1. 概要
教皇ベネディクトゥス9世は、ローマでTheophylactus de Tusculumテオフィラクトゥス・デ・トゥスクルムラテン語として生まれた。彼は1032年10月から1048年7月までの間に、合計3期にわたってローマ教皇と教皇領の統治者として在位した。史上最年少の教皇として、就任時は約20歳であったが、一部の資料では11歳から12歳であったという見方もある。彼は史上唯一、複数回にわたり教皇の座に就いた人物であり、また教皇職を売却したと非難された唯一の人物でもある。
彼の統治は極めて議論の的となり、放蕩な生活様式や聖職売買、暴力行為といった行動は、同時代の人々から厳しい批判を招き、教皇庁の腐敗の象徴と見なされた。在位期間中には、市民の反乱によるローマ追放や、その後の復帰、そして教皇職売却といった前例のない出来事が繰り返され、最終的には3人の教皇候補が事実上鼎立する異常事態を招いた。この記事では、ベネディクトゥス9世の特異な生涯と、その行動が当時の教会と社会に与えた深刻な影響に焦点を当てる。
2. 初期生い立ちと家族背景
ベネディクトゥス9世は、本名テオフィラクトゥスとしてローマの有力貴族トゥスクルム伯爵家に、およそ1012年頃に生まれた。彼の父親はトゥスクルム伯アルベリクス3世であり、その血筋は複数の歴代教皇と深く繋がっていた。
具体的には、彼は先代教皇のヨハネス19世とベネディクトゥス8世の甥にあたる。さらに、ヨハネス12世の大甥であり、ヨハネス11世の曾々甥でもあった。また、ベネディクトゥス7世とは二世代隔てた従兄弟の関係にあり、セルギウス3世とは遠い親戚であった可能性も指摘されている。
2.1. 家族関係と最初の教皇選出
ベネディクトゥス9世の最初の教皇選出には、彼の強力な家族関係、特に父親であるアルベリクス3世が決定的な役割を果たした。1032年10月、アルベリクス3世は聖職売買(シモニア)によってローマ市民を買収し、息子の教皇就任を実現させた。
この教皇就任時、ベネディクトゥス9世はわずか18歳から20歳という若さであった。しかし、Rupert Glaberルパート・グラベールラテン語という修道士の証言に基づき、一部の資料では彼が11歳か12歳であったという説も存在する。彼が就任した際にはまだ平信徒であり、聖職の階級をわずか一日で全て与えられたという異例の経緯をたどった。これは、教皇選出のプロセスにおいて、その人物の聖職者としての経歴や資質よりも、家族の政治的影響力が決定的な要因となったことを示している。
3. 最初の教皇在位 (1032年-1044年)
ベネディクトゥス9世の最初の教皇在位期間は、1032年10月から1044年9月まで続いた。この時期の彼の統治は極めてスキャンダルに満ちたものであり、ローマでは派閥間の抗争が絶えず続いた。
歴史家フェルディナンド・グレゴロヴィウスは、ベネディクトゥス9世について「まるで地獄から来た悪魔が司祭の姿を借りて聖ペトロの座を占領し、その厚かましい行状によって宗教の聖なる秘跡を汚しているかのようだった」と書き記し、Horace K. Mannホレース・K・マン英語も彼を「聖ペトロの座にとって恥ずべき存在」と評した。
特に教皇ウィクトル3世は、その著書『対話録』第3巻において、「彼の強姦、殺人、そして口に出せないような暴力や男色行為について語るに、私はその思考に身震いを禁じえない。教皇としての彼の生涯は、あまりにも卑劣で、不潔で、忌まわしいものであった」とまで言及している。また、ピアチェンツァの司教ベンノーは、ベネディクトゥス9世を「多くの卑しい姦淫と殺人」の罪で非難し、聖ペトルス・ダミアニは彼の著書『Liber Gomorrhianusゴモラの書ラテン語』の中で、彼が日常的に男色や獣姦を行い、乱交を主宰していたと非難した。
一方で、歴史家Reginald Lane Pooleレジナルド・レーン・プール英語は、このような非難について「激しい政治的対立の時代には、現代では決して提案されないような非難がなされ、信じられることを我々はよく知っている」と指摘している。プールはさらに、これらの告発の信憑性は、証拠よりも蓋然性によって決定され、トゥスクルム家の教皇職支配に対する反発であった可能性を示唆している。彼は「教皇職の売却によって彼が自らの名声を失墜させるまで、彼の悪行について具体的な話は聞かれなかった。そして、時代と場所が離れるにつれて、彼の性格はさらに悪化していく」と述べ、ベネディクトゥスを「怠慢な教皇であり、おそらく放蕩な人物であった」としながらも、彼に対する描写は敵対勢力が優勢であった時期に描かれたものであり、彼に味方する者はいなかった点を指摘している。
