1. 生い立ちとアマチュア時代
バリー・ボンズがプロ野球選手としてデビューする以前の個人的な背景と成長過程は、彼の後のキャリアに大きな影響を与えている。
1.1. 幼少期と教育
ボンズはカリフォルニア州リバーサイドで、後にメジャーリーガーとなるボビー・ボンズとパトリシア・ハワードの間に生まれた。彼はサンカルロスで育ち、幼い頃は父が所属していたサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地であるキャンドルスティック・パークに足繁く通い、試合をダグアウトから直接観戦していたという。彼はサンマテオにあるフニペロ・セラ高等学校(Junípero Serra High School英語)に進学し、野球だけでなくバスケットボールやアメリカンフットボールでもその才能を発揮した。野球では1年時に新人チームに所属した後、1980年から1982年までの3年間、選抜チームの主力選手として活躍した。高校通算打率は.404を記録し、3年時には.467という驚異的な打率を残し、高校全米選抜チームに選出されている。
1982年のMLBドラフトでジャイアンツから2巡目(全体39位)で指名を受けたが、球団が提示した契約金7.00 万 USDに対し、ボンズは最低7.50 万 USDを要求したため交渉は決裂。このため、彼はアリゾナ州立大学へ進学することを決めた。
1.2. 大学時代
アリゾナ州立大学では、3年間で打率.347、45本塁打、175打点という優れた成績を記録した。1984年には打率.360と30盗塁を、1985年には打率.368、23本塁打、66打点を記録し、同年にはSporting News英語の全米選抜に選出されている。大学オールスターには3年連続で選ばれた。大学2年時にはカレッジワールドシリーズで7打数連続安打というNCAAの大学記録に並び、彼の所属するチームは1996年に「カレッジワールドシリーズ歴代ベストチーム」に選出された。1986年には大学を卒業し、犯罪学の学位を取得した。また、ASU On Deck Circle Most Valuable Player英語も受賞しており、これまでの受賞者にはダスティン・ペドロイア、ウィリー・ブルームクイスト、ポール・ロデューカ、アイク・デービスなどが名を連ねている。
大学時代、ボンズは「失礼で、思いやりがなく、自己中心的」と当時のコーチ、ジム・ブロックが語るように、チームメイトからはあまり好かれていなかった。門限を破って出場停止になった際、他の選手たちは彼がチームで最も優れた選手であるにもかかわらず、当初はチーム復帰に反対票を投じたという逸話もある。
大学在学中の一時期、彼はアラスカ夏季大学野球リーグのアラスカ・ゴールドパナーズでプレーした経験もある。このリーグは大学リーグでありながら非常にマイナーリーグに近いレベルとされている。
1.3. ドラフトとマイナーリーグ
1985年のMLBドラフトでピッツバーグ・パイレーツから1巡目(全体6位)に指名を受け入団した。同年はA級で7月の月間MVPに選出されるなど、打率.299、13本塁打を記録した。1986年にはAAA級のハワイ・アイランダーズで44試合に出場し、打率.311、7本塁打、37打点、出塁率.435という好成績を挙げ、メジャーリーグ昇格を果たした。
2. プロフェッショナルキャリア
メジャーリーグにおける彼の広範な選手としてのキャリアは、数々の記録と論争に彩られている。
2.1. ピッツバーグ・パイレーツ時代 (1986-1992)
ボンズがパイレーツでメジャーリーグに昇格する以前、チームの観客動員数は低迷しており、1984年と1985年には81試合のホームゲームで1試合あたり1.00 万 USD人以下であった。この観客動員数の低迷は、1980年代初頭のペンシルベニア州西部における経済問題や、ピッツバーグ薬物裁判の影響が組み合わさったものであり、1979年のワールドシリーズ優勝からわずか6年でチームがデンバーへの移転を検討する事態にまで陥っていた。
ボンズは1986年5月30日にロサンゼルス・ドジャース戦で「1番・センター」としてメジャーデビューを果たし、この試合は5打数無安打1四球に終わった。6月4日には対アトランタ・ブレーブス戦でメジャー初本塁打を放ち、4打点を挙げてチームの12対3の勝利に貢献した。1986年シーズン、ボンズはナショナルリーグの新人選手として16本塁打、48打点、36盗塁、65四球でトップに立ったが、キャリアワーストの打率.223、102三振を記録し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では6位に終わった。2年目での慌ただしい昇格と、与えられた背番号が敬愛するウィリー・メイズと同じ24でなかったことに、彼は球団への不満を訴えたという。1986年はセンターを守ったが、1987年にアンディ・バンスライクが加入するとレフトにコンバートされた。
キャリア初期のボンズはリードオフマンとして打席に立っていた。バンスライクとの左中間コンビはフィールドの外では良好な関係を築くことはなかったものの、試合では連携を見せ、広い守備範囲をカバーした。ボンズの加入によりパイレーツはファン熱が急増し、1987年のホーム開幕戦では球団記録となる5.21 万 USD人の観客を動員した。この年、彼は打率.261、25本塁打、32盗塁、59打点を記録した。
1988年にはさらに成績を向上させ、打率.283、24本塁打、58打点を記録した。この年、パイレーツは前年の記録を破る5.41 万 USD人の観客をホーム開幕戦で集めた。当時のパイレーツは、ボビー・ボニーヤ、バンスライク、ジェイ・ベルといった高評価のラインナップを擁していた。1989年には19本塁打、58打点、ナショナルリーグで2位となる14補殺を記録した。シーズン後、彼はロサンゼルス・ドジャースへジェフ・ハミルトンとジョン・ウェッテランドとの1対2の交換トレードで放出されるという噂が流れたが、球団はこの噂を否定し、トレードは成立しなかった。
1990年、ボンズは自身初のMVPを獲得した。打率.301、33本塁打、114打点、リーグ3位の52盗塁を記録し、史上2人目の30本塁打50盗塁を達成した。また、自身初のゴールドグラブ賞とシルバースラッガー賞も受賞した。この年、パイレーツは1979年のワールドシリーズ以来となる11年ぶりのポストシーズン進出を果たし、ナショナルリーグ東地区のタイトルを獲得した。しかし、シンシナティ・レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、ボンズは打率.167と振るわず、チームは2勝4敗で敗退し、レッズはそのままワールドシリーズを制覇した。
1991年、ボンズは再び素晴らしい成績を記録し、打率.292、25本塁打、116打点、107四球を記録し、ゴールドグラブ賞とシルバースラッガー賞を再び受賞した。MVP投票では首位打者を獲得したテリー・ペンドルトンに次ぐ2位に終わった。
1992年3月、パイレーツのゼネラルマネージャーであるテッド・シモンズは、アトランタ・ブレーブスのジョン・シューホルツとボンズをアレハンドロ・ペーニャ、キース・ミッチェル、および後日指名選手との交換でトレードすることで合意した。しかし、パイレーツの監督ジム・リーランドがこのトレードに猛烈に反対したため、提案は撤回された。ボンズはパイレーツに留まり、このシーズンに自身2度目のMVPを獲得した。打率.311、34本塁打、103打点を記録し、チームを3年連続となるナショナルリーグ東地区優勝に導いた。しかし、パイレーツは7試合までもつれたナショナルリーグチャンピオンシップシリーズで再びブレーブスに敗れた。ボンズはNLCS第7戦の最終プレーにも関わっており、フランシスコ・カブレラが放ったヒットを処理し、捕手マイク・ラヴァリエへの送球が遅れ、シド・ブリームが決勝点を挙げた。3年連続でナショナルリーグ東地区を制したパイレーツは、ワールドシリーズ出場を逃した。この敗戦後、ボンズとスター選手であったダグ・ドレイベックは、パイレーツが再契約するには高すぎる年俸を要求すると予想された。
パイレーツ時代、ボンズは2度のMVPを獲得したにもかかわらず、記者やファンから好かれていなかった。ある新聞社は彼に「MDP(最も嫌われたパイレーツ)」という「賞」を贈ったほどである。
2.2. サンフランシスコ・ジャイアンツ時代 (1993-2007)
ボンズは1993年から2007年までの15シーズンをサンフランシスコ・ジャイアンツで過ごし、その中でMLB史上最高の攻撃的選手としての地位を確立するとともに、ドーピング疑惑という大きな論争の中心となった。
2.2.1. ジャイアンツ初期とオールラウンドな活躍 (1993-1999)

1993年、ボンズはパイレーツを離れ、ジャイアンツと当時としては記録破りの6年総額4375.00 万 USD(2024年の価値で約8910.00 万 USD)の大型契約を結んだ。父のボビー・ボンズがキャリア最初の7年間を過ごし、名付け親であるウィリー・メイズが24シーズン中22シーズンをプレーしたチームへの移籍であった。この契約は、当時の野球界において総額と年間平均年俸の両面で史上最大規模のものであった。契約発表の感情的な記者会見で、ボンズはジャイアンツへの加入を「故郷への帰還」と表現し、父と名付け親の足跡をたどることは「信じられない」「少年時代の夢が叶った」と語った。
ジャイアンツと契約した当初、ボンズはパイレーツ時代の大半でつけていた背番号24を着用する意向であり、メイズの承諾も得て球団は一度は永久欠番を解除する意向を示した。しかし、ファンやメディアからの強い反発があったため、その考えは断念された。父を称えるため、ボンズはジャイアンツで父がつけていた背番号25に変更した。父は同年、ジャイアンツのコーチとしてチームに加わった。1993年5月12日のコロラド・ロッキーズ戦では、ボンズと父ボビー、そしてロッキーズのジェラルド・クラークとロン・ハッセイが、フィールド上での乱闘に関与したとして退場処分を受けた。
1993年、ボンズは打率.336を記録し、46本塁打と123打点でナショナルリーグのトップに立ち、2年連続でMVPを獲得(通算3度目)した。ジャイアンツは103勝を挙げる好成績を収めたが、アトランタ・ブレーブスが104勝を挙げたため、ワイルドカード制度が導入される前の最後の「壮大なペナントレース」と一部で称される接戦の末、地区優勝を逃した。
1994年のストライキ短縮シーズンでは、112試合で打率.312、37本塁打、81打点、リーグトップの74四球を記録し、MVP投票で4位に終わった。同年、彼はジェームズ・ウッズとアン・アーチャー主演のテレビ映画『Jane's House』に本人役でカメオ出演している。
1995年、ボンズは144試合に出場し、打率.294、33本塁打、104打点を記録したが、MVP投票では12位に終わった。
1996年、ボンズはナショナルリーグ史上初、メジャーリーグ全体で2人目となる、同一シーズンに40本塁打と40盗塁を達成した選手となった。この「40-40クラブ」の他のメンバーは、ホセ・カンセコ(1988年)、アレックス・ロドリゲス(1998年)、アルフォンソ・ソリアーノ(2006年)、ロナルド・アクーニャ・ジュニア(2023年)、そして大谷翔平(2024年)である。彼の父ボビー・ボンズも1973年に39本塁打43盗塁と惜しくも「40-40」を逃している。
4月27日のフロリダ・マーリンズ戦でジョン・バーケットから300号と301号の本塁打を放った。これにより彼は、ウィリー・メイズ、アンドレ・ドーソン、そして自身の父に次いで史上4人目となる通算300本塁打300盗塁を達成した。このシーズンの成績には、129打点、打率.308、そして当時のナショナルリーグ記録となる151四球が含まれている。彼はMVP投票で5位に終わった。
