1. 概要
ファブリツィオ・ポレッティ(Fabrizio Polettiファブリツィオ・ポレッティイタリア語、1943年7月13日生まれ)は、イタリアの元サッカー選手でありサッカー監督である。主にトリノでの9シーズンにわたるサイドバックとしての活躍で知られ、この期間に2度のコッパ・イタリア優勝に貢献した。また、イタリア代表チームの一員として1970 FIFAワールドカップ決勝進出を果たした。彼のキャリアは、守備における堅実さと、ペナルティキックのキッカーとしての攻撃的貢献、そして1963年の地中海競技大会での金メダル獲得や、論争を呼んだ1970年ワールドカップ準決勝への参加など、数々の重要な出来事に彩られている。ポレッティは、その選手としての多才さと、チームへの献身を通じて、当時のイタリアサッカー界において重要な足跡を残した人物である。
2. 生涯と初期の選手経歴
2.1. 出生と幼少期
ポレッティは1943年7月13日にイタリアのエミリア=ロマーニャ州フェラーラ県ボンデノで生まれた。彼の身長は1.74 mであった。彼は1957年から1961年まで、ユースクラブのボンデネーゼで過ごした。
2.2. 初期プロデビュー
1960-61シーズンにトリノのシニアチームに招集されたが、出場機会はなかった。プロキャリアの初期には、1961-62シーズンにセリエDのACアスティへ期限付き移籍し、プロデビューを果たした。アスティでは24試合に出場し2得点を記録し、その後、1962-63シーズンにトリノに復帰した。
3. クラブ経歴

3.1. トリノFC
ポレッティは1962年、18歳でトリノに加入し、1971年までの9シーズンを過ごした。彼のトリノでのデビュー戦は、1962年10月21日に行われたセリエAのジェノア戦で、この試合はアウェイで0-1で敗れた。
在籍中、彼はネレオ・ロッコ監督の指導の下、効率的な両利きサイドバックとして攻守両面で貢献し、チームメイトのナタリーノ・フォッサティと共に当時のセリエAで最も強力なサイドバック陣の一角を形成した。守備者でありながらも、彼はチームのペナルティキックの主要なキッカーを務め、キャリアを通じて多くのゴールに貢献した。
トリノでの9シーズンで、彼はクラブの公式戦275試合に出場し、23得点を記録した。内訳はセリエAで224試合18得点、コッパ・イタリアで37試合4得点、欧州カップ戦で14試合1得点である。親善試合10試合を含めると、合計285試合に出場した。彼はクラブの歴代出場試合数で14位にランクインしている。
トリノでは、1967-68シーズンと1970-71シーズンに2度のコッパ・イタリア優勝を経験した。
3.2. その後のクラブ経歴
トリノを退団後、ポレッティは1971年から1974年までカリアリでプレーし、64試合に出場し1得点を記録した。その後、1シーズンをサンプドリアで過ごし、1974-75シーズン終了をもって現役を引退した。サンプドリアでは5試合に出場した(親善試合1試合を含む)。
通算では、彼はセリエAで13シーズンを過ごし、294試合に出場して20得点を挙げた。キャリア全体の公式戦出場数は344試合で、24得点を記録している。
4. 代表経歴
4.1. 1963年地中海競技大会
ポレッティはイタリアB代表の一員として、1963年にナポリで開催された1963年地中海競技大会に出場し、金メダルを獲得した。彼はイタリアB代表として6試合に出場した。
4.2. 1970年FIFAワールドカップ
ポレッティは1965年から1970年の間にイタリア国家代表チームで6キャップを獲得し、1965年6月16日のスウェーデン戦で代表デビューを果たした。
彼は1970 FIFAワールドカップのイタリア代表チームの一員であり、チームは決勝に進出した。特に、西ドイツとの準決勝(「世紀の試合」として知られる)では、延長戦で負傷したロベルト・ロザートに代わって出場した。この試合での彼のパフォーマンスにもかかわらず、彼とイタリアのゴールキーパーアルベルトージは、両選手間の守備的誤解により、ゲルト・ミュラーのゴールを許した責任をしばしば問われた。イタリアはその後大会決勝に進出したが、ブラジルに1-4で敗れた。
5. 監督経歴
選手引退後、ポレッティは監督業に転身した。1978年1月には、スッツァーラの監督に就任し、セリエDでジャンフランコ・ボッツァオの後任を務めた。しかし、チームのプロモツィオーネリーグへの降格を阻止することはできなかった。
彼は1980年代にパートナーのマリッツァと共にコスタリカへ移住し、その後もコスタリカで指導者として活動している。
また、ファエンツァの監督も務めていた(1987年から1988年)。
6. 私生活
ポレッティには、マルコとエリカの2人の子供、ミレーナ、ファビオラ、マルティナの3人の孫、そしてサムエーレとゾエの2人の曾孫がいる。
1967年10月15日の夜、トリノで、彼はコルソ・レ・ウンベルト通りを横断中に自動車にはねられ、脚に軽傷を負った。その時、トリノのサンプドリア戦後に彼と一緒にいた親友でありチームメイトのジジ・メローニがこの事故で死亡した。
7. 栄誉
7.1. クラブでの栄誉
トリノ
- コッパ・イタリア: 1967-68, 1970-71
7.2. 代表での栄誉
イタリア
- 地中海競技大会: 1963年(金メダル)
- FIFAワールドカップ: 1970年(準優勝)
7.3. 個人栄誉
- 勇気の選手金メダル賞 (Medaglia d'oro al valore atletico)
8. 評価と論争
8.1. 貢献と功績
ファブリツィオ・ポレッティは、トリノでの長いキャリアを通じて、効率的な両利きサイドバックとして評価されている。彼は守備的な役割だけでなく、ペナルティキックの主要なキッカーを務めるなど、攻撃面でもチームに大きく貢献し、キャリアを通じて多くの重要なゴールを決めた。そのプレースタイルは攻守両面で貢献できるものであり、当時のセリエAで最も強力なディフェンダーの一人として認識されていた。
8.2. 特定の論争
ポレッティは、1970 FIFAワールドカップの西ドイツとの準決勝、通称「世紀の試合」における出来事で批判に直面した。延長戦で出場した後、彼はイタリアのゴールキーパーアルベルトージとの守備的誤解により、ゲルト・ミュラーに決勝ゴールを許したとされており、この失点の責任をしばしば問われることになった。
9. 外部リンク
- [https://www.fifa.com/worldfootball/statisticsandrecords/players/player=174870/index.html FIFA Profile]