1036年、ベネディクトゥス9世は一時的にローマから追放されたものの、神聖ローマ皇帝コンラート2世の助けにより短期間で復帰した。コンラート2世は不法にミラノの大司教アリベルトを廃位したことで破門されたが、ベネディクトゥス9世は後にこの決定を承認した。しかし、1044年9月、彼の放蕩な生活様式への反対派によって再びローマを追放され、後任にはシルウェステル3世が選出された。
4. 2度目の教皇在位 (1045年) と教皇職売却
シルウェステル3世が教皇に選出された後も、ベネディクトゥス9世は教皇位を諦めなかった。1045年4月、ベネディクトゥス9世の勢力はローマに帰還し、彼の対立者であるシルウェステル3世を追放することで、ベネディクトゥスは教皇職に復帰した。これが彼の2度目の教皇在位となったが、この期間はわずか数ヶ月に終わった。
彼は自身の地位を維持する能力に疑問を感じ、また従兄弟との結婚を望んでいたことから、1045年5月に教皇職を辞任することを決意した。彼は自身の代父であり、敬虔な司祭であったヨハンネス・グラティアヌスに辞任の可能性について相談した。ベネディクトゥスは、自身の教皇選出にかかった費用を補償してくれるならば、教皇職をグラティアヌスに譲り渡すと申し出た。この売却益は、金650 kg以上に相当するとも伝えられている。ヨハンネス・グラティアヌスはこの金銭を支払い、その後グレゴリウス6世として教皇に就任した。聖ペトルス・ダミアニはこの変化を喜び、新教皇にイタリアの教会のスキャンダル、特にペーザロ、チッタ・ディ・カステッロ、ファーノの司教たちの不正に対処するよう促す書簡を送った。
しかし、ベネディクトゥス9世はすぐに辞任を後悔し、ローマに戻ってグレゴリウス6世を廃位しようと試みた。さらに、この混乱に乗じてシルウェステル3世も自らの教皇としての正当性を主張し、教皇の座を要求したため、事態は極度の混乱に陥り、事実上3人の教皇が鼎立するという異常な状況となった。
5. 3度目の教皇在位 (1047年-1048年) と最終的な廃位

2度目の教皇在位を終えた後、ベネディクトゥス9世は再び教皇座に復帰しようと試みた。彼が辞任を後悔し、ローマに戻ってラテラン宮殿を占拠したのは1047年11月のことで、これにより彼の3度目の教皇在位が始まった。しかし、この時期も長くは続かなかった。
この異常事態に対し、影響力のある聖職者や俗人たちは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世に秩序の回復を求めてアルプス山脈を越えてイタリアへ介入するよう訴えた。ハインリヒ3世はこれに応じ、1046年12月にストリで教会会議を召集した。

ストリ教会会議において、ベネディクトゥス9世とシルウェステル3世は教皇職を剥奪された。グレゴリウス6世は、ベネディクトゥスとの取引がシモニア(聖職売買)にあたると見なされたため、辞任を促された。ハインリヒ3世はその後、ドイツ人のスイドガー(バンベルク司教)を新たな教皇として選出し、クレメンス2世として戴冠させた。ベネディクトゥス9世はこの会議に出席せず、自身の廃位を受け入れようとはしなかった。
クレメンス2世が1047年10月に死去すると、ベネディクトゥス9世は同年11月にラテラン宮殿を奪還し、再び教皇となった。しかし、1048年7月にはドイツ軍によってローマから追放された。権力の空白を埋めるため、ドイツ出身のポッポ・デ・ブリクセンが教皇ダマスス2世として選出され、広くその正当性が認められた。ベネディクトゥス9世は1049年にシモニアの罪で出廷を求められたが、これを拒否したため、最終的に破門された。
6. 批判と論争
ベネディクトゥス9世の行動と教皇在位は、同時代の人々や後世の歴史家から数々の厳しい批判と論争を体系的に引き起こした。彼の統治は、教皇権の評判に深刻な影響を与えた。