1997年、ボンズは打率.291と1989年以来の低打率を記録した。しかし、2年連続で40本塁打を放ち、101打点を記録し、リーグトップとなる145四球を再び記録した。また、37盗塁を記録し、父と並んで通算5回目の30本塁打30盗塁シーズンを達成した。彼は再びMVP投票で5位にランクインした。
1998年5月28日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦の9回表2アウト満塁の場面で、ボンズは史上5人目の満塁敬遠を記録した。20世紀にこれを記録したのはナップ・ラジョイ(1901年)、デル・ビゾネッテ(1928年)、ビル・ニコルソン(1944年)の3人である。最初に記録したのは1881年のアブナー・ダルリンプルであった。この采配について、当時のダイヤモンドバックスの監督であったバック・ショーウォルターは、「空いているベースは常にある。その夜はホームが空いていた」と振り返っている。
8月23日、ボンズは通算400号本塁打を記録した。これにより彼は、通算400本塁打と400盗塁を達成した史上初の、そして現在まで唯一の「400-400クラブ」のメンバーとなった。この記念すべき本塁打は、バーケットと同じくマーリンズに所属していたカート・オハラから放たれた。このシーズン、彼は打率.303、37本塁打、122打点を記録し、8度目のゴールドグラブ賞を獲得した。MVP投票では8位に終わった。
1999年は、それまでのキャリアで最も出場試合数が少ないシーズンとなった。4月には打率.366、4本塁打、12打点と好調なスタートを切ったが、4月18日に上腕二頭筋の腱断裂と肘の骨棘により15日間の故障者リストに入り、4月末から5月いっぱいまで欠場を余儀なくされた。6月9日に復帰してからも、肘の痛み、膝の炎症、鼠径部の問題など、度重なる怪我に悩まされ、1999年シーズンの残りの期間は打撃に苦しんだ。故障者リストからの復帰後、打率.248と低迷したものの、約2ヶ月間を欠場し、わずか102試合の出場で34本塁打、83打点、そして長打率.617を記録した。
ビル・ジェームズは、ボンズを1990年代で最高の選手と評価している。彼はさらに、2位のクレイグ・ビジオは、10位の選手よりもボンズの成績に遠いと付け加えている。1999年、1997年までの成績を考慮した上で、ボンズはThe Sporting News英語の「最も偉大な野球選手100人」リストで34位にランクインし、現役選手の中では最高位となった。2005年にリストが改訂された際には、ベーブ・ルース、ウィリー・メイズ、タイ・カッブ、ウォルター・ジョンソン、ハンク・アーロンに次ぐ6位にランクされた。ボンズは1999年のメジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チームから漏れており、ケン・グリフィー・ジュニアが選出されている。ジェームズはボンズについて、「私の生涯で最も正当な評価をされていないスーパースターだ。...グリフィーは常に人気があったが、ボンズははるかに、はるかに偉大な選手だった」と記した。1999年当時、彼はボンズを史上16番目に優れた選手と評価し、「人々が彼の全ての功績を考慮し始める時、ボンズは野球史上5本の指に入る偉大な選手と評価されるかもしれない」と予測した。
2.2.2. 記録破りの攻撃的ピーク (2000-2004)
2000年、ボンズは打率.306、キャリア最高の長打率.688、49本塁打をわずか143試合で記録した。また、リーグトップの117四球を選んだ。
翌年、ボンズの打撃成績はさらに高まり、自身の個人記録だけでなく、いくつかのメジャーリーグ記録も更新した。2001年のジャイアンツの最初の50試合で、彼は28本塁打を放ち、そのうち5月にはキャリアハイとなる17本塁打を記録した。この序盤の猛打には、4月17日のロサンゼルス・ドジャース戦でテリー・アダムスから放った通算500号本塁打も含まれる。彼はオールスターブレイクまでに39本塁打(メジャーリーグ記録)を放ち、メジャーリーグ記録となる177四球を選び、40年以上前のミッキー・マントルやテッド・ウィリアムズ以来となる出塁率.515を記録した。ボンズの長打率はメジャーリーグ記録となる.863(476打数で411塁打)を記録し、シーズンをメジャーリーグ記録となる73本塁打で終えた。
10月4日、シーズン159試合目でウィルフレド・ロドリゲスから本塁打を放ち、マーク・マグワイアが1998年に162試合目で樹立した70本塁打の記録に並んだ。その翌日、彼は朴賛浩から71号と72号を放ち、記録を更新した。10月7日にはデニス・スプリンガーから73号を記録した。この73号本塁打ボールは後に玩具メーカーのトッド・マクファーレンに45.00 万 USDで売却された。マクファーレンは以前にもマーク・マグワイアの1998年の70号本塁打ボールを購入している。ボンズはこのシーズンにMLBで本塁打数トップに立ったことで、ベーブ・ルース・ホームラン賞を受賞した。
2002年1月15日、ボンズはジャイアンツと5年総額9000.00 万 USDの契約で再契約した。彼はシーズンの最初の4試合で5本塁打を放ち、ルー・ブロックが35年前に樹立した4試合での最多本塁打記録に並んだ。彼はキャリアハイとなる打率.370でナショナルリーグの首位打者となり、403打数で46本塁打、110打点、わずか47三振を記録した。
前シーズンよりも9試合少ない出場にもかかわらず、彼はメジャーリーグ記録となる198四球を選び、そのうち68が故意四球で、ウィリー・マッコビーが1969年に記録した45を上回るメジャーリーグ記録を樹立した。長打率は.799で、当時の史上4位の記録であった。ボンズはテッド・ウィリアムズの持つメジャーリーグの出塁率記録を.582で破った。ボンズはまた、500号を打ってから1年半足らずで通算600号本塁打を達成した。この本塁打は8月9日、ホームでのパイレーツ戦でキップ・ウェルズから放たれたものである。
2002年のポストシーズン、ボンズは打率.322、8本塁打、16打点、27四球を記録し、アナハイム・エンゼルスに7試合で敗れたものの、2002年のワールドシリーズに進出した。
2003年、ボンズはわずか130試合の出場に終わった。彼はわずか390打数で45本塁打を放ち、打率.341を記録した。長打率は.749、148四球を選び、3年連続で出塁率.500以上(.529)を記録した。また、6月23日にはロサンゼルス・ドジャース戦の11回にエリック・ガニエから二塁への盗塁を決め、史上初の500本塁打500盗塁クラブの唯一のメンバーとなった(ボンズは500号本塁打もドジャース戦で記録している)。ボンズはこのイニングの後に決勝点を挙げた。
2004年、ボンズはおそらくキャリア最高のシーズンを送った。彼は打率.362で2度目のナショナルリーグ首位打者となり、自身の記録を更新する232四球(うちメジャーリーグ記録の120故意四球)を記録した。長打率は.812で史上4位の記録であり、出塁率記録を.609で更新した。ボンズは4月13日にベン・フォードから661号本塁打を放ち、メイズをキャリア本塁打リストで上回った。9月17日にはジェイク・ピービーから700号を記録した。ボンズは373打数で45本塁打を放ち、三振はわずか41と、メジャーリーガーの中でも数少ない「シーズン本塁打数>三振数」を記録したエリート選手の一員となった。ボンズは4年連続となるMVPを獲得し、通算7度目となった。彼の7度のMVP受賞は、史上他のどの選手よりも4回多く、また、どちらのリーグにおいても4年連続でMVPを受賞した選手は他にいない(MVP賞は1931年に初めて授与された)。40歳を迎えたボンズは、39歳8ヶ月で1979年にナショナルリーグのMVPをキース・ヘルナンデスと共同受賞したウィリー・スタージェルの25年来の記録を破り、最年長MVP受賞者となった。7月4日、彼はリッキー・ヘンダーソンの持つ通算四球記録を2190四球と2191四球で更新した。
ボンズがアーロンの記録に近づくにつれ、アーロンはボンズに関する意見を求められた。彼はボンズのファンであり、賞賛者であることを明確にし、ボンズのステロイド使用疑惑による記録にアスタリスクを付けるべきかどうかの論争には触れなかった。彼は、記録に対する認識と尊敬はファンによって決定されるべきだと感じていた。2005年シーズン前のオフシーズンにステロイド論争がメディアでより注目されるようになると、アーロンはボンズがこの問題に関して行った発言についていくつかの懸念を表明した。アーロンは、運動能力を向上させるための薬物やステロイドの使用は不適切だと感じていると述べた。アーロンは、メディアがグラウンド上で起こった出来事に集中できず、ピート・ローズに関連するような薬物やギャンブルの疑惑が強調されすぎることに不満を感じていた。2007年、アーロンはステロイド使用問題全体が非常に論争の的であると感じ、記録更新の可能性のある試合には出席しないことを決めた。ボンズが2007年8月にアーロンの記録を最終的に破った際、アーロンはスコアボードで流されたビデオメッセージを通じてボンズを祝福した。
2.2.3. 最終シーズンと歴代最多本塁打記録 (2005-2007)
2005年シーズンのボンズの年俸は2200.00 万 USDで、メジャーリーグで2番目に高い年俸であった(ニューヨーク・ヤンキースのアレックス・ロドリゲスが最も高く、2520.00 万 USDであった)。
ボンズは膝の怪我、複数回の手術、そしてリハビリに耐えた。彼は9月12日にアクティブロースターに登録され、レフトで先発出場した。復帰戦のサンディエゴ・パドレス戦では、最初の打席でホームランを放つ寸前であった。ボンズはその夜を4打数1安打で終えた。復帰後、ボンズは9月18日から21日まで4試合連続でホームランを放つなど、打席で高いレベルのパフォーマンスを再開した。彼はわずか14試合の出場で打率.286、5本塁打、10打点という成績でシーズンを終えた。
2006年、ボンズは2000.00 万 USD(ボーナス含まず)を稼ぎ、野球界で4番目に高い年俸であった。2006年シーズンまでに、彼は21年間のキャリアで約1.72 億 USDを稼ぎ、野球史上最高額を稼いだ選手となった。ボンズはシーズンの最初の10試合で打率.200を下回り、4月22日までホームランを打たなかった。この10試合のホームラン不振は、1998年シーズン以来最長のものであった。5月7日、ボンズはフィラデルフィアのシチズンズ・バンク・パークでのフィラデルフィア・フィリーズ戦で、ジョン・リーバー投手から通算713号本塁打を放ち、歴代2位のベーブ・ルースにあと1本と迫った。この高く舞い上がった本塁打は、シチズンズ・バンク・パークの2シーズン史上最長級のもので、推定140 m飛距離を記録し、ライトの3階席のファサードに当たった。

5月20日、ボンズはオークランドでのインターリーグゲームで、オークランド・アスレチックスの左腕投手ブラッド・ハルジーからレフトに深く714号本塁打を放ち、ルースの歴代2位の記録に並んだ。この試合はアメリカンリーグの球場でのインターリーグ戦であったため、ボンズはジャイアンツの指名打者として出場した。ボンズは試合後、「これで終わってよかった」と語り、2006年初頭に非常に速いペースで本塁打を量産していたアルバート・プホルスに、より注目が集まることを望むと述べた。
5月28日、ボンズはコロラド・ロッキーズの金炳賢投手からセンターに715号本塁打を放ち、ルースを抜き去った。この本塁打は推定140 m飛び、センターフィールドのブルペンに落ち、複数のファンの手をすり抜け、売店に並んでいたサンフランシスコ在住の38歳、アンドリュー・モービッツァーがボールを捕球した。不思議なことに、デイブ・フレミングのラジオ実況は、ボールが打たれた瞬間にマイクの故障により無音となったが、ジャイアンツのテレビ実況アナウンサーであるデュアン・カイパーのテレビ中継には影響はなかった。

9月22日、ボンズはミルウォーキー・ブルワーズ戦でハンク・アーロンのナショナルリーグ通算本塁打記録733に並んだ。この本塁打はウィスコンシン州ミルウォーキーのミラー・パークで、6回表、ブルワーズのクリス・スパーリングから2ストライク0ボールからの投球を深いセンターフィールドに打ち込んだものであった。この偉業は、アーロンがキャリアを開始した(ミルウォーキー・ブレーブス時代)そして終了した(当時はアメリカンリーグに所属していたブルワーズ時代)まさにその都市で達成されたことが特筆される。ジャイアンツが10対8でリードされていた状況で、ボンズの本塁打はランナー一塁二塁、ワンアウトの場面で放たれ、ジャイアンツに11対10のリードをもたらし、ペナントレース終盤の重要な試合にさらなるドラマを加えた。試合は最終的にブルワーズが13対12で勝利したが、ボンズ自身は5打数3安打、2二塁打、記録タイの本塁打、6打点を記録した。
9月23日、ボンズはブルワーズのクリス・カプアーノからソロ本塁打を放ち、アーロンの持つナショナルリーグ通算本塁打記録を更新した。これが2006年のボンズが打った最後のホームランとなった。2006年、ボンズはピッツバーグ・パイレーツ時代の1991年以来となる低い長打率を記録した。
2007年1月、New York Daily News英語紙は、ボンズがアンフェタミンに陽性反応を示したと報じた。野球のアンフェタミン規定は1シーズンだけ適用されており、陽性反応を示した選手は追加で6回の検査を受け、治療とカウンセリングを受けることになっていた。この規定では、最初の陽性反応では選手を特定しないことになっていたが、New York Daily News英語紙が検査結果を漏洩した。選手会がボンズに検査結果を通知した際、彼は当初、ジャイアンツのチームメイトであるマーク・スウィーニーのロッカーから取った物質によるものだと主張したが、後にこの主張を撤回し、スウィーニーに公に謝罪した。
2007年1月29日、ジャイアンツはボンズとの2007年シーズンの契約を締結した。コミッショナー事務局がボンズの1年1580.00 万 USDの契約に含まれていた個人出演条項を拒否したため、球団は改訂された書類を彼の代理人ジェフ・ボーリスに送付したが、ボーリスは「現時点では、バリーは新しい書類に署名しない」と述べた。ボンズは2月15日に改訂された1年1580.00 万 USDの契約に署名し、ジャイアンツのスプリングトレーニングキャンプに予定通り合流した。
ボンズは2007年シーズン序盤から歴代記録への道を再び歩み始めた。4月3日の開幕戦では、一塁への内野安打、盗塁、そして走塁ミスによる本塁でのアウト、そして試合終盤の深い左翼へのフライに終わった。ボンズは翌日、ジャイアンツの本拠地AT&Tパークでのシーズン2試合目の最初の打席で巻き返しを図った。ボンズはサンディエゴ・パドレスのクリス・ヤングから放った球をセンターへの深い本塁打とし、キャリア735本目とした。この本塁打により、ボンズはルースとアーロンの記録の中間点を超えた。
ボンズは4月13日まで本塁打を打たなかったが、この日にはピッツバーグ・パイレーツ戦で2本(736号と737号)を放ち、3打数3安打6打点という夜を過ごした。4月18日には、セントルイス・カージナルスの投手ライアン・フランクリンから放った738号本塁打をマッコビー・コーブに打ち込んだ。4月21日と22日には、アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で2試合連続で本塁打(739号と740号)を放った。
5月14日、ボンズの本塁打記録追跡を巡る話題がエスカレートした。この日、ダラスを拠点とするオークションハウスであるSports Auction for Heritage英語は、ボンズの記録破りの756号本塁打ボールを捕獲したファンに100.00 万 USDを支払うと発表した。しかし、ファン間の安全上の懸念から、この100万ドルのオファーは6月11日に撤回された。6月17日のボストン・レッドソックス戦(フェンウェイ・パーク)で748号本塁打を放った。この試合はボンズがこれまでプレーしたことのない36番目のメジャーリーグの球場での本塁打となった。彼は元パイレーツのチームメイトであるティム・ウェイクフィールドのナックルボールをライトの低いフェンスを越えてジャイアンツのブルペンに打ち込んだ。これは彼にとって、元パイレーツのチームメイトであるウェイクフィールドから打った初めての本塁打であり、ボンズに4本塁打を許した441人目の異なる投手となった。6月29日に放った通算750号本塁打もまた、元チームメイトのリバン・ヘルナンデスから放たれたものであった。この本塁打は8回に放たれ、3対3の同点とした。
7月19日、21打席連続ノーヒットの後、ボンズはシカゴ・カブス戦で752号と753号の2本塁打を放った。彼はこの日、3打数3安打、2本塁打、6打点、1四球を記録した。低迷する最下位のジャイアンツはそれでも9対8で試合に敗れた。7月27日、ボンズはフロリダ・マーリンズの投手リック・バンデンハークから754号本塁打を放った。ボンズはその後の4打席はすべて四球を選んだが、2ラン本塁打がジャイアンツを12対10の勝利に導いた。これはボンズが747号を放って以来、ジャイアンツが勝利した試合で本塁打を打った初めてのことであった。8月4日、ボンズはサンディエゴ・パドレスのクレイ・ヘンズリーから755号本塁打を放ち、ハンク・アーロンの持つ歴代最多本塁打記録に並んだ。ボンズは本塁を通過した後、息子ニコライと長く抱擁を交わした。ボンズはチームメイトと、そしてバックネット裏で妻のリズ・ワトソンと娘のアイシャ・リンに挨拶した。ヘンズリーはボンズに本塁打を許した445人目の異なる投手であった。皮肉なことに、ボンズを巡る疑惑の雲を考えると、この記録タイの本塁打は、2005年に野球界からステロイド使用で出場停止処分を受けていた投手から放たれたものであった。彼は次の打席で四球を選び、その後野手選択で得点した。
2007年8月7日太平洋時間午後8時51分、サンフランシスコのオラクル・パーク(当時の名称はAT&Tパーク)で、ボンズはワシントン・ナショナルズのマイク・バシック投手から放った756号本塁打で、ハンク・アーロンが保持していた歴代最多本塁打記録を更新した。偶然にも、バシックの父もアーロンが755号を打った後に(テキサス・レンジャーズの投手として)アーロンと対戦していた。1976年8月23日、マイケル・J・バシックはアーロンをシングルヒットとライトフライに抑えた。息子バシックは後に、「もし父がハンク・アーロンに本塁打を打たせてくれていたら、私たちはどちらも756本目を献上していたでしょう」とコメントした。本塁打を放った後、ボンズはバシックにサイン入りバットを贈った。
この打席の7球目、3ボール2ストライクからの投球をボンズはライトセンターの観客席に打ち込んだ。ボールを手にしたのはニューヨーク州クイーンズ出身の22歳メッツファンであるマット・マーフィーで、彼はすぐにサンフランシスコの警察官のグループによって混乱から保護され、エスコートされた。ボンズが本塁を一周した後、10分間の遅延があり、その中にはアーロンが33年間保持していた記録を破ったボンズを祝福する短いビデオメッセージがスコアボードで流された。アーロンは「この記録の達成が、他の人々にも自身の夢を追いかけるようインスピレーションを与えることを願う」と述べた。ボンズはフィールドで、名付け親のウィリー・メイズを傍らに、即席で感情的な声明を発表し、チームメイト、家族、そして亡き父に感謝の意を述べた。ボンズはその試合の残りのイニングを休んだ。

コミッショナーのバド・セリグはこの試合には出席せず、野球運営担当の副社長であるジミー・リー・ソロモンが代理を務めた。セリグは試合後、ボンズに電話で記録更新を祝福した。ジョージ・W・ブッシュ大統領も翌日、ボンズに電話で祝福の言葉を伝えた。8月24日、サンフランシスコ市はジャスティン・ハーマン・プラザで大規模な集会を開催し、ボンズのキャリアの功績と本塁打記録更新を称えた。集会では、ルー・ブロック、アーニー・バンクス、オジー・スミス、ジョー・モンタナ、ウェイン・グレツキー、マイケル・ジョーダンからのビデオメッセージが上映された。ウィリー・メイズ、ジャイアンツのチームメイトであったオマー・ビスケルとリッチ・オーリリア、ジャイアンツのオーナーであるピーター・マゴワンがスピーチを行った。ギャビン・ニューサム市長はボンズにサンフランシスコ市郡の鍵を贈り、ジャイアンツの副社長ラリー・ベアはボンズに756号本塁打を打った後に踏んだホームプレートを贈呈した。
記録破りのボールは8月21日にオークションハウスに委託された。8月28日に始まった入札は、9月15日に3段階のオンラインオークションを経て、75.25 万 USDで落札された。落札者であるファッションデザイナーのマーク・エコーは、ファンがボールの運命を決定するためのウェブサイトを作成した。後に、ボンズの記録タイとなる755号本塁打ボールに18.68 万 USDで落札したベン・パドノスも、ファンにボールの運命を決定させるためのウェブサイトを立ち上げた。エコーは1000万人の投票により、ボールにアスタリスクを付けて野球殿堂に送ることを決定した。エコーの計画について、ボンズは「彼はボールに75万ドル使って、それをどうするんだ?彼がやっていることは愚かだ」と述べた。一方、パドノスは、ウェブサイト「www.endthedebate.com英語」で5年間の広告を販売し、そこで人々は2対1の差でボールを粉砕することに投票した。
ボンズは2007年シーズンを、打率.276、28本塁打、66打点で、126試合、340打席で終えた。43歳にして、両リーグで最多となる132四球を記録した。
3. プレースタイルと特徴
バリー・ボンズの打撃、走塁、守備における能力は卓越しており、キャリアを通じてそのプレースタイルは変化しながらも、常にリーグのトップクラスに位置した。
キャリア初期から中期にかけて、1990年代のボンズは、走攻守すべてに際立った能力を持つ「5ツールプレイヤー」として知られていた。彼は30本塁打30盗塁を5度、打率3割30本塁打30盗塁を3度、そして40本塁打40盗塁を1度記録している。この40本塁打40盗塁は、1988年のホセ・カンセコに次ぐ史上2人目の達成であった。守備面では、ゴールドグラブ賞を8度獲得しており、特に1997年のオールスターでは、デビッド・コーンとイバン・ロドリゲスのバッテリーから盗塁を奪うなど、高い走塁技術も持っていた。
ESPNとSporting News英語は、ともに1990年代最高の選手としてボンズを選出している。この賞の歴代受賞者にはタイ・カッブ、ジミー・フォックス、テッド・ウィリアムズ、スタン・ミュージアル、ウィリー・メイズ、ピート・ローズ、マイク・シュミットなどが名を連ねている。ボンズが通算7度獲得したMVPのうち、3度はこの1990年代に獲得したものである。
2000年代に入ると、ボンズの打撃能力はさらに飛躍的な向上を見せた。2001年のシーズン73本塁打を筆頭に、2001年から2004年までの4年連続で、出塁率.500以上、長打率.700以上という驚異的な数字を記録した。この2つの数字を合計したOPSにおいても、4年連続で1.200以上を記録し、2004年には出塁率.609、長打率.812を記録、OPSはMLB記録の1.422を叩き出した。彼は四球数、故意四球数、出塁率でそれぞれ複数回(四球は3回、故意四球と出塁率は2回)自己記録を更新した。
年間100三振に達したのは、キャリア1年目の102三振のみである。2001年に73本塁打を記録して以降、本塁打率は大幅に上昇したが、2004年には45本塁打に対し41三振と、三振数よりも本塁打数が多いという珍しい記録も残している。
なお、シーズン73本塁打を打った2001年のシーズン以外で、50本塁打以上を記録したことはない。
無走者での故意四球が41度(うち無死無走者の場面での故意四球が5度)あり、2ストライクを取られてから故意四球となったケースが5度(うち0ボール2ストライクからフルカウントになり故意四球となったのが3度)ある。また、1998年5月28日のダイヤモンドバックス戦では、9回2アウト満塁の場面で故意四球を与えられた。
73本塁打を記録した2001年シーズンの本塁打の内訳は、左翼方向4本、左中間4本、中堅方向15本、右中間21本、右翼方向29本であった。73本中50本が引っ張り方向、逆方向への本塁打はわずか8本と、典型的なプルヒッターであったことが窺える。もっとも、ボンズの場合は逆方向に打つ必要がないほど打撃が優れていたとされる。
打撃の技術と洞察力を物語る逸話として、新人時代にパイレーツからドラフト1位指名を受け、当時の本拠地スリー・リバース・スタジアムで打撃練習を行った際、引っ張って15球中11球をスタンドに放り込んだ。それを見ていたコーチの一人が、「左打者なら誰でもできる」と言うと、ボンズは「じゃあ、これを見てみな」と言って、今度はレフト方向へ柵越えを連発したという。
野球における勘もずば抜けており、ある試合でジャイアンツ打線が相手投手に手玉に取られていたとき、彼がぽつりと「グラブの角度が変わったらスライダー、まっすぐなら速球だよ」と言った。チームメイトは違いが分からなかったが、ボンズはその後の数球の球種を的確に言い当てたという。
若手時代に武器であった守備と走塁は、後に薬物使用が原因とされる体重増加によって年々衰え、現役終盤期には日本の一般紙からも「守備と走塁はチームに迷惑をかけるほど」とまで酷評された。しかし、その打撃力に関しては、後述の薬物疑惑があった中でも「ボンズは薬物関係なしに超一流」と言われるほどであり、引退して長らく経った2021年以降でも、様々な球団の監督から高く評価されている。大谷翔平が素晴らしいシーズン記録を残した際には、「バリー・ボンズのようだ」と、逆説的ではあるもののボンズの偉大さを認める声が多く聞かれた。
4. 逸話と人間関係
バリー・ボンズの個性、周囲との関わり、そしてキャリアを彩る興味深いエピソードは、彼の複雑な人間性を浮き彫りにする。
4.1. 性格と周囲との関わり
大学時代からボンズはチームメイトを選り好みする傾向があり、1A時代のルームメイトは彼の不遜な態度に業を煮やして同居を拒否し、他のチームメイトも陰口を叩いていたという。
マイナー時代、パイレーツにドラフト1巡指名を受けてルーキーイヤーに1Aのチームに合流した初日、彼はノックもせずに監督室に勢いよく入ってきて、「俺はバリー・ボンズ。ドラフト1位選手だ」と不躾な自己紹介をしたという。当時の1A監督エド・オットーはボンズの顔を睨み付け、「私はエド・オットーでお前さんの監督だ。それが分かったなら、とっととこの部屋から出て行きやがれ。それにノックする気がないのなら、二度とここには入ってくるな!」と怒鳴りつけた。オットーの新人教育は厳しく、大事な試合で守備に怠慢プレーを見せた時には容赦なくベンチに引っ込めることもあった。しかし、大学時代からボンズを甘やかしたといわれる実父ボビーとは違う厳格な接し方は、次第にボンズの尊敬を勝ち取っていき、シーズン終盤にはオットーと20分の予定のミーティングを2時間にまで伸ばして話し込む間柄になっていたという。また、オットーによってクラブハウスでの礼儀作法やメディア対策を伝授されたという。
パイレーツ時代に左中間コンビを組んでいたアンディ・バンスライク、さらにジャイアンツ移籍当時の三塁手マット・ウィリアムスは、ベテラン選手にも軽口をたたくボンズをチームメイトの前で怒鳴りつけたことがある。
1997年から2002年まで3・4番コンビを組んでいたジェフ・ケントとは犬猿の仲で、お互いに試合におけるパフォーマンスは認めていたものの、しばしば口論する姿が見られており、2001年にはベンチで掴み合いの乱闘をする姿を公に晒している。
ロッカールームでは隣り合うロッカーの他、専属トレーナーにもロッカーを割り当ててシャワールームに一番近い壁際のロッカー全てを自分で占めており、自分専用のソファーと大型テレビも置いていた。この専用ソファーにチームメイトが勝手に座った時、そのチームメイトを怒鳴りつけたことがある。
彼はメディアやファンとの間にしばしば緊張関係を築いた。彼はかつて、「投手がMVPになるということは野手に対する侮辱である。ワールドシリーズでMVPを取ればいいじゃないか」「ベーブ・ルースの頃は白人しかいなかったんだから基本的に認めていない。MLB史上最強の打者は俺だ」といった発言をしたこともある。
ジャイアンツにフリーエージェント移籍した初年度のスプリングトレーニング初日、彼はクラブハウスに到着するなり、各ピッチャーを指差して、「お前にも、お前にも貸しがある」と言い続けたといわれている。「貸し」というのは、パイレーツ時代に打ったという意味で、それはボンズ流の一風変わった自己紹介だった。
2001年4月17日に通算500号本塁打を達成した後日、パイレーツ時代のGMだったシド・スリフトから祝福の電話を貰った時には「あんたが早く俺をメジャーに引き上げてくれていたら、(500号に)もっと早く到達できたんだがね」と言い放ったという。
このようなことから、多くのチームメイトは彼の不遜な態度に不満を漏らしており、チーム内でも孤立しがちであるとされる。しかし、全米の注目を一身に浴びる中で放った新記録の756号となると話は別であり、先述のようにチームメートはもとより地元のファン、相手チームまで球場一体となって祝福ムードに沸いた。
ボンズはマスコミ嫌いでもあり、不振に陥っている時のロッカールームでのインタビューでは、記者が凍り付いてしまうほどの緊迫した雰囲気であり、質問に対しての受け答えにおいても放送禁止用語が混ざってしまうこともあるほどであった。本国アメリカでは多くのマスコミを敵に回しているため否定的な報道が多いが、「死んでからでないと認めてもらえないのか」と涙を流したこともあったという。
1990年、1992年、1993年とMVPを獲得するほどのパフォーマンスであったにもかかわらず、1991年にMVPを逃したのは、記者との対立のため投票で不利になったためとも言われている(この年MVPを獲得したのは打率.319、本塁打22、打点86、盗塁10のテリー・ペンドルトンであるが、彼は前年最下位のチームに移籍してきて中心選手としてワールドシリーズ進出に貢献したことも評価されている)。
1998年のマーク・マグワイアとサミー・ソーサのシーズン最多本塁打記録争いの時に、ソーサにつくマスコミが少ないことや新記録のセレモニーに差があったことについて、彼が黒人だからではないかと各所で物議を醸したが、ボンズも人種差別と指摘した一人である。
彼は名付け親でもあるウィリー・メイズを尊敬している。パイレーツ時代までは彼と同じ背番号24をつけていた(ケン・グリフィー・ジュニアの背番号24も同じ理由である)。ジャイアンツへの移籍の際に、背番号として既に永久欠番になっていた24を付けたいと言ったのは前述の通り(その際も周囲から顰蹙を買ったという)。2007年のオールスターゲーム前のセレモニーにメイズが登場した時も隣に寄り添っていた。
ボンズは時にユーモラスなジョークなどを言ったりする一面もある。歴代本塁打記録の更新が注目された2007年には記者にそのことを問われると、ポツリと「もっとバントをしなきゃな(I've got to bunt more英語)」と言ったり、友人・知人が少ないことで知られているボンズが、2007年は新人のフレッド・ルイスを弟のように可愛がっており、そのルイスが満塁本塁打を独立記念日に打ったり、母の日にサイクル安打を達成したりすると、「祝日にだけ打つつもりかよ(Are you just going to hit on holidays?英語)」などとからかったりした。
友達想いの優しい一面もある。2001年9月28日、マグワイアの持つシーズン70本塁打の記録を目指していたボンズはサンディエゴ・パドレス戦で68号を放ってダイヤモンドを1周した。本塁打を打った後天を指差すパフォーマンスで知られているが、この時はいつもよりとりわけ長く天を指差した。その後ベンチに戻ると泣き出してしまった。試合後の記者会見では「今日のホームランを亡くなったばかりの友人フランクリン・ブラッドリーに捧げる」と語った。亡くなったブラッドリーは10年来ボディガードを務めた親友でもあった。前日の9月27日に「ありきたりな」外科手術を受けて、合併症を引き起こして亡くなったというのだった。「ありきたりな」手術と形容したが、ブラッドリーが受けた手術とは、肥満治療のための消化管手術だった。アメリカでは肥満の外科治療が大流行しているからこそ、「ありきたりな」手術と形容したが、手術費用は2.50 万 USDから3.00 万 USDと言われている。無保険者にとっては簡単に払える金額ではなく、体重180 kgと肥満に苦しむ友が治療を受けられるようにと手術費用を援助していたのだった。
4.2. 父親ボビー・ボンズとの関係
バリー・ボンズ(以下、便宜上バリーと表記)の父親は先述の通り1970年代に活躍したメジャーリーガーのボビー・ボンズであり、バリーは「やるからには、その道のナンバー1になれ」と言われ育ったという。また、ボビーはウィリー・メイズとも交流が深いチームメイトであったという経緯から、バリーとメイズは出会うこととなった。
しかし、バリーは幼少期からボビーを非常に慕っていたが、野球で多忙だったボビーは家を空けることが多く、一緒に遊んでもらった記憶がほとんど無いとバリーは語っている。というのも、バリーが生まれたときボビーはまだ18歳であったため、バリーの幼少期は、後に24歳でメジャーデビューするまで必死にマイナーでプレーしていた時期と重なる。
後にボビーはアルコール依存症にかかり、酒が原因で様々なトラブルを起こしてしまい、次第にバリーとボビーは疎遠となっていった。バリーが高校や大学で野球で素晴らしい成績を残しても、ボビーは振り向いてくれなかったという。だが、その後ボビーはケアを受けたことでアルコール依存症を克服。1993年、バリーがサンフランシスコ・ジャイアンツに入団し、ボビーがジャイアンツのバッティングコーチに就任したのを機に、2人は和解することとなった。
その後、2人は共に野球人生を歩むことになるが、バリーは先述の教えである「その道のナンバー1になる」、つまりワールドチャンピオンになることが1度もできずにいた。そんな中、2002年にボビーは肺癌と脳腫瘍を発症し、余命いくばくもない状態となる。ボビーの命のあるうちにチャンピオンリングを手にしたいという思いから、2002年バリーは必死にプレーし、MVPを受賞するほどの活躍をする。しかし、ジャイアンツはこの年ワールドシリーズには進むもののアナハイム・エンゼルスに敗れ、ワールドチャンピオンとはならなかった。
2003年、バリーは試合以外の時間はボビーの看病をするという生活を続けた。この年もバリーは必死でプレーし、6月23日には史上初の「500本塁打500盗塁」を達成した。8月20日にはボビーがジャイアンツの試合を観戦しに来て、この日もバリーは本塁打を打っている。しかし3日後の8月23日、ボビーは永眠。バリーはその後1週間バットも握れないほど落ち込んだという。だが、ボビーの死から1週間後の復帰戦ではランディ・ジョンソンから本塁打を打っている。この年、MVPを獲得したバリーは「このMVPを父に捧げる。父には本当に感謝している」と涙ながらに語った。
2007年8月7日、756号本塁打を放ち、その後10分間の新記録を祝うセレモニーで、バリーはマイクを握り挨拶を行った。自身の家族や観客やチームメイトに感謝の言葉を告げ、最後には「My Dad... Thank you for everything!英語 (父さん... ありがとう、すべてに感謝している)」と締めくくった。
4.3. 日本人選手およびメディアとの交流
日米野球で4度来日した他、長い選手生活においては日本や日本人選手と様々な形で関わりを持った。母国では常に薬物疑惑を取り沙汰されるが、取材する側が日本人であれば気さくに応じるなど、米国人記者とはあからさまに違う態度で接している。日本人選手やメディアには極めて好意的であり、各選手を高く評価している。
2002年のシーズンのみであったが、ジャイアンツの元チームメイトである新庄剛志は、孤立しがちなボンズと会話する唯一の人物であった。新庄は守備練習の時にグラブを手渡しするなどして、積極的にコミュニケーションをとっていたという。また新庄曰く、「ボンズより左側に飛んできた打球は全て俺が取る」と言ってボンズの守備での負担、疲労を軽減させ打撃に集中させたという。ボンズも打撃練習中に自分が使うマスコットバットを新庄に貸したこともある。翌2003年に新庄がニューヨーク・メッツに復帰した際や引退後にも、好意的なコメントを残している。
2007年のオールスターでは、同地区のライバル球団ロサンゼルス・ドジャースのクローザーでもある斎藤隆とロッカーが隣で、斎藤にバットを一本プレゼントした。斎藤は「バリーは今色々言われていて最初は身構えてしまったけれど、僕が話したバリーはとても気さくな人だった。バットのスイートスポットをあともうちょっと広くしたいとか色々話してくれた」と述懐した。また、岡島秀樹とのツーショットも撮られている。
松井秀喜とは、松井がフリーエージェントの行使に迷っていた2002年の日米野球で来日した際、「メジャーでも成功するさ。日本と同じジャイアンツに来てほしい」などとエールを送った。また松井とは同年の日米野球の試合前に1974年「王vs.アーロン」以来の「日米本塁打競争」が行なわれたが、緊張で本塁打が打てずにいた彼に「肩の力を抜け」とジェスチャーしたり、肩を揉み緊張をほぐすなど気さくに接している。ヒューストン・アストロズの松井稼頭央には2006年のオフの自主トレの際には自身から声を掛けて色々打撃に関してアドバイスを送っている。
イチローに対しても高い評価をしており、「ローズの安打記録を抜くことに関しては賛否両論があるだろうが、自分はローズ以上の実力者と認めている」と絶賛していた。
王貞治はロサンゼルス・タイムズのインタビューで「筋肉増強剤の使用は悪いことだ」と前置きした上で「しかし、以前は禁止されていなかったのだし、第一、ステロイドを使用したからといってだれもがホームランを打てるようになるわけではない」と、ボンズの打撃技術を高く評価している。
大谷翔平についても「大谷選手は他に類を見ない存在と言えるだろう。投手としても打者としてもエリート級。彼のような選手はこれからも現れないのではないだろうか」と賞賛し、「もし私が監督なら、うまくいっていることを直そうとはしない。大谷選手がハッピーであることが一番大事だからだ。力を最大限に引き出してあげたいし、今の二刀流を継続させるだろう」と二刀流にも好意的な意見を述べている。
4.4. 「スプラッシュ・ヒット」と使用用具
ボンズの象徴とも言えるAT&Tパークのライト場外の海(サンフランシスコ湾、ジャイアンツの名選手ウィリー・マッコビーにちなんでMcCovey Cove英語とも呼ばれる)へ直接打ち込まれる本塁打は"Splash Hit"(スプラッシュヒット)と呼ばれる。このスプラッシュヒットをボンズは歴代最多の35本を記録した(歴代2位タイのパブロ・サンドバル、ブランドン・ベルトでさえ通算7本に留まる)。ボンズの打ち込む本塁打ボールを目当てにカヌーで待ち構えるファンも多く(特にシーズン本塁打記録など歴史に残る本塁打が迫ってくるとまた増える)、また時にはウエットスーツにサーフボードといういでたちで待ちかまえるファンもいる。
ボンズが今まで数多く記録しているため、一見簡単そうに見えるが全くそうではない。実際スプラッシュヒットからボンズが記録した分を除くと、ビジターの選手が打った分を含めても、1年あたり約3本しか出ていない。飛距離そのものとしては113 mほどで可能だが、ライトのフェンスは7.6 mと高く、常に強い海風も吹いているため、MLBで最も左打者に不利な球場とも言われている。
使用用具に関しては、2007年よりSSK社製のバットを使用。それまではサムバットを使用していた。スプリングトレーニングでの試打でSSKのバットを気に入ったボンズは、担当者に自分の使っているバットを手渡し「これと同じように作ってほしい」とその場で3ダースを注文したという。このバットは富山県のSSKバット協力工場で生産され、50年以上のバット作りの経験を持つ社長でもある本居和義らのバット職人によって行われる。ちなみに長さ86.6 cm、重量平均915 g、材質はメイプルである。
大抵のメジャーリーガーは使用するバットにはそれほど神経質にならないといわれているが、ボンズは乾燥度を気にかけ、常に打球音で弾き具合を確認するほどこだわりを持っている。また、2007年からバットの乾燥度を保つジュラルミンケースも使っている。
また、バットのグリップ部分にテーピングをクロスしてグルグル巻きにしているのが好きらしく、しばしば試合中などにバットに巻いてあるのを確認できる。
バッティンググラブはFranklin英語社製、ホームでは手の甲がオレンジ、ビジターでは甲がグレーのものを使用。グラブはWillson英語社製の黒、ネット部分はグレーのものである。打席では肘あてを付けている。足には何も付けていない。
スパイク及びリストバンドはFILA社製を使用。
5. 現役引退後
選手生活を終えた後のバリー・ボンズは、野球界に継続的に関与し、様々な役職を歴任した。
5.1. 野球界での関与とコーチング
2007年9月21日、サンフランシスコ・ジャイアンツはボンズとの2008年シーズンの再契約を行わないことを確認した。この情報は、ボンズ自身のウェブサイトで同日早くに発表された。ボンズは2007年10月29日に正式にフリーエージェントを宣言し、彼の代理人ジェフ・ボーリスは「すべてのメジャーリーグチームから広範な関心があると予想している」と述べた。
2008年シーズン、そして2009年シーズンも、ボンズがどこでプレーするのかという憶測が飛び交ったが、結局彼と契約する球団は現れなかった。もし彼がメジャーリーグに復帰していれば、3000安打まであと65安打、2000打点まであと4打点、800本塁打まであと38本塁打と、いくつかの重要な打撃マイルストーンに迫っていたことになる。また、リッキー・ヘンダーソンを抜いて歴代最多得点まであと69得点、ハンク・アーロンを抜いて歴代最多長打まであと37長打であった。
2009年11月13日時点でも、ボーリスはボンズが現役を引退していないと主張していた。しかし12月9日、ボーリスはサンフランシスコ・クロニクル紙に対し、ボンズがメジャーリーグでの最後の試合を終えたことを認めた。ボンズは2010年4月11日、マーク・マグワイアがステロイド使用を認めたことについて誇りに思うと語った。ボンズは、まだ引退する時期ではないと述べたが、興味を持つ球団から連絡があってもすぐにはプレーできる体調ではないと指摘した。2015年5月、ボンズは選手会を通じてメジャーリーグベースボールに対し、2007年シーズン後にリーグが彼と契約しなかったのは共謀行為であると主張し、提訴した。しかし2015年8月、仲裁人はMLBの主張を認め、ボンズの共謀訴訟は却下された。
2014年3月10日、ボンズはジャイアンツのスプリングトレーニングで臨時コーチとして7日間の任務を開始した。2015年12月4日、彼はマイアミ・マーリンズの新しい打撃コーチに就任することが発表されたが、わずか1シーズン後の2016年10月3日にその職を解任された。彼はその後、オーナーのジェフリー・ロリアと、この機会が「自身の野球キャリアの中で最も報われる経験の一つだった」ことを感謝する公開書簡を発表した。2017年には、ジャイアンツの組織にCEOの特別顧問として正式に再加入した。2017年7月8日、ボンズはジャイアンツ・ウォール・オブ・フェイムに名を連ねた。
2018年2月6日、ジャイアンツはボンズの背番号25番を永久欠番とすることを発表し、同年8月11日にそのセレモニーが行われた。彼のパイレーツ時代の背番号24番は、1999年から2003年までブライアン・ジャイルズ、2011年から2015年までペドロ・アルバレスが着用するなど、現在も使用されている。
5.2. アメリカ野球殿堂入りに関する議論
アメリカ野球殿堂の資格を得てから10年間、ボンズは全米野球記者協会(BBWAA)からの選出に必要な75%の票を獲得できなかった。彼の投票率は2013年の36.2%から始まり、2022年には66%に達したものの、殿堂入りには及ばなかった。
投票用紙から外れた後も、ボンズは野球殿堂の「今日のゲーム委員会」(1986年から2016年までに野球に顕著な貢献をした引退選手を考慮する、野球殿堂の16人のメンバー、幹部、ベテランメディアメンバーで構成される委員会)を通じて資格を保持していた。2022年12月に行われたこの投票では、殿堂入りには16票中12票が必要であったが、ボンズは4票未満しか獲得できなかった。
薬物使用疑惑がその資格に影を落とす中で、彼の野球殿堂入りを巡る継続的な議論と投票結果について、様々な意見が存在する。
殿堂入りを認める主張としては、「ドーピングを始める前から、長期にわたって素晴らしい成績を残していた」「当時はステロイドが禁止されておらず、ドーピングが蔓延しており、誰が白で誰が黒かを明確に特定することは不可能」「既に殿堂入りした選手や、殿堂入り候補の選手の中にも、発覚していないだけで薬物を使用していた選手は確実に存在する」「純粋に数字だけで判断すべき」「野球殿堂は負の歴史も受け入れるべき」などがある。
一方で、殿堂入り反対派は「どのような事情があろうとも、薬物使用が判明した選手の殿堂入りは認めるべきでない」という主張を展開している。また、全米野球記者協会が設けた殿堂入りの選考基準「記録、能力、誠実さ、スポーツマンシップ、人格、チームへの貢献」のうち、「誠実さ」、「スポーツマンシップ」、「人格」の3つを満たしていないと指摘される。
6. 論争
バリー・ボンズのキャリア全体を通じて彼を取り巻いた主要な論争は、彼の功績と同様に広く知られている。
6.1. BALCOスキャンダルとドーピング疑惑

2000年代以降に体格が突然巨大化したこと、30歳代後半の年齢でパフォーマンスが一気に向上したこと(年間45本塁打以上した過去6シーズンのうち、5回は36歳以降で記録しており、本塁打率(打数÷本塁打数)も1998年まで16.2であったのが1999年から2007年までは9.2と急上昇している)などから、筋肉増強剤のアナボリックステロイドやヒト成長ホルモン(HGH)等の運動能力向上薬物を使用しているとの噂が絶えなかった。
シーズン73本塁打の新記録を作った2001年の時点では、薬物の問題は表面化していなかったが、ボンズの体格が劇的に変化したことは当時からマスコミでも度々取り上げられていた。プロ入り当時は体重84 kgで、1998年までは86 kgと、体格に大きな変化はなかった。それがドーピングを始めたと噂される1999年から毎年増加し、93 kg、95 kg、103 kgと増えつづけ、そして2007年のMLB公式サイトの掲載においては109 kgにまでなっている。
ボンズは1998年シーズン終了後から薬物使用を始めたとされるが、それ以前の経歴も徹底的に洗い出されており、言い換えると1998年シーズンまではほぼ間違いなく潔白であるとされる。ボンズが薬物に手を出すきっかけとなったのは、1998年のマーク・マグワイアとサミー・ソーサの本塁打量産対決であるというのが通説である。1998年、従来の記録であったロジャー・マリスのシーズン61本塁打を大きく超えるハイレベルな二人の争いに全米中が熱狂した。その一方でこの年に打率.303、本塁打37、打点122、盗塁28、OPS1.047という成績を残し、史上初の「400本塁打-400盗塁」を達成していたボンズはこの二人の影に完全に隠れてしまった。人一倍プライドの高いボンズは、「このままでは一番でいられない、ホームランを打たないと誰からも注目してもらえない」と今までのスピードを捨てて本塁打を打つためのパワーを手に入れようとした、というのである。1998年のオフ、友人のケン・グリフィー・ジュニアと食事をした際に、ボンズはそのように語り、ステロイドの使用を開始したことを示唆したとグリフィーが証言している。
こうして、このあと数々の記録を打ち立てることになる凄まじい打棒と引き換えに「疑惑」はどんどん強くなっていくのである。

最初にそれを公衆の面前に晒したのは1999年の春季キャンプでのことで、前年のシーズン終了時とは見るからに違う体格をしていたボンズに対して地元記者が質問すると、「いつもと同じことをしただけだが、やり始めたのが少し早かった」とだけ答えている。投与に関わったとされるのは米国の栄養補助食品会社バルコ(Bay Area Laboratory Co-operative英語)で、ボンズは1998年半ばから幼馴染のグレッグ・アンダーソンをウエイトトレーニング・コーチとして雇い入れていた。当時すでにアンダーソンは後に告発されるバルコ社の創設者ビクター・コンテと深いつながりを持っており、陸上競技などでは禁止されていた化学薬品をボンズに与えていたという。
2003年以降、ボンズはBALCOスキャンダルの中心人物として注目された。BALCO社は、ドーピング検査で検出されにくいパフォーマンス向上型のアナボリックステロイドであるテトラヒドロゲストリノン(the Clear英語)を販売していた。ボンズは、BALCO事件に関する彼の証言について連邦大陪審の調査を受けており、2007年11月15日には偽証罪と司法妨害罪で起訴された。起訴状は、ボンズがステロイド使用疑惑について宣誓の下で嘘をついたと主張している。
2003年、BALCO社のグレッグ・アンダーソン(ボンズの2000年以来のトレーナー)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州北部地区連邦地方裁判所の連邦大陪審によって起訴され、数多くの野球選手を含むアスリートにアナボリックステロイドを供給した罪に問われた。これにより、メジャーリーグベースボールに義務的な検査がなかった時期に、ボンズがパフォーマンス向上薬物を使用したのではないかという憶測が生まれた。ボンズは自身の無実を主張し、体格の変化とパワーの増加は、厳格なボディビルディング、食事、合法的なサプリメントによるものだと説明した。
2003年12月4日の大陪審での証言で、ボンズは、パーソナルストレングストレーナーのグレッグ・アンダーソンから受け取った透明な液体とクリームを使用したと述べた。アンダーソンは、それらが栄養補助食品の亜麻仁油と関節炎のための擦り込み軟膏であると彼に告げていた。ボンズの漏洩した大陪審証言に関する後の報告では、彼が「the cream英語」と「the clear英語」を「知らずに使った」ことを認めたとされている。
2005年7月、アンダーソンを含むBALCOステロイドスキャンダル裁判の被告4人全員が、連邦検察官との間で、禁止薬物を使用した可能性のあるアスリートの名前を明かす必要のない取引を成立させた。
2006年3月23日には、サンフランシスコ・クロニクル紙の記者2人によるボンズの薬物使用に関する暴露本『ゲーム・オブ・シャドウズ』が出版された。同著では、ボンズは1999年から少なくとも5年以上にわたり、クリア(THG)、クリーム(クリアとセットで使用)、HGH、ウィンストロール、デカ・デュラボリン、インスリン、デカン酸テストステロン、トレンボロン、クロミッド、ノルボレトンと様々な薬物を使い続けたと述べられている。2007年1月11日、ボンズが2006年度の検査で禁止薬物のアンフェタミン(グリーニー)に陽性反応を示していたことが報道された。尚、ボンズ本人はかつて「1999年までステロイド(という存在)など知らなかった」とまで話していた。
2003年にBALCO社の禁止薬物の販売に関する大陪審で、ボンズが禁止薬物を故意に使用したことはないという証言について、アメリカ連邦大陪審は2007年11月15日に偽証罪で起訴した。ボンズと同様にBALCO社からドーピング投与を受けた疑惑をもたれていた女子陸上競技選手マリオン・ジョーンズもドーピングしていたことを既に認めており、金メダルを返還して引退している。なお偽証罪の直接の訴因は「薬物を使用したこと」ではなく、「薬物を使用したにもかかわらず嘘の証言をした」」ことである。同年12月13日に発表されたミッチェル報告書に実名で取り上げられた。ボンズは報告書作成時の調査に関連した聴取を拒否したことに加え、禁止薬物の使用の疑いについて書かれた質問に対する応答を拒否したとされている。
6.2. 司法手続き
2007年11月15日、連邦大陪審はBALCO事件に関する政府の調査に関連して、ボンズを4件の偽証罪と1件の司法妨害罪で起訴した。彼はアメリカ合衆国カリフォルニア州北部地区連邦地方裁判所で裁判を受けた。2008年2月14日、連邦検察官が提出した裁判書類に誤植があり、ボンズが2001年11月にステロイドに陽性反応を示したと誤って記載された。これは、すでに開示され、以前に報じられていた2000年11月の検査を指すものであった。この誤植は一時的なメディアの騒動を引き起こした。彼の司法妨害罪の裁判は2009年3月2日に開始される予定だったが、検察側の緊急上訴により陪審員の選定が延期された。裁判は2011年3月21日にスーザン・イルストン判事のもとで開始された。
2011年4月13日、ボンズは宣誓の下での質問に対し回避的な回答をしたとして、司法妨害罪で有罪判決を受けた。しかし、他の3件の偽証罪については陪審員の意見が一致せず、裁判は不成立となった。薬物使用が意図的なものだったかどうかは明らかにならなかった。元専属トレーナーのアンダーソンは黙秘を貫き、ボンズが「そうと知って使ったことはない」と証言したので、その容疑を立証しなければならなくなり、困難を極めた。裁判中に証言した1994年から2003年にかけて交際していた女性によると、1999年の肘の故障はステロイドの使用を開始したことによる急激な筋肉増強が肘に負担を与えたことが原因だと語ったという。
2011年12月15日、ボンズは2003年の大陪審での証言に端を発する司法妨害罪の有罪判決で、30日間の自宅謹慎、2年間の保護観察、250時間の社会奉仕活動の判決を受けた。しかし、イルストン判事は上訴中の判決執行を延期した。彼はさらに4000 USDの罰金も科された。2013年には、アメリカ合衆国第9巡回区控訴裁判所の3人の裁判官パネルが彼の有罪判決を支持したが、2015年には全裁判官による再審理が行われ、11人の裁判官パネルが10対1で彼の証言は司法妨害ではないと判断し、有罪判決を破棄した。これにより、2015年7月に無罪が確定した。
6.3. ライセンス契約と関連メディア

2003年、ボンズは個別のマーケティング契約の方がより儲かると考え、メジャーリーグ選手会(MLBPA)のライセンス契約から離脱した。ボンズはライセンスプログラムの30年の歴史で初めて契約しなかった選手である。この離脱により、彼の名前と肖像はMLBPAがライセンスするいかなる商品にも使用できなくなった。彼の名前や肖像を使用するためには、企業はボンズと直接交渉する必要がある。このため、彼は一部の野球ビデオゲームに登場せず、ゲーム制作者は代替として架空の選手を作成することを余儀なくされた。これらの架空のビデオゲームの代替選手は、ボンズから肖像権侵害訴訟を起こされる可能性を避けるためか、しばしば白人で、利き腕も異なっていた。
2006年3月、ランス・ウィリアムズとマーク・ファイナル=ワダによって書かれた『ゲーム・オブ・シャドウズ』が出版され、メディアの注目を浴びた。この本は当初、Sports Illustrated英語誌の表紙を飾るなど、小さな抜粋が著者によって公開された。この本は、ボンズがスタノゾロールやその他の多くのステロイドを使用したと主張しており、おそらくボンズのステロイド使用に関する世論の変化に最も大きな影響を与えたものである。
この本には、法律によって密封され機密扱いとされるべき大陪審の証言の抜粋が含まれていた。著者は情報源を明かすことを頑なに拒否し、一時は刑務所行きになる可能性もあった。2007年2月14日、ビクター・コンテの弁護士の一人であるトロイ・エラーマンが、大陪審の証言を漏洩した罪を認めた。この司法取引により、彼は2年半の刑務所での服役が確定した。
2006年5月、元Sports Illustrated英語の記者ジェフ・パールマンが、ボンズの暴露的な伝記『Love Me, Hate Me: Barry Bonds and the Making of an Anti-Hero英語』を出版した。この本にもボンズに対する多くの疑惑が書かれている。この本は、ボンズを偏屈で我慢ならない自慢屋、そして伝説的なエゴと驚異的な才能を持つ人物として描写しており、ボンズ本人へのインタビューは一切行われず、500人以上のインタビューに基づいて書かれている。
2006年4月から5月にかけて、ESPNはボンズ主演の10部構成のリアリティテレビシリーズ(台本なしのドキュメンタリースタイル)を数エピソード放送した。この『Bonds on Bonds英語』と題された番組は、ボンズがベーブ・ルースとハンク・アーロンの本塁打記録を追いかける様子に焦点を当てていた。一部の批評家は、野球界がボンズのステロイド使用疑惑を調査するまで、番組は中断されるべきだと主張した。このシリーズは2006年6月に中止された。ESPNとプロデューサーのTollin/Robbins Productions英語は、ボンズとその代理人との「クリエイティブコントロール」の問題を理由に挙げた。
7. 私生活
バリー・ボンズの家族関係や公に知られている個人的な関心事についても、その人生の一部として語られる。
7.1. 結婚と家族
ボンズは1987年8月にモントリオールで、最初の2人の子供(ニコライとShikari英語)の母となるSusann ("Sun") Margreth Branco英語と出会った。彼らは1988年2月5日にラスベガスで駆け落ち婚をした。夫妻は1994年6月に別居し、同年12月に離婚、1997年にはカトリック教会によって婚姻が無効とされた。離婚はメディアの注目を集めるものとなった。ボンズはスウェーデン人配偶者に「現在の収入と将来の収入の分配権を放棄する」という婚前契約に署名させており、これは後に法廷で認められた。ボンズは当時、元妻に養育費として月々2.00 万 USD、配偶者扶養費として月々1.00 万 USDを支払っていた。恒久的な扶養費の決定に関する審問中、双方から虐待の申し立てがあった。裁判は何ヶ月も長引き、最終的にボンズは両方の家屋を獲得し、扶養費も減額された。2000年8月21日、カリフォルニア州最高裁判所は、首席判事ロナルド・M・ジョージの署名による意見書で、「本件における(婚前)契約が自発的に締結されたという裁判所の決定を支持する十分な証拠がある」と全会一致で判示した。この判決を受け、カリフォルニア州の婚前契約の有効性と執行可能性に関する法には、すぐに大きな変更が加えられた。
2010年、ボンズの息子ニコライ(父がサンフランシスコでプレーしていた間、ジャイアンツのバットボーイを務め、常に父の隣のダッグアウトに座っていた)が、母のサン・ボンズとの衝突の結果、5件の軽犯罪で起訴された。サン・ボンズはニコライに対する接近禁止命令を得ていた。
1994年、ボンズはグラフィックデザイナーのキンバリー・ベルと関係を始めた。この関係は1994年から2003年5月まで続いた。ボンズはキンバリーのためにスコッツデールに家を購入した。
1998年1月10日、ボンズは2番目の妻リズ・ワトソンとサンフランシスコのリッツ・カールトンホテルで240人の招待客を前に結婚した。夫妻は娘のアイシャと共にロスアルトスヒルズに住んでいたが、10年半の結婚生活の後、ワトソンは2009年6月9日に「和解しがたい不和」を理由に法的な別居を申請した。しかし、わずか6週間後の2009年7月21日、ワトソンは別居申請を取り下げると発表した。夫妻は7ヶ月間和解していたが、ワトソンは2010年2月26日にロサンゼルスで正式に離婚を申請した。2011年6月6日、ボンズとワトソンは、離婚を裁判に持ち込まず、「争いのない形」で解決する法的な合意を交わし、さらなる裁判所の関与なしに、特定されない将来の時点で私的に結婚を終了させることに同意した。
ボンズの家族や遠縁の親族の何人かは、キャリアとして、あるいは注目すべき趣味としてスポーツに関わっている。ボンズには弟のボビー・ボンズ・ジュニアがおり、彼もまたプロ野球選手であった。彼の父方の叔母であるロージー・ボンズは、かつて80メートルハードル競走のアメリカ記録保持者であり、1964年のオリンピック競技大会に出場した。さらに、彼は殿堂入り選手レジー・ジャクソンの遠い従兄弟にあたる。
ボンズの多くの不動産の中には、ビバリーヒルズの高級ゲーテッドコミュニティであるビバリーパークに所有する邸宅がある。
7.2. その他の関心事と活動
熱心なサイクリストであるボンズは、現役時代からサイクリングを主要な運動手段とし、大きな情熱を傾けている。膝、背中、股関節の手術により走ることがはるかに困難になったため、サイクリングは彼が十分な有酸素運動を維持し、体型を保つのに役立っている。サイクリングの結果、彼は引退時の体重109 kgから11 kg減量している。
ボンズはブラジリアン柔術の積極的な実践者でもあり、2023年にはこの武術で青帯に昇段した。
8. 功績と影響
バリー・ボンズが野球界に与えた全体的な影響は計り知れないが、そのキャリアの評価は薬物疑惑によって複雑なものとなっている。
8.1. キャリアにおける統計記録と栄誉
引退時、ボンズはメジャーリーグのキャリア記録において、本塁打(762)、四球(2558)、故意四球(688)でトップに立っていた。また、アクティブな選手の中では、打点(1996)、出塁率(.444)、得点(2227)、試合(2986)、長打(1440)、本塁打当たりの打席数(12.92)、塁打数(5976)でトップであった。彼は二塁打(601)で2位、長打率(.607)で2位、盗塁(514)で2位、打席(9847)で2位、安打(2935)で2位、三塁打(77)で6位、犠飛(91)で8位、三振(1539)で9位にランクインしていた。
ボンズは唯一の500本塁打500盗塁クラブのメンバーであり、これは彼が少なくとも500本塁打(762)と500盗塁(514)を記録したことを意味する。他のどの選手も両方で400に達していない。彼はまた、野球史上6人しかいない「40-40クラブ」(1996年)のメンバーの一人であり、これは同一シーズンに40本塁打(42)と40盗塁(40)を記録したことを意味する。他のメンバーは、ホセ・カンセコ、アレックス・ロドリゲス、アルフォンソ・ソリアーノ、ロナルド・アクーニャ・ジュニア、そして大谷翔平である。
項目 | 記録 | 達成年 |
---|---|---|
単一シーズン本塁打数 | 73 | 2001 |
通算本塁打数 | 762 | |
40歳以降の本塁打数 | 74 | |
43歳での本塁打数 | 28 | |
30本塁打以上の連続シーズン | 13 | 1992-2004 |
単一シーズン長打率 | .863 | 2001 |
ワールドシリーズ長打率 | 1.294 | 2002 |
.600以上の長打率の連続シーズン | 8 | 1998-2005 |
単一シーズン出塁率 | .609 | 2004 |
通算四球数 | 2558 | |
単一シーズン四球数 | 232 | 2004 |
連続試合四球 | 18 | |
通算故意四球数 | 688 | |
単一シーズン故意四球数 | 120 | 2004 |
連続試合故意四球 | 6 | |
MVP受賞 | 7回 | |
連続MVP受賞 | 4回 | 2001-2004 |
ナショナルリーグ月間MVP選出 | 13回 | |
初めてナショナルリーグ首位打者獲得時の最年長記録 | 38歳 (.370) | 2002 |
左翼手としての刺殺数 | 5226 | |
1本塁打1盗塁以上の試合数 | 102 |
項目 | 記録 | 備考 |
---|---|---|
連続打席四球 | 7 | |
連続打席出塁(ナショナルリーグ近代) | 15 | |
30本塁打30盗塁のシーズン | 5 | 父ボビー・ボンズと並び最多。親子での30-30クラブメンバーは唯一。 |
カテゴリー | 回数 | シーズン |
---|---|---|
Adjusted OPS+リーダー | 9 | 1990-1993, 2000-2004 |
四球リーダー | 12 | 1992, 1994-1997, 2000-2004, 2006, 2007 |
首位打者 | 2 | 2002, 2004 |
長打リーダー | 3 | 1992, 1993, 2001 |
試合出場リーダー | 1 | 1995 |
本塁打リーダー | 2 | 1993, 2001 |
故意四球リーダー | 12 | 1992-1998, 2002-2004, 2006, 2007 |
出塁率リーダー | 10 | 1991-1993, 1995, 2001-2004, 2006, 2007 |
OPSリーダー | 9 | 1990-1993, 1995, 2001-2004 |
打点リーダー | 1 | 1993 |
得点リーダー | 1 | 1992 |
長打率リーダー | 7 | 1990, 1992, 1993, 2001-2004 |
塁打数リーダー | 1 | 1993 |
賞 | 回数 | 日付 |
---|---|---|
ベーブ・ルース・ホームラン賞 | 1 | 2001 |
Baseball America All-Star英語 | 7 | 1993, 1998, 2000-2004 |
Baseball America Major League Player of the Year英語 | 3 | 2001, 2003, 2004 |
MLBオールスター | 14 | 1990, 1992-1998, 2000-2004, 2007 |
Major League Player of the Year英語 | 3 | 1990, 2001, 2004 |
ゴールドグラブ賞 (外野手) | 8 | 1990-1994, 1996-1998 |
シルバースラッガー賞 (外野手) | 12 | 1990-1994, 1996-1997, 2000-2004 |
- 5度のサンフランシスコ・ジャイアンツ年間最優秀選手 (1998, 2001-2004)
- 3度のハンク・アーロン賞 (2001-02, 2004)
- 2005年にはThe Sporting News英語誌の「最も偉大な野球選手100人」リストで6位にランクインし、現役選手の中では最高位。
- 1999年のメジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チームの最終候補に選ばれたが、ファン投票では選出されず。
- ビル・ジェームズの殿堂モニター評価で340点(100点が殿堂入り候補の目安)。全打者中10位、まだ殿堂入りしていない打者の中では2番目に高い。
- 2001年に記録した記録的な.863と2004年の.812で、シーズン長打率.800以上を2度記録した史上2人目の選手となった。もう一人はベーブ・ルースで、1920年に.847、1921年に.846を記録している。
- 2004年には、公式打席数(373)よりも出塁数(376)が多いという史上初の選手となった。これは、四球数(打席にはカウントされるが出塁扱いとなるため打数にはならない)が記録的な数であったためである。彼は135安打、232四球、9死球で376という数字を記録した。
- 通算打席数12606で歴代10位。このカテゴリーのトップ10において3000安打を達成していない唯一の選手であり、12000打席以上で3000安打を達成していないのは彼とオマー・ビスケルの2人だけである。
- 父ボビー・ボンズ(332本塁打、461盗塁)との合計本塁打数(1094)と盗塁数(975)で、2007年9月26日時点で親子合計記録のトップを誇る。
- マイナーリーグ時代にアラスカ・ゴールドパナーズ(アラスカ)とハワイ・アイランダーズ(ハワイ)の両方でプレーした経験がある。
- Sports Illustrated英語誌の表紙に8回(ジャイアンツ時代に7回、パイレーツ時代に1回)メイン被写体として登場。また、表紙のインセットに2回登場している。彼はジェイソン・グリリーが2013年7月22日に表紙を飾るまで、パイレーツの選手として最後に表紙に登場した人物であった。
- ナショナルリーグ週間MVP 13回
- プレイヤーズ・チョイス・アワーズ
- Player of the Year 2回:2001年、2004年
- NL Outstanding Player 4回:1993年、2001年 - 2002年、2004年
- NL Comeback Player 1回:1992年
- The Sporting News
- Major League Players of the Year 3回:1990年、2001年、2004年
- NL Players of the Year 2回:1990年 - 1991年
- NL All-Star Teams12回:1990年 - 1994年、1996年 - 1997年、2000年 - 2004年
- Player of the Decade:1990年代
- All-Decade Team:2000年代
- Baseball America
- MLB Player of the Year 3回:2001年、2003年 - 2004年
- First-Team Major League All-Star OF 7回:1993年 - 1994年、2000年 - 2004年
- Baseball Digest
