1. 概要
ハーベイ・エドワード・グランス(Harvey Edward Glanceハーベイ・エドワード・グランス英語、1957年3月28日 - 2023年6月12日)は、アメリカの著名な短距離走選手であり、後に功績を挙げた陸上競技コーチである。選手としては、1976年モントリオールオリンピックの男子400mリレーで金メダルを獲得したほか、1976年には2度、当時の男子100m世界記録タイとなる9.9秒を記録するなど、キャリア初期に輝かしい実績を残した。さらに、パンアメリカン競技大会や世界陸上競技選手権大会でも金メダルを獲得し、国際舞台で優れた成績を収めた。
競技引退後は、オーバーン大学およびアラバマ大学で陸上競技チームの総監督を務め、数多くの優れた選手を育成した。特にキラニ・ジェームスといった世界的な才能を指導し、彼らの成功に貢献したことで知られている。また、アメリカ代表チームのコーチとしても国際大会で重要な役割を担い、陸上競技界の発展に多大な影響を与えた。彼の生涯は、選手として、コーチとして、そして市民として、献身と卓越を追求した軌跡であり、陸上競技界に永続的な遺産を残した人物として高く評価されている。
2. 生い立ちと背景
ハーベイ・エドワード・グランスは、アメリカ合衆国のアラバマ州で生まれ育ち、幼少期から陸上競技への並外れた才能を示した。彼の個人的な背景は、その後の競技者および指導者としてのキャリアを形成する上で重要な役割を果たした。
2.1. 出生と家族
ハーベイ・エドワード・グランスは1957年3月28日に、アメリカ合衆国アラバマ州フェニックスシティで、ウィーラー・グランスとエラ・グランス夫妻の間に生まれた。
2.2. 教育と初期の影響
グランスはフェニックスシティのセントラル・ハイスクールで教育を受け、そこで陸上競技コーチのジョー・ヘンダーソンから指導を受け、その非凡な才能を見出された。ヘンダーソンコーチはグランスの素質を見抜き、彼の成長を強力に後押しした。高校卒業後、彼はオーバーン大学に進学し、健康・人間パフォーマンスの学位を取得した。
彼は選手であった頃からコーチとしての潜在能力を自覚しており、アリゾナ州では選手である間にボランティアでコーチを務めるなど、早い段階から指導への関心を示していた。また、広報活動と市民的責任の重要性を常に認識しており、学生時代には退役軍人病院を定期的に訪問するなど、社会貢献にも積極的であった。1976年モントリオールオリンピックに出場した学生アスリート5人のうちの1人として、NCAAの栄誉ランチにアメリカ合衆国大統領とともに招待された経験もある。彼のかつてのコーチであったメル・ローゼンは、グランスについて「ハーベイは、アスリートとしても、人間としても、私がワールドクラスと呼ぶにふさわしい人物だ」と誇らしげに語っており、その人格的な素晴らしさを高く評価していた。
3. 陸上競技選手としてのキャリア
ハーベイ・エドワード・グランスは、10年以上にわたり短距離走のトップ選手として活躍し、数々の世界記録や主要な国際大会でのメダルを獲得した。彼の競技者としての実績は、アメリカ陸上競技界に大きな足跡を残した。

3.1. 初期の実績と記録更新
オーバーン大学の学生であったグランスは、1976年と1977年のNCAA男子100m走で優勝し、1976年には200m走でも優勝を飾るなど、大学時代から優れた才能を発揮した。1976年には、サウスカロライナ州コロンビアで4月3日に、そして1ヶ月後にルイジアナ州バトンルージュで、当時の男子100m走の世界記録タイとなる9.9秒を2度記録し、その名を国際的に知らしめた。
また、1976年には男子100mで10.12秒と10.11秒という自動計時(電気計時)の記録を樹立し、これは当時のジュニア世界記録とされた。陸上競技におけるジュニア選手とは、競技が行われる年の12月31日時点で18歳または19歳のアスリートを指す。なお、自動計時は1977年1月1日以降に正式な記録として認められるようになった。
3.2. オリンピックと主要国際大会
