1. 概要
ベルナール・ラコンブ(Bernard Lacombeフランス語、1952年8月15日 - )は、フランスのリヨン出身の元サッカー選手であり、後に指導者、クラブの役員を務めました。現役時代のポジションは主にストライカーで、特にリヨン、サンテティエンヌ、ボルドーといったフランスの主要クラブで活躍しました。また、フランス代表の一員としても重要な役割を担いました。
ラコンブは、リーグ・アンで通算255ゴールを記録し、フランスの1部リーグにおける歴代2位の得点記録保持者として知られています。選手としては、クープ・ドゥ・フランスを2度、トロフェ・デ・シャンピオンを2度、そしてリーグ・アンのタイトルを3度獲得しました。さらに、フランス代表では1978 FIFAワールドカップでフランス選手史上最速となる試合開始30秒でのゴールを記録し、UEFA欧州選手権1984では優勝メンバーとなりました。
引退後は、長年にわたり古巣オリンピック・リヨンの技術スタッフを務め、テクニカルマネージャー、トレーナー、監督などを歴任しました。特にクラブ会長のジャン=ミシェル・オラスの特別顧問として20年間クラブに貢献し、多くのブラジル人選手の獲得に関わるなど、リヨンの黄金期におけるリーグ・アンでの成功とチャンピオンズリーグへの継続的な出場に大きく寄与しました。
2. 選手経歴
ベルナール・ラコンブは、1969年に地元のクラブであるオリンピック・リヨンでプロサッカー選手としてのキャリアを開始し、その後フランスの主要クラブやフランス代表で輝かしい功績を収めました。
2.1. クラブ経歴
リヨンでは、後にサッカーフランス代表の監督として1998 FIFAワールドカップを制するエメ・ジャケとチームメイトでした。ラコンブはリヨンで頭角を現し、1973年にはチームをクープ・ドゥ・フランスとトロフェ・デ・シャンピオンのタイトル獲得に導きました。
1978年にASサンテティエンヌに短期間所属した後、1979年にFCジロンダン・ボルドーへ移籍し、そこで再びエメ・ジャケと再会しました。ボルドーでは、ラコンブはクラブの黄金期を支え、リーグ・アンで3度の優勝(1983-84シーズン、1984-85シーズン、1986-87シーズン)を経験しました。また、ボルドーでもクープ・ドゥ・フランスを2度(1985-86シーズン、1986-87シーズン)獲得し、1973年のクープ・ドゥ・フランス決勝でもゴールを挙げています。1986年にはボルドーでトロフェ・デ・シャンピオンも制覇しました。
ラコンブはリーグ・アンで通算255ゴールを記録しており、これはデルリオ・オンニスに次ぐフランスの1部リーグ歴代2位の得点数です。
2.2. 代表チーム経歴
ベルナール・ラコンブは1973年にサッカーフランス代表に初招集されました。その後、彼は国の代表として主要な国際大会に出場しました。
1978 FIFAワールドカップでは、イタリア戦で試合開始わずか30秒というワールドカップ史上でも類を見ない速さでゴールを決め、フランス代表選手にとってのワールドカップ最速得点記録を樹立しました。このゴールは、同大会の第1号ゴールでもありました。彼はまた、1982 FIFAワールドカップにも出場しました。
キャリアの頂点の一つとして、UEFA欧州選手権1984ではフランス代表の一員として優勝を果たしました。ラコンブはフランス代表として38試合に出場し、12得点を記録しています。
3. 経歴統計
ベルナール・ラコンブの選手としてのキャリアにおける詳細な統計を以下に示します。
3.1. クラブ統計
クラブ | シーズン | リーグ | カップ | ヨーロッパ | 合計 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | ||||
リヨン | 1969-70 | ディビジョン1 | 5 | 1 | - | 5 | 1 | |||||
1970-71 | 3 | 0 | - | 3 | 0 | |||||||
1971-72 | 36 | 19 | - | 36 | 19 | |||||||
1972-73 | 35 | 23 | - | 35 | 23 | |||||||
1973-74 | 31 | 13 | 4 | 1 | 35 | 14 | ||||||
1974-75 | 27 | 17 | 4 | 4 | 31 | 21 | ||||||
1975-76 | 16 | 5 | 0 | 0 | 16 | 5 | ||||||
1976-77 | 36 | 21 | - | 36 | 21 | |||||||
1977-78 | 33 | 24 | - | 33 | 24 | |||||||
