1. 生い立ちと背景
ホアン・カムは、ベトナムの伝統的な学者の家系に生まれ、幼少期から文学に親しんだ。
1.1. 出生と家族
ホアン・カムは、1922年2月22日にベトナムのバクザン省ヴィエットイエン市社フックタン社(現在のタンティエン坊)で生まれた。彼の本名であるブイ・タン・ベトは、出生地であるフックタンの「タン」と、ヴィエットイエンの「ヴィエット」を組み合わせて名付けられた。彼の祖先はバクニン省トゥアンタイン市社ソンホー坊の出身で、代々続く学者の家系であった。父親は科挙に合格しなかったものの、漢文を教え、漢方薬を扱う学者であったため、彼は幼い頃から学問と伝統的な文化に触れる環境で育った。
1.2. 教育
ホアン・カムは、幼少期から小中学校をバクザン省とバクニン省で過ごした。1938年にはハノイに移り、タンロン高校に入学した。1940年にトゥタイ(バカロレア)の全課程を修了し、文学の道に進むことになった。この教育を通じて、彼は後の文学活動の基礎を築いた。
2. 文学活動の開始
ホアン・カムは、若い頃から作家としての才能を発揮し、文学界にその名を刻んでいった。
2.1. ペンネームと初期の文学活動
タンロン高校を卒業後、ホアン・カムはヴー・ディン・ロンが所有するタン・ザン・サー出版社で作家兼翻訳家としてのキャリアをスタートさせた。この時期に、彼は「ホアン・カム」というペンネームを選んだ。この名前は、漢方薬に使われる苦い薬草である「オウゴン」(Hoàng Cầmベトナム語)に由来している。
初期の文学活動では、翻訳や翻案作品を多く手掛けた。主な作品には、アルフォンス・ド・ラマルティーヌの作品を翻案した『ハイン・ガイ・サイン』(Hận ngày xanh、1940年)、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話を翻案した『ボン・セン・チャン』(Bông sen trắng、白い蓮、1940年)、『千夜一夜物語』を翻案した『カイ・デン・タン』(Cây đèn thần、魔法のランプ、1941年)や『ティン・ザック・モー・ヴア』(Tỉnh giấc mơ vua、王の夢から覚める、1942年)などがある。また、この時期には短編小説『ハイ・ラン・チェット』(Hai lần chết、二度の死、1941年)や『ボン・チュエン・ガン』(Bốn truyện ngắn、四つの短編小説、1939年から1943年にかけて『ティエウ・スエット・トゥ・バイ』に掲載)も発表している。
2.2. 文壇への登場
タン・ザン・サー出版社での活動を通じて、ホアン・カムは本格的に作家としての道を歩み始め、ベトナム文学界に足を踏み入れた。彼の初期の翻案作品や短編は、当時の読者に広く受け入れられ、彼の文学的才能が認められるきっかけとなった。
3. 革命活動と軍隊での文化活動
ベトナムの独立と戦争の時代において、ホアン・カムは単なる文学者にとどまらず、政治的・軍事的活動にも深く関与し、文化芸術を通じて国民を鼓舞する役割を担った。
3.1. ベトミンでの活動
1944年、第二次世界大戦の激化により、ホアン・カムは家族を連れて故郷のトゥアンタインに戻った。この地で、彼はベトミンの青年救国活動に参加し、ベトナム独立運動に身を投じた。八月革命後、彼は再びハノイに戻り、「ドン・フオン劇団」を設立した。第一次インドシナ戦争が勃発すると、彼は劇団と共にハノイを離れ、バクニン、バクザン、ソンタイ、タイビンなどの地域を巡回して公演を行った後、劇団は解散した。
1947年8月には、第12戦区でベトナム人民軍の衛国軍に参加。同年後半には、軍隊初の文化芸術宣伝隊を設立し、兵士や民衆の士気を高めるための活動に従事した。
3.2. 軍隊内での文化芸術活動
