1. 生い立ちと背景
ベニー・アグバヤニは、その多文化的な背景と幼少期から学業に至るまで、様々な要素が融合して形成された。
1.1. 出生と家族構成
ベニー・アグバヤニは1971年12月28日にアメリカ合衆国ハワイ州ホノルルで生まれた。彼はフィリピン人、サモア人、そしてハワイ先住民の血を引く多文化的な背景を持っている。妻のニエラ(Niela)との間には、アレイア(Aleia)、アイラナ(Ailana)という二人の娘と、ブルイン(Bruin)という息子がいる。
1.2. 学歴と少年時代
アグバヤニはセント・ルイス・スクール、ハワイ・パシフィック大学、そしてオレゴン工科大学で学んだ。彼は1989年にハワイ州高校体育協会殿堂(Hawaii High School Athletic Association Hall Of Honor)に殿堂入りを果たしている。後に娘のアイラナも2022年に同殿堂入りを果たした。息子であるブルインは現在、セント・ルイス・スクールで高校野球のスター選手であり、2025年からはミシガン大学で野球をすることを表明している。
2. 選手としてのキャリア
アグバヤニのプロ野球選手としてのキャリアは、MLBでのマイナーリーグ時代から始まり、メジャーリーグを経て、日本プロ野球で輝かしい成功を収めるに至る、多岐にわたる道のりを辿った。
2.1. マイナーリーグ時代
アグバヤニは当初、カリフォルニア・エンゼルスからMLBドラフトで指名されたものの、契約には至らなかった。その後、1993年6月3日のMLBドラフト30巡目でニューヨーク・メッツに指名され、プロ契約を結んだ。メッツのトリプルA傘下チームであるノーフォーク・タイズでは、地元のスター選手として活躍した。
1994年8月から1995年4月にかけて行われた1994年から1995年のMLBストライキの影響で、1995年のMLBスプリングトレーニングには球団フロントの指示により代替選手として参加した。このため、彼はMLB選手会からはスト破りを行った報復措置として、メジャー昇格後も選手会への加入が認められなかった。
1996年にはハワイ・ウィンターリーグに参加し、ヒロ・スターズに所属した。このチームの監督は後にニューヨーク・メッツで同僚となる新庄剛志を派遣していたトレイ・ヒルマンであった。
2.2. メジャーリーグ時代 (MLB)
アグバヤニは、ニューヨーク・メッツでメジャーリーグデビューを果たし、その後コロラド・ロッキーズ、ボストン・レッドソックスでもプレーした。
2.2.1. ニューヨーク・メッツ時代
アグバヤニは1998年6月17日にニューヨーク・メッツでメジャーリーグデビューを果たした。この試合ではモントリオール・エクスポズ戦の8回に中堅手のブッチ・ハスキーに代わり守備固めとして出場した。同年6月19日には初の先発出場を果たし、フロリダ・マーリンズの投手ブライアン・メドウズから2塁へ単打を放ち、メジャー初安打を記録した。

1999年にはオールスターゲームまでに11本塁打を放ち、メッツの新人選手としてはロン・スウォボダ(1965年の15本塁打)に次ぐ歴代2位の記録を樹立した(アイク・デイビスも2010年に11本塁打を記録)。この記録は、後にピート・アロンソが2019年に30本塁打を放ち更新された。
2000年8月12日、サンフランシスコ・ジャイアンツ戦で彼は記憶に残る珍プレーに関わった。4回裏、メッツが1対0でリードする中、ジャイアンツは満塁のチャンスを迎えた。1死満塁の状況で、ジャイアンツの捕手ボビー・エスタレーラが左翼へフライを打ち上げた。アグバヤニはこれを3アウトと勘違いし、捕球後にスタンドの少年(ジェイク・バーンズ)にボールを渡し、ベンチへ戻ろうとした。しかし、間違いに気づいたアグバヤニはスタンドへ駆け戻り、少年の手からボールを取り返し、本塁へ送球した。残念ながら、ボールがフィールドを離れた時点でプレーは停止し、走者全員に2つの進塁が認められたため、ジェフ・ケントとエリス・バークスが本塁へ生還し、ジャイアンツが2対1と逆転した。しかし、メッツはこの試合を3対2で逆転勝利し、アグバヤニは試合後に少年にもう一度ボールをプレゼントした。
