1. 幼少期と大学時代
スコットはカリフォルニア州イングルウッドで育ち、当時レイカーズの本拠地であったザ・フォーラムの近くにあったモーンサイド高校でバスケットボールをプレーした。その後、アリゾナ州立大学で3年間大学バスケットボール選手として活躍し、サンデビルズで成功を収めた。1980年にはPac-10カンファレンスの新人王に選ばれ、1983年にはファーストチームのオールPac-10に選出された。サンデビルズでのキャリア平均は1試合あたり17.5得点であった。大学を3年生で中退し、1983年のNBAドラフトに参加した。2011年には、彼の背番号11番がアリゾナ州立サンデビルズ男子バスケットボールによって永久欠番とされた。
2. 選手としてのキャリア
スコットはプロバスケットボール選手として、主にNBAで輝かしいキャリアを築いた後、ヨーロッパリーグでも成功を収めた。
2.1. NBAでのキャリア
1983年のNBAドラフトでサンディエゴ・クリッパーズから1巡目全体4位で指名されたが、直後にノーム・ニクソンとのトレードでロサンゼルス・レイカーズに移籍した。スコットは選手キャリアを通じてレイカーズ、インディアナ・ペイサーズ、バンクーバー・グリズリーズでプレーした。

スコットはレイカーズの「ショータイム」時代において、マジック・ジョンソン、ジェームス・ウォージー、カリーム・アブドゥル=ジャバー、A.C.グリーンらと共に先発選手として重要な役割を担った。彼は1983年から1993年までの10シーズン連続でレイカーズに所属し、その間に3度のNBAチャンピオンシップ(1985年、1987年、1988年)を獲得した。
ルーキーシーズンである1983-84シーズンには、平均10.6得点を記録し、NBAオールルーキーチームに選出された。2年目の1984-85シーズンには、スリーポイントシュート成功率でリーグトップの.433を記録した。1987-88シーズンは彼のキャリアで最高のシーズンとなり、平均21.7得点(キャリアハイ)と1.91スティールでNBAチャンピオンのレイカーズを牽引した。彼は1984年から1993年までレイカーズの先発シューティングガードを務めた。
1992-93シーズン後、レイカーズから放出されたスコットは、インディアナ・ペイサーズとフリーエージェント契約を結んだ。ペイサーズでの1年目、オーランド・マジックとのプレーオフ1回戦の第1戦で、残り2.4秒で決勝のスリーポイントシュートを決め、チームを勝利に導いた。ペイサーズはマジックをスイープし、フランチャイズ史上初めてイースタン・カンファレンス・ファイナルに進出した。
1995年のNBAエクスパンションドラフトでペイサーズからプロテクトされず、バンクーバー・グリズリーズに指名され、そこで1シーズンプレーした。
1996-97シーズンはスコットのNBA選手キャリア最後の年であり、彼はレイカーズに復帰した。このチームにはシャキール・オニール、エディー・ジョーンズ、ニック・ヴァン・エクセル、そして18歳のルーキーコービー・ブライアントがいた。スコットは彼らにとって貴重なメンターとしての役割を果たした。レイカーズは1996-97シーズンに56勝26敗の成績でプレーオフに進出し、ユタ・ジャズとのカンファレンスセミファイナルに進んだ。このシリーズの第4戦がスコットのNBAキャリア最後の試合となり、彼は15.5分プレーし、4得点5アシストを記録した。レイカーズは第4戦を95-110で落とし、シリーズは3-1となった。スコットは第5戦を欠場し、レイカーズは93-98で敗れ、プレーオフから敗退した。
2.2. ヨーロッパリーグでのキャリア

1997年の夏、スコットはギリシャA1バスケットボールリーグのチームであるパナシナイコスBCと1997-98シーズンに向けて契約した。このシーズン、彼はFIBAサポルタカップ(当時のFIBAユーロカップ、ヨーロッパの2部リーグ)とギリシャバスケットボールリーグの両方でプレーした。サポルタカップの1997-98シーズンでは、17試合に出場し、1試合平均13.4得点、2.4リバウンド、2.1アシスト、1.1スティールを記録した。
スコットは多くの重要な試合での得点力でチームをギリシャバスケットボールリーグ優勝に導いた。ギリシャバスケットボールリーグの1997-98シーズンでは、34試合に出場し、1試合平均17.6得点、2.8リバウンド、2.3アシスト、1.3スティールを記録した。ギリシャバスケットボールリーグチャンピオンとして1シーズンを過ごした後、スコットはプロバスケットボール選手としての現役を引退し、コーチングキャリアを開始した。
2.3. 選手通算記録