グランスは1976年のアメリカオリンピック選考会で100m走で1位となり、1976年モントリオールオリンピックの代表に選出された。しかし、モントリオールオリンピックの100m走決勝では4位に終わり、アメリカは同種目でメダルを獲得することができなかった。しかし、男子4×100mリレーでは第1走者として出場し、アメリカチームの金メダル獲得に貢献した。
1979年パンアメリカン競技大会では、100m走で2位となり、男子4×100mリレーではアメリカチームの一員として金メダルを獲得した。また、同年のIAAFワールドカップでも4×100mリレーで2位に入賞した。
グランスは1980年モスクワオリンピックのチーム選考でも100m走で2位となり、再びオリンピック出場資格を得た。しかし、アメリカ合衆国がオリンピックをボイコットしたため、彼はモスクワで競技に参加することはできなかった。その代わりに開催されたリバティベル・クラシック(ボイコットオリンピック大会)に出場し、100m走で銀メダル、リレーで金メダルを獲得した。このボイコットによって競技の機会を奪われたアスリートのために特別に作成された461個の議会名誉黄金勲章の1つを、彼は受章している。
彼はその後も国際大会での成功を収め、1985年IAAFワールドカップ、1987年パンアメリカン競技大会、そして1987年世界陸上競技選手権大会の4×100mリレーで、アメリカチームの一員として金メダルを獲得している。
3.3. 成績とランキング
グランスは1976年から1987年までの12シーズンにわたり、100m走および200m走の短距離種目で、アメリカ国内および世界のトップクラスにランク付けされていた。これは専門誌『トラック・アンド・フィールド・ニュース』の専門家による投票に基づく評価である。
年 | 世界ランキング | 米国ランキング |
---|---|---|
1976 | 4位 | 1位 |
1977 | - | 6位 |
1978 | - | 5位 |
1979 | 3位 | 2位 |
1980 | 6位 | 4位 |
1981 | - | - |
1982 | - | - |
1983 | - | - |
1984 | 7位 | 6位 |
1985 | - | - |
1986 | 7位 | 3位 |
1987 | - | 6位 |
年 | 世界ランキング | 米国ランキング |
---|---|---|
1976 | 7位 | 4位 |
1977 | - | 10位 |
1978 | 10位 | 5位 |
4. コーチとしてのキャリア
ハーベイ・エドワード・グランスは、選手としての輝かしいキャリアを終えた後も、陸上競技への情熱を燃やし続け、コーチとしてもその才能を存分に発揮した。彼は多くの大学やアメリカ代表チームで指導を行い、数々の成功を収めた。
4.1. 大学での指導
グランスは、1990年から1991年まで、かつて自身が学生として競技したオーバーン大学でアシスタントコーチを務めた後、同大学の陸上競技チームのヘッドコーチに昇進した。
1997年にはアラバマ大学の男子陸上競技チームのヘッドコーチに就任した。彼はこのアラバマ大学在任中に、同大学のチーム「クリムゾンタイド」をアメリカ最高のカレッジチームの一つとして確立し、数多くのトップアスリートを大学に引き入れた。その中には、2011年に400mの世界チャンピオン、2012年ロンドンオリンピックで400mのオリンピックチャンピオンとなったキラニ・ジェームスも含まれる。グランスの指導の下、アラバマ大学の陸上競技プログラムは大きな飛躍を遂げた。彼は2011年4月に、そのシーズン限りでアラバマ大学での職を引退すると発表した。
4.2. 国内・国際チームでの役割
大学での指導と並行して、グランスはアメリカ代表チームのコーチとして数多くの国際大会で重要な役割を担った。彼の経験と専門知識は、アメリカのトップアスリートたちを指導する上で不可欠であった。
- 1994年:ポルトガル・リスボンで開催された世界ジュニアチームに帯同。
- 1997年:イタリア・シチリアで開催された世界大学競技大会に帯同。
- 1999年:カナダ・ウィニペグで開催されたパンアメリカン競技大会に帯同。