アグバヤニは2000年シーズンに放った2本の本塁打でメッツファンに深く記憶されており、この活躍から「ハワイアン・パンチ」(Hawaiian Punch英語、人気フルーツドリンクにちなむ)という愛称が定着した。2000年3月30日、東京ドームで行われたシカゴ・カブス戦では延長11回に代打満塁本塁打を放ち、チームにシーズン初勝利をもたらした。これはMLB公式戦において日本で打たれた初の満塁本塁打であり、2019年3月20日にドミンゴ・サンタナがオークランド・アスレチックス戦で記録するまで、唯一の記録であった。同年10月7日には、ナショナルリーグ地区シリーズのジャイアンツ戦第3戦で、延長13回にアーロン・フルツからサヨナラ本塁打を放ち、勝利に貢献した。さらに、2000年のワールドシリーズでメッツが唯一勝利した試合でも、彼は決勝打を放っている。
2.2.2. コロラド・ロッキーズ、ボストン・レッドソックス時代
2002年1月21日、アグバヤニはメッツ、コロラド・ロッキーズ、ミルウォーキー・ブルワーズが関わる10選手、3球団のトレードの一環として、ニューヨークからコロラドへ移籍した。ロッキーズでは48試合に出場し、打率.205、4本塁打、19打点と苦戦し、8月下旬にウェイバー公示された。
2002年8月26日、ボストン・レッドソックスがロッキーズからアグバヤニをウェイバー公示で獲得した。レッドソックスはプレーオフ進出を目指す中で彼を獲得し、アグバヤニは13試合の出場で打率.297、8打点と終盤戦で比較的良い成績を残した。2002年9月29日のタンパベイ・デビルレイズ戦(フェンウェイ・パーク)が彼のMLB最終試合となり、この試合でアグバヤニは4打数1安打1四球1三振を記録し、レッドソックスは勝利を収めた。
2.2.3. ケビン・ミラー問題
2002年シーズンオフ、日本プロ野球への移籍を巡る「ケビン・ミラー問題」が発生した。中日ドラゴンズがケビン・ミラーの獲得を発表したものの、ボストン・レッドソックスがウェイバー公示で紳士協定を破りミラーに入札した。レッドソックスはミラーの譲渡を要求し、その代替選手としてアグバヤニの名前を挙げた。しかし、中日側がこの要求を拒否したため、アグバヤニの日本球界入りはこの時には実現しなかった。結果として中日はミラーの代わりにアレックス・オチョアを獲得した。
2.3. 日本プロ野球時代 (NPB)
アグバヤニは日本プロ野球の千葉ロッテマリーンズで6シーズンにわたりプレーし、チームの中心選手として活躍した。
2.3.1. 千葉ロッテマリーンズ入団
2003年オフ、ニューヨーク・メッツ時代に指導を受けたボビー・バレンタインが9年ぶりに一軍監督として復帰する千葉ロッテマリーンズに入団することが決まった。彼の背番号は「50」に決定した。この背番号50は、ハワイ州がアメリカ合衆国の50番目の州であることに由来している。ロッテ入団時には、彼自身の希望もあり、当時背番号50を着用していた浅間敬太から背番号を譲り受けた。
2.3.2. 主な活躍と成績
2004年の開幕戦となる西武ライオンズ戦(西武ドーム)に5番・左翼手として先発出場し、来日初打席で西武の先発松坂大輔からタイムリーヒットを記録した。この年、キャンプ中から前年に韓国で56本塁打を放った実績を持つ李承燁に注目が集まっていたが、李は日本野球への適応に苦しみ、わずか1ヶ月で二軍に降格した。一方でアグバヤニは打率3割を上回る好調な打撃を維持し、5月には4番の座を奪取。日替わり打線が組まれる中で、アグバヤニだけはシーズン終了まで不動の4番として定着し、最終的にチーム三冠となる打率.315、35本塁打、100打点を記録した。この35本塁打は、千葉移転後のチーム史上最多本塁打記録となった。また、守備・走塁面でも外国人選手としては期待以上の動きを見せ、8月からは中堅手のレギュラーとして活躍し、チームトップの8盗塁を記録した。右投手には強くないという前評判があったが、この年は左右関係なく打ちこなし、三振が少なく、勝負強い打撃を見せた。
2005年は4月6日と8日に2試合連続満塁本塁打を放つなど活躍した。これは2003年のタフィ・ローズ(近鉄)以来の日本プロ野球史上5人目、パ・リーグ史上4人目の記録である。しかし、故障が目立ち夏場に戦線離脱した。アグバヤニと同じく外国人選手で外野を守れるマット・フランコ、ヴァル・パスクチ、李承燁がいたこともあり、シーズン終盤はレギュラーを再獲得するには至らなかった。最終的に98試合の出場に終わり、規定打席にも到達せず、前年を下回る成績に終わった。しかし、プレーオフ、日本シリーズ、アジアシリーズではほとんどの試合に6番でスタメン出場し、特にアジアシリーズでは9打点と活躍し、初代アジアシリーズのMVPを獲得した。これはマリーンズにとって31年ぶりの日本シリーズ制覇、そしてアジアシリーズ初代王者のタイトル獲得であった。