| 年 | チーム | 出場試合数 | 先発出場試合数 | 平均出場時間 | フィールドゴール成功率 | 3ポイントフィールドゴール成功率 | フリースロー成功率 | 平均リバウンド数 | 平均アシスト数 | 平均スティール数 | 平均ブロック数 | 平均得点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1983-84 | LAL | 74 | 49 | 22.1 | .484 | .235 | .806 | 2.2 | 2.4 | 1.1 | .3 | 10.6 |
| 1984-85† | LAL | 81 | 65 | 28.5 | .539 | .433 | .820 | 2.6 | 3.0 | 1.1 | .2 | 16.0 |
| 1985-86 | LAL | 76 | 62 | 28.8 | .513 | .361 | .784 | 2.5 | 2.2 | 1.1 | .2 | 15.4 |
| 1986-87† | LAL | 82 | 82 | 33.3 | .489 | .436 | .892 | 3.5 | 3.4 | 1.5 | .2 | 17.0 |
| 1987-88† | LAL | 81 | 81 | 37.6 | .527 | .346 | .858 | 4.1 | 4.1 | 1.9 | .3 | 21.7 |
| 1988-89 | LAL | 74 | 73 | 35.2 | .491 | .399 | .863 | 4.1 | 3.1 | 1.5 | .4 | 19.6 |
| 1989-90 | LAL | 77 | 77 | 33.7 | .470 | .423 | .766 | 3.1 | 3.6 | 1.0 | .4 | 15.5 |
| 1990-91 | LAL | 82 | 82 | 32.1 | .477 | .324 | .797 | 3.0 | 2.2 | 1.2 | .3 | 14.5 |
| 1991-92 | LAL | 82 | 82 | 32.7 | .458 | .344 | .838 | 3.8 | 2.8 | 1.3 | .3 | 14.9 |
| 1992-93 | LAL | 58 | 53 | 28.9 | .449 | .326 | .848 | 2.3 | 2.7 | .9 | .2 | 13.7 |
| 1993-94 | IND | 67 | 2 | 17.9 | .467 | .365 | .805 | 1.6 | 2.0 | .9 | .1 | 10.4 |
| 1994-95 | IND | 80 | 1 | 19.1 | .455 | .389 | .850 | 1.9 | 1.4 | .8 | .2 | 10.0 |
| 1995-96 | VAN | 80 | 0 | 23.7 | .401 | .335 | .835 | 2.4 | 1.5 | .8 | .3 | 10.2 |
| 1996-97 | LAL | 79 | 8 | 18.2 | .430 | .388 | .841 | 1.5 | 1.3 | .6 | .2 | 6.7 |
| キャリア通算 | 1073 | 717 | 28.1 | .482 | .370 | .833 | 2.8 | 2.5 | 1.1 | .3 | 14.1 | |
| 年 | チーム | 出場試合数 | 先発出場試合数 | 平均出場時間 | フィールドゴール成功率 | 3ポイントフィールドゴール成功率 | フリースロー成功率 | 平均リバウンド数 | 平均アシスト数 | 平均スティール数 | 平均ブロック数 | 平均得点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1984 | LAL | 20 | 0 | 20.2 | .460 | .200 | .600 | 1.9 | 1.7 | .9 | .1 | 8.6 |
| 1985† | LAL | 19 | 19 | 30.8 | .517 | .476 | .795 | 2.7 | 2.6 | 2.2 | .2 | 16.9 |
| 1986 | LAL | 14 | 14 | 33.6 | .497 | .353 | .905 | 3.9 | 3.0 | 1.4 | .1 | 16.0 |
| 1987† | LAL | 18 | 18 | 33.8 | .490 | .206 | .791 | 3.4 | 3.2 | 1.1 | .2 | 14.8 |
| 1988† | LAL | 24 | 24 | 37.4 | .499 | .436 | .865 | 4.2 | 2.5 | 1.4 | .2 | 19.6 |
