1. 幼少期とアマチュア経歴
フランク・エドワード・トーマスは1968年5月27日にアメリカ合衆国ジョージア州コロンバスで生まれた。高校時代からアメリカンフットボールと野球の両方で注目される選手であり、複数のスポーツ名門校から誘いがあった。
彼はフットボールの名門校であるオーバーン大学にスポーツ奨学生として進学した。大学では最初、アメリカンフットボールをプレーしたが、その期間は1年足らずで、その後は野球に専念するようになった。野球選手として頭角を現し、1989年には大学野球のサウスイースタン・カンファレンスにおいて最優秀選手に選出された。オーバーン大学での通算49本塁打は、当時の大学新記録を樹立するほどの活躍であった。
2. プロ経歴
フランク・トーマスは、そのキャリアを通じて主にシカゴ・ホワイトソックス、オークランド・アスレチックス、トロント・ブルージェイズでプレーし、各球団で強力な打撃力を発揮した。
2.1. シカゴ・ホワイトソックス時代
フランク・トーマスは1989年のMLBドラフトで、シカゴ・ホワイトソックスから1巡目(全体7位)指名を受け、入団した。
1990年にはAA級バーミングハム・バロンズで109試合に出場し、打率.323、18本塁打、71打点を記録。この活躍が評価され、ベースボール・アメリカ・マイナーリーグ年間最優秀選手賞を受賞した。同年8月2日にはミルウォーキー・ブルワーズ戦でメジャーデビューを果たした。メジャー昇格後は、名打撃コーチとして知られるWalt Liniakウォルト・リニアック英語の指導を受け、打率.330、7本塁打、31打点、出塁率.454という好成績を残した。このシーズン、メジャーとマイナー合わせて156四球を選んだ。
1991年は打率.318、32本塁打、109打点を記録し、自身初のシルバースラッガー賞を受賞。9月28日のシアトル・マリナーズ戦では、60年ぶりに球団記録のシーズン最多四球を更新し、最終的に138まで四球数を伸ばした。1992年には打率.323、24本塁打、115打点を記録し、リーグ最多の46二塁打で球団記録を樹立した。さらにリーグ最多の122四球を記録し、球団史上初めて2年連続で100四球以上を達成した。
1993年、トーマスは初めてMLBオールスターゲームに選出された。打率.317、球団記録となる41本塁打、128打点を記録し、チームの10年ぶりの地区優勝に大きく貢献した。トロント・ブルージェイズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、打率.353と両チーム最多の10四球を記録したが、チームは2勝4敗で敗退し、リーグ優勝はならなかった。オフには、その活躍が評価され、MVPを満票で受賞した。
1994年は開幕から本塁打を量産し、前半戦だけで32本塁打を記録。MLBオールスターゲームには2年連続で選出され、初の先発出場を果たした。8月7日には球団史上最速で100打点に到達した。このシーズンはストライキにより短縮されたが、打率.353(リーグ3位)、38本塁打(リーグ2位)、101打点(リーグ3位タイ)と三冠王も狙える活躍を見せた。また、両リーグ最多の109四球、OPS1.217を記録し、MVP投票では2位以下を大きく引き離して2年連続で受賞。アメリカンリーグで2年連続MVPを受賞したのは、1960年・1961年のロジャー・マリス以来の快挙であった。
ストライキ明けの1995年も、3年連続でMLBオールスターゲームに選出され、前年に続いて先発出場し、4回に本塁打を放った。この年、2年連続で全試合出場を果たし、40本塁打、111打点を記録した。
1996年7月11日には左足の疲労骨折で自身初の故障者リスト入りし、連続試合出場が346で途切れた。しかし、復帰後はアレックス・ロドリゲスに次ぐリーグ2位の打率.349、40本塁打、134打点を記録した。1997年は打率.347で自身初の首位打者を獲得。35本塁打、125打点を記録し、7年連続で打率3割、20本塁打、100打点、100得点、100四球を達成。これはテッド・ウィリアムズが1941年から1949年にかけて(兵役による3年間の中断を挟む)記録したMLB記録の6年連続を更新するものであった。
1998年は29本塁打、109打点、109得点、110四球を記録したが、打率が.265と自己最低に終わった。また、この年には私生活で離婚を経験した。
1999年は打率こそ.305だったものの、故障と不調により15本塁打、77打点に終わり、デビュー年以来9年ぶりに20本塁打・100打点を下回った。しかし、4月17日に通算1000四球、6月6日に通算1000打点、6月24日に通算1500本安打、8月7日に通算300本塁打を達成するなど、数々の大台をクリアした。オフには2年間の不振を払拭するため、メジャー昇格時のホワイトソックスの打撃コーチだったWalt Liniakウォルト・リニアック英語の下を訪れ、1ヶ月間の合宿を行った。
