざし、その発展に尽力してきた証である。