| 1989 | LAL | 11 | 11 | 36.5 | .494 | .385 | .836 | 4.1 | 2.3 | 1.6 | .2 | 19.9 |
| 1990 | LAL | 9 | 9 | 36.1 | .462 | .382 | .769 | 4.1 | 2.6 | 2.2 | .3 | 13.4 |
| 1991 | LAL | 18 | 18 | 37.7 | .511 | .526 | .794 | 3.2 | 1.6 | 1.3 | .2 | 13.2 |
| 1992 | LAL | 4 | 4 | 37.0 | .500 | .583 | .889 | 2.5 | 3.5 | 1.5 | .3 | 18.8 |
| 1993 | LAL | 5 | 5 | 35.4 | .500 | .533 | .783 | 2.2 | 1.8 | 1.0 | .0 | 13.6 |
| 1994 | IND | 16 | 0 | 14.9 | .396 | .474 | .784 | 2.1 | 1.3 | .8 | .1 | 7.8 |
| 1995 | IND | 17 | 0 | 17.5 | .340 | .265 | .882 | 1.5 | .9 | .6 | .1 | 6.1 |
| 1997 | LAL | 8 | 0 | 16.8 | .455 | .364 | .895 | 1.5 | 1.4 | .1 | .0 | 6.4 |
| キャリア通算 | 183 | 122 | 29.3 | .482 | .395 | .819 | 2.9 | 2.1 | 1.2 | .2 | 13.4 | |
3. コーチとしてのキャリア
選手引退後、スコットはNBAでヘッドコーチとしてのキャリアを歩んだ。
3.1. アシスタントコーチ時代
スコットのNBAコーチングキャリアは1998年、サクラメント・キングスでリック・アデルマンの下、アシスタントコーチとして始まった。彼はアドバンススカウトとして、オフェンスのゲームプランを検討する役割を担い、特にペリメータープレーの改善に貢献した。
3.2. ニュージャージー・ネッツ時代
2000年6月27日、スコットはニュージャージー・ネッツのヘッドコーチに就任した。彼は1999年3月からチームを率いていたドン・ケイシーの後任として、ゼネラルマネージャーのロッド・ソーンから前日にオファーを受けていた。スコットが就任した日は2000年のNBAドラフトの直前であり、ネッツは全体1位指名権を持っていた。
ヘッドコーチ初年度の2000-01シーズンは、新ドラフト指名選手であるケンヨン・マーティンが加わったものの、チームは26勝と低迷した。スティーブン・ジャクソンはCBAや海外リーグから来たルーキーとして印象的な活躍を見せたが、チームに残留しなかった。数年後、ジャクソンはスコットを「若手選手にとって最悪のコミュニケーター」と評している。
しかし、ステフォン・マーブリーをフェニックス・サンズに放出し、ジェイソン・キッドを獲得するトレードが行われた2001-02シーズンには、チームは大きく改善された。キッドとネッツはフランチャイズ記録となる52勝を挙げ、初のアトランティック・ディビジョン優勝を果たし、カンファレンス1位シードを獲得した。プレーオフ1回戦ではインディアナ・ペイサーズとフル5試合を戦い、2度目の延長戦で13-2の猛攻を見せ、1984年以来となるプレーオフシリーズ勝利を辛くも回避した。セミファイナルではシャーロット・ホーネッツを5試合で破り、NBAチームとして初のカンファレンスファイナルに進出した。カンファレンスファイナルではボストン・セルティックスと対戦し、最初の4試合で2勝2敗となった。特に第3戦では26点差のリードを失うという痛恨の敗戦を喫したが、ネッツは第5戦と第6戦で決定的な勝利を収め、シリーズを制した。
ネッツは初のNBAファイナルに進出したが、シャキール・オニールとコービー・ブライアントが率いるロサンゼルス・レイカーズと対戦した。レイカーズは3年連続のファイナル出場であった。第1戦ではキッドが1993年以来となるファイナルでのトリプルダブルを記録したが、レイカーズが2クォーター開始6分で42-19と大きくリードし、99-94で勝利した。第2戦ではネッツが1クォーター終了時点で6点差をつけられ、その後もリードを縮めることができず、23点差で敗れた。第3戦は唯一接戦となった試合で、ネッツがリードしていたが、ロバート・オーリーが残り3分4秒でスリーポイントシュートを決め、レイカーズが逆転し、そのままリードを保った。ネッツは第4戦も113-107で敗れ、レイカーズが3年連続の優勝を果たした。