2000年7月14日にはルーク・アップリングの通算1116打点の球団記録を50年ぶりに更新。打率.328、共にキャリアハイとなる43本塁打、143打点を記録し、7年ぶりの地区優勝の原動力となった。シアトル・マリナーズとのディビジョンシリーズでは無安打に終わり、チームも3連敗で敗退した。MVP投票ではジェイソン・ジアンビに次ぐ2位に入り、カムバック賞を受賞した。
2001年は怪我のため4月27日を最後にシーズンを終え、キャリアワーストの成績に終わった。以降、トーマスは度重なる故障に悩まされるようになる。
2003年7月25日のタンパベイ・デビルレイズ戦で史上36人目となる通算400本塁打を記録。8月には自己最多、球団史上2位タイとなる月間13本塁打を放ち、4日には通算2000本安打を達成した。打率は.267だったが、リーグ2位タイの42本塁打、105打点、3年ぶりの100四球を記録した。2005年は足首の故障のため出遅れ、5月30日にシーズン初出場。しかし7月21日に故障者リスト入りしてシーズンを終え、打率.219、12本塁打、26打点に終わる。チームは46年ぶりのリーグ優勝を果たし、ヒューストン・アストロズとのワールドシリーズを4連勝で制して88年ぶりに世界一の栄冠を手にしたが、トーマス自身は1試合も出場できなかった。オフに球団は1000.00 万 USDのオプションを破棄して350.00 万 USDの違約金を払い、契約延長しないことを決定し、16年間在籍したホワイトソックスを離れることになった。
2.2. オークランド・アスレチックス時代 (第1期)

2006年1月31日、フランク・トーマスは1年総額50.00 万 USDでオークランド・アスレチックスと契約した。2005年シーズン終了時点での彼の通算出塁率.427は歴代13位(3000打席以上)であり、出塁率を重視するアスレチックスにとって理想的な打者であった。トーマスは「もっと条件のいいチームはあったが、金ではなく、チャンスを与えてくれたアスレチックスに決めた」と語っている。
9月には球団新記録となる6試合連続本塁打を含む10本塁打、31打点を記録する活躍を見せた。最終的に打率.270、共にチームトップの39本塁打、114打点を記録し、チームの3年ぶりの地区優勝に貢献した。ミネソタ・ツインズとのディビジョンシリーズでは、第1戦でポストシーズン史上最年長で1試合2本塁打を記録するなど、打率.500を記録し、チームも3連勝でツインズを下した。しかし、デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは13打数無安打に終わり、チームも4連敗で敗退したため、自身初のワールドシリーズ出場はならなかった。オフにフリーエージェントとなった。
2.3. トロント・ブルージェイズ時代

2006年11月18日、フランク・トーマスはトロント・ブルージェイズと2年総額1800.00 万 USD(3年目はオプション)で契約を締結した。
2007年はトロイ・グロースやバーノン・ウェルズといった強打者と共に強力なクリーンナップを形成した。6月17日にはエドガー・マルティネスの指名打者としての本塁打記録(243本)を抜いて歴代1位となった。さらに6月28日には、史上21人目となる通算500本塁打を達成した。不振が続いた打撃陣の中で、トーマスは2001年以降で最多となる155試合に出場し、26本塁打、95打点と、いずれもチームトップの成績を記録した。
2008年は打率.167、3本塁打、11打点と不振に陥ったため、4月20日にブルージェイズから解雇された。
2.4. オークランド・アスレチックス時代 (第2期)
2008年4月24日、フランク・トーマスはかつて所属したオークランド・アスレチックスと再び契約を結び、2年ぶりにチームに復帰した。
しかし、8月29日の試合で負傷し、翌日には60日間の故障者リストに入ったことで、シーズンを終えることになった。このシーズンの通算成績は打率.240、8本塁打、30打点に留まった。同年10月31日には再びフリーエージェントとなった。
2.5. 引退と引退後の経歴

2010年2月12日、フランク・トーマスは正式に選手としての引退を表明した。同年8月29日にはシカゴで「フランク・トーマス・デー」が催され、トーマスのホワイトソックス在籍時の背番号である「35」が永久欠番に指定された。
アメリカ野球殿堂入りする資格を得た2014年の1月8日には、殿堂入りの投票において83.7%の得票率を獲得し、見事に殿堂入りを果たした。引退後も野球界との関わりを続け、現在はFOXスポーツで全米ネットの野球解説者として活動している。
3. プレースタイルと人物
フランク・トーマスは、そのキャリアを通じて一貫して優れた打撃を見せたが、そのプレースタイルやプライベートの一端にはいくつかの特徴がある。