1952年、ホアン・カムはベトナム人民軍政治総局の文化芸術団の団長に任命された。彼はこの立場で、解放区の軍民のための公演活動を統括し、様々な軍事作戦を文化面から支援した。彼の指導のもと、文化芸術団は兵士や住民に希望と勇気を与え、革命の精神を広める重要な役割を果たした。
1954年10月、文化芸術団はハノイに戻り、1955年初頭には文化芸術団が多岐にわたる分野に拡大されたため、ホアン・カムは演劇団の団長に任命された。この時期の彼の活動は、ベトナムの文化芸術が戦争という困難な時代に国民の精神的支柱となる上で不可欠であった。
4. 主要作品と文学世界
ホアン・カムの文学作品は、詩、戯曲、散文にわたり、ベトナムの歴史と社会、そして個人の感情が深く織り込まれている。
4.1. 戯曲
ホアン・カムは、詩劇や演劇の分野でも数多くの代表作を残した。
- 『ハン・ナム・クアン』(Hận Nam Quan、南関の恨み、1944年): ベトナムと中国の国境にある友誼関(南関)を舞台に、歴史的な対立と民族の感情を描いた詩劇。
- 『キエウ・ロアン』(Kiều Loan、1946年): 伝統的な題材を扱いつつ、人間の運命と選択を深く掘り下げた作品。
- 『コー・ガイ・ヌオック・タン』(Cô gái nước Tần、秦の国の娘、1949年): 古代中国の秦の時代を背景にした詩劇。
- 『ヴィエン・カック』(Viễn khách、遠来の客、1952年)、『レン・ドゥオン』(Lên đường、出発、1952年)、『オン・クー・リエン』(Ông cụ Liên、リエン老人、1952年)、『ラオ・カイ』(Lào Cai、1957年)などの作品も発表している。
- 晩年には『チュオン・チー』(Trương Chi、1983年)や『トゥオン・ライ』(Tương lai、未来、1995年)といった作品も手掛けた。
4.2. 詩
ホアン・カムの詩は、その繊細な感情表現と社会的なメッセージで高く評価されている。
- 『トイ・モン』(Thoi mộng、夢の糸、1941年): 夢と現実の狭間にある感情を描いた詩。
- 『ニャン・ニエム・ティン』(Những niềm tin、信頼、1965年): アルジェリアの詩人ボナラン・カンファの詩の翻訳集。
- 『メン・ダー・ヴァン』(Men đá vàng、黄金の石の酵母、1989年): 1973年に執筆された長編叙事詩。
- 特に有名なのは、抗仏戦争中の故郷の荒廃を痛切に描写した『ベン・キア・ソン・ドゥオン』(Bên kia sông Đuống、ドゥオン川の向こう、1948年)である。この詩は、ベトナムの高校の教科書にも採用されており、その文学的価値と歴史的意義が認められている。
- 『ラー・ディエウ・ボン』(Lá diêu bông、ディエウボン草、1959年)は、愛と喪失の感情を象徴的に表現した作品で、『ムア・トゥアン・タイン』、『ヴェー・キン・バク』、そして『99の恋愛詩』の各詩集に収録されている。
4.3. 詩集
ホアン・カムは、生涯にわたり多くの詩集を出版し、その時々の感情や社会情勢を反映した作品を発表した。
- 『ティエン・ハット・クアン・ホー』(Tiếng hát quan họ、クアンホーの歌声、1956年): 『クア・ビエン』詩集に共同収録された長編詩。
- 『ムア・トゥアン・タイン』(Mưa Thuận Thành、トゥアンタインの雨、1991年): 1987年に出版された19編の詩を含む詩集。
- 『ヴェー・キン・バク』(Về Kinh Bắc、キンバクへ帰る、1994年): 1959年から1960年にかけて書かれた51編の詩を収録。
