1. 概要

マユダ・ヴルホヴニク(Majda Vrhovnikマユダ・ヴルホヴニクスロベニア語、1922年4月14日 - 1945年5月4日)は、スロベニア人の共産主義者であり、医学の学生であった。彼女は第二次世界大戦中、ユーゴスラビアを占領した枢軸国に対する反ファシスト抵抗運動において、重要な役割を果たした。特に、スロベニア共産党のクラゲンフルト地区委員会の書記として活動し、スロベニア民族解放戦線の地下活動を組織した。勇敢なスパイおよび地下出版の制作者として、彼女は「ロイヅカ(Lojzkaロイヅカスロベニア語)」という偽名を用いた。1945年にゲシュタポに逮捕され、拷問の末に処刑されたが、その死後、ユーゴスラビア人民英雄の称号を追贈され、反抵抗運動の象徴として記憶されている。
2. 生涯
マユダ・ヴルホヴニクの生涯は、1922年に始まり、学業と政治活動、そして抵抗運動へと展開していった。特に第二次世界大戦中のユーゴスラビア占領下では、スロベニア共産党の重要な連絡員として、危険を顧みずに地下活動に従事した。
2.1. 幼少期と教育
マユダ・ヴルホヴニクは1922年4月14日、リュブリャナに生まれた。彼女の兄であるヴラディミール・ヴルホヴニク(1916年8月17日 - 1945年4月28日、通称ヴォロチャまたはミルコ)はウィーンで生まれたが、第一次世界大戦後、家族はリュブリャナに移住した。兄もまた共産党員であった。マユダは上級中等学校を卒業した後、リュブリャナ大学の医学部に入学した。在学中、彼女はスロベニアクラブと学生革命運動のメンバーとして積極的に活動し、後にその思想を政治活動へと繋げていくことになる。
2.2. 初期活動と共産党入党
学生時代から革命運動に関与していたマユダ・ヴルホヴニクは、1940年にユーゴスラビア共産党に入党を認められた。これは、彼女が第二次世界大戦中にユーゴスラビアが占領される直前の時期であり、彼女の政治的信念が強固になっていたことを示している。ユーゴスラビアが占領されると、彼女は直ちに地下運動に参加し、スロベニア共産党中央委員会の組織書記であったトネ・トムシッチ(1910年 - 1942年)の連絡員となった。占領軍は彼女の活動を察知し、彼女を欠席のまま終身刑に処し、数ヶ月間、彼女の両親を人質として拘束した。しかし、ヴルホヴニクはそれにもかかわらずリュブリャナに留まり、抵抗のための地下印刷所の組織化に貢献した。
2.3. 地下抵抗活動
ヴルホヴニクは、第二次世界大戦中のスロベニアにおける地下抵抗運動において、極めて危険な役割を担った。彼女はスロベニア共産党中央委員会の連絡員として、文書の運搬や地下出版物の制作・配布に尽力し、その活動は占領軍から厳しく追及された。彼女の勇敢な行動は、多くの人々に希望を与え、抵抗の炎を燃やし続けることに貢献した。
2.3.1. 出版物の制作と配布
マユダ・ヴルホヴニクは、リュブリャナの地下抵抗組織において、秘密裏に運営されていた印刷所の連絡員として重要な役割を担った。彼女は、ブルド通り95番地にある「ポドモルニツァ(Podmornicaポドモルニツァスロベニア語、「潜水艦」の意)」と、エモンスカ通り2番地にある「トゥネル(Tunelトゥネルスロベニア語、「トンネル」の意)」という暗号名で呼ばれる地下印刷所へ、原稿を運び入れた。兄の助けを借りて、彼女は秘密の隠し場所(バンカー)を設置し、1943年5月4日からは9ヶ月間にわたり、『人民の正義』(Ljudska pravicaリュヅスカ・プラヴィツァスロベニア語)、『スロベニア報道員』(Slovenski poročevalecスロヴェンスキ・ポロチャヴァレツスロベニア語)、『メッセンジャー・ラジオ』(Radio vestnikラディオ・ヴェストニクスロベニア語)などの抵抗運動の新聞や、様々なパンフレットを複製し、配布する活動を行った。これらの出版物は、占領下の情報統制に対抗し、人々に真実を伝え、抵抗の意志を鼓舞するための重要な手段であった。