彼の現役時代の打撃哲学は、ホワイトソックス昇格時の打撃コーチであったWalt Liniakウォルト・リニアック英語が提唱する「ラウ-リニアックアプローチ」の熱心な信奉者であった。リニアックは1995年にホワイトソックスを退団してプロを相手にしたコーチ業からは引退していたが、トーマスが打撃不振に陥った際には、助言を求めて合宿まで行っていた。トーマスは引退後のアメリカ野球殿堂入り式典でのスピーチにおいて、リニアックを名指しで賞賛し、深い感謝の弁を述べている。
彼は現役時代に日米野球に参加したことはなかったものの、2013年と2014年夏には日本のテレビ番組『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』内の人気コーナー「リアル野球BAN」に出演するため来日している。この番組では、江戸川区出身、板橋区立成増ケ丘小学校卒業、石橋貴明の帝京高校後輩という設定のキャラクター「藤増君」として登場した。2013年の出演時の成績は6打数1安打、打率.167。2014年夏には8回裏に東京ドームの左翼席へサヨナラ本塁打を放つ活躍を見せた。このシーズンの成績は7打数1安打、1四球、2打点、打率.143であった。番組での通算成績は13打数2安打、2打点、打率.154となった。
現役時代の1992年には映画『ミスター・ベースボール』にヤンキースの若手ホープ選手として出演している。この映画は日本の中日ドラゴンズが主な舞台であったが、トーマス自身はアメリカでの撮影だったため来日することはなかった。
彼のポジションは、1998年以降、一塁手としての守備試合数が大幅に減少し、キャリア通算の出場試合数の過半数が指名打者としてのものであった。
また、ジェフ・バグウェルとは同じ生年月日であり、バグウェルはヒューストン・アストロズで活躍し、2017年にアメリカ野球殿堂に表彰されている。
4. 受賞と栄誉
フランク・トーマスは、そのキャリアを通じて数々の個人タイトルと栄誉を獲得し、野球界における彼の地位を確固たるものにした。
- 首位打者:1回(1997年)
- アメリカンリーグMVP:2回(1993年、1994年)
- シルバースラッガー賞:3回
- 指名打者部門:1回(1991年)
- 一塁手部門:2回(1993年、1994年)
- カムバック賞:1回(2000年)
- ホームランダービー優勝:1回(1995年)
- MLBオールスターゲーム選出:5回(1993年 - 1997年)
- アメリカ野球殿堂入り(2014年)
5. 詳細な記録
5.1. 年度別打撃成績
年 度 | 所 属 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 2 塁 打 | 3 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 刺 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 故 意 四 球 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990 | CWS | 60 | 240 | 191 | 39 | 63 | 11 | 3 | 7 | 101 | 31 | 0 | 1 | 0 | 3 | 44 | 0 | 2 | 54 | 5 | .330 | .454 | .529 | .983 |
1991 | 158 | 700 | 559 | 104 | 178 | 31 | 2 | 32 | 309 | 109 | 1 | 2 | 0 | 2 | 138 | 13 | 1 | 112 | 20 | .318 | .453 | .553 | 1.006 | |
1992 | 160 | 711 | 573 | 108 | 185 | 46 | 2 | 24 | 307 | 115 | 6 | 3 | 0 | 11 | 122 | 6 | 5 | 88 | 19 | .323 | .439 | .536 | .975 | |
1993 | 153 | 676 | 549 | 106 | 174 | 36 | 0 | 41 | 333 | 128 | 4 | 2 | 0 | 13 | 112 | 23 | 2 | 54 | 10 | .317 | .426 | .607 | 1.033 | |
1994 | 113 | 517 | 399 | 106 | 141 | 34 | 1 | 38 | 291 | 101 | 2 | 3 | 0 | 7 | 109 | 12 | 2 | 61 | 15 | .353 | .487 | .729 | 1.217 | |
