1. 概要
ドナルド・アーサー・ノーマン(Donald Arthur Norman英語、通称ドン・ノーマン)は、1935年12月25日に生まれたアメリカ合衆国の認知科学者、認知工学者、教授、そして作家です。彼は現在、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)のデザインラボのディレクターを務めており、同校の認知科学名誉教授でもあります。また、韓国科学技術院(KAIST)の特別招聘教授として、年に2ヶ月間教鞭をとっています。
ノーマンは、特にその著書『誰のためのデザイン?』で知られており、デザイン、ユーザビリティ工学、認知科学の分野における専門知識で広く認知されています。彼は認知システム工学の発展を形成した人物としても評価されています。ノーマンの活動の多くは、人間中心設計(Human-Centered Design)の提唱を伴っています。この設計思想は、ユーザー体験(User Experienceユーザーエクスペリエンス英語)を最も重視し、人間のニーズ、能力、行動を最優先に考えて製品やシステムを設計するアプローチです。彼は、あらゆるもの、扉からコンピューターに至るまで、デザイン分野を推進することを根底的な目標としています。
彼はヤコブ・ニールセンと共にニールセン・ノーマン・グループを共同設立し、IDEOのフェロー、シカゴのIITデザインインスティテュートの評議員も務めています。ノーマンは、デザイン研究コミュニティが製品革新にほとんど影響を与えていないという、しばしば物議を醸す立場をとっています。彼は、学術研究は既存製品の改良には役立つが、真のブレークスルーを達成するのは技術者であると主張しています。
2. 生涯と学歴
ドナルド・ノーマンの学術的背景は、認知科学、工学、心理学という多岐にわたる分野に根ざしており、その後の彼のキャリアに大きな影響を与えました。
2.1. 初期生い立ちと学歴
ドナルド・アーサー・ノーマンは1935年12月25日に生まれました。彼はマサチューセッツ工科大学(MIT)で学び、1957年に電気工学の学士号(B.S.)を取得しました。その後、ペンシルベニア大学に進学し、電気工学の修士号(M.S.)を取得しました。さらに、同大学で心理学の博士号(PhD)を取得し、1962年に卒業しました。彼はペンシルベニア大学の数理心理学グループの初期の卒業生の一人であり、指導教官はR・ダンカン・ルーチェでした。
2.2. 初期学術キャリア
博士号取得後、ノーマンはハーバード大学の認知科学センターでポストドクター研究員として勤務し、1年以内に講師となりました。ハーバード大学での4年間を経て、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)心理学部で准教授の職に就きました。彼は、工学、コンピューター科学、実験および数理心理学の訓練を、当時勃興しつつあった認知科学の分野に応用しました。
ノーマンは最終的に、UCSDの認知科学部の創設者となり、心理学部の部長も兼任しました。UCSDでは、認知科学研究所の創設者の一人となり、認知科学学会の組織者の一人でもありました。認知科学学会は、1979年にUCSDキャンパスで初の会議を開催しています。また、彼は心理学者のティム・シャライスと共に、実行機能の注意制御に関するフレームワークを提案しました。ノーマン=シャライスモデルの構成要素の一つに、監視型注意システムがあります。
3. 専門キャリア
ノーマンの専門キャリアは、学術界に留まらず、産業界やコンサルティング分野へと広がり、その中で彼は「ユーザーエクスペリエンス」という用語を初めて使用するなど、デザイン分野に数多くの先駆的な貢献をしてきました。
3.1. 認知工学への転換
ノーマンは認知科学から認知工学へと専門分野を転換し、コンサルタントおよび著述家としてこの分野に進出しました。1981年に『Datamation』誌に掲載された彼の記事「UNIXの真実:ユーザーインターフェースはひどい(The truth about Unix: 'The user interface is horrid'英語)」は、彼をコンピューター業界で一躍有名にしました。この記事は、UNIXシステムの複雑性とユーザーフレンドリーでないインターフェースを厳しく批判し、その後の彼のキャリアの方向性を決定づけるものとなりました。
彼のキャリアは学術界を離れて大きく飛躍しましたが、1993年までUCSDでの活動は続けていました。ノーマンは、国防高等研究計画局(DARPA)など、数多くの大学や政府の諮問委員会に貢献することで、人間中心設計を推進する活動を続けました。彼は現在も、モトローラ、トヨタ工業大学、TEDカンファレンス、パナソニック、『ブリタニカ百科事典』など、多くの委員会や諮問委員会で活動しています。
ノーマンはまた、1979年に発生したスリーマイル島原子力発電所事故の調査のために派遣された選抜チームの一員でもありました。
3.2. 産業界での役割
1993年、ノーマンはUCSDを離れ、Apple Computerに入社しました。当初は「ユーザーエクスペリエンス・アーキテクト」という職名でアップル・フェローを務めました。これは、「ユーザーエクスペリエンス」という言葉が職名に初めて使用された例とされています。その後、Apple Advanced Technology Groupのヴァイスプレジデントに就任し、同社のヒューマン・インターフェース・ガイドラインの策定にも関わりました。Appleでの勤務後、彼はヒューレット・パッカードでも働きました。