- 2003年:フランス・パリで開催された2003年世界陸上競技選手権大会でチームUSAのアシスタントコーチを務めた。
- 2006年:中国・北京で開催された世界ジュニアチームに帯同。
- 2008年:2008年北京オリンピックでチームUSAのアシスタントコーチを務めた。
- 2009年:ドイツ・ベルリンで開催された2009年世界陸上競技選手権大会でチームUSAの男子ヘッドコーチを務めた。
4.3. コーチ活動の継続
アラバマ大学でのコーチ職を引退した後も、グランスは陸上競技への情熱を失うことなく、個人的なコーチとしての活動を続けた。彼は特にキラニ・ジェームスのパーソナルコーチとして指導を続け、ジェームスがオリンピックチャンピオンとなる道のりを支えた。その指導は、ジェームスの成功に大きく貢献したとされている。グランスの引退後の活動は、彼の陸上競技への生涯にわたる献身を示している。
5. 受賞と栄誉
ハーベイ・エドワード・グランスは、選手として、またコーチとして、その卓越した功績が認められ、数々の賞や栄誉を受けている。1996年にはアラバマスポーツ殿堂入りを果たし、彼の地元アラバマ州でのスポーツへの貢献が正式に認められた。さらに、最も注目すべきは、2008年に、議会名誉黄金勲章を受章したことである。これは、競技の機会を奪われたオリンピックをボイコットに参加したアスリートたちを称えるもので、彼のスポーツへの貢献と犠牲が国家レベルで認められたことを示している。これらの栄誉は、彼の陸上競技における傑出したキャリアと、その影響力の大きさを物語っている。
6. 私生活
ハーベイ・エドワード・グランスは、その生涯において、卓越したアスリートおよびコーチとしての顔だけでなく、責任感の強い市民としての側面も持ち合わせていた。彼は常に社会貢献を意識し、選手時代からアリゾナ州でボランティアコーチとして活動したり、退役軍人病院を定期的に訪問するなど、社会との関わりを大切にした。彼の人間性、特に市民としての責任感の高さは、周囲の人々からも高く評価されていた。彼のかつてのコーチであるメル・ローゼンは、グランスを「アスリートとしても、人間としても、ワールドクラス」と評しており、その人格的な素晴らしさを強調した。この言葉は、彼のスポーツ界での業績に劣らず、その人間性が高く評価されていたことを示している。
7. 死去
ハーベイ・エドワード・グランスは、2023年6月12日にアリゾナ州メサの病院で心臓停止のため、66歳で死去した。彼の訃報は、陸上競技界に深い悲しみをもたらした。
8. 遺産と評価
ハーベイ・エドワード・グランスは、短距離走の分野において、選手としてもコーチとしても多大な影響を与え、陸上競技界に永続的な遺産を残した。彼の功績は、今後の世代にもインスピレーションを与え続けるだろう。
8.1. 影響と貢献
選手としては、複数の世界記録タイを樹立し、オリンピック金メダリストとして歴史に名を刻んだ。そのスピードと技術は、当時の短距離走の基準を引き上げた。コーチとしては、オーバーン大学とアラバマ大学の両方で、プログラムを国内トップレベルに引き上げ、数多くの才能あるアスリートを育成した。特にキラニ・ジェームスのような選手をオリンピックチャンピオンへと導いた功績は大きく、彼の指導者としての手腕が高く評価されている。グランスの貢献は、単に競技成績に留まらず、若手アスリートの育成と陸上競技界全体の発展に深く寄与した。彼のキャリアは、アメリカの短距離走の黄金時代を築く一助となった。
8.2. 世論と同僚からの評価
グランスは、その競技成績だけでなく、コーチとしての成功、そして何よりもその高潔な人間性によって、広く尊敬を集めた。彼のコーチであったメル・ローゼンが彼を「ワールドクラス」と評した言葉は、彼の人格が競技での功績に劣らず評価されていたことを物語っている。彼は市民としての責任感も強く、社会貢献活動にも積極的に関わっていたことから、同僚や教え子、そして一般の人々からも高い評価を得ていた。彼の訃報に際しては、陸上競技界内外から多くの追悼の言葉が寄せられ、彼の遺産と影響力の大きさが改めて示された。グランスは、スポーツ界における真のリーダーであり、模範的な人物として記憶されるだろう。