- 『99ティン・クック』(99 tình khúc、99の恋歌、1996年): 1941年から1995年にかけて書かれた98編の恋愛詩を収録。
- 未出版の詩集として『ヴェー・コイ・エム』(Về cõi em、君の世界へ、1992年)もある。
- 彼の代表作である『ベン・キア・ソン・ドゥオン』(1993年、選集)と『ラー・ディエウ・ボン』(1970年~1993年、選集)は、2007年に国家文学芸術賞を受賞している。
4.4. 散文およびその他の作品
詩や戯曲の他にも、ホアン・カムは散文作品や翻訳作品も手掛けた。
- 初期の翻訳・翻案作品として、『ハイン・ガイ・サイン』(1940年)、『ボン・セン・チャン』(1940年)、『カイ・デン・タン』(1941年)、『ティン・ザック・モー・ヴア』(1942年)などがある。
- 小説では『トイ・モン』(1941年、中編小説)や『ハイ・ラン・チェット』(1941年、短編小説)、『ボン・チュエン・ガン』(1939年から1943年にかけて発表された短編小説集)などがある。
- 1997年には散文作品を集めた『ヴァン・スオイ・ホアン・カム』(Văn xuôi Hoàng Cầm、ホアン・カム散文集)が出版された。
4.5. 代表作の光彩
ホアン・カムの作品の中でも、特に『Bên kia sông Đuống』と『Lá diêu bông』は、彼の文学的才能を象徴する傑作として広く知られている。
『ベン・キア・ソン・ドゥオン』は、抗仏戦争中に故郷のドゥオン川流域が破壊された様子を、深く心を揺さぶる言葉で描写した叙情詩である。この詩は、単なる戦争の悲劇を描くだけでなく、失われた故郷への深い愛情と、民族の苦難に対する共感を呼び起こす。その文学的価値と教育的意義から、ベトナムの高校のカリキュラムにも採用され、多くの学生に読み継がれている。
『ラー・ディエウ・ボン』は、愛と切なさ、そして手の届かないものへの憧れをテーマにした詩で、その独特な比喩と情感豊かな表現が特徴である。この詩は、複数の詩集に収録されており、ホアン・カムの恋愛詩の代表作として、多くの人々に愛されている。これらの作品は、ホアン・カムがベトナム文学史において不朽の地位を確立する上で不可欠なものであった。
5. 政治的関与と社会的反響
ホアン・カムは、その文学活動を通じて社会に深く関与し、特に「人文・ジャイファム事件」においては、表現の自由の重要性を巡る論争の中心人物の一人となった。
5.1. 人文・ジャイファム事件と作家協会からの脱退
1955年後半、ホアン・カムはベトナム文学芸術協会(後のベトナム作家協会)で出版業務に従事するようになった。1957年4月には、ベトナム作家協会の設立に参加し、執行委員に選出されるなど、文学界の中心的な存在となっていた。しかし、1950年代後半にベトナムで発生した「人文・ジャイファム事件」(Phong trào Nhân Văn - Giai Phẩm)に巻き込まれたことで、彼の人生は大きな転換点を迎える。
この事件は、当時のベトナム政府が知識人や芸術家に対して行った思想統制であり、表現の自由を求める動きが弾圧されたものであった。ホアン・カムは、この運動に関与したとして、1958年に作家協会から脱退せざるを得なくなった。この出来事は、彼にとって大きな精神的苦痛であり、表現の自由が国家権力によっていかに容易に侵害されうるかを示す象徴的な事例となった。彼は、この事件によって公的な活動から遠ざけられ、1970年には48歳で引退を余儀なくされた。
5.2. 投獄生活
「人文・ジャイファム事件」の影響は長く続き、ホアン・カムはその後も困難な状況に置かれた。1982年には、1959年から1960年にかけて執筆した詩集『ヴェー・キン・バク』が原因で、ハノイのホアロー刑務所に投獄された。彼は反党行為の罪で逮捕されたが、裁判が開かれることなく1983年に釈放された。
