1. 概要
ドミニク・ドロプシー(Dominique Dropsyドミニク・ドロプシーフランス語、1951年12月9日 - 2015年10月7日)は、フランス出身の元サッカー選手で、ゴールキーパーとして活躍しました。彼は17シーズンにわたりリーグ・アンで596試合に出場し、この記録は長年にわたり最多出場記録として保持されました。現役時代には3度の国内リーグ優勝を経験し、そのうち2度はボルドーで達成しました。また、クープ・ドゥ・フランスも2度獲得しています。国際舞台では、1978年FIFAワールドカップにフランス代表として出場しました。晩年には白血病との闘病を経て、63歳でこの世を去りました。
2. 生い立ちと背景
ドミニク・ドロプシーは、1951年12月9日にフランスのエーヌ県にある뢰ーズで生まれました。この地はピカルディ地域圏に属します。
3. 経歴と功績
ドミニク・ドロプシーは、プロキャリアを通じて一貫して正ゴールキーパーを務め、数々の功績を残しました。引退後も古巣で指導者として貢献しました。
3.1. クラブキャリア
ドロプシーは、1970年にヴァランシエンヌでシニアキャリアをスタートさせました。彼は1971-72シーズンに19試合に出場し、クラブのリーグ・ドゥ優勝とリーグ・アンへの昇格に貢献しました。ヴァランシエンヌでは1973年までの3シーズンで合計57試合に出場しました。
1973年夏、ドロプシーはRCストラスブールに移籍しました。彼はスタッド・ドゥ・ラ・メノを本拠地とするこのクラブで11年間プレーし、その間、シーズンあたりの出場試合数が31を下回ることはありませんでした。特に1978-79シーズンには全38試合に出場し、クラブ史上初の国内リーグ優勝(リーグ・アン)に大きく貢献しました。ストラスブールでは1984年までに合計406試合に出場しています。
34歳になった1984年、ドロプシーはFCジロンダン・ボルドーに加入しました。彼はボルドーでも引退するまで正ゴールキーパーの座を守り続けました。ボルドーではさらに2度のリーグ・アン優勝(1984-85、1986-87シーズン)と、2度のクープ・ドゥ・フランス優勝(1986年、1987年)を経験し、自身のトロフィーコレクションに加えました。ボルドーでは1990年の引退までに合計186試合に出場しました。引退後も彼はボルドーでゴールキーパーコーチとしてクラブに貢献しました。
ドロプシーのリーグ・アンでの通算出場試合数596は、長年にわたり最多記録として知られていました。

期間 | クラブ | 出場 | 得点 | 主なタイトル |
---|---|---|---|---|
1970-1973 | ヴァランシエンヌ | 57 | 0 | リーグ・ドゥ (1971-72) |
1973-1984 | RCストラスブール | 406 | 0 | リーグ・アン (1978-79) |
1984-1990 | FCジロンダン・ボルドー | 186 | 0 | リーグ・アン (1984-85, 1986-87)、クープ・ドゥ・フランス (1986, 1987) |
3.2. 代表キャリア
ドロプシーは、1971年から1981年までの10年間でフランス代表として17試合に出場しました。
彼は1978年FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会のフランス代表メンバーに選出されました。当初は代表経験のない選手でしたが、元ストラスブールのチームメイトであるアンドレ・レイの負傷により、その機会を得ました。フランスと対戦相手のハンガリーがすでにグループステージでの敗退が決定していた状況で、ドロプシーはマル・デル・プラタで行われたグループステージ最終戦に出場し、フランスは3対1で勝利を収めました。彼の最後の代表キャップは1981年5月のブラジル戦でした。
4. 私生活
ドミニク・ドロプシーの息子であるダミアン・ドロプシー(1983年生まれ)もまた、ゴールキーパーとしてサッカー選手を目指しました。しかし、ダミアンはプロとしてプレーすることはなく、2006年にボルドーと短期契約を結び、第4ゴールキーパーを務めたことが彼のキャリアにおける最大の成果でした。
ダミアンは、2012年にオリヴィエ・ダアン監督の映画『Les Seigneursレ・セニョールフランス語』でサッカー選手役を演じ、俳優としても活動しました。
5. 健康問題と死
ドミニク・ドロプシーは、2005年に動脈瘤を患いました。その後、2011年3月の健康診断で白血病と診断されました。
彼は病と闘い、翌2012年には一時的に回復を見せました。しかし、2015年10月7日、ドロプシーはボルドーで63歳で亡くなりました。