1. オーバービュー
フリオ・セサル・ロメロは、1960年8月28日にパラグアイのルケで生まれた元サッカー選手であり、ミッドフィールダーとして活躍しました。愛称は「ロメリート」。パラグアイサッカー史上最高の選手の一人と広く評価されており、2004年にはペレによってFIFA 100に選出された唯一のパラグアイ人選手です。
彼は1979年のコパ・アメリカでパラグアイ代表を26年ぶりの優勝に導き、1985年には南米年間最優秀選手賞を受賞しました。キャリアを通じてニューヨーク・コスモス、フルミネンセFC、FCバルセロナ、プエブラFCなど、様々な国の著名なクラブでプレーし、多くのタイトルを獲得しました。引退後は政治活動に身を投じ、地元の市議会議員を務める傍ら、ロック歌手として音楽フェスティバルでデビューするなど、多岐にわたる活動を展開しました。
2. 個人史および背景
2.1. 出生および成長背景
フリオ・セサル・ロメロは、1960年8月28日にパラグアイのルケで誕生しました。彼の身長は173 cmです。
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2.2. 愛称
彼は選手として、そして引退後も広く「ロメリート」(Romeritoスペイン語)という愛称で親しまれています。
3. 選手経歴
フリオ・セサル・ロメロの選手経歴は、パラグアイでの初期の活躍から始まり、北米、ブラジル、スペイン、メキシコ、そして再び南米へと渡る国際的なものでした。
3.1. 初期経歴
ロメロは1977年に地元のクラブであるスポルティーボ・ルケーニョでプロキャリアをスタートさせました。1979年にはFIFAワールドユース選手権にU-20パラグアイ代表として出場し、同い年のディエゴ・マラドーナとともに大会最高の選手の一人と目される活躍を見せました。同年、彼はパラグアイA代表としてコパ・アメリカに出場し、3ゴールを挙げる重要な役割を果たし、パラグアイの26年ぶりとなる優勝に貢献しました。
3.2. クラブ経歴
3.2.1. ニューヨーク・コスモス
1980年、ロメロは当時北米サッカーリーグ(NASL)に所属していたニューヨーク・コスモスに移籍しました。ここでは、1970年ワールドカップ優勝キャプテンのカルロス・アウベルトや、1974年ワールドカップ優勝キャプテンのフランツ・ベッケンバウアーといった世界的な偉人たちと共にプレーしました。1980年のサッカーボウルでは、フォートローダーデール・ストライカーズを3-0で破った試合で決勝ゴールを決め、チームの優勝に貢献しました。ニューヨーク・コスモスでは、1980年と1982年のNASL優勝を経験しました。
3.2.2. フルミネンセFC
1984年、ロメロはブラジルへ渡り、フルミネンセFCに加入しました。このクラブではすぐにサポーターのお気に入りとなり、1984年にはチームをカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA優勝に導きました。また、リオデジャネイロ州選手権でも1984年と1985年に優勝を果たしています。フルミネンセでの活躍が認められ、1985年には南米年間最優秀選手賞を受賞しました。
3.2.3. FCバルセロナ
1988年から1989年にかけて、ロメロはスペインの強豪FCバルセロナに短期間在籍しました。この期間中に、チームはUEFAカップウィナーズカップ1988-89シーズンで優勝しています。
3.2.4. プエブラFC
FCバルセロナでの短い期間の後、ロメロはメキシコへ移り、プエブラFCでプレーしました。プエブラでは1989-90シーズンにメキシコ・プリメーラ・ディビシオンとコパ・メヒコの二冠を達成しました。
3.2.5. 後期クラブ経歴
1990年にパラグアイへ帰国した後、ロメロは古巣のスポルティーボ・ルケーニョに複数回在籍しました。また、オリンピア(1992年にはトルネオ・レプブリカで優勝)、クラブ・セロ・コラといったパラグアイ国内のクラブや、チリのデポルテス・ラ・セレーナでも選手生活の晩年を過ごしました。
3.3. 代表チーム経歴
ロメロは1979年から1990年までパラグアイ代表として活躍しました。彼は代表チームで32試合に出場し、13ゴールを記録しており、これはパラグアイ代表史上3番目に多い得点数です。
彼の代表キャリアのハイライトは、1979年のコパ・アメリカ優勝です。この大会で彼は3ゴールを挙げ、パラグアイを26年ぶりの南米王者に導きました。
