1. 概要
ナンニ・ロイ(Nanni Loyナンニ・ロイイタリア語、本名:Giovanni Loiジョヴァンニ・ロイイタリア語、1925年10月23日 - 1995年8月21日)は、イタリアの映画監督、舞台演出家、テレビディレクターである。サルデーニャ島出身の著名な映画製作者の一人として知られる。彼は「イタリア式コメディ」(Commedia all'italianaコメディア・アッラ・イタリアーナイタリア語)の巨匠の一人としてその地位を確立し、コメディ映画から社会批評的なテーマを扱った作品まで、多岐にわたるジャンルを手がけた。特に、イタリアに「隠しカメラ」(Candid Cameraキャンディッド・カメラ英語)形式の番組を導入したことでも大衆的な注目を集めた。
2. 生涯
ナンニ・ロイは、そのキャリアを通じてコメディと社会派作品の両方で成功を収め、イタリア映画界に多大な影響を与えた。
2.1. 出生と家族背景
ナンニ・ロイは1925年10月23日、イタリアのサルデーニャ州カリャリに生まれた。彼の父はサルデーニャとヴェネツィアの家系に連なる弁護士グリエルモ・ロイ=ドナ(Guglielmo Loy-Donàグリエルモ・ロイ=ドナイタリア語)であり、母はネオネリ侯爵夫人の貴族ドンナ・アンナ・サンジュスト(Donna Anna Sanjustドンナ・アンナ・サンジュストイタリア語)であった。イタリアの小説家ロゼッタ・ロイは彼の義姉にあたる。
2.2. キャリア初期
ロイは1965年に、自身の番組『Specchio segretoスペッキオ・セグレートイタリア語』(秘密の鏡)でイタリアに「隠しカメラ」形式を導入したことで有名になった。この番組は大きな反響を呼び、彼を一躍有名にした。
2.3. 主要作品と受賞歴
ロイの作品は国内外で高く評価され、数々の賞を受束した。

1962年の映画『祖国は誰れのものぞ』(Le quattro giornate di Napoliレ・クアットロ・ジョルナーテ・ディ・ナーポリイタリア語)は、第35回アカデミー賞で2部門にノミネートされた。また、1963年の第3回モスクワ国際映画祭では国際映画批評家連盟賞を受賞している。
1971年の映画『Detenuto in attesa di giudizioデテヌート・イン・アッテサ・ディ・ジュディーチョイタリア語』は、第22回ベルリン国際映画祭に出品され、主演のアルベルト・ソルディが男優銀熊賞を受賞した。
彼は『Padre di famigliaパードレ・ディ・ファミーリアイタリア語』(1967年)のようなコメディ映画を専門としたが、『Detenuto in attesa di giudizioデテヌート・イン・アッテサ・ディ・ジュディーチョイタリア語』や『Sistemo l'America e tornoシステモ・ラメリカ・エ・トルノイタリア語』(1973年)といった社会問題を扱った映画も手がけた。また、俳優としても活動しており、フランスのジョルジュ・ロートネル監督の『狼どもの報酬』(1971年)に出演している。1989年の映画『Scugnizziスクニッツィイタリア語』は、ヴェネツィア国際映画祭でイタリア議会金メダルを受賞した。
2.4. 演出スタイルとテーマ
ナンニ・ロイは、マリオ・モニチェリ、ルイジ・コメンチーニ、ディーノ・リージ、エットレ・スコラらと共に「イタリア式コメディ」の巨匠の一人として数えられている。彼の演出スタイルは、軽妙なコメディから社会の深層を鋭くえぐる社会派作品まで、幅広いジャンルに対応できる多様性を持っていた。
彼の作品には、イタリア社会が抱える問題への深い洞察が込められており、特に『Detenuto in attesa di giudizioデテヌート・イン・アッテサ・ディ・ジュディーチョイタリア語』や『Sistemo l'America e tornoシステモ・ラメリカ・エ・トルノイタリア語』では、司法制度の不備や移民問題を風刺的に、あるいは批判的に描き出した。コメディの枠を超えて、人間の尊厳、社会の不条理、そして戦争の悲劇といった普遍的なテーマを追求し、観客に深い問いかけを投げかけた。
3. 死去
ナンニ・ロイは1995年8月21日、ローマ近郊のフィウミチーノにあるフレゲーネで死去した。享年69歳であった。
4. フィルモグラフィ
- Pittori allo specchioピットーリ・アッロ・スペッキオイタリア語(短編ドキュメンタリー、1950年)
- 『Parola di ladroパローラ・ディ・ラードロイタリア語』(1956年) - ジャンニ・プッチーニと共同監督。長編デビュー作。
