1. 生涯と背景
ヘクター・デ・ラ・クルーズは、1965年10月12日にドミニカ共和国のサバナ・ペルディーダ(サントドミンゴ近郊)で生まれた。ただし、日本の資料では1965年12月5日生まれとされている。
q=Sabana Perdida, Santo Domingo, Dominican Republic|position=right
2. 選手経歴
ヘクター・デ・ラ・クルーズは、俊足と強肩を兼ね備え、内外野をこなせる多才な選手として、複数の国のプロリーグで活躍した。
2.1. マイナーリーグ初期
1984年にトロント・ブルージェイズと契約し、同球団の傘下マイナーリーグで7年間、主に三塁手や外野手としてプレーした。しかし、1990年までプレーしたが、メジャーリーグへの昇格は果たせなかった。
2.2. 日本プロ野球 (NPB)
1991年1月16日、読売ジャイアンツは彼を二軍での育成方針のもと、推定年俸1500.00 万 JPYで獲得した。当時の巨人には呂明賜やフィル・ブラッドリーも在籍しており、外国人枠の制限から、デ・ラ・クルーズは開幕を二軍で迎えた。
同年5月17日、呂明賜の打撃不振を受けて一軍に昇格し、翌5月18日の広島東洋カープ戦(東京ドーム)で「七番・三塁手」として先発出場し、川口和久から初安打を記録した。しかし、5月24日には早くも一軍登録を抹消された。二軍でも35試合で打率.267、1本塁打と成績が低迷したため、将来性に乏しいと判断され、7月15日に契約解除が決定した。彼の後任として、同じく打撃不振だったフィル・ブラッドリーに代わり、デニー・ゴンザレスが巨人に入団している。
2.3. 中華職業棒球大聯盟 (CPBL)
1992年から1993年までは中華職業棒球大聯盟(CPBL)の兄弟エレファンツでプレーし、その後1996年には興農ブルズに所属した。台湾での登録名は「克魯茲クルーズ中国語」。CPBLでは遊撃手を務めることも多く、持ち前の多才さを活かしたユーティリティプレイヤーとして活躍した。
2.4. メキシカンリーグ
CPBLでのプレー後、1997年から1999年までメキシカンリーグでプレーし、このリーグでの活動をもって現役を引退した。
2.5. プレースタイルと特徴
選手時代のヘクター・デ・ラ・クルーズは、50メートル走5.9秒という俊足と強肩を武器とした。さらに、外野手、三塁手、一塁手、そして中華職業棒球大聯盟では遊撃手もこなすなど、非常に高いユーティリティ性が特徴だった。これらの多才な能力は、彼が様々なリーグで活躍する基盤となった。
3. 監督・コーチ経歴
選手引退後、ヘクター・デ・ラ・クルーズは指導者の道に進み、アリゾナ・ダイヤモンドバックスのマイナーリーグ組織やカリブ海のプロ野球リーグで、コーチおよび監督として多くの経験を積んだ。
3.1. マイナーリーグでの指導・監督
デ・ラ・クルーズは、選手引退後すぐにアリゾナ・ダイヤモンドバックスの育成システムでコーチとしてのキャリアをスタートさせた。2001年から2002年にはパイオニアリーグのミズーラ・オスプレイでコーチを務め、2003年から2004年にはクラスAのサウスベンド・シルバーホークスで指導にあたった。
2005年からはミズーラ・オスプレイで監督としてのキャリアを始め、2006年にはパイオニアリーグの優勝旗を獲得した。翌2007年には、シングルAのバイセイリア・オークスを77勝63敗の成績に導き、カリフォルニアリーグのプレーオフ進出を果たした。
2008年から2009年にはクラスAAのモービル・ベイベアーズ(サザンリーグ)の監督を務めた後、2010年と2011年には再びミズーラ・オスプレイの監督として指揮を執った。2010年には28勝47敗と振るわなかったものの、2011年には41勝35敗と成績を大きく改善させ、チームをノース地区で最高の成績に導き、1999年以来となるパイオニアリーグノース地区前半戦優勝を達成した。この功績が評価され、シーズン終了後にはパイオニアリーグ年間最優秀監督賞を受賞した。2012年にはアリゾナリーグのダイヤモンドバックス傘下チームで指導にあたった。
3.2. カリビアンベースボール
2007年から2008年のドミニカ共和国野球リーグのレギュラーシーズン中、デ・ラ・クルーズが監督を務めるティグレス・デル・リセイは2位でシーズンを終え、通常であればカリビアンシリーズへの出場権を得られない状況にあった。しかし、財政的な理由からプエルトリコリーグがレギュラーシーズンを中止したため、ティグレス・デル・リセイがプエルトリコ代表の代わりとしてカリビアンシリーズに出場することになった。
デ・ラ・クルーズはこの異例の状況下でティグレス・デル・リセイを率い、2008年のカリビアンシリーズではドミニカのライバルであるアギラス・シバエーニャス、ベネズエラのティグレス・デ・アラグア、メキシコのヤキス・デ・オブレゴンといった強豪を破り、見事な優勝を果たした。
4. 年度別成績
ヘクター・デ・ラ・クルーズの日本プロ野球(NPB)および中華職業棒球大聯盟(CPBL)における年度別打撃成績は以下の通りである。
| 年度 | チーム | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1991 | 巨人 | 5 | 5 | 4 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .250 | .400 | .250 | .650 |
| 1992 | 兄弟 | 77 | 291 | 236 | 50 | 67 | 16 | 0 | 12 | 119 | 39 | 19 | 17 | 2 | 1 | 50 | 0 | 2 | 55 | 8 | .284 | .412 | .504 | .916 |
| 1993 | 82 | 294 | 261 | 44 | 67 | 17 | 2 | 9 | 115 | 27 | 21 | 6 | 0 | 0 | 31 | 1 | 2 | 61 | 8 | .257 | .340 | .441 | .781 | |
| 1996 | 興農 | 87 | 332 | 290 | 37 | 76 | 17 | 6 | 3 | 114 | 31 | 18 | 11 | 10 | 2 | 28 | 0 | 2 | 62 | 4 | .262 | .329 | .393 | .722 |
| NPB:1年 | 5 | 5 | 4 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .250 | .400 | .250 | .650 | |
| CPBL:3年 | 246 | 917 | 787 | 131 | 210 | 50 | 8 | 24 | 348 | 97 | 58 | 34 | 12 | 3 | 109 | 1 | 6 | 178 | 20 | .267 | .359 | .442 | .801 | |
5. 背番号
ヘクター・デ・ラ・クルーズがプロ選手経歴中に着用した背番号は以下の通りである。
- 49 (1991年 - 読売ジャイアンツ)
- 15 (1992年 - 1993年 - 兄弟エレファンツ)
- 7 (1996年 - 興農ブルズ)
6. 受賞と栄誉
ヘクター・デ・ラ・クルーズは、その指導者としてのキャリアで顕著な功績を残し、以下のような栄誉を獲得した。
- パイオニアリーグ年間最優秀監督賞(2011年)
- カリビアンシリーズ優勝(2008年 - 監督として、ティグレス・デル・リセイ)