1. 概要
フランスのオート=コルス県ヴァンゾラスカ出身であるフレデリック・アントネッティ(Frédéric Antonettiフレデリック・アントネッティフランス語、1961年8月19日 - )は、元サッカー選手であり、現在はサッカー指導者として活動しています。現役時代は主にDFやMFとしてプレーしましたが、フランス1部リーグでの出場はわずか2試合にとどまりました。
指導者としては、キャリアの多くを過ごしたコルシカ島のバスティアでユースチームからスタートし、1994年に33歳でトップチームの監督に就任しました。その後、日本のJリーグに所属するガンバ大阪の監督を務め、フランス国外で初めて指揮を執りました。ここでは稲本潤一の才能に惚れ込み、フランスへの移籍を試みたことで知られています。
フランス帰国後は、再びバスティアの監督を務め、弱小クラブを1部リーグの常連に育て上げました。その後はサンテティエンヌ、ニース、レンヌ、リール、メス、ストラスブールといったフランスの主要クラブで指揮を執り、チームをリーグ・ドゥから昇格させたり、クープ・ドゥ・ラ・リーグなどのカップ戦で決勝に進出させたりするなど、数々の実績を残しています。
アントネッティは、その率直な発言でも知られ、特にレンヌを「カナダドライ」に例えた発言は有名です。また、メス時代にはゼネラルマネージャーの役割も兼任し、他クラブのスポーツディレクターとの衝突により処分を受けるなど、議論の的となる出来事もありました。彼のキャリアは、単なる戦術家にとどまらず、クラブの育成、選手との関係、そして時には論争の中心となるなど、多様な側面を持っており、これらの経験がサッカー界における彼の社会的な影響を形成しています。

2. 幼少期
フレデリック・アントネッティは1961年8月19日、フランスのオート=コルス県ヴァンゾラスカで生まれました。彼の幼少期の詳細な情報は限られていますが、後にサッカー選手としての道を歩み始めました。
3. 選手経歴
フレデリック・アントネッティは、ユース時代にいくつかのクラブを経験しました。1972年から1973年までヴェスコヴァトに所属し、その後1973年から1979年までバスティアのユースチームでプレーしました。1979年から1982年にはINFヴィシーに所属し、将来を期待される選手の一人でした。
プロキャリアとしては、1982年にバスティアでデビューし、1983年までの1シーズンで2試合に出場しましたが、得点はありませんでした。その後、ベジエに移籍し、1983年から1985年までの2シーズンで65試合に出場し6得点を記録しました。1985年から1987年にはル・ピュイで55試合に出場しましたが、得点はありませんでした。再びバスティアに戻り、1987年から1990年までプレーし、56試合に出場し6得点を挙げました。
選手としてのキャリアを通じて、彼は合計178試合に出場し、12得点を記録しました。しかし、フランス1部リーグでの出場はわずか2試合にとどまるなど、期待されたほどの成功を収めることはできませんでした。1990年に選手としてのキャリアを引退しました。
4. 監督経歴
選手引退後、フレデリック・アントネッティは長年にわたりフランスの数々の主要クラブを率い、チームの昇格やカップ戦での成功に貢献した。その中には、日本でのガンバ大阪監督としての経験も含まれる。
4.1. SCバスティア (第1期)
フレデリック・アントネッティは、選手引退後の1990年に、キャリアの多くを過ごしたコルシカ島のバスティアで指導者としての道をスタートさせました。当初はユースレベルで指導にあたっていましたが、1994年10月には33歳という若さでトップチームの監督に就任しました。
彼は最初の在任期間中、チームを率いて1995年のクープ・ドゥ・ラ・リーグ決勝に進出させました。しかし、決勝では強豪パリ・サンジェルマンに0-2で敗れ、タイトル獲得はなりませんでした。この最初の監督としての4年間で、彼はクラブに大きな影響を与え、その後の監督キャリアの基盤を築きました。
4.2. ガンバ大阪