2006年には2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表のエキシビションゲームにおいて、12球団選抜チームの4番を務めた。レギュラーシーズンでも7月まで4番の座を守ったが、この年も夏場に故障で離脱。里崎智也に4番を譲る形となった。足の故障から半分以上が指名打者としての出場だったが、2年ぶりに規定打席に到達し、打率.281、17本塁打、65打点を記録した。
2007年にはセ・パ交流戦で首位打者を獲得した。しかし、故障の影響で122試合の出場に留まり、打率.272、13本塁打、51打点であった。
2008年も故障や不振の影響で97試合の出場に終わり、本塁打も5本にとどまり、規定打席に到達することなくシーズンを終えた。
2.3.3. 負傷と引退
2009年も前年と同様の起用法がなされた。この年限りでボビー・バレンタイン監督の退任が決まると同時に、アグバヤニもチーム構想から外れることになった。バレンタイン監督の計らいにより、9月27日の対オリックス・バファローズ戦がアグバヤニの「引退試合」として設定された。この試合の2回裏に山本省吾から勝ち越しのソロ本塁打を打った直後の3回、早川大輔と交代した。球場アナウンスで「ベニー選手、ただ今の打席がマリーンズでの最終打席となりました」とファンに向けて、唐突に退団が明かされた。アグバヤニは後に、この日が最後の出場になることはバレンタイン監督以外には誰にも明かさなかったと語っている。結局この年は95試合の出場に終わった。同年10月7日、チェイス・ランビン、ゲイリー・バーナム・ジュニアと共に退団が発表され、現役を引退した。
3. 選手としての特徴
アグバヤニは攻守にわたる能力と、特に重要な局面での強さで知られる選手であった。
3.1. 打撃と走塁
アグバヤニの打撃は、パワーに加えて柔軟性を兼ね備えているのが特徴であった。外に逃げる変化球に対してもバットをしっかりと止めることができ、三振が少なく、チームプレーに徹した打撃も可能であった。また、接戦や試合終盤での勝負強さには定評があり、2006年には1点差以内の得点圏打率が4割を超え、9回での打率も.394を記録するなど、そのクラッチ能力の高さを示した。キャリア後半には長打力に衰えが見られたものの、NPB通算613安打は千葉ロッテマリーンズの外国人野手としては歴代4位の記録であり、在籍6年間は千葉移転後の球団最長記録である。
3.2. 守備とポジション
アグバヤニは守備能力も悪くなく、特にニューヨーク・メッツでのメジャーデビュー戦では、守備固めとして中堅手で出場した。千葉ロッテマリーンズに入団した2004年当初も中堅手として起用されることが多かった。しかし、キャリアを通じて故障の影響もあり、翌年以降は主に左翼手や指名打者として起用される機会が増えた。
4. 人物とエピソード
アグバヤニは温厚な性格で知られ、多くのファンに愛された。その人柄を物語るエピソードや、家族との絆も深い。
4.1. 愛称と背番号の由来
アグバヤニは、ハワイ出身であることにちなみ、「ハワイアン・パンチ」(Hawaiian Punch英語)という愛称で親しまれた。彼の背番号「50」は、ハワイ州がアメリカ合衆国の50番目の州であることに由来している。千葉ロッテマリーンズ入団時には、彼自身の希望により、当時背番号50を着用していた浅間敬太から譲り受けた。また、ロッテでの彼の応援歌は、ハワイ民謡の『アロハ・オエ』が原曲となっている。
4.2. 性格と印象的な出来事
アグバヤニは温厚な性格で、試合中に頭部付近に危険球が来ても、基本的には何事もなかったかのようにやり過ごすことが多かった。しかし、いくつかの例外も存在する。
2006年にはオリックス・バファローズの本柳和也から死球を受けた際、ヘルメットを地面に叩きつけ、あわや乱闘かという状況になった。しかし、本柳が降板した後、アグバヤニは相手ベンチ裏へ謝罪に向かい、本柳と握手を交わして和解したと報じられた。
2008年9月24日の埼玉西武ライオンズ戦の4回表の攻撃では、すでに里崎智也、フリオ・ズレータが死球を受けており、さらにアグバヤニ自身がこのイニング3つ目の死球を受けた。これにアグバヤニは怒り、相手捕手の細川亨を首投げしたことで、両チーム総出の大乱闘に発展した。アグバヤニはこの行為により暴力行為で退場処分を受けたが、試合後には細川に謝罪し、和解している。
