1. 概要
マッティ・シッパラ(Matti Kalervo Sippalaフィンランド語)は、フィンランドの著名な陸上競技選手であり、主にやり投と混成競技で活躍した。彼は1932年のロサンゼルスオリンピックやり投で銀メダルを獲得し、さらに1934年のヨーロッパ陸上競技選手権大会でも同種目で銀メダルに輝いた。また、やり投だけでなく、五種競技においても才能を発揮し、1931年には非公式の世界記録を樹立するなど、フィンランド陸上界に大きな足跡を残した。
2. 生涯
マッティ・シッパラは、フィンランドのホッロラに生まれ、その生涯を通じて陸上競技に情熱を注いだ。
2.1. 出生と初期の人生
マッティ・シッパラは1908年3月11日にフィンランドのホッロラで生まれた。彼の身長は1.83 m、体重は84 kgであった。
2.2. 初期キャリアの開発
シッパラはラハデン・ウルヘイリヤット(Lahden Urheilijatフィンランド語)に所属し、主にやり投を主戦場としたが、五種競技においても優れた能力を示した。彼は1931年に五種競技で非公式の世界記録を樹立している。
3. 主な活動と業績
マッティ・シッパラのキャリアは、主にやり投における国際的な成功と、混成競技での国内での顕著な成績によって特徴づけられる。
3.1. やり投
シッパラのやり投におけるキャリアは、オリンピックとヨーロッパ選手権でのメダル獲得が頂点であった。
3.1.1. 1932年ロサンゼルスオリンピック
1932年ロサンゼルスオリンピックの男子やり投は、1932年8月4日に予選なしの決勝のみで実施され、7カ国から13人の選手が出場した。シッパラは、この大会で銀メダルを獲得した。

フィンランドのオリンピック選考会では、当時のやり投世界記録保持者であったマッティ・ヤルヴィネンを70.02 mの投擲で破るという快挙を成し遂げていた。しかし、ロサンゼルスオリンピック本番では、ヤルヴィネンが70 mを超える投擲を5回も記録し、最高72.71 mを投げるなど圧倒的な強さを見せた。
シッパラは、大会前の練習中に背中を痛めていたにもかかわらず、第1投で68.14 mを記録し、一時3位につけた。これはドイツのゴットフリート・ヴァイマン(Gottfried Weimannドイツ語)の記録を4 cm下回るものであった。その後4回の試技では記録を伸ばせず、順位を4位まで落としていた。しかし、5回目の試技で同じくフィンランド代表のエイノ・ペンティラが68.7 mを記録し、シッパラは3位から4位に後退した。最終の6投目で、シッパラは69.8 mを投げて記録を大きく伸ばし、順位を4位から2位に上げ、見事銀メダルを獲得した。この結果、マッティ・ヤルヴィネンが金メダル、マッティ・シッパラが銀メダル、エイノ・ペンティラが銅メダルとなり、フィンランド勢がやり投の表彰台を独占する歴史的な快挙を達成した。
3.1.2. 1934年ヨーロッパ選手権大会
1934年にトリノで開催されたヨーロッパ陸上競技選手権大会のやり投種目でも、シッパラは銀メダルを獲得した。この大会では、69.97 mを投擲したが、再びマッティ・ヤルヴィネンに次ぐ結果となった。ヤルヴィネンはこの大会で自身の世界記録を更新している。
3.1.3. 自己ベスト記録と主要な試合
シッパラの自己ベスト記録は、1934年にリガで記録した70.54 mである。これは、当時の世界トップレベルの記録であった。また、1932年のフィンランドオリンピック選考会では、当時の世界記録保持者であったマッティ・ヤルヴィネンを70.02 mの投擲で破るという重要な勝利を収めている。
3.2. 混成競技
やり投の他に、シッパラは混成競技にも出場し、国内でいくつかの成功を収めた。
3.2.1. 五種競技
シッパラは非オリンピック種目である五種競技で複数の国内タイトルを獲得している。特に1931年のフィンランド選手権大会では、4083点を記録し、オリンピックの十種競技チャンピオンであるパボ・ユルヨラ(Paavo Yrjöläフィンランド語)を僅差で破った。この時、シッパラとユルヨラの両選手は、マルッティ・トラモ(Martti Tolamoフィンランド語)が保持していた非公式世界記録である4011点を上回るスコアを記録した。
3.2.2. 十種競技
1930年のフィンランド選手権大会の十種競技では銀メダルを獲得している。しかし、この種目では国際的なトップレベルには到達しなかった。
4. 死没
マッティ・シッパラは1997年8月22日に、フィンランドのコトカで89歳で死去した。
5. 評価と影響
マッティ・シッパラは、オリンピックとヨーロッパ陸上競技選手権大会でそれぞれ銀メダルを獲得した功績により、フィンランドの陸上競技界において重要な選手として記憶されている。特に、1932年ロサンゼルスオリンピックでのフィンランド勢によるやり投表彰台独占に貢献したことは、彼のキャリアのハイライトであり、フィンランドのスポーツ史における特筆すべき業績として評価されている。彼の多才なアスリートとしてのキャリア、特に五種競技での非公式世界記録樹立は、やり投以外の分野でも彼の能力の高さを示している。