1998年5月、アントネッティはJリーグのガンバ大阪の新たな監督に就任するため、フランス国外へと活躍の場を移しました。これは彼にとって、海外で初めて指揮を執るクラブとなりました。
アントネッティは、就任直前のフランス・ワールドカップで優勝したフランス代表のような組織的なサッカーをチームに導入したいと考えていました。しかし、当時のガンバ大阪は若い選手が大半を占めており、育成と結果の両立は困難な課題でした。チームの成績は振るわず、1999年6月には成績不振により解任されました。1年間の契約期間が満了する前に、クラブから契約延長の話は出ませんでした。
彼はこの退任時に、当時若手のホープであった稲本潤一の才能に深く感銘を受け、彼をフランスへ連れて帰ろうと試みました。このエピソードは、後のレンヌでの再会につながる彼の選手への評価を示すものでした。
4.3. SCバスティア (第2期)
ガンバ大阪での指揮を終えフランスに帰国した後、フレデリック・アントネッティは1999年6月に再びバスティアの監督に就任しました。これは彼にとって2度目の監督在任期間であり、前任のホセ・パスカルレッティの後を引き継ぐ形となりました。
この期間中、彼は弱小クラブとされていたバスティアをフランス1部リーグの常連クラブへと成長させることに大きく貢献しました。彼の指導の下、チームは安定した成績を収め、その手腕が高く評価されることとなりました。この成功が、後の名門クラブでの指揮につながる重要なステップとなりました。
4.4. ASサンテティエンヌ
2001年10月7日、フレデリック・アントネッティはフランスの名門サンテティエンヌの新たな監督に就任しました。彼はこのクラブと3年契約を結びました。
アントネッティが指揮を執った際、サンテティエンヌは当時リーグ・ドゥに低迷していました。しかし、彼の指導の下、チームは着実に力をつけ、2004年には見事にリーグ1への昇格を達成しました。また、2003-04シーズンのクープ・ドゥ・ラ・リーグでは準決勝まで進出しましたが、最終的な優勝者であるソショーに2-3で惜敗しました。彼は3シーズンにわたって指揮を執り、2004年6月にクラブを去りました。
4.5. OGCニース
2005年5月、フレデリック・アントネッティはリーグ1に所属するニースの監督に就任しました。彼はこのクラブで4年間にわたり指揮を執り、重要な功績を残しました。
在任中の2006年には、チームをクープ・ドゥ・ラ・リーグの決勝に導きましたが、ナンシーに1-2で敗れ、準優勝にとどまりました。彼は2009年のシーズン終了時をもってクラブを去りました。
4.6. スタッド・レンヌ
2009年6月2日、フレデリック・アントネッティはリーグ1に所属するレンヌの監督に就任しました。彼はこのクラブで4年間指揮を執り、2013年5月30日に双方合意の上で退任しました。
レンヌでの指揮において、アントネッティはかつてガンバ大阪で指導し、その才能を高く評価していた稲本潤一を2009年に獲得しました。これは、アントネッティが退任時に稲本のフランス移籍を試みてから10年後の実現でした。
また、アントネッティは2017年にレンヌについて「レンヌはまるで『カナダドライ』のようだ。大きなクラブの色をしているが、そうではない」と評し、クラブの運営体制や真の「ビッグクラブ」としての資質に疑問を呈する発言をしました。さらに、フランソワ・ピノー会長との関係についても言及し、「肉体的に、我々は年に2回しか会わなかった。一度はシーズン初めに、もう一度はシーズン半ばに。そして彼は1、2試合しかスタジアムに来なかった」と述べ、クラブ上層部との距離感を語りました。
4.7. リールOSC
2015年11月22日、フレデリック・アントネッティは成績不振に陥っていたリールの新たな監督に就任しました。彼はエルヴェ・ルナールの後任として、3年契約を結びました。就任当時、リールはリーグ1の17位に低迷していました。