2.3.2. カリンティア地域での活動
1944年1月22日、マユダ・ヴルホヴニクは自らの意思でスロベニア沿岸地方へ派遣された。そこで彼女は、イドリヤの青年共産主義者同盟(SKOJ)の指導員、そして沿岸地方SKOJ地域委員会のSKOJ訓練コースの指導員を務めた。しかし、彼女はそこに長く留まらず、カリンティアでの活動を志願した。1944年にはメジツァ地区のスロベニア共産党地区委員会の書記に任命され、ドラヴァ川を渡り、ザットニッツ山地を越えて、まずフェルカーマルクト地域で活動し、その後クラゲンフルトへと移った。1944年秋には、クラゲンフルトのスロベニア共産党地区委員会のメンバーとなった。彼女は農民の少女に変装し、数ヶ月間クラゲンフルトで過ごし、スロベニア民族解放戦線の委員会組織、諜報活動、そして都市における不法出版物の制作に携わった。
3. 逮捕と死
マユダ・ヴルホヴニクの地下抵抗活動は、最終的にゲシュタポの知るところとなり、彼女は悲劇的な最期を迎えることとなった。その死は、彼女の祖国への献身と抵抗の精神を象徴している。
彼女は裏切りによって発見され、1945年2月28日、クラゲンフルトのクロイツベルグルの丘のふもとにある家で逮捕された。刑務所に収監された彼女は、厳しい拷問を受けたが、抵抗の意志を貫いた。そして1945年5月4日、ついに銃殺刑に処せられた。彼女の遺体は現在に至るまで発見されておらず、その墓の場所は不明のままである。
4. 遺産と評価
マユダ・ヴルホヴニクの死は、彼女の抵抗運動を終わらせるものではなく、むしろその遺産は今日まで生き続けている。彼女は死後、国家的な英雄として認められ、その名前は後世に大きな影響を与え続けている。
4.1. 追贈と人民英雄の称号
マユダ・ヴルホヴニクは、その死後、ユーゴスラビア政府によって、最高の栄誉の一つである人民英雄の称号を追贈された。これは、1951年7月5日、または同年12月20日に決定されたとされている。この称号は、彼女の反ファシスト抵抗運動における並外れた勇気と犠牲を国家が公式に認めたものであり、彼女の活動がユーゴスラビアの自由と独立のために極めて重要であったことを示している。
4.2. 記念物と影響
マユダ・ヴルホヴニクの功績を称え、彼女の記憶は様々な形で後世に伝えられている。1958年には、リュブリャナのグレゴルチチェヴァ通り16番地にある小学校が、彼女の名を冠して「マユダ・ヴルホヴニク小学校(Osnovna šola Majde Vrhovnikオスノヴナ・ショーラ・マユデ・ヴルホヴニクスロベニア語)」と改名された。これは、シュビチェヴァ通りの第5小学校とヴルタチャ通りの第6小学校が統合されて設立されたものである。さらに、1961年にはスロベニアの彫刻家ストヤン・バティッチによって彼女の胸像が制作され、この小学校の前に設置された。
彼女の名前「マユダ・ヴルホヴニク」は、ジャーナリズムの世界でも偽名として使用された。例えば、雑誌『ムラディナ』の編集者フランツィ・ザヴルは、逮捕された後にこの偽名を使用し、また同じく『ムラディナ』のジャーナリストであったヴラド・ミヘリャクも同時期に「マユダ・ヴルホヴニク」という偽名を用いた。これは、彼女の名前が単なる固有名詞を超え、抵抗と反権力の象徴として認識されていたことを示している。
4.3. 墓地の不確定性
マユダ・ヴルホヴニクは1945年5月4日に銃殺されたが、彼女の遺体が現在まで確認されていないという歴史的な不確実性が存在している。彼女の墓の場所は不明のままであり、これは彼女の最期を巡る悲劇と、当時の混乱した状況を物語っている。彼女の遺体がどこに埋葬されたのか、あるいはどのように処理されたのかについては、今日まで明らかになっていない。