翌2002-03シーズンは、新たに獲得したディケンベ・ムトンボの負傷によりキッドが唯一のオールスター選手となるなど、怪我に悩まされ、49勝と成績が後退した。オールスターブレイク時点では34勝15敗だったが、残りのシーズンは勝率5割を下回り、最終的に49勝でデトロイト・ピストンズに1勝及ばずイースタンカンファレンスの1位シードを逃した。プレーオフ1回戦ではミルウォーキー・バックスと対戦し、最初の4試合で2勝2敗となった後、第6戦でシリーズ勝利を収めた。続く2回戦ではボストン・セルティックスを、カンファレンスファイナルではデトロイト・ピストンズをそれぞれスイープし、2年連続でカンファレンスチャンピオンとなった。
NBAファイナルでは、60勝を挙げたサンアントニオ・スパーズと対戦した。スパーズは2度のリーグMVPであるティム・ダンカン、引退を控えたデビッド・ロビンソン、そして将来のスター選手であるマヌ・ジノビリとトニー・パーカーを擁していた。最初の4試合で両チームは2勝2敗となった。スパーズは第1戦で3クォーターに32-17と圧倒し、最終的に12点差で勝利したが、ネッツは第2戦で4クォーターに10点リードをほぼ失いかけたが、残り数秒でのスリーポイントシュート失敗により87-85で勝利した。第3戦ではスパーズが4クォーター開始前に3点差をつけられていたが、残り8分でリードを奪い、そのまま手放さなかった。第4戦ではネッツが11点リードを奪う接戦となり、両チームがシリーズで唯一80点以下に抑えられた試合となった。スパーズは3クォーターの猛攻で4クォーターに1点リードしたが、キッドが残り9秒で4本のフリースローを決め、ネッツが77-76で勝利し、シリーズをタイに戻した。第5戦ではスパーズが序盤から主導権を握り、試合の大半でリードを保ち、3クォーター残り3分でシュートを決めてリードを奪い返すと、93-83で勝利した。第6戦ではネッツが敗退の危機に瀕していた。ネッツは最初の得点でリードを奪い、一時は10点差をつけたが、ハーフタイム時点では3点リードに留まった。3クォーター終了時点では63-57と一度もリードを許していなかった。
ネッツは4クォーター残り8分55秒で72-63とリードしていた。しかし、ネッツは突然失速し、ダンカンと新たに加わったスティーブン・ジャクソンの活躍により、2分間で10失点し、リードを失った。ネッツは残り8分55秒でわずか5得点しか挙げられず、スパーズはその間に25得点を挙げ、ネッツは19点差をつけられ、ダンカンはクアドルプル・ダブルに近い成績(21得点、20リバウンド、10アシスト、8ブロック)を記録し、引退を控えたロビンソンは13得点17リバウンドを挙げた。ネッツはシリーズ全体で492得点しか挙げられず、6試合シリーズとしては史上2番目に低い記録であり、フィールドゴール成功率は34.5%だった。キッドはチームが冷静さを失い、「崩壊した」と述べた。
2003年7月までに、ネッツでは緊張が高まっていた。キッドが6年契約に再契約するためにはスコットを解雇するよう要求したという報道がチームを悩ませていた。スコット自身も、キッドとの頑固な性格が原因で、より「タスクマスター」として直接指導する必要があると認めていた。特に、プレーコールを担当していたアシスタントコーチのエディー・ジョーダンがワシントン・ウィザーズに移籍した後であった。スコットは2003-04シーズンを契約最終年として迎えていたが、2003年のNBAファイナルでの彼のコーチングを批判する匿名の情報源による記事に悩まされていた。
スコットは2003-04シーズン途中のオールスターブレイク中に解任された。当時、ネッツは22勝20敗と期待外れの成績だったが、解任時点ではディビジョン首位に立っていた。スコットとキッドの間の確執の噂がメディアで広まったが、ロッド・ソーンを含む関係者は報道を否定した。スコットは報道に「非常に驚いた」と述べ、彼とキッドは「常に仲が良かった」と主張した。キッドは後に「時には変化や異なる声が良いこともある」と述べた。彼の後任にはアシスタントのローレンス・フランクが就任した。ネッツのコーチ時代、スコットはニュージャージー州リヴィングストンに住んでいた。
3.3. ニューオーリンズ・ホーネッツ時代

スコットは2004年にニューオーリンズ・ホーネッツのヘッドコーチに就任した。2005年にはクリス・ポールがドラフトでチームに指名され、新人王に輝いた。2005-06シーズンと2006-07シーズンには、チームを勝率5割以下の成績に導いた。その障害の一つは、ハリケーン・カトリーナによるニューオーリンズの壊滅的な被害のため、チームがほとんどのホームゲームをオクラホマシティで行ったことであった。