彼の最初の公式戦は11月28日のアンジェとのアウェイゲームで、0-2で敗れました。しかし、最初の3ヶ月間は苦戦したものの、チームはシーズン終盤に素晴らしい巻き返しを見せ、2015-16シーズンにはリーグ1で5位という好成績で終えました。また、2016年のクープ・ドゥ・ラ・リーグ決勝にも進出しましたが、パリ・サンジェルマンに1-2で敗れ、準優勝となりました。
2016年8月には、アントネッティはクラブとの契約を2020年6月30日まで延長することに合意しました。しかし、2016年11月22日、クラブはアントネッティが「友好的な方法」で双方合意により退任したことを発表しました。退任時、リールは2016-17シーズンのリーグ戦で19位と低迷しており、ヨーロッパリーグでも3次予選でガバラに合計1-2で敗れ、早々に敗退していました。この退任に際し、アントネッティは約84.00 万 EURの退職金を受け取ったと報じられました。これは、彼の月給12.00 万 EURの7ヶ月分に相当します。
4.8. FCメス
2018年5月24日、フレデリック・アントネッティはリーグ1から降格したばかりのリーグ・ドゥのクラブ、メスの新たな監督に就任しました。彼の指揮下で、チームは最初のシーズンで素晴らしい成績を収め、レッドスターに2-1で勝利し、わずか1年でリーグ1への昇格を確定させました。この功績により、メスはリーグ・ドゥの優勝を果たしました。
2019年5月18日、クラブのベルナール・セラン会長は、アントネッティが個人的な理由により2019-20シーズンは監督を続投しないことを発表し、代わりにゼネラルマネージャーの役割に就くことになりました。監督のポストはアシスタントのヴァンサン・オニョンが引き継ぎました。
その後、アントネッティは2020年10月12日に再びメスの監督として復帰しました。2020-21シーズン、チームはリーグ1で10位という成績でシーズンを終えました。しかし、2022年2月22日、リールとの試合終了後、相手のスポーツディレクターであるシルヴァン・アルマンとの間で衝突を起こし、この一件で10試合のベンチ入り禁止処分を受けました。
2022年6月7日、アントネッティは双方合意によりメス監督を辞任しました。
4.9. RCストラスブール
2023年2月14日、フレデリック・アントネッティは降格圏で苦戦していたストラスブールの監督に就任しました。彼はチームを率いてリーグ1残留に貢献するという重要な任務を果たしました。
クラブのリーグ1残留後、アントネッティの契約は延長されませんでした。退任に際し、アントネッティは声明を発表し、「このようなクラブを指導できたことを嬉しく思う。模範的で情熱的なサポーターと素晴らしい時間を共有できた。彼らは勝利の時も敗北の時も常に我々を支えてくれた」とサポーターへの感謝を表明しました。さらに、「新たな投資家の到来とともに新しい時代が訪れる。彼らはクラブに新たなリソースをもたらすだろう。深く変革が進むこのリーグ1において、彼らの成功を祈る。ストラスブールの人々はそれに値する」と述べ、クラブの将来に対する期待と成功への願いを語りました。
5. 監督成績
クラブ | 就任 | 退任 | 記録 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 得失点差 | 勝率 | 備考 | |||
バスティア | 1994年10月2日 | 1998年5月13日 | 165 | 64 | 45 | 56 | 204 | 195 | +9 | 38.79% | |
ガンバ大阪 | 1998年5月14日 | 1999年6月1日 | 44 | 17 | 0 | 27 | 67 | 81 | -14 | 38.64% | |
バスティア | 1999年6月1日 | 2001年5月19日 | 78 | 30 | 18 | 30 | 105 | 90 | +15 | 38.46% | |
サンテティエンヌ | 2001年10月7日 | 2004年6月2日 | 120 | 55 | 30 | 35 | 129 | 106 | +23 | 45.83% | |
ニース | 2005年5月24日 | 2009年5月18日 | 171 | 62 | 55 | 54 | 173 | 165 | +8 | 36.26% | |