ニューヨーク・メッツ時代、2001年のシーズンにはチームメイトの新庄剛志と共に「チームの注目選手」として抜擢され、球団のテレビCMで共演するなど、人柄が伺えるエピソードがある。
4.3. 家族関係と影響
アグバヤニは妻のニエラと、娘のアレイア、アイラナ、息子のブルインという3人の子供がいる。娘のアレイアはカリフォルニア大学バークレー校で2020年から2023年までソフトボール選手としてプレーし、卒業後もブリガムヤング大学で公衆衛生学の修士課程を履修しながら、2024年シーズンもソフトボールを続けた。もう一人の娘であるアイラナもブリガムヤング大学で2024年シーズンにソフトボール選手としてプレーし、2025年シーズンからはオクラホマ大学へ移籍することになった。息子であるブルインは、現在セント・ルイス・スクールで高校野球のスター選手として活躍し、2025年からはミシガン大学でプレーすることを決めている。
千葉ロッテマリーンズ在籍中、彼はチームメイトの福浦和也の野球に対する真摯な姿勢に感銘を受けた。この感動から、アグバヤニは誕生した息子のミドルネームに「カズヤ」と名付け、福浦との深い絆を示している。
5. 引退後の活動
ベニー・アグバヤニは、現役引退後も多岐にわたる分野で活動している。
2010年には、故郷のオアフ島にあるミリラニ高校で教育アシスタントとして勤務した。2016年にはサブロー、2019年には福浦和也の引退試合にビデオメッセージを送り、日本のファンに健在ぶりをアピールした。
2019年時点では、ハワイアン航空のランプエージェント(航空機の誘導や貨物搭載などを行う地上職員)として働いている。2018年に千葉ロッテマリーンズがハワイアン航空とパートナーシップ契約を締結した際には、ハワイアン航空側の広報として、千葉ロッテマリーンズのマスコットである「謎の魚」と度々コラボレーションし、親しみやすい姿を見せている。また、ホノルルにあるイオラニ・スクール(ʻIolani School)では、彼自身の娘たちが通いソフトボールをプレーしていた縁もあり、ソフトボール部のヘッドコーチを務めている。
6. 受賞と記録
ベニー・アグバヤニは、そのキャリアを通じて数々の賞と記録を達成している。
- アジアシリーズMVP:1回 (2005年)
- ハワイ州高校体育協会殿堂入り:1989年(娘のアイラナも2022年に殿堂入り)
6.1. 初記録 (NPB)
- 初出場・初先発出場:2004年3月27日、対西武ライオンズ1回戦(西武ドーム)、5番・左翼手として先発出場
- 初打席・初安打・初打点:同上、1回表に松坂大輔から中前適時打
- 初本塁打:2004年3月30日、対大阪近鉄バファローズ2回戦(大阪ドーム)、9回表にヘクター・カラスコから左越ソロ
- 初盗塁:2004年4月6日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(千葉マリンスタジアム)、2回裏に二盗(投手:ライアン・ループ、捕手:髙橋信二)
6.2. 背番号
- 39 (1998年)
- 50 (1999年 - 2002年、2004年 - 2009年)
6.3. 年度別打撃成績
年度 | 球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998 | NYM | 11 | 16 | 15 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 1 | .133 | .188 | .133 | .321 |
1999 | NYM | 101 | 314 | 276 | 42 | 79 | 18 | 3 | 14 | 145 | 42 | 6 | 4 | 0 | 3 | 32 | 4 | 3 | 60 | 8 | .286 | .363 | .525 | .888 |
2000 | NYM | 119 | 414 | 350 | 59 | 101 | 20 | 1 | 15 | 168 | 60 | 5 | 5 | 0 | 3 | 54 | 2 | 7 | 68 | 6 | .289 | .391 | .480 | .871 |
2001 | NYM | 91 | 339 | 296 | 28 | 82 | 14 | 2 | 6 | 118 | 27 | 4 | 5 | 1 | 1 | 36 | 0 | 5 | 73 | 11 | .277 | .364 | .399 | .763 |
2002 | COL | 48 | 128 | 117 | 10 | 24 | 5 | 0 | 4 | 41 | 19 | 0 | 0 | 0 | 1 | 10 | 0 | 0 | 35 | 4 | .205 | .266 | .350 | .616 |
2002 | BOS | 13 | 43 | 37 | 5 | 11 | 1 | 0 | 0 | 12 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0 | 5 | 1 | .297 | .395 | .324 | .720 |
'02計 | 61 | 171 | 154 | 15 | 35 | 6 | 0 | 4 | 53 | 27 | 1 | 0 | 0 | 1 | 16 | 1 | 0 | 40 | 5 | .227 | .298 | .344 | .642 | |
2004 | ロッテ | 130 | 552 | 457 | 89 | 144 | 31 | 1 | 35 | 282 | 100 | 8 | 1 | 0 | 4 | 86 | 12 | 5 | 77 | 10 | .315 | .426 | .617 | 1.043 |
2005 | ロッテ | 98 | 389 | 351 | 49 | 95 | 22 | 0 | 13 | 156 | 71 | 1 | 1 | 0 | 3 | 34 | 0 | 1 | 51 | 15 | .271 | .334 | .444 | .779 |
2006 | ロッテ | 118 | 473 | 417 | 59 | 117 | 18 | 1 | 17 | 188 | 65 | 4 | 3 | 0 | 4 | 49 | 0 | 3 | 72 | 17 | .281 | .357 | .451 | .808 |
2007 | ロッテ | 122 | 454 | 390 | 45 | 106 | 21 | 0 | 13 | 166 | 51 | 7 | 4 | 0 | 3 | 53 | 1 | 8 | 86 | 12 | .272 | .368 | .426 | .793 |
2008 | ロッテ | 97 | 323 | 279 | 35 | 79 | 12 | 3 | 5 | 112 | 42 | 3 | 1 | 0 | 1 | 42 | 0 | 1 | 51 | 8 | .283 | .378 | .401 | .779 |
2009 | ロッテ | 95 | 320 | 272 | 23 | 72 | 14 | 1 | 7 | 109 | 31 | 0 | 3 | 0 | 3 | 44 | 1 | 1 | 59 | 8 | .265 | .366 | .401 | .767 |
MLB:5年 | 383 | 1254 | 1091 | 145 | 299 | 58 | 6 | 39 | 486 | 156 | 16 | 16 | 1 | 8 | 139 | 7 | 15 | 246 | 31 | .274 | .362 | .445 | .807 | |
NPB:6年 | 660 | 2511 | 2166 | 300 | 613 | 118 | 6 | 90 | 1013 | 360 | 23 | 13 | 0 | 18 | 308 | 14 | 19 | 396 | 70 | .283 | .374 | .468 | .842 |
6.4. 年度別守備成績
年度 | 球団 | 左翼手 | 中堅手 | 右翼手 | 外野手 | ||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
1998 | NYM | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 6 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||
1999 | NYM | 4 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 47 | 49 | 1 | 1 | 0 | .980 | 45 | 66 | 1 | 1 | 0 | .985 | - | |||||
2000 | NYM | 3 | 9 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 102 | 142 | 3 | 3 | 0 | .980 | 12 | 9 | 0 | 1 | 0 | .900 | - | |||||
2001 | NYM | - | 84 | 123 | 1 | 6 | 0 | .954 | - | - | |||||||||||||||
2002 | COL | - | 37 | 52 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | - | - | |||||||||||||||
2002 | BOS | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 11 | 20 | 1 | 1 | 0 | .955 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||
'02計 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 48 | 72 | 2 | 1 | 0 | .987 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||
2004 | ロッテ | - | - | - | 122 | 205 | 4 | 2 | 0 | .991 | |||||||||||||||
2005 | ロッテ | - | - | - | 74 | 92 | 2 | 2 | 0 | .979 | |||||||||||||||
2006 | ロッテ | - | - | - | 45 | 57 | 2 | 1 | 0 | .983 | |||||||||||||||
2007 | ロッテ | - | - | - | 91 | 129 | 4 | 2 | 0 | .985 | |||||||||||||||
2008 | ロッテ | - | - | - | 54 | 63 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||||||||||||
2009 | ロッテ | - | - | - | 39 | 46 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | |||||||||||||||
MLB:5年 | 10 | 17 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 282 | 386 | 7 | 11 | 0 | .973 | 66 | 83 | 1 | 2 | 0 | .977 | - | ||||||
NPB:6年 | - | - | - | 425 | 592 | 14 | 7 | 0 | .989 |
7. 評価と影響
ベニー・アグバヤニの野球キャリアは、ファンとの特別な絆、そして後続の選手への影響という点で高く評価されている。
7.1. ファンからの人気と支持
メジャーリーグでは限定的かつ一時的な成功に留まったにもかかわらず、アグバヤニはファンから絶大な人気を博した。特にニューヨークでは、彼の活躍時には「ベニー、ベニー!」という応援コールが巻き起こり、エルトン・ジョンの楽曲「Bennie and the Jets」をもじった「Benny and the Mets」という替え歌も歌われるなど、熱狂的な支持を受けた。
日本においても、彼の温厚な人柄、勝負強い打撃、そしてハワイ出身というバックグラウンドが相まって、ファンの間で愛された。ロッテ入団時に背番号50を自ら希望し、当時の選手から譲り受けたエピソードや、彼の応援歌がハワイ民謡の『アロハ・オエ』を原曲としていることも、ファンとの絆を深める要素となった。
7.2. 後世への影響
アグバヤニの野球に対する真摯な姿勢、特に日本での献身的なプレーは、多くの後輩選手に影響を与えた。千葉ロッテマリーンズで共にプレーした福浦和也に対する彼の尊敬の念は、自身の息子に「カズヤ」というミドルネームを付けるという形で示され、両選手の間に存在する深い絆を物語っている。アグバヤニの多文化的な背景を持ちながら、メジャーリーグと日本プロ野球という異なる環境で成功を収めたキャリアは、後続の多文化的なアスリートにとって、ロールモデルとなり得る存在としての影響を与えた。