2007-08シーズン、スコットはホーネッツのヘッドコーチとして初の勝ち越しシーズンを記録した。チームは56勝26敗で勝率.683を記録し、サウスウェスト・ディビジョン優勝を果たし、ウェスタン・カンファレンス全体で2位となった。彼は2008年のウェスタンカンファレンスオールスターチームのヘッドコーチに選ばれ、数ヶ月後にはNBA最優秀コーチ賞を受賞した。この成功を受けて、ホーネッツはスコットとの契約を2年間延長した。
ホーネッツはホームで30勝11敗、ロードで26勝15敗の成績を収め、ウェスタンカンファレンスプレーオフで2位シードを獲得した。プレーオフ1回戦ではダラス・マーベリックスを4勝1敗で破った。カンファレンスセミファイナルでは、ディフェンディングチャンピオンのサンアントニオ・スパーズと対戦した。このシリーズは、ホームでの大差の勝利という珍しい傾向が見られたが、最終の第7戦ではベテランのスパーズがホーネッツの騒がしいホームコートで91-82の勝利を収めた。この勝利はスパーズのコーチ、グレッグ・ポポヴィッチにとってプレーオフ100勝目となった。
2008-09シーズン、ホーネッツは49勝33敗でプレーオフに7位シードで進出した。1回戦でデンバー・ナゲッツと対戦し、5試合の激戦の末に敗退した。特に第4戦では58点差というNBAプレーオフ史上最悪の敗戦記録に並ぶ大敗を喫した。スコットは2009年11月12日、3勝6敗のスタートを切った後、ホーネッツのヘッドコーチ職を解任された。解任後、彼は一時的にNBA on ESPNのスタジオアナリストを務めた。
3.4. クリーブランド・キャバリアーズ時代

2010年7月1日、スコットはクリーブランド・キャバリアーズのヘッドコーチに就任した。これはチームのスター選手であるレブロン・ジェームズがマイアミ・ヒートに移籍する数日前のことであった。スコットがキャバリアーズを率いた最初のシーズンでは、チームは当時NBA史上最長となる26連敗を喫した。シーズン途中にバロン・デイビス(ホーネッツ時代にスコットがコーチした選手)がトレードでクリーブランドに加わり、キャバリアーズはシーズン終盤にいくつかの勝利を収めることができた。これにはレブロン・ジェームズとマイアミ・ヒートに対する102-90での番狂わせの勝利も含まれており、これによりクリーブランドがリーグ最下位の成績でシーズンを終えることはなかった。
クリーブランドは全体1位指名権を使い、カイリー・アービングをドラフト指名した。アービングはスコットが新人王に導いた2人目のポイントガードとなった。クリーブランドでの2シーズン目には、短縮された66試合のスケジュールの中でチームはいくらかの改善を見せた。
2013年4月18日、スコットはクリーブランド・キャバリアーズの経営陣によって解雇された。彼の3シーズンすべてにおいて、キャバリアーズはリーグ下位5位のディフェンシブ・レーティングに位置していたが、チームの若く、しばしば負傷者が多いロスターを考えると、アナリストたちはこの解雇に驚きを示した。アービングを含むキャバリアーズの選手たちも、スコットの解雇に失望を表明した。
3.5. ロサンゼルス・レイカーズ時代
スコットは2013-14シーズンをタイム・ワーナー・ケーブル・スポーツネットのレイカーズのテレビアナリストとして過ごした。シーズン後、彼はレイカーズの新ヘッドコーチの最有力候補となった。マイク・ダントーニの辞任により空席となっていたこの職について、彼は3回の面接を受けた。2014年7月28日、彼はレイカーズのヘッドコーチとして複数年契約を結んだ。
チームが再建期にあった2014-15シーズン、スコットはレイカーズのコーチとして最初のシーズンを21勝61敗の成績で終えた。2015年のNBAドラフトでは、レイカーズはオハイオ州立大学のポイントガード、ディアンジェロ・ラッセルを全体2位で指名した。2015-16シーズンは、コービー・ブライアントの引退シーズンであり、レイカーズはフランチャイズ史上最低の17勝65敗で終えた。2016年4月24日、レイカーズはスコットの翌シーズンの契約オプションを行使せず、新たなコーチを探すことを決定した。彼のレイカーズでの成績は38勝126敗(勝率.232)であり、フランチャイズを2シーズン以上率いた16人のコーチの中で最悪の記録であった。
3.6. コーチ通算記録