また、1986年にはパラグアイ代表が28年ぶり(7大会ぶり)にFIFAワールドカップ本大会出場を果たす上で重要な役割を担いました。メキシコで開催された本大会では、ファーストラウンドでイラク戦と開催国メキシコ戦でそれぞれ得点を挙げています。
3.4. プレースタイルと統計
ロメロのポジションはミッドフィールダーでした。彼のキャリアを通じて、公式戦で626試合に出場し、180ゴールを記録しました。また、総キャリアでは400ゴール以上を記録したと言われています。1990年にはリーガ・パラグアージャで得点王に輝きました。
年 | 所属クラブ | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
1977-1979 | スポルティーボ・ルケーニョ | 113 | 33 |
1980-1983 | ニューヨーク・コスモス | 88 | 28 |
1984-1988 | フルミネンセFC | 78 | 19 |
1988-1989 | FCバルセロナ | 7 | 1 |
1989-1990 | プエブラFC | 17 | 2 |
1990-1991 | スポルティーボ・ルケーニョ | 35 | 11 |
1992 | オリンピア | 24 | 9 |
1993-1994 | スポルティーボ・ルケーニョ | 43 | 13 |
1995 | デポルテス・ラ・セレーナ | 3 | 1 |
1995 | クラブ・セロ・コラ | 1 | 0 |
1996-1998 | スポルティーボ・ルケーニョ | 66 | 33 |
合計 | 626 | 180 |
年 | 所属代表チーム | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
1979-1990 | パラグアイ | 32 | 13 |
4. 受賞および業績
4.1. クラブでの受賞
- ニューヨーク・コスモス
- 北米サッカーリーグ (2): 1980, 1982
- フルミネンセFC
- セリエA (1): 1984
- リオデジャネイロ州選手権 (2): 1984, 1985
- FCバルセロナ
- UEFAカップウィナーズカップ (1): 1988-89
- プエブラFC
- プリメーラ・ディビシオン (1): 1989-90
- コパ・メヒコ (1): 1989-90
- オリンピア
- トルネオ・レプブリカ (1): 1992
4.2. 個人での受賞
- 南米年間最優秀選手賞: 1985 (シルバーアワード: 1979)
- ボーラ・ジ・プラッタ: 1984
- 南米年間ベストイレブン: 1986
- リーガ・パラグアージャ得点王: 1990
- FIFA 100: 2004
4.3. 代表での受賞
- パラグアイ
- コパ・アメリカ (1): 1979
5. 引退後の活動
5.1. 政治活動
現役引退後、フリオ・セサル・ロメロは政治の世界に足を踏み入れました。彼はコロラド党の党員として、自身の出身地であるルケ市で政治活動を行っており、市議会議員を務めています。
5.2. その他の活動
ロメロはサッカー以外の分野でもユニークな活動を展開しています。2006年9月には、パラグアイで開催された音楽フェスティバル「ピルセン・ロック」(Pilsen Rock)でロック歌手としてデビューしました。彼は地元の人気バンド「レボルベール」(Revolberスペイン語)のゲストとしてステージに上がり、40,000人の観客の前で「シエテ・エルマノス、ウノ・ミシール」(Siete hermanos, 1 misilスペイン語)という曲の冒頭部分を歌い上げました。
6. 評価と影響
フリオ・セサル・ロメロは、その傑出した才能とキャリアを通じての貢献により、パラグアイサッカー史上最高の選手の一人として広く評価されています。彼の功績は、1979年のコパ・アメリカ優勝や1986年のFIFAワールドカップ出場におけるパラグアイ代表での重要な役割、そしてフルミネンセFCでのカンピオナート・ブラジレイロ優勝など、数々のクラブでの成功によって裏付けられています。
特に、2004年にペレによって選出されたFIFA 100に、唯一のパラグアイ人選手として名を連ねたことは、彼の国際的な評価と影響力の大きさを明確に示しています。彼のプレースタイルは多くのファンを魅了し、その引退後の多岐にわたる活動もまた、彼が単なるスポーツ選手にとどまらない、多才な人物であることを示しています。ロメロは、パラグアイサッカーの歴史において、伝説的な存在として記憶され続けています。