レンヌ | 2009年6月2日 | 2013年5月30日 | 183 | 75 | 43 | 65 | 250 | 215 | +35 | 40.98% | |
リール | 2015年11月22日 | 2016年11月22日 | 45 | 19 | 11 | 15 | 51 | 43 | +8 | 42.22% | |
メス | 2018年5月24日 | 2019年5月18日 | 46 | 28 | 11 | 7 | 71 | 31 | +40 | 60.87% | |
メス | 2020年10月12日 | 2022年6月7日 | 74 | 18 | 25 | 31 | 79 | 112 | -33 | 24.32% | |
ストラスブール | 2023年2月13日 | 2023年6月27日 | 15 | 6 | 4 | 5 | 23 | 18 | +5 | 40.00% | |
合計 | 941 | 374 | 242 | 325 | 1152 | 1056 | +96 | 39.75% |
6. タイトル
フレデリック・アントネッティが選手および監督として獲得した主要なタイトルを以下に示します。
6.1. 指導者時代
- SCバスティア**
- クープ・ドゥ・ラ・リーグ準優勝: 1994-95
- UEFAインタートトカップ: 1997
- ASサンテティエンヌ**
- リーグ・ドゥ: 2003-04
- OGCニース**
- クープ・ドゥ・ラ・リーグ準優勝: 2005-06
- スタッド・レンヌ**
- クープ・ドゥ・ラ・リーグ準優勝: 2012-13
- リールOSC**
- クープ・ドゥ・ラ・リーグ準優勝: 2015-16
- FCメス**
- リーグ・ドゥ: 2018-19
7. 評価と影響
フレデリック・アントネッティは、そのキャリアを通じてフランスサッカー界に多大な影響を与えてきました。特に、リーグ・ドゥに低迷していたチームをトップリーグに昇格させる手腕や、クープ・ドゥ・ラ・リーグなどのカップ戦で複数回決勝進出を果たすなど、結果を出す能力は高く評価されています。彼はしばしば、チームの育成や再建に力を注ぎ、若手選手の才能を見出すことにも長けていました。例えば、ガンバ大阪時代に稲本潤一の才能を高く評価し、後に自身の率いるレンヌに招き入れたエピソードは、彼の選手を見る目と育成への情熱を示すものです。
しかし、アントネッティのキャリアには、議論を呼ぶ出来事も少なくありませんでした。特に、レンヌを「カナダドライ」に例え、クラブの体制やビッグクラブとしての資質に疑問を呈した発言は、彼の率直で時に批判的な姿勢を象徴しています。これは、クラブの組織的な進歩に対する彼の厳しい視点を示しており、単にピッチ上の戦術家であるだけでなく、クラブ経営や環境にも言及する彼の特徴を表しています。
また、メス監督時代の2022年には、リールのスポーツディレクターとの衝突により10試合のベンチ入り禁止処分を受けるという事件も発生しました。このような出来事は、彼の情熱的な性格と、試合やクラブへの強いコミットメントの裏返しであると見ることもできますが、同時にプロフェッショナルとしての行動規範に関する批判の対象ともなりました。
彼はクラブの財政状況や新たな投資家の到来といった、クラブの将来に関する変化にも言及することがあり、特にストラスブール退任時の声明では、クラブのサポーターへの感謝と共に、クラブの新たな時代への期待を表明しました。これは、彼が単なる戦術の専門家にとどまらず、クラブと地域社会との結びつき、そしてサッカー界全体の変革にも関心を持つ人物であることを示唆しています。アントネッティは、選手やファンとの直接的な関係を重視し、彼らがクラブの基盤であるという認識を持っている点が、彼の「民衆のための指導者」という側面を強調しています。
総じて、フレデリック・アントネッティは、チームを率いて結果を出すだけでなく、その率直な発言や時に見せる情熱的な行動、そして育成への献身を通じて、フランスサッカー界に多角的な影響を与え続けている人物と言えるでしょう。