1995 | 145 | 647 | 493 | 102 | 152 | 27 | 0 | 40 | 299 | 111 | 3 | 2 | 0 | 12 | 136 | 29 | 6 | 74 | 14 | .308 | .454 | .606 | 1.060 | |
1996 | 141 | 649 | 527 | 110 | 184 | 26 | 0 | 40 | 330 | 134 | 1 | 1 | 0 | 8 | 109 | 26 | 5 | 70 | 25 | .349 | .459 | .626 | 1.085 | |
1997 | 146 | 649 | 530 | 110 | 184 | 35 | 0 | 35 | 324 | 125 | 1 | 1 | 0 | 7 | 109 | 9 | 3 | 69 | 15 | .347 | .456 | .611 | 1.067 | |
1998 | 160 | 712 | 585 | 109 | 155 | 35 | 2 | 29 | 281 | 109 | 7 | 0 | 0 | 11 | 110 | 2 | 6 | 93 | 14 | .265 | .381 | .480 | .861 | |
1999 | 135 | 590 | 486 | 74 | 148 | 36 | 0 | 15 | 229 | 77 | 3 | 3 | 0 | 8 | 87 | 13 | 9 | 66 | 14 | .305 | .414 | .471 | .885 | |
2000 | 159 | 707 | 582 | 115 | 191 | 44 | 0 | 43 | 364 | 143 | 1 | 3 | 0 | 8 | 112 | 18 | 5 | 94 | 13 | .328 | .436 | .625 | 1.061 | |
2001 | 20 | 79 | 68 | 8 | 15 | 3 | 0 | 4 | 30 | 10 | 0 | 0 | 0 | 1 | 10 | 2 | 0 | 12 | 0 | .221 | .316 | .441 | .757 | |
2002 | 148 | 628 | 523 | 77 | 132 | 29 | 1 | 28 | 247 | 92 | 3 | 0 | 0 | 10 | 88 | 2 | 7 | 115 | 10 | .252 | .361 | .472 | .833 | |
2003 | 153 | 662 | 546 | 87 | 146 | 35 | 0 | 42 | 307 | 105 | 0 | 2 | 0 | 4 | 100 | 4 | 12 | 115 | 11 | .267 | .390 | .562 | .952 | |
2004 | 74 | 311 | 240 | 53 | 65 | 16 | 0 | 18 | 135 | 49 | 0 | 0 | 0 | 1 | 64 | 3 | 6 | 57 | 2 | .271 | .434 | .563 | .997 | |
2005 | 34 | 124 | 105 | 19 | 23 | 3 | 0 | 12 | 62 | 26 | 0 | 0 | 0 | 3 | 16 | 0 | 0 | 31 | 2 | .219 | .315 | .590 | .905 | |
2006 | OAK | 137 | 559 | 466 | 77 | 126 | 11 | 0 | 39 | 254 | 114 | 0 | 0 | 0 | 6 | 81 | 3 | 6 | 81 | 13 | .270 | .381 | .545 | .926 |
2007 | TOR | 155 | 624 | 531 | 63 | 147 | 30 | 0 | 26 | 255 | 95 | 0 | 0 | 0 | 5 | 81 | 3 | 7 | 94 | 14 | .277 | .377 | .480 | .857 |
2008 | 16 | 72 | 60 | 7 | 10 | 1 | 0 | 3 | 20 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 0 | 1 | 13 | 3 | .167 | .306 | .333 | .639 | |
OAK | 55 | 217 | 186 | 20 | 49 | 6 | 1 | 5 | 72 | 19 | 0 | 0 | 0 | 1 | 28 | 0 | 2 | 44 | 6 | .263 | .364 | .387 | .751 | |
'08計 | 71 | 289 | 246 | 27 | 59 | 7 | 1 | 8 | 92 | 30 | 0 | 0 | 0 | 1 | 39 | 0 | 3 | 57 | 9 | .240 | .349 | .374 | .723 | |
