1. 生い立ちと野球人生の始まり
1.1. 幼少期と教育
キーオは1973年にカリフォルニア州ニューポートビーチにあるコロナ・デル・マー高校を卒業しました。
1.2. プロ初期のキャリア
オークランド・アスレチックスは1973年のMLBドラフト7巡目でキーオを指名し、彼は内野手として入団しました。アスレチックスは彼を、退団したサル・バンドーに代わる三塁手として期待していました。しかし、1975年にモデストでプレーしていたプロ2年目のシーズンにカリフォルニアリーグで首位打者を獲得したものの、1976年にはダブルAで打率.210と期待外れの成績に終わりました。この打力の低さもあり、1976年に投手へのコンバートが決定し、その1年後にはメジャー昇格を果たしました。
2. メジャーリーグベースボール (MLB) 時代
2.1. オークランド・アスレチックスでの活躍
キーオは1977年にメジャーリーグに昇格しました。彼がメジャーに上がった当時のアスレチックスは、1970年代前半にワールドシリーズ3連覇を達成したものの、フリーエージェント制度の導入により、レジー・ジャクソンら黄金時代を築いたスター選手が軒並み移籍し、チーム力は低下していました。
1978年のルーキーシーズンには、MLBオールスターゲームに選出されました。この年、打線の援護に恵まれず8勝15敗に終わりましたが、防御率3.24とまずまずの好投を見せました。しかし、1979年には開幕から14連敗を喫し、最終的には2勝17敗という散々な成績に終わりました。彼の勝率.105は、1916年以降で15試合以上登板した投手の中で最悪の記録であり、これはフィラデルフィア・アスレチックスのチームメイトであったジャック・ネイバーズ(.048)とトム・シーハン(.059)の記録と比較されました。1978年から1979年にかけて、キーオは28先発連続で勝利なしというMLB記録(クリフ・カーティス、ジョジョ・レイエスと並び)を樹立しました。
ところが、1980年には16勝13敗という記録的な復活を遂げ、スポーティングニュースのアメリカンリーグカムバック賞を受賞しました。1981年のストライキで短縮されたシーズンでは10勝6敗を記録し、アスレチックスが1981年のアメリカンリーグディビジョンシリーズを制覇するのに貢献しました。1981年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズの第3戦では、8イニング1/3を投げて1自責点に抑える好投を見せましたが、試合はニューヨーク・ヤンキースに4-0で敗れました。
しかし、1982年には再び不振に陥り、11勝に対して18敗を喫し、アメリカンリーグで最多敗を記録しました。また、このシーズンは与四球数が奪三振数を上回り(101対75)、許した本塁打数(38本)と自責点(133点)もリーグ最多でした。多くの野球史家や統計学者は、この不振を当時の監督であったビリー・マーティンがキーオを含む1981年の先発陣を過度に酷使したためと指摘しています。2006年にはロブ・ナイアーが、1981年のキーオの1試合あたりの投球数を平均131球と推定しており、当時の若い投手にとっても非常に負担の大きい投球量であったとされています。
2.2. その後のMLBチーム
1983年シーズン途中、キーオはマーシャル・ブラントとベン・キャラハンとの交換トレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍しました。この移籍後、肩の痛みを抱えながら2シーズンをマイナーリーグで過ごし、1985年遅くにセントルイス・カージナルスでメジャーリーグに復帰しました。翌1986年には、AAAリーグとヒューストン・アストロズ、シカゴ・カブスの間でプレーしました。
キーオのメジャーリーグでの最後の登板は、1986年10月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でした。この試合で最後に対戦した打者は、翌年に広島東洋カープに入団するリチャード・ランスで、キーオは彼を一塁ゴロに打ち取りました。この時、ランスの打球を処理した一塁手は後に阪神タイガースでプレーするグレン・デービスであり、二塁走者はジャイアンツの代走として二盗を成功させていたダン・グラッデン(後に読売ジャイアンツ)でした。

メジャーリーグでの通算9シーズンで、キーオは58勝84敗、590奪三振、防御率4.17を記録し、1190投球回を投げ、7完封と57完投を達成しました。
3. 日本プロ野球 (NPