1. 概要
フアド・ムズロビッチ(Fuad Muzurovićボスニア語、1945年11月3日 - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身の元サッカー選手であり、現在は引退したサッカー指導者である。選手としては主にDFとしてプレーし、監督としては母国ボスニア・ヘルツェゴビナのクラブや代表チーム、さらにトルコ、カタール、エジプト、日本といった多様な国のクラブを指揮した豊富な指導歴を持つ。
2. 選手経歴と初期の人生
フアド・ムズロビッチの初期の人生と、サッカー選手としてのキャリアについて詳述する。
2.1. 生い立ち
フアド・ムズロビッチは1945年11月3日に、現在のボスニア・ヘルツェゴビナに位置するビイェロ・ポリェで生まれた。
2.2. 選手経歴
選手時代のムズロビッチは、主にフルバックを務める質の高い選手として知られていた。彼は地元クラブであるFKイェディンストヴォ・ビイェロ・ポリェでプレーした後、FKサラエヴォに加入した。サラエヴォでは、1966-67シーズンにユーゴスラビア・プルヴァ・リーガで優勝を経験した。彼は1964年から1974年までFKサラエヴォに所属し、公式戦265試合に出場し1得点を記録している。
なお、国際的な選手としてのキャリアはなかったとされているが、一部の資料ではユーゴスラビア代表での経験も持つとされている。
3. 監督経歴
フアド・ムズロビッチは、選手引退後、世界各地のクラブや代表チームを指揮する広範な監督キャリアを築いた。
3.1. 初期監督経歴
ムズロビッチは1977年から1981年まで、選手時代にも所属したFKサラエヴォで最初の監督職を務めた。この期間中、彼は1980年にリーグで準優勝という成績を収めた。
その後、FCプリシュティナの監督を2度務めた。1度目は1983年から1984年までで、この期間にプリシュティナを1983-84シーズンのユーゴスラビア・プルヴァ・リーガでクラブ史上最高の8位に導いた。2度目は1985年から1986年まで指揮を執った。
次に、1987年にはトルコのクラブであるアダナ・デミルスポルの監督に就任し、1年間指揮を執った。FKサラエヴォでの2度目の監督職は、1990-91シーズンに始まり、1991年から1992年、さらに1993年から1996年にも指揮を執った。
3.2. ボスニア・ヘルツェゴビナ代表(第1期)
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後、ムズロビッチは新しく設立されたボスニア・ヘルツェゴビナ国家代表チームの初代監督に就任した。彼の指揮の下、ボスニア・ヘルツェゴビナ代表はサラエヴォでのデンマーク戦で3対0という歴史的な勝利を収めた。しかし、1998 FIFAワールドカップ予選では本大会出場を果たすことができず、1998年にジェマルディン・ムショビッチと交代した。
3.3. その後のクラブ監督経歴
ボスニア・ヘルツェゴビナ代表の監督を退任した後も、ムズロビッチは多様なクラブで指揮を執った。1998年にはトルコのアダナスポルで2か月の短期間監督を務めた。1999年にはカタールのアル・アラビの監督に就任した。
2001年から2002年には、FKサラエヴォで3度目の監督職を務め、この期間にボスニアカップで優勝を果たし、これが彼にとって唯一の監督としての主要タイトルとなった。2002年7月からはエジプトのアル・マスリの監督を務めたが、同年12月には退任した。
3.4. セレッソ大阪
2004年2月1日、日本のJ1リーグに所属するセレッソ大阪は、ムズロビッチを監督に任命した。これは、元々監督に就任する予定だったナドベザ・ペーターが狭心症の発作を起こし、辞任を表明したことを受け、「友人であるナドベザを助けたい」という彼の強い思いから実現したものであった。
しかし、監督就任がセレッソ大阪の練習開始前日という極めて慌ただしい状況であり、明らかに準備不足であった。このため、チームは開幕から低迷し、公式戦わずか3試合(リーグ戦2試合、ナビスコカップ1試合)で2敗1分けという成績に終わった。クラブとの方針の違いも明らかになり、2004年3月22日に解任された。シーズン開幕後の公式戦3試合での退任は、当時のJリーグ史上最短記録であった。この記録はその後、2006年に横浜FCの足達勇輔がJ2第1節終了後に解任された際に更新され、さらに2021年にはカマタマーレ讃岐の上野山信行が公式戦2試合で退任し、最短記録を更新している(いずれも暫定監督を除く)。
3.5. ボスニア・ヘルツェゴビナ代表(第2期)
セレッソ大阪での短期間の指揮から約3年後の2006年12月21日、ムズロビッチはキャリアで2度目となるボスニア・ヘルツェゴビナ国家代表チームの監督に就任した。
彼の指揮の下、ボスニア・ヘルツェゴビナ代表はUEFAユーロ2008予選において、2007年6月2日のトルコ戦で3対2の勝利を収めるなど、記憶に残る試合を見せた。この試合ではエディン・ジェコが国際試合デビューを飾っている。ムズロビッチは2007年12月17日まで監督を務めた。
4. 監督成績
チーム | 期間開始 | 期間終了 | 記録 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合数 | 勝利 | 引き分け | 敗戦 | 得点 | 失点 | 得失点差 | 勝率 | |||
FKサラエヴォ | 1977年7月1日 | 1981年9月1日 | 146 | 61 | 31 | 54 | 224 | 213 | +11 | 41.78% |
FCプリシュティナ | 1983年7月1日 | 1984年6月30日 | 35 | 15 | 3 | 17 | 39 | 57 | -18 | 42.86% |
FCプリシュティナ | 1985年7月1日 | 1986年6齢30日 | 35 | 13 | 5 | 17 | 37 | 48 | -11 | 37.14% |
アダナ・デミルスポル | 1987年7月1日 | 1988年11月28日 | 53 | 20 | 7 | 26 | 60 | 64 | -4 | 37.74% |
ボスニア・ヘルツェゴビナ | 1995年11月30日 | 1997年11月7日 | 18 | 7 | 2 | 9 | 21 | 25 | -4 | 38.89% |
アダナスポル | 1998年7月1日 | 1998年9月30日 | 7 | 1 | 1 | 5 | 2 | 9 | -7 | 14.29% |
FKサラエヴォ | 2001年7月1日 | 2002年6月30日 | 39 | 18 | 10 | 11 | 66 | 37 | +29 | 46.15% |
アル・マスリ | 2002年7月1日 | 2002年12月30日 | 16 | 8 | 5 | 3 | 17 | 13 | +4 | 50.00% |
セレッソ大阪 | 2004年2月1日 | 2004年3月22日 | 2 | 0 | 0 | 2 | 3 | 6 | -3 | 0.00% |
ボスニア・ヘルツェゴビナ | 2006年12月21日 | 2007年12月17日 | 9 | 3 | 0 | 6 | 11 | 16 | -5 | 33.33% |
合計 | 360 | 146 | 64 | 150 | 480 | 488 | -8 | 40.56% |
5. タイトル
フアド・ムズロビッチが選手および監督として獲得した主要なタイトルを以下に示す。
5.1. 選手時代
; FKサラエヴォ
- ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ: 1966-67シーズン
5.2. 監督時代
; FKサラエヴォ
- ボスニア・ヘルツェゴビナカップ: 2001-02シーズン