1. 生涯と経歴
バンデルレイ・コルデイロ・デ・リマは、ブラジルのパラナ州クルゼイロドオエステで、農業を営む両親のもとに生まれた。1973年には同州のタピラに移住し、幼少期は農場で家計を助ける小さな仕事をしながら過ごした。彼の幼い頃の夢はプロのサッカー選手になることだった。
1.1. 生い立ちと初期の陸上競技
14歳の時、地元の体育教師の勧めで陸上競技を本格的に始め、すぐに州のイベントで初優勝を飾った。この才能を見出され、1992年には陸上競技コーチのリカルド・ダンジェロと出会い、彼の指導を受けることとなった。
1.2. クロスカントリーでの活躍
デ・リマは当初、クロスカントリー競走の選手としてキャリアをスタートさせた。ブラジル代表として、1989年と1992年の世界クロスカントリー選手権大会に出場した。国際大会での初出場は1989年3月にノルウェーのスタヴァンゲルで開催された世界クロスカントリー選手権で、彼は42分28秒の記録で71位だった。1993年3月にはスペインのアモレビエタエチャノで開催された同大会で115位となり、同年には南米クロスカントリー選手権で銅メダルを獲得した。さらに1995年には同大会で優勝を果たし、クロスカントリーランナーとしての才能を開花させた。1994年3月にはハンガリーのブダペストで開催された世界クロスカントリー選手権で63位となった。
2. 主な功績と大会参加
デ・リマはクロスカントリーでの実績を積み重ねた後、マラソン競技へと転向し、数々の主要大会で輝かしい成績を収めた。
2.1. マラソンでの活躍
デ・リマがマラソンに専念するようになったのは、ある偶然がきっかけだった。1994年、フランスのランスマラソンにペースメーカーとして参加したが、あまりの気持ちよさにそのまま走り続け、2時間11分6秒で優勝した。これが彼のマラソン選手としてのキャリアの始まりとなった。
2.1.1. 主要マラソン大会での成績
デ・リマは、世界各地の主要マラソン大会で優れた成績を残した。
- 1996年2月、東京国際マラソンで2時間08分38秒の記録で優勝。これは当時の南米記録であり、大会史上初の南米勢の覇者となった。
- 1998年2月、再び東京国際マラソンに出場し、2時間08分31秒で2位に入賞。自身の南米記録を更新した。
- 1998年11月、ニューヨークシティマラソンで5位。
- 1999年12月、日本の福岡国際マラソンで3位。
- 2000年4月、ロッテルダムマラソンで2時間08分34秒を記録し、3位。
- 2001年2月、別府大分毎日マラソンで2時間10分02秒で2位。
- 2002年7月、サンパウロ国際マラソンで2時間11分19秒の記録で優勝。
- 2004年4月、ドイツのハンブルクマラソンで2時間09分39秒で優勝。
2.1.2. 自己ベスト記録
デ・リマの自己ベスト記録は以下の通りである。
- マラソン:2時間08分31秒(1998年東京国際マラソン)
- ハーフマラソン:1時間3分36秒(1994年東京ハーフマラソン)
2.2. オリンピックでの挑戦
デ・リマは3度のオリンピックに出場し、ブラジル代表としてマラソン競技に挑んだ。
2.2.1. 1996年アトランタオリンピック
1996年、デ・リマは1996年アトランタオリンピックで初めてオリンピックのマラソン競技に参加した。2時間21分1秒の記録で47位に終わったが、彼はこの経験を「間違いなく素晴らしい経験だったが、レース中に靴の調子が悪くなった」と振り返っている。
2.2.2. 2000年シドニーオリンピック
2000年、2000年シドニーオリンピックで2度目のオリンピック出場を果たした。しかし、足の炎症など体調不良が重なり、レース中に3度立ち止まることを余儀なくされた。結果は2時間37分8秒のタイムで75位に終わった。
2.3. パンアメリカンゲームズでの成果
デ・リマはパンアメリカンゲームズのマラソン競技で2度の金メダルを獲得し、その実力を示した。
- 1999年、カナダのウィニペグで開催されたパンアメリカンゲームズで、2時間17分20秒を記録し金メダルを獲得。これが彼にとって主要な国際大会での初のタイトルとなった。
- 2003年、サントドミンゴで開催されたパンアメリカンゲームズでは、高温多湿の厳しいレース環境の中、2時間19分8秒で2度目の優勝を果たした。このレースについて彼は「どうやって完走できたのか分からない。人生で最もタフなレースだった。あれほどまでに棄権を考えたことはなかった。完走できた人たちはみんなヒーローだと思う。最終ラップを走りきる力もなく、最後には数分間気を失っていたと言われた。あのレースは、父の思い出に捧げるものとして走った」と語っており、過酷な状況下での精神力の強さを示した。
3. 2004年アテネオリンピックでの事件
デ・リマのキャリアにおいて最も記憶される出来事は、2004年アテネオリンピック男子マラソン競技中に発生した襲撃事件である。
3.1. 襲撃とレースへの影響
2004年8月29日、アテネオリンピック男子マラソンに出場したデ・リマは、当時の世界記録保持者ポール・テルガト、エリック・ワイナイナ、李鳳柱、ステファノ・バルディーニといった強豪が集う中、レースの半分手前で集団から抜け出し、順調に差を広げていた。ゴールのパナシナイコスタジアムまで残り約7 kmの35 km地点で、他のランナーとの差は25秒から30秒、約150 mものリードを保っていた。
しかしその時、突如沿道から乱入したカトリック教会の元聖職者ニール・ホラン(Neil Horan英語)から抱きつかれ、コース外に押し出されるという走行妨害を受けた。ホランは前年のF1イギリスグランプリのレース中にもコース内に乱入し、逮捕された前歴があった。デ・リマはギリシャ人観客のポリビオス・コシヴァスに助けられ、すぐにレースに復帰したものの、このトラブルによって5秒から10秒のタイムロスが生じ、さらに集中力を奪われ、ペースを崩してしまった。この結果、イタリアのステファノ・バルディーニ、アメリカのメブ・ケフレジキに抜かれ、最終的に2時間12分11秒のタイムで3位でゴールし、銅メダルに終わった。
3.2. その後の展開とIOCの対応
レース後、デ・リマは記者会見でホランを非難するコメントは一切せず、「完走できて、オリンピックのメダルが獲得出来たことがなによりも嬉しく思っています」「この銅メダルは『まだ私が金メダルを取ってはいけない』という、神からの試練なんです」と語り、そのスポーツマンシップと前向きな姿勢は世界中で賞賛された。
事件後、ブラジル陸上競技連盟はデ・リマに金メダルを授与するよう国際オリンピック委員会にアピールしたが、これは却下された。しかし同日、IOCはデ・リマが示した並外れたフェアプレーとオリンピックの価値に対し、特別賞ピエール・ド・クーベルタン・メダルを授与することを発表した。このメダルは、同年12月7日にリオデジャネイロで、彼の名誉を称える公式式典で贈呈された。この式典には、デ・リマを助けたポリビオス・コシヴァスも招待され、参加した。レースを妨害したホランは直ちに逮捕された。
4. オリンピック後の活動と引退
アテネオリンピック後もデ・リマはマラソン競技を続けたが、すでに35歳を過ぎており、怪我も重なったことで途中棄権するレースが多くなった。
- 2005年の世界陸上競技選手権大会男子マラソンでは完走できなかった。
- 同年、サン・シルベストル・ロードレースに参加したが、14位に終わった。
- 2007年のパンアメリカンゲームズでは、37 km地点で筋肉系の問題により棄権した。
- 2007年、第1回東京マラソンに外国招待選手として出走し、2時間16分8秒で6位となった。
彼は2009年4月のパリマラソンを最後にプロのマラソン選手としてのキャリアを終え、引退した。2007年には、レナータ・アドリアン・ダンジェロによって彼の伝記『Vanderlei de Lima - A Maratona de uma Vidaポルトガル語(人生のマラソン)』が出版された。

2016年8月、自国ブラジルのリオデジャネイロで開催された2016年リオデジャネイロオリンピックの開会式において、オリンピック聖火台に点火する最終聖火ランナーを務めた。これは彼のスポーツマンシップと国民的英雄としての地位を象徴する出来事となった。
5. 受賞歴と栄誉
デ・リマは、その競技成績だけでなく、スポーツマンシップと人間性によって数々の栄誉に輝いている。
5.1. ピエール・ド・クーベルタン・メダル
2004年アテネオリンピックでの襲撃事件後、デ・リマが示した並外れたフェアプレーとオリンピックの価値を称え、国際オリンピック委員会(IOC)は彼に特別賞ピエール・ド・クーベルタン・メダルを授与した。このメダルは、オリンピック精神の具現化に貢献した人物に贈られる非常に特別な賞であり、2022年5月時点で南米人選手への授与は彼が唯一である。メダルは同年12月7日、リオデジャネイロでブラジルオリンピック委員会(COB)が主催する式典「Prêmio Brasil Olímpico」で正式に贈呈された。
5.2. ブラジル年間最優秀選手
2004年、デ・リマはブラジルオリンピック委員会によってブラジル年間最優秀選手に選出された。この年の選出は、オンラインでの一般投票によって決定された初めてのケースであり、彼の国民的な人気と事件後の共感の大きさを物語っている。
5.3. オリンピック聖火ランナー
2016年、2016年リオデジャネイロオリンピックの開会式で、デ・リマは最終聖火ランナーとして聖火台に点火する大役を担った。これは、彼のスポーツ界における象徴的な地位と、困難を乗り越えた彼の人生がオリンピック精神を体現していることへの最大の賛辞であった。
6. 評価と影響
バンデルレイ・コルデイロ・デ・リマは、その競技成績以上に、2004年アテネオリンピックでの出来事を通じて示された人間性によって、スポーツ界に大きな影響を与えた。
6.1. スポーツマンシップの象徴として
アテネでの事件後、デ・リマは自身の不運を嘆くことなく、むしろ神からの試練と受け止める姿勢を示した。この困難な状況下でもフェアプレーとスポーツマンシップを貫いた彼の態度は、世界中の人々に感動を与え、スポーツにおける真の価値とは何かを再認識させた。彼は、勝利だけでなく、いかに困難に立ち向かい、品位を保つかが重要であるという不朽の遺産を残し、スポーツマンシップの象徴として語り継がれている。
6.2. 日本との関わり
デ・リマは日本のマラソン大会にたびたび招待選手として出場し、好成績を収めてきた。特に、1996年と1998年の東京国際マラソンでの活躍は日本のマラソンファンに強い印象を与えた。また、TBSテレビのバラエティ番組『オールスター感謝祭』の人気コーナー「赤坂5丁目ミニマラソン」には、2005年の春と秋の2回、ゲストランナーとして出走し、日本のテレビ視聴者にもその存在を知らしめた。彼の日本との関わりは深く、日本のファンからも愛される選手の一人である。
7. 主なマラソン成績
年月 | 大会名 | タイム | 順位 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1996.02 | 東京国際マラソン | 2:08:38 | 優勝 | 当時の南米記録、大会初の南米勢覇者 |
1996.08 | アトランタオリンピック | 2:21:01 | 47位 | |
1997.08 | アテネ世界陸上競技選手権大会 | 2:21:48 | 23位 | |
1998.02 | 東京国際マラソン | 2:08:31 | 2位 | 自身の南米記録を更新 |
1998.11 | ニューヨークシティマラソン | 2:10:42 | 5位 | |
1999.07 | パンアメリカン競技大会 | 2:17:20 | 優勝 | |
1999.12 | 福岡国際マラソン | 2:08:40 | 3位 | |
2000.04 | ロッテルダムマラソン | 2:08:34 | 3位 | |
2000.08 | シドニーオリンピック | 2:37:08 | 75位 | |
2001.02 | 別府大分マラソン | 2:10:02 | 2位 | |
2002.07 | サンパウロ国際マラソン | 2:11:19 | 優勝 | |
2003.08 | パンアメリカン競技大会 | 2:19:08 | 優勝 | |
2004.04 | ハンブルクマラソン | 2:09:39 | 優勝 | |
2004.08 | アテネオリンピック | 2:10:25 | 3位 | 沿道から乱入した者に走行妨害を受けた |