1. 生涯

1.1. 幼少期とキャリア初期
フィリップ・ゴーモンは1973年2月22日にフランスのアミアンで生まれた。彼は幼い頃から自転車競技に情熱を傾け、その才能はすぐに開花した。1994年にプロとしてのキャリアをスタートさせ、カストラマチームと契約を結んだ。この時期から、ゴーモンはロードレース選手として頭角を現し始めた。
2. キャリアのハイライト
フィリップ・ゴーモンはロードレースとトラックレースの両方で顕著な成績を収めた。
2.1. ロードレースキャリア
ゴーモンは1994年にカストラマチームでプロデビューし、1995年まで所属した。1996年にはガンチームに移籍。そして1997年からはコフィディスチームに加入し、2004年に引退するまで同チームに在籍した。
彼のロードレースキャリアにおける主要な勝利には、1994年のツール・デュ・ポワトゥー=シャラント総合優勝、1996年のダンケルク4日間レース総合優勝、ツール・ド・ピカルディ総合優勝、ラ・コート・ピカルド優勝などが挙げられる。特に1997年にはベルギーのクラシックレースであるヘント~ウェヴェルヘムで優勝し、国際的な評価を確立した。
2.2. トラックサイクリングキャリア
ロードレースでの活躍に加え、ゴーモンはトラック競技でも優れた成績を残した。彼は1992年バルセロナオリンピックの男子チームタイムトライアル(100 km)で銅メダルを獲得した。
また、フランス国内選手権では個人追抜で2000年と2002年に優勝し、2000年には団体追抜でも優勝している。世界選手権では、2000年のトラックレース世界選手権で追抜種目の銅メダルを獲得した。2000年のシドニーオリンピックでは個人追抜で5位に入賞している。
2.3. 主要大会成績
フィリップ・ゴーモンのロードレースおよびトラックレースにおける主要な成績は以下の通りである。
年 | 大会名 | 成績 | 備考 |
---|---|---|---|
1992 | ツール・ド・ラ・ソンム | 総合1位 | |
1992年バルセロナオリンピック | 団体タイムトライアル 3位 | 銅メダル獲得 | |
1994 | ツール・デュ・ポワトゥー=シャラント | 総合1位 | 第5ステージ優勝 |
1996 | ダンケルク4日間レース | 総合1位 | |
ツール・ド・ピカルディ | 総合1位 | 第1ステージ優勝 | |
ラ・コート・ピカルド | 1位 | ||
ツール・ド・ヴァンデ | 2位 | ||
1997 | ヘント~ウェヴェルヘム | 1位 | |
ダンケルク4日間レース | 第3aステージ優勝 | ||
1998 | グランプリ・デュ・ミディ・リーブル | 第1ステージ優勝 | |
エトワール・ド・ベセージュ | 総合3位 | ||
2000 | フランス選手権 (トラック) | 個人追抜 優勝 | |
フランス選手権 (トラック) | 団体追抜 優勝 | ||
トラックレース世界選手権 | 追抜 3位 | 銅メダル獲得 | |
2000年シドニーオリンピック | 個人追抜 5位 | ||
2002 | フランス選手権 (トラック) | 個人追抜 優勝 |
3. ドーピングと論争
フィリップ・ゴーモンは、そのキャリアを通じてドーピング問題に深く関与し、最終的にはその実態を告白したことで知られている。
3.1. ドーピング告白と著書
ゴーモンは、自身がドーピングを広範に使用していたことを公に告白した。彼は一連のインタビューに応じ、自身の経験を綴った著書『Prisonnier du dopageドーピングの囚人フランス語』を出版した。この本の中で、彼はドーピングの手法、検査回避の方法、そして「Pot Belgeポット・ベルジュフランス語」のような薬物カクテルの使用実態を詳細に説明した。また、プロの自転車選手が金銭的な必要性からドーピングに手を染めざるを得ない状況についても語っている。彼は、プロ選手の95%がドーピングを使用していると考えており、ツール・ド・フランスのような主要なレースでドーピングなしに勝利することは不可能であるという強い疑念を表明した。
3.2. ドーピング検出と捜査
ゴーモンのドーピング歴は、複数の陽性反応によって明らかになった。1996年にはガンチーム所属中に2回のレースでナンドロロンの陽性反応が出たため、契約を打ち切られた。1997年にコフィディスと契約してレースに復帰するが、1998年には再びナンドロロンの陽性反応が出た。この時はAサンプルで陽性反応が出たものの、Bサンプルでは出なかったため、訴訟は棄却された。しかし、1999年には「ドクター・マブーゼ」事件の司法捜査中に実施された血液検査でアンフェタミンの陽性反応が出た。
2004年には、大規模なドーピングスキャンダルであるコフィディス事件の捜査の一環としてフランス警察と司法当局から尋問を受けた。この際、彼はプロキャリアの開始以来、EPOを含む禁止薬物を繰り返し、継続的に使用していたことを告白した。この事件の結果、彼はプロの自転車競技から引退した。
3.3. ドーピング回避の方法
ゴーモンは著書の中で、ドーピング検査を回避するための具体的な手口についても詳述している。例えば、コルチコイドの陽性反応を避ける方法として、塩を使って睾丸の袋を刺激し、発疹を引き起こしてコルチコイドクリームの処方箋を得るという手口を明かした。尿検査では、処方箋のある(合法的な)クリームとして塗布されたコルチコイドと、(違法な)注射によるコルチコイドを区別できないため、このような処方箋がドーピングを隠蔽するために利用されていたという。
4. 私生活
プロの自転車選手を引退した後、フィリップ・ゴーモンは故郷のアミアンでカフェを経営し、公の場での活動を続けていた。
5. 死去
2013年4月、フィリップ・ゴーモンは重度の心臓発作に見舞われ、昏睡状態に陥ったと報じられた。その後、複数のニュースソースが彼の死を報じたが、実際には脳死状態であり、人工呼吸器によって生命を維持している状態であった。そして2013年5月17日、フランス北部のアラスにある病院で、心臓疾患により40歳で死去した。
6. 評価と影響
6.1. ポジティブな評価
フィリップ・ゴーモンは、自身のドーピング経験を赤裸々に告白し、著書『Prisonnier du dopageドーピングの囚人フランス語』を通じてスポーツ界におけるドーピングの闇を暴露したことで、肯定的に評価されている。彼の告白は、単なる個人的な経験談にとどまらず、プロスポーツにおけるドーピングの構造的な問題、金銭的圧力、そして検査体制の不備といった広範な課題に光を当てた。これにより、スポーツにおける倫理、公正さ、そして選手の健康と福祉に関する議論が喚起され、反ドーピング運動の強化に貢献した。彼は、ドーピングの実態を告発する「内部告発者」としての役割を果たし、スポーツの健全な発展のために重要な警鐘を鳴らしたと見なされている。
6.2. 批判と論争
一方で、フィリップ・ゴーモンのドーピング行為そのものに対しては、当然ながら批判的な見解も存在する。彼はキャリアを通じて複数回にわたり禁止薬物の陽性反応を示しており、これはスポーツのルールと倫理に反する行為である。彼の告白はドーピングの実態を明らかにしたものの、彼自身がそのシステムの一部であったという事実は、論争の対象となった。ドーピングはスポーツの公平性を損ない、クリーンな選手に不利益をもたらすため、彼の行為は厳しく非難されるべきであるという意見も根強い。彼の生涯は、ドーピングの被害者であると同時に加害者でもあったという、複雑な側面を浮き彫りにしている。