- Player of the Year 3回:1993年、2001年 - 2002年
- スポーツ・イラストレイテッド
- All-Decade Team:2000年代
- ESPN
- All-Decade Team:2000年代
- Yahoo! Sports
- All-Decade team:2000年代
- AP通信
- Athlete of the Year 1回:2001年
- Player of the Year 2回:1992年 - 1993年
- All-Star Award 5回:1990年 - 1993年、2000年
- DHLホームタウン・ヒーローズ ノミネート:2006年
- 異なる投手からホームラン 449人
- シーズンOPS 1.422:2004年
- 4年連続で出塁率5割以上:2001年 - 2004年
- 4年連続で長打率7割以上:2001年 - 2004年
- シーズン30本塁打以上 13年連続:1992年 - 2004年
- 通算四球数 2558
- 通算敬遠数 688
- 連続四球:7
- 連続出塁:15
- 同一ポストシーズン本塁打数 8:2002年
- 背番号
- 7(1986年)
- 24(1987年 - 1992年)
- 25(1993年 - 2007年, 2016年) - サンフランシスコ・ジャイアンツ(1993年 - 2007年)では、永久欠番(2018年8月11日制定)になっている。
8.1.1. 年度別打撃成績
年
度所
属ナ
イ出
場タ
席タ
数得
点安
打2
ル
タ3
ル
タホーム
ランタ
点ド
ルド
失ボ
ル
ネ
ット三
振タ
率出
ル
率長
タ
率O
P
Sル
タ兵
殺
打몸
맞희
타희
플고
41986 PIT 22 113 484 413 72 92 26 3 16 48 36 7 65 102 .223 .330 .416 .746 172 4 2 2 2 2 1987 23 150 611 551 99 144 34 9 25 59 32 10 54 88 .261 .329 .492 .821 271 4 3 0 3 3 1988 24 144 614 538 97 152 30 5 24 58 17 11 72 82 .283 .368 .491 .859 264 3 2 0 2 14 1989 25 159 679 580 96 144 34 6 19 58 32 10 93 93 .248 .351 .426 .777 247 9 1 1 4 22 1990 26 151 621 519 104 156 32 3 33 114 52 13 93 83 .301 .406 .565 .971 293 8 3 0 6 15 1991 27 153 634 510 95 149 28 5 25 116 43 13 107 73 .292 .410 .514 .924 262 8 4 0 13 25 1992 28 140 612 473 109 147 36 5 34 103 39 8 127 69 .311 .456 .624 1.080 295 9 5 0 7 32 1993 SF 29 159 674 539 129 181 38 4 46 123 29 12 126 79 .336 .458 .677 1.136 365 11 2 0 7 43 1994 30 112 474 391 89 122 18 1 37 81 29 9 74 43 .312 .426 .647 1.073 253 3 6 0 3 18 1995 31 144 635 506 109 149 30 7 33 104 31 10 120 83 .294 .431 .577 1.008 292 12 5 0 4 22 1996 32 158 675 517 122 159 27 3 42 129 40 7 151 76 .308 .461 .615 1.076 318 11 1 0 6 30 1997 33 159 690 532 123 155 26 5 40 101 37 8 145 87 .291 .446 .585 1.031 311 13 8 0 5 34 1998 34 156 697 552 120 167 44 7 37 122 28 12 130 92 .303 .438 .609 1.047 336 15 8 1 6 29 1999 35 102 434 355 91 93 20 2 34 83 15 2 73 62 .262 .389 .617 1.006 219 6 3 0 3 9 2000 36 143 607 480 129 147 28 4 49 106 11 3 117 77 .306 .440 .688 1.128 330 6 3 0 7 22 2001 37 153 664 476 129 156 32 2 73 137 13 3 177 93 .328 .515 .863 1.378 411 5 9 0 2 35 2002 38 143 612 403 117 149 31 2 46 110 9 2 198 47 .370 .582 .799 1.381 322 4 9 0 2 68 2003 39 130 550 390 111 133 22 1 45 90 7 0 148 58 .341 .529 .749 1.278 292 7 10 0 2 61 2004 40 147 617 373 129 135 27 3 45 101 6 1 232 41 .362 .609 .812 1.422 303 5 9 0 3 120 2005 41 14 52 42 8 12 1 0 5 10 0 0 9 6 .286 .404 .667 1.071 28 0 0 0 1 3 2006 42 130 493 367 74 99 23 0 26 77 3 0 115 51 .270 .454 .545 .999 200 9 10 0 1 38 2007 43 126 477 340 75 94 14 0 28 66 5 0 132 54 .276 .480 .565 1.045 192 13 3 0 2 43 MLB:22年 2986 12606 9847 2227 2935 601 77 762 1996 514 141 2558 1539 .298 .444 .607 1.051 5976 165 106 4 91 688 - 各年度の太字はリーグ最高
- 2006年と2007年の出塁率は規定打席に届いていないが、不足分の打席全てが凡退と仮定してもリーグ1位になるため、MLB特別規定によりリーグ最高
8.2. 全体的な影響と歴史的評価
ボンズのキャリアは、その目覚ましい功績と同時に、野球界に大きな論争と複雑な影響をもたらした。特に、薬物使用疑惑は彼の歴史的評価を大きく揺るがすこととなった。
薬物疑惑が強まり、ルース、アーロンの通算本塁打数に迫るにつれて、ファンや米メディアの反応も厳しくなり、敵地の球場では、別扱いの参考記録を表す「*」マークやドーピング注射器が描かれたボードを掲げてボンズを野次る観客が多数出現するようになった。ボンズの守っているレフトに注射器が投げ込まれたこともある。「ベーブ・ルースはホットドッグとビールでやってのけた。ハンク・アーロンは上品にやってのけた。(暗に薬物を指して)お前はどうやってやったんだ?(Babe Ruth did it on hot dogs and beer. Hank Aaron did it with class. How did you do it?英語)」と揶揄されたりもした。
一方で、選手たちの反応はおおむね正反対である。2007年5月にUSA Today英語紙が493人の現役大リーガーと469人のファンを対象に行ったアンケート調査の「史上最も偉大なホームラン打者は誰か」という項目において、ファンの回答で最も多かったのがハンク・アーロンの36%、次いでベーブ・ルースの33%、ボンズは8%にしか過ぎなかった。だが現役選手の72%がボンズと回答している。
選手たちのコメントには、「彼は凄く簡単そうにボールを打っているけど、実際は難しいんだ。どうやったらあれだけ安定したスイングを出来るのか俺には分からない。ステロイドを使った選手は他にもいるけど、ボンズに匹敵する奴は誰もいない」「ステロイドを使っている他の選手のスイングに比べたら、ボンズがステロイドのおかげだけでホームランを打っているとは思えない。仮に彼がステロイドをやっていたと認めても、ホームランの価値が損なわれるとは思わない」といったデビッド・オルティーズの声や、「度重なる薬物検査の下、人間離れしたスウィングで僕らを驚かせるんだから、彼は本物だよ。素晴らしい動体視力とタイミングでボールを捉え続ける。単純に、彼は他の打者よりも優れているんだ」というバリー・ジトの声、「皆と同じようにステロイドの使用については疑っている。だが、それと彼の打者としての偉大さは別さ」「打てる球が1試合に2球くらいしかないのにそれを本塁打にする。自分が対戦した時も2球だけだったのに、そのうちの1球を柵越えにした」というトム・グラビンの声がある。
これらコメントに代表されるように、選手たちの間では「ステロイドを使ったからといって簡単にホームランを打てるわけではない」とボンズを擁護する意見も多い。ステロイドの使用を開始したとされる1999年より前の時点でボンズは既に殿堂入りに値する成績を残しており、元々ずば抜けた実力を持っていた選手であることにも留意すべきとの意見もある。
また、2007年シーズンにおいても当時メッツのギレルモ・モタが禁止薬物での50試合の出場停止処分を受けているように投手の禁止薬物使用も相当数に上っていることや、ボンズが薬物を摂取していた2000年前後はまだ筋肉増強剤はMLBの禁止薬物に指定されてはおらず、使用の是非とは別にボンズをはじめとしたMLBの選手たちは、その当時、筋肉増強剤を使用することにルール上は何も問題はなかったことも事実である。もっとも、筋肉増強目的でアナボリック・ステロイドを所持することは、1988年の連邦法の規制物質法の改定によって、アメリカ本国では既に違法化されていた。
薬物使用が確実視される中での記録達成とあって、周囲の反応が注目されたが、アーロンの記録を破った試合の視聴率はわずか1.1%と、NFLのプレシーズンゲームにも惨敗する有様で、大多数のファンは無関心、あるいは冷淡な視線で見ていた事実を裏付ける結果となった。ちなみに、ハンク・アーロンがベーブ・ルースの記録を破ったときにNBCが放送した試合の視聴率は、22.3%だった。
コミッショナーのバド・セリグも球界の最高権力者という立場上、明言はしていないがアーロン同様その場にいたくないとの気持ちは隠しようがないといった感じで対応に戸惑っていた。言葉では「記録更新の瞬間にできる限り立ち会うつもりでいる」「試合への尊敬、記録の大きさ、この国ではすべての市民が有罪とされるまでは潔白であることから、私は彼が記録を更新する可能性があるかを見るために次の試合に立ち会う。記録がタイになった時点で追加声明を発表する」との声明文を発表していたが、否定的なスタンスを取り続けていた。755号を放った試合もセリグは観戦していたが、他の観客と違い拍手もせずポケットに手を突っ込んだままの姿で、神妙な面持ちだった。756号を放った試合においては結局セリグはジョージ・J・ミッチェルと面会するという名目で球場には姿を見せず、代理を送っていた。
また、この疑惑が強くなる中、他の選手の記録の正当性にも疑惑が示され、実はシーズン本塁打記録はロジャー・マリスの61本のままではないかという議論も起きた。2005年にはノースダコタ州議会がメジャーリーグ機構にマリスの記録が正当であると主張する事態となった。