| チーム | 年 | レギュラーシーズン試合数 | レギュラーシーズン勝利数 | レギュラーシーズン敗戦数 | レギュラーシーズン勝率 | シーズン結果 | プレーオフ試合数 | プレーオフ勝利数 | プレーオフ敗戦数 | プレーオフ勝率 | 最終結果 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NJN | 2000-01 | 82 | 26 | 56 | 0.317 | アトランティック6位 | - | - | - | - | プレーオフ不出場 |
| NJN | 2001-02 | 82 | 52 | 30 | 0.634 | アトランティック1位 | 20 | 11 | 9 | 0.550 | ファイナル敗退 |
| NJN | 2002-03 | 82 | 49 | 33 | 0.598 | アトランティック1位 | 20 | 14 | 6 | 0.700 | ファイナル敗退 |
| NJN | 2003-04 | 42 | 22 | 20 | 0.524 | (解雇) | - | - | - | - | - |
| NOH | 2004-05 | 82 | 18 | 64 | 0.220 | サウスウェスト5位 | - | - | - | - | プレーオフ不出場 |
| NOH | 2005-06 | 82 | 38 | 44 | 0.463 | サウスウェスト4位 | - | - | - | - | プレーオフ不出場 |
| NOH | 2006-07 | 82 | 39 | 43 | 0.476 | サウスウェスト4位 | - | - | - | - | プレーオフ不出場 |
| NOH | 2007-08 | 82 | 56 | 26 | 0.683 | サウスウェスト1位 | 12 | 7 | 5 | 0.583 | カンファレンスセミファイナル敗退 |
| NOH | 2008-09 | 82 | 49 | 33 | 0.598 | サウスウェスト4位 | 5 | 1 | 4 | 0.200 | 1st.ラウンド敗退 |
| NOH | 2009-10 | 9 | 3 | 6 | 0.333 | (解雇) | - | - | - | - | - |
| CLE | 2010-11 | 82 | 19 | 63 | 0.232 | セントラル5位 | - | - | - | - | プレーオフ不出場 |
| CLE | 2011-12 | 66 | 21 | 45 | 0.318 | セントラル5位 | - | - | - | - | プレーオフ不出場 |
| CLE | 2012-13 | 82 | 24 | 58 | 0.293 | セントラル5位 | - | - | - | - | プレーオフ不出場 |
| LAL | 2014-15 | 82 | 21 | 61 | 0.256 | パシフィック5位 | - | - | - | - | プレーオフ不出場 |
| LAL | 2015-16 | 82 | 17 | 65 | 0.207 | パシフィック5位 | - | - | - | - | プレーオフ不出場 |
| キャリア通算 | 1101 | 454 | 647 | 0.412 | 57 | 33 | 24 | 0.579 | |||
4. 私生活
スコットが設立した非営利団体「バイロン・スコット児童基金」は、過去10年間で1500.00 万 USDドル以上を調達し、その収益は様々な児童慈善団体に寄付されている。彼はABCのNBA中継やESPNのスタジオアナリストとしても活動している。
スコットと元妻のアニタの間には3人の子供がいる。2013年6月にスコットとアニタは別居し、2014年3月には29年間の結婚生活の後、「和解不能な相違」を理由に離婚を申請した。
2020年7月11日、スコットはVH1のリアリティ番組「バスケットボール・ワイブス」のキャストメンバーである登録看護師のシーシー・グティエレスと結婚した。結婚後、2020年後半にカトリックに改宗した。
スコットはレイカーズにドラフトされて大学を中退してから37年後、故郷の母との約束を果たすため、アリゾナ州立大学に戻って教養学の学士号を取得した。
5. コーチングスタイルと評価
バイロン・スコットは、試合中に直立不動で腕組みをして寡黙に試合を見守るコーチングスタイルで知られている。NBAのコーチの中には、試合中に大きな声や身振り手振りで選手に指示を出す者も多いが、スコットは落ち着いた態度を保つ傾向がある。チームに優秀な司令塔がいる場合、選手に任せる部分が多いという声も聞かれる。タイムアウト中の戦術的な指示はアシスタントコーチに任せ、自身は選手への叱咤激励に徹するというスタイルである。
スコットのコーチングスタイルは、レイカーズ時代の恩師であり、起用法を巡って確執があったとされるパット・ライリーのスタイルと酷似していると揶揄されることもある。