この投獄生活は、ホアン・カムの心に深い傷を残し、釈放後はうつ病を患うことになった。彼の投獄は、当時のベトナム社会における知識人に対する厳しい監視と、表現の自由を抑圧しようとする国家の姿勢を浮き彫りにするものであった。しかし、このような苦難にもかかわらず、彼は文学への情熱を失うことはなかった。
6. 後期の活動と評価
晩年のホアン・カムは、長年の苦難にもかかわらず、その文学的功績が再評価され、国家からの栄誉も受けた。
6.1. 国家文学芸術賞受賞
2007年3月、ホアン・カムはベトナム政府から国家文学芸術賞を授与された。この賞は、国家主席の署名による決定であり、彼の長年にわたる文学への貢献が公式に認められたことを意味する。かつて「人文・ジャイファム事件」によって弾圧され、作家協会からの脱退や投獄を経験した彼にとって、この受賞は名誉の回復であり、その文学的才能が国家レベルで再評価された象徴的な出来事であった。特に、彼の代表作である『ベン・キア・ソン・ドゥオン』と『ラー・ディエウ・ボン』がこの賞の対象となったことは、彼の作品がベトナム文学史において不朽の価値を持つことを改めて示した。
6.2. 文学史上の位置づけ
ホアン・カムは、ベトナム文学史において極めて重要な位置を占めている。ベトナムの抗戦は、ヴァン・カオの音楽なくしては成功しなかったのと同様に、ホアン・カムの詩なくしては語れないと評されるほど、彼の作品は国民の精神に深く影響を与えた。
特に詩『ベン・キア・ソン・ドゥオン』は、抗仏戦争の悲劇と故郷への愛を力強く表現し、ベトナムの高校のカリキュラムに採用されるなど、世代を超えて読み継がれている。彼の詩は、繊細な感情と深い社会性を兼ね備え、ベトナムの詩の発展に大きく貢献した。また、戯曲においても、『ハン・ナム・クアン』や『キエウ・ロアン』などの作品を通じて、ベトナム演劇に新たな息吹を吹き込んだ。彼は、困難な時代においても文学の力を信じ、表現の自由を追求し続けた知識人として、後世に多大な影響を与えている。
7. 死没
ホアン・カムは、2010年5月6日にハノイで病気のため88歳で死去した。
8. 影響
ホアン・カムの作品と思想は、後世のベトナム文学、社会、文化に多大な影響を与え続けている。
8.1. 後世への影響
ホアン・カムの文学的遺産は、次世代の作家や文化人に深く継承されている。特に彼の詩は、その叙情性、社会性、そしてベトナムの歴史と文化への深い洞察を通じて、多くの若い詩人たちにインスピレーションを与えた。彼の作品は、ベトナムの学校教育にも取り入れられ、国民的詩人としての地位を確立している。また、「人文・ジャイファム事件」での彼の経験は、表現の自由と知識人の役割について、後世のベトナム社会に重要な問いかけを残した。彼の生涯は、芸術家がいかにして政治的抑圧に立ち向かい、自身の信念を貫くかを示す模範ともなっている。
8.2. 特定分野への貢献
ホアン・カムは、詩と戯曲という特定の文学分野において、顕著な貢献を果たした。彼の詩は、ベトナムの伝統的な詩形に現代的な感覚を取り入れ、新たな表現の可能性を切り開いた。特に、故郷への愛と戦争の悲劇を描いた『ベン・キア・ソン・ドゥオン』や、繊細な感情を表現した『ラー・ディエウ・ボン』は、ベトナム詩の金字塔として評価されている。
戯曲の分野では、詩劇という形式を確立し、『ハン・ナム・クアン』や『キエウ・ロアン』などの作品を通じて、演劇に文学的深みをもたらした。彼は、ベトナムの伝統的な物語や歴史的テーマを現代的な視点で再解釈し、観客に深い感動と考察を促す作品を生み出した。これらの貢献により、ホアン・カムはベトナム文学の発展に不可欠な存在として記憶されている。