- 『Il maritoイル・マリートイタリア語』(1958年) - ジャンニ・プッチーニと共同監督。
- 『Audace colpo dei soliti ignotiアウダーチェ・コルポ・デイ・ソリティ・イニョーティイタリア語』(1959年)
- 『Un giorno da leoniウン・ジョルノ・ダ・レオーニイタリア語』(1961年)
- 『祖国は誰れのものぞ』(Le quattro giornate di Napoliレ・クアットロ・ジョルナーテ・ディ・ナーポリイタリア語、1962年)
- 『Beautiful Familiesビューティフル・ファミリーズイタリア語』(1964年)
- 『Made in Italyメイド・イン・イタリーイタリア語』(1965年)
- 『Il padre di famigliaイル・パードレ・ディ・ファミーリアイタリア語』(1967年)
- 『シシリー要塞異常なし』(Rosolino Paternò soldatoロゾリーノ・パテルノ・ソルダートイタリア語、1970年)
- 『Detenuto in attesa di giudizioデテヌート・イン・アッテサ・ディ・ジュディーチョイタリア語』(1971年) - 第22回ベルリン国際映画祭コンペティション部門上映。
- 『Sistemo l'America e tornoシステモ・ラメリカ・エ・トルノイタリア語』(1973年)
- 『Signore e signori, buonanotteシニョーレ・エ・シニョーリ、ブオナノッテイタリア語』(1976年)
- 『Quelle strane occasioniクエッレ・ストラーネ・オッカジオーニイタリア語』(1976年) - オムニバス映画の一篇「Italian Supermanイタリアン・スーパーマン英語」。無署名。
- 『Basta che non-si sappia in giroバスタ・ケ・ノン・シ・サッピア・イン・ジーロイタリア語』(1976年)
- 『Café Expressカフェ・エクスプレスイタリア語』(1980年)
- 『Testa o croceテスタ・オ・クローチェイタリア語』(1982年)
- 『Mi manda Piconeミ・マンダ・ピコーネイタリア語』(1983年)
- 『Amici miei atto IIIアミーチ・ミエイ・アット・IIIイタリア語』(1985年)
- 『Scugnizziスクニッツィイタリア語』(1989年) - ヴェネツィア国際映画祭イタリア議会金メダル受賞。
- 『Pacco, doppio pacco e contropaccottoパッコ、ドッピオ・パッコ・エ・コントロパッコットイタリア語』(1993年)
- 『A che punto è la notteア・ケ・プント・エ・ラ・ノッテイタリア語』(テレビ映画、1995年) - 遺作。
5. 評価と遺産
ナンニ・ロイは、その多才な才能と社会への鋭い視点により、イタリア映画史において重要な足跡を残した。
5.1. イタリア映画界への貢献
ロイは、「イタリア式コメディ」の発展に不可欠な役割を果たした監督の一人である。彼は単なる笑いを提供するだけでなく、その作品に社会的な風刺や批判を織り交ぜることで、このジャンルに深みを与えた。特に、イタリアに「隠しカメラ」という新しいテレビ表現形式を導入したことは、メディアにおける革新性を示すものであった。彼の作品は、当時のイタリア社会の風俗や問題を映し出し、観客に娯楽と同時に思考の機会を提供した。これにより、彼はイタリア映画界における独自の地位を確立し、後進の映画製作者たちにも影響を与え続けた。
5.2. 作品における社会批評
ナンニ・ロイの作品は、しばしばイタリア社会の矛盾や不条理をテーマとしていた。彼は、コメディという形式を通じて、司法制度の欠陥、貧困、官僚主義、戦争の残酷さといった重い社会問題をユーモラスに、時には辛辣に描き出した。例えば、『Detenuto in attesa di giudizioデテヌート・イン・アッテサ・ディ・ジュディーチョイタリア語』では、無実の罪で拘留された男の苦悩を通じて、司法制度の非人間性を浮き彫りにした。また、『Sistemo l'America e tornoシステモ・ラメリカ・エ・トルノイタリア語』では、移民が直面する困難や文化的な衝突を描き、社会の多様性と寛容性について問いかけた。彼の作品に込められたこれらの批評的視点は、現代社会が抱える普遍的な問題にも通じるものであり、その意義は今日においても色褪せていない。彼は、映画を単なる娯楽としてではなく、社会を映し出し、変革を促すための強力なツールとして活用したのである。