合計 | 222 | 123 | 8 | 5 | 230 | 128 | ||||||
サンテティエンヌ | 1978-79 | ディビジョン1 | 32 | 14 | - | 32 | 14 | |||||
ボルドー | 1979-80 | ディビジョン1 | 33 | 11 | - | 33 | 11 | |||||
1980-81 | 34 | 18 | - | 34 | 18 | |||||||
1981-82 | 33 | 17 | 3 | 1 | 36 | 18 | ||||||
1982-83 | 33 | 20 | 6 | 0 | 39 | 20 | ||||||
1983-84 | 35 | 18 | 2 | 0 | 37 | 18 | ||||||
1984-85 | 36 | 22 | 8 | 3 | 44 | 25 | ||||||
1985-86 | 23 | 7 | 1 | 0 | 24 | 7 | ||||||
1986-87 | 16 | 5 | 2 | 0 | 18 | 5 | ||||||
合計 | 243 | 118 | 22 | 4 | 265 | 122 | ||||||
キャリア合計 | 497 | 255 | 30 | 9 | 527 | 264 |
3.2. 代表チーム統計
代表チーム | 年 | 出場 | ゴール |
---|---|---|---|
フランス | 1973 | 1 | 0 |
1974 | 3 | 2 | |
1975 | - | ||
1976 | 3 | 1 | |
1977 | 4 | 0 | |
1978 | 6 | 1 | |
1979 | 4 | 4 | |
1980 | 3 | 1 | |
1981 | 3 | 2 | |
1982 | 5 | 0 | |
1983 | - | ||
1984 | 6 | 1 | |
合計 | 38 | 12 |
4. 引退後の経歴
選手引退後、ベルナール・ラコンブはオリンピック・リヨンに戻り、クラブの技術スタッフとして多岐にわたる役割を担いました。
4.1. コーチングおよび行政職
ラコンブは1988年から1996年までリヨンのテクニカルマネージャーを務めました。その後、1996年から2000年までの間はトレーナーを兼任しつつ監督としてチームを率い、クラブの再建と発展に貢献しました。彼の指導は、リヨンがその後のリーグ・アンでの成功と、UEFAチャンピオンズリーグに7年連続で出場するという快挙を達成する基盤を築きました。
4.2. 特別顧問およびクラブへの影響力
ラコンブは、監督職を離れた後もオリンピック・リヨンの会長であるジャン=ミシェル・オラスの「特別顧問」として20年間クラブに深く関与しました。彼はクラブの意思決定に大きな影響力を持ち、特に2000年代にジュニーニョ、エドミウソン、クリス、カサパ、フレッジなど、複数のブラジル人選手の獲得に貢献しました。これにより、リヨンはフランスリーグで圧倒的な強さを誇る時代を築き上げました。
2008年には、リヨンと業務提携した日本の横浜F・マリノスのために来日し、日本のサッカー界にもその影響を及ぼしました。
5. 栄誉
ベルナール・ラコンブは選手および指導者としてのキャリアを通じて、数々の栄誉を獲得しました。
5.1. 選手時代の栄誉
- リヨン**
- クープ・ドゥ・フランス: 1972-73
- トロフェ・デ・シャンピオン: 1973
- ボルドー**
- ディビジョン1: 1983-84、1984-85、1986-87
- クープ・ドゥ・フランス: 1985-86、1986-87
- トロフェ・デ・シャンピオン: 1986
- フランス代表**
- UEFA欧州選手権: 1984
5.2. 指導者/スタッフとしての栄誉
- リヨン**
- UEFAインタートトカップ: 1997
6. 評価と影響
ベルナール・ラコンブは、その選手としての輝かしいキャリアだけでなく、引退後のオリンピック・リヨンにおける長期にわたる貢献を通じて、フランスサッカー界に多大な影響を与えました。リーグ・アン歴代2位となる255ゴールという記録は、彼がフランスサッカー史上最高のストライカーの一人として記憶されるに足る功績です。
彼がクラブの技術スタッフとして、そして会長の特別顧問として果たした役割は、リヨンがフランス国内で強豪としての地位を確立し、ヨーロッパの舞台で成功を収める上で不可欠でした。特に、ブラジル人選手の獲得における彼の洞察力と影響力は、リヨンの黄金期を築き上げた要因の一つとして高く評価されています。ラコンブは、選手とクラブの架け橋となり、クラブの哲学とアイデンティティを形成する上で中心的な存在でした。彼の功績は、リヨンの歴史において最も重要な人物の一人として称えられ続けています。