MLB:19年 | 2322 | 10074 | 8199 | 1494 | 2468 | 495 | 12 | 521 | 4550 | 1704 | 32 | 23 | 0 | 121 | 1667 | 168 | 87 | 1397 | 225 | .301 | .419 | .555 | .974 |
- 各年度の太字はリーグ最高
5.2. 年度別守備成績
年 度 | 球 団 | 一塁(1B) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
1990 | CWS | 51 | 428 | 26 | 5 | 53 | .989 |
1991 | 56 | 459 | 27 | 2 | 43 | .996 | |
1992 | 158 | 1428 | 92 | 13 | 112 | .992 | |
1993 | 150 | 1222 | 83 | 15 | 128 | .989 | |
1994 | 99 | 735 | 45 | 7 | 74 | .991 | |
1995 | 90 | 738 | 34 | 7 | 67 | .991 | |
1996 | 139 | 1098 | 85 | 9 | 111 | .992 | |
1997 | 97 | 739 | 49 | 11 | 70 | .986 | |
1998 | 14 | 116 | 6 | 2 | 12 | .984 | |
1999 | 49 | 385 | 18 | 4 | 40 | .990 | |
2000 | 30 | 267 | 15 | 1 | 38 | .996 | |
2001 | 3 | 20 | 1 | 1 | 2 | .955 | |
2002 | 4 | 38 | 4 | 2 | 5 | .955 | |
2003 | 27 | 206 | 9 | 1 | 19 | .995 | |
2004 | 4 | 31 | 3 | 0 | 2 | 1.000 | |
MLB | 706 | 5595 | 352 | 60 | 568 | .990 |
- 各年度の太字はリーグ最高
5.3. 背番号
フランク・トーマスがキャリアで使用した背番号は以下の通りである。
- 15(1990年 - 同年途中)
- 35(1990年途中 - 2008年)
- この背番号「35」は、トーマスの功績を称え、シカゴ・ホワイトソックスの永久欠番に指定されている。
6. 評価と遺産
6.1. 肯定的評価と影響
フランク・トーマスは、そのキャリアを通じてメジャーリーグの歴史に深く名を刻んだ選手として広く肯定的に評価されている。彼の最大の功績は、その圧倒的な打撃能力と、それを長期間にわたって維持した一貫性にある。特にキャリアの初期においては、リーグを代表する強打者として、2年連続MVPという輝かしい栄誉を獲得した。彼はテッド・ウィリアムズの記録を更新する7年連続の「打率3割・20本塁打・100打点・100得点・100四球」という偉業を達成し、その選球眼とパワーを兼ね備えた稀有な打者として記憶されている。
彼の存在は、ホワイトソックスのチーム成績にも大きく貢献し、特に1993年の地区優勝や2000年の地区優勝の原動力となった。また、2006年にオークランド・アスレチックスに移籍してからも、チームの地区優勝に貢献するなど、彼が所属するチームに大きな影響を与え続けた。
アメリカ野球殿堂入りを果たしたことは、彼が野球史における偉大な選手の一人であることを公式に認めるものであり、彼の名声は後世に語り継がれることになる。彼の打撃スタイルは、現代の選手にも影響を与え、その卓越した選球眼と長打力は、現在のOPS重視の指標が広まる以前から、その価値が認識されていた。
6.2. 批判と論争
フランク・トーマスのキャリアは輝かしいものであったが、その後半は度重なる負傷に見舞われ、パフォーマンスの低下が顕著になった。特に2001年以降は、怪我によって出場試合数が減少し、本来の打撃力を発揮できないシーズンが増えたことは、彼のキャリアに対する批判的な見方の一つとして挙げられる。2005年には、チームがワールドシリーズで優勝したにもかかわらず、トーマス自身は怪我のために出場できず、その結果、長年所属したホワイトソックスを退団することになった。この時期の彼の健康状態と、それによる打撃成績の変動は、彼の選手としての評価に影響を与えた側面である。
また、1998年の打撃成績が自己最低に終わった時期に、私生活で離婚を経験したことが公に言及されるなど、個人的な事由が公的な領域で話題となることもあった。これらの要素は、彼の選手としての行動や決断、あるいはキャリア後半の不振の原因として議論の対象となることがある。しかし、彼の野球に対する真摯な姿勢や、若手時代から指導を受けたWalt Liniakウォルト・リニアック英語への感謝の念は、引退後のスピーチでも強調されており、全体的にはその功績と人物像が評価されている。