彼の最大の批判は、その道徳的な堕落に向けられた。教皇ウィクトル3世は彼を「聖ペトロの座を占領した地獄からの悪魔」と形容し、「彼の強姦、殺人、そして口に出せないような暴力や男色行為」を非難した。さらに、彼は「教皇としての人生は、あまりにも卑劣で、不潔で、忌まわしいものであった」と述べ、彼の行状を嫌悪した。ピアチェンツァの司教ベンノーも「多くの卑しい姦淫と殺人」の罪で彼を糾弾し、聖ペトルス・ダミアニは『Liber Gomorrhianusゴモラの書ラテン語』において、彼が日常的に男色や獣姦を行い、乱交を主宰していたと告発した。これらの記述は、彼の生活様式が当時の教会が求める聖職者の規範から著しく逸脱していたことを示している。
また、彼の教皇職売却は、聖職売買(シモニア)という重大な教会法上の罪として厳しく非難された。彼は父親の贈賄によって最初の教皇に選出されただけでなく、2度目の在位後には自身の代父に教皇職を金銭と引き換えに譲り渡した。この行為は、教会の聖なる職務が私利のために利用された象徴的な出来事と見なされ、教会の権威を大きく損なった。
しかし、彼の行動に対する批判には、当時の複雑な政治的背景も考慮する必要があるという見方も存在する。歴史家レジナルド・レーン・プールは、ベネディクトゥスに対する告発の多くは、激しい政治的対立の最中に敵対者によってなされたものであり、その信憑性は証拠よりも蓋然性によって判断されたと指摘している。プールは、教皇職売却の後に彼の悪行が本格的に語られ始め、時代や場所が離れるにつれてその悪評が増幅されたと述べた。彼はベネディクトゥスを「怠慢で、おそらく放蕩な人物」と評しつつも、彼が敵対勢力に囲まれ、擁護者がいなかった状況を考慮すべきだと主張した。一部の資料では、彼の道徳的欠陥にもかかわらず、神学的な問題においては正統なキリスト教信仰に忠実であったと評価する声もある。
7. 晩年と死
最終的な廃位と破門処分を受けた後のベネディクトゥス9世の人生については、不明瞭な点が多い。しかし、彼は最終的に教皇座への未練を捨てたと見られている。
いくつかの記録によれば、彼はグロッタフェッラータの修道院で静かな余生を送り、1055年12月から1056年1月の間に死去したとされる。また、別の史料では、1065年頃、あるいはさらに後の1085年に死去したとも伝えられている。彼の遺体はグロッタフェッラータ修道院に埋葬された。
この修道院のアッバスである聖バルトロメウスの証言によれば、ベネディクトゥス9世は晩年、過去に教皇として犯した罪を深く悔い改め、悔悟の生活を送ったとされる。彼は修道士となったとも伝えられているが、この最後の主張については、その真偽が議論されている。いずれにせよ、彼の晩年は、権力への執着から解放され、内省的な生活を送ったという見方が支配的である。
8. 歴史的評価と遺産
ベネディクトゥス9世に対する長期的な歴史的評価は、極めて否定的なものが大半を占めている。彼はしばしば、ローマ・カトリック教会の歴史上「最悪の教皇の一人」として挙げられる。聖ペトルス・ダミアニやフェルディナンド・グレゴロヴィウスといった著名な聖職者や歴史家が、彼の乱行や聖職売買を厳しく非難したことが、その評価を決定づける要因となった。彼の治世は、教皇庁が政治的介入と道徳的腐敗によって危機に瀕していた時代の象徴と見なされている。
彼の在位期間中の出来事は、教皇位が世俗的な権力争いの道具となり、聖職売買が横行していた当時の教会の混乱ぶりを如実に示している。ベネディクトゥス9世のケースは、特に教皇職を売却するという前代未聞の行為によって、教会の権威と道徳的基盤に深刻な傷跡を残した。
しかし、一方で、彼の行動を当時の複雑な政治状況の中で再評価しようとする試みも存在する。歴史家レジナルド・レーン・プールは、彼に対する告発が、主に政治的敵対者によってなされたものであり、誇張が含まれている可能性を指摘している。彼の道徳的堕落が強調される一方で、彼が神学的な問題においては正統なキリスト教信仰を堅持していたという側面も一部で言及されている。
ベネディクトゥス9世の遺産は、現代において「教会への政治的干渉の危険性」を示す警告として語られることが多い。彼のスキャンダルと腐敗に満ちたリーダーシップは、教会史上最も議論される人物の一人であり続けている。それでも、彼の物語は、過ちを犯した人物であっても悔い改めと謙遜の重要性を教える側面を持つとも言われている。彼は、史上最年少で教皇となり、複数回にわたり教皇の座に就き、そして教皇職を売却した唯一の人物として、教会史に特異な足跡を残した。