3.3. ニールセン・ノーマン・グループ設立
1998年、ドナルド・ノーマンはヤコブ・ニールセンと共にニールセン・ノーマン・グループ(Nielsen Norman Group英語、NN/g)を設立しました。この会社は、デザイナーや企業がより人間中心の製品やインターネットでのインタラクションへと移行できるよう支援することを目的としており、ユーザーエクスペリエンスデザインの分野における先駆者です。
3.4. 後期学術活動
ニールセン・ノーマン・グループ設立後も、ノーマンは学術界に戻り、ノースウェスタン大学でコンピュータ科学の教授を務め、セガルデザイン研究所の共同ディレクターを2010年まで務めました。2014年には、カリフォルニア大学サンディエゴ校に再任され、新たに設立されたカリフォルニア電気通信・情報技術研究所内のデザインラボのディレクターに就任しました。また、彼は韓国科学技術院(KAIST)の特別招聘教授として、年に2ヶ月間教鞭をとっています。日本においても、北陸先端科学技術大学院大学で講義を行った経験があります。彼はまた、IDEOのフェローであり、シカゴのIITデザインインスティテュートの評議員でもあります。
4. 主要な貢献と哲学
ドナルド・ノーマンは、認知科学とデザインの分野において、革新的な思想と理論を提唱し、その概念は今日のデザイン実践に深く浸透しています。
4.1. ユーザー中心設計と人間中心設計
ノーマンは、1986年にスティーブン・W・ドレイパーと共編した著書『User Centered System Design: New Perspectives on Human-computer Interaction英語』の中で、「ユーザー中心設計」(user-centered design英語)という用語を導入しました。この本の中で彼は、デザイナーはシステムを利用する人々に焦点を当てるべきであり、ユーザーがアーティファクトに適応する負担を軽減するために、アーティファクトをユーザーに適応させるべきだと主張しています。
彼の代表作『誰のためのデザイン?』(初版は『The Psychology of Everyday Things英語』)では、彼はこのユーザー中心設計を、美学のような二次的な考慮事項を後回しにし、ユーザーのニーズに基づいて設計するアプローチとして説明しました。この設計には、タスク構造の単純化、視認性の確保、適切なマッピング、制約の活用、エラー対策の設計、アフォーダンスの明確化、そして人間行為サイクルにおける7段階の行動が含まれます。これらの原則と特徴は、物理的およびデジタルの両方のコンテキストにおける製品デザインの分野に密接に関連しています。
ノーマンはまた、著書『The Things that Make Us Smart: Defending the Human Attribute in the Age of the Machine英語』で、「認知アーティファクト」(cognitive artifacts英語)という用語を使用し、「表象機能を果たすために情報を維持、表示、または操作し、人間の認知パフォーマンスに影響を与える人工的な装置」と定義しています。この本でも、『誰のためのデザイン?』と同様に、人間の心が機械に合わせるのではなく、人間の心に合う機械の開発を主張しています。
『誰のためのデザイン?』の改訂版では、ノーマンは以前の美学に関する主張を修正し、「ユーザー中心設計」という用語自体を削除しました。彼は序文で、製品の全体的な体験はユーザビリティだけでなく、美学、喜び、楽しさといった要素が極めて重要な役割を果たすと述べています。そして、喜び、楽しさ、感情に関する議論が不足していたため、デザインにおける感情の役割について『エモーショナル・デザイン』という一冊の本を執筆したと説明しています。
彼は現在、代わりに「人間中心設計」(human-centered design英語)という用語を使用しており、「人間のニーズ、能力、行動を最優先し、それらのニーズ、能力、行動様式に対応するように設計するアプローチ」と定義しています。
4.2. 認知システム工学
ノーマンは、人間の認知と複雑なシステムを統合する認知システム工学分野の形成において重要な役割を果たしました。彼の初期の学術的背景は、工学、コンピューター科学、そして心理学に及び、これらの知識を組み合わせて、人間が複雑な機械やシステムとどのように相互作用するかを理解するための基盤を築きました。彼は、人間の認知の限界と強みを考慮に入れながら、より効果的で安全なシステムを設計することの重要性を強調しました。
4.3. 感性デザインと批判的視点
ノーマンは、著書『エモーショナル・デザイン:なぜ私たちは日用品を好きになるのか(嫌いになるのか)』(Emotional Design: Why We Love (or Hate) Everyday Things英語)を通じて、デザインにおける感情の重要性を深く掘り下げました。この本では、機能的・経済的にも優れた製品は、ユーザーに感情的な感動を与えるものであると主張しています。彼は、美学とデザインが人間体験に与える影響について、美しさ、喜び、楽しさといった感情的な側面が、単なる機能性やユーザビリティと同様に、製品の全体的な魅力にとって不可欠であると論じました。
ノーマンはまた、デザイン研究コミュニティが製品革新にほとんど影響を与えていないという、しばしば物議を醸す視点を示しています。彼は、学術研究は既存製品の改良には貢献できるが、真のブレークスルーを達成するのは技術者であると考えています。彼のウェブサイトのドメイン名である「jnd.org」は、「just-noticeable difference英語」(ちょうど可知差異)という心理学用語の頭文字をとったもので、彼が世の中に変化をもたらそうとする努力を表しています。
5. 受賞と栄誉
ノーマンは、認知科学およびデザイン分野への多大な貢献が認められ、数多くの賞や名誉を授与されています。
- 名誉学位**:
- 1995年にパドヴァ大学から心理学分野での「S. V. della laurea ad honorem」名誉学位。
- デルフト工科大学からインダストリアルデザインおよび工学分野での博士号。
- フェローシップと賞**:
- 2001年に計算機協会(ACM)のフェローに選出。
- 2001年にACMの通信デザイン特別関心グループ(SIGDOC)からリゴ賞(Rigo Award英語)を受賞。
- 2006年にコンピュータおよび認知科学分野でベンジャミン・フランクリン・メダルを受賞。
- 2009年にデザイン研究学会の名誉フェローに選出。
- 2011年に米国工学アカデミーの会員に選出されました。これは、人間とテクノロジーの相互作用を強化する、人間の認知に基づいたデザイン原則の開発が評価されたものです。
6. ドン・ノーマン・デザイン賞
ドナルド・ノーマンの功績を称え、「ドン・ノーマン・デザイン賞」(Don Norman Design Award英語、DNDA)組織が設立され、2024年9月13日に彼の名を冠した初回の受賞者が発表されました。DNDAサミットは、2024年11月14日と15日にカリフォルニア州サンディエゴで開催される予定です。この賞は、デザイン分野における新たな才能と貢献を称えることを目的としています。
7. 著作
ドナルド・ノーマンは、認知科学、心理学、ユーザビリティ、デザインに関する数多くの影響力のある書籍を執筆しています。彼の作品は、人間とテクノロジーの相互作用を深く理解するための基盤を築きました。
7.1. 心理学関連の著作
- 『Memory and Attention: An Introduction to Human Information Processing英語』(初版:1969年、第2版:1976年)
- 富田達彦ほか訳『記憶の科学』紀伊国屋書店、1978年
- 『Human information processing: an introduction to psychology英語』(1972年、ピーター・H・リンドセイ共著)
- 中溝幸夫訳『情報処理心理学入門Ⅰ--感覚と知覚』サイエンス社、1983年
- 中溝幸夫訳『情報処理心理学入門Ⅱ--注意と記憶』サイエンス社、1984年
- 中溝幸夫訳『情報処理心理学入門Ⅲ--言語と思考』サイエンス社、1985年
- 『Explorations in Cognition英語』(1975年)
- 『Perspectives on Cognitive Science英語』(1981年)
- 佐伯胖監訳『認知科学の展望』産業図書、1984年
- 『Learning and Memory英語』(1982年)
- 富田達彦訳『認知心理学入門--学習と記憶』誠信書房、1984年
7.2. ユーザビリティ・デザイン関連の著作
- 『The Psychology of Everyday Things英語』(1988年、のちに『The Design of Everyday Things英語』と改題)
- 野島久雄訳『誰のためのデザイン?--認知科学者のデザイン原論』新曜社、1990年
- 『Turn Signals Are The Facial Expressions Of Automobiles英語』(1992年)
- 佐伯胖監訳『テクノロジー・ウォッチング--ハイテク社会をフィールドワークする』新曜社、1993年
- 『Things That Make Us Smart: Defending Human Attributes In The Age Of The Machine英語』(1993年)
- 佐伯胖監訳『人を賢くする道具--ソフト・テクノロジーの心理学』新曜社、1996年/ちくま学芸文庫、2022年
- 『The Invisible Computer: Why Good Products Can Fail, the Personal Computer Is So Complex, and Information Appliances Are the Solution英語』(1998年)
- 岡本明、安村通晃、伊賀聡一郎訳『パソコンを隠せ、アナログ発想でいこう!--複雑さに別れを告げ、「情報アプライアンス」へ』新曜社、2000年
- 改題新版『インビジブルコンピュータ--PCから情報アプライアンスへ』新曜社、2009年
- 『Emotional Design: Why We Love (or Hate) Everyday Things英語』(2004年)
- 岡本明ほか訳『エモーショナル・デザイン--微笑を誘うモノたちのために』新曜社、2004年
- 『The Design of Future Things英語』(2007年)
- 安村通晃、岡本明、伊賀聡一郎、上野晶子訳『未来のモノのデザイン--ロボット時代のデザイン原論』新曜社、2008年
- 『Living with Complexity英語』(2010年)
- 伊賀聡一郎、岡本明、安村通晃訳『複雑さと共に暮らす--デザインの挑戦』新曜社、2011年
- 『The Design of Everyday Things (Revised & Expanded Edition)英語』(2013年)
- 岡本明、安村通晃、伊賀聡一郎、野島久雄訳『誰のためのデザイン?増補・改訂版』新曜社、2015年
- 『Design for a Better World英語』(2023年)
- 安村通晃、伊賀聡一郎、岡本明訳『より良い世界のためのデザイン』新曜社、2023年
7.3. その他の出版物
- 『The Trouble with Unix: The User Interface is Horrid.英語』Datamation、27 (12)、pp.139-150。(1981年11月)
- 『Direct manipulation interfaces英語』(1985年、E・L・ハッチンズおよびJ・D・ホランとの共著)
- 『User Centered System Design: New Perspectives on Human-Computer Interaction英語』(1986年、スティーブン・ドレイパーとの共編)
- 『Defending Human Attributes in the Age of the Machine英語』CD-ROM(1994年、Voyager Companyよりリリース)。『Design of Everyday Things英語』、『Turn signals are the facial expressions of automobiles英語』、『Things That Make Us Smart英語』の各書籍および様々な技術報告書を統合したもの。
8. 遺産と影響
ドナルド・ノーマンの遺産は、彼の学術的な貢献に留まらず、デザイン、認知科学、ヒューマンコンピュータインタラクション(HCI)といった広範な分野に多大な影響を与えています。彼の提唱したユーザー中心設計(後に人間中心設計へと発展)の概念は、製品開発におけるユーザーのニーズと行動を最優先するアプローチを確立しました。これにより、テクノロジーがより使いやすく、直感的で、人間にとって意味のあるものとなるよう、その設計思想を根本から変えることに貢献しました。
特に『誰のためのデザイン?』は、デザイナーだけでなく、エンジニア、プロダクトマネージャー、そして一般の人々に対しても、日常の物事がいかに設計されているか、そしてそれがなぜ使いにくいのか(あるいは使いやすいのか)を理解するためのレンズを提供しました。彼の著作や講義を通じて、複雑なシステムを単純化し、人間の認知特性に合わせたデザインの重要性が広く認識されるようになりました。ユーザーエクスペリエンスデザインという専門分野の確立と普及においても、彼の先駆的な役割は不可欠であり、ニールセン・ノーマン・グループの共同設立は、この分野の専門知識を産業界に提供する上で大きな影響を与えました。
ノーマンの思想は、単に使いやすい製品を作るだけでなく、人間がテクノロジーとどのように関わり、それによって感情的に豊かになるかという、より深い問いへとデザインの議論を広げました。『エモーショナル・デザイン』では、美学や感情がユーザー体験に与える影響を強調し、機能性だけでなく、喜びや楽しさといった人間的な側面が製品の成功に不可欠であることを示しました。彼の批判的な視点もまた、アカデミアと産業界の間に橋を架け、両者の協力を促す上で重要な役割を果たしました。彼の遺産は、今後もデザインとテクノロジーの未来を形作り続けるでしょう。
9. 関連項目
- アフォーダンス
- インタラクションデザイン
- ユーザー中心設計
- 人間中心設計
- ユーザーエクスペリエンスデザイン
- 認知工学
- ヒューマンコンピュータインタラクション
- 実行機能
- 人間行為サイクル
- シグニファイア
10. 外部リンク
- [http://jnd.org/ ドナルド・ノーマンの公式ウェブサイト]
- [http://designlab.ucsd.edu/ カリフォルニア大学サンディエゴ校デザインラボ]
- [https://www.nngroup.com/ ニールセン・ノーマン・グループのウェブサイト]
- [https://www.ted.com/speakers/don_norman TEDカンファレンスにおけるドナルド・ノーマンの講演]
- [https://www.fi.edu/laureates/donald-norman フランクリン協会によるドナルド・ノーマンへの授賞動画 (2006年4月)]
- [https://www.youtube.com/watch?v=wQmwEjL6K1U ドナルド・ノーマンによる「未来のモノのデザイン」に関する講演 (スタンフォード大学、2007年2月)]
- [https://www.youtube.com/watch?v=flRuSn0df8Q 「複雑さと共に暮らす」講演 (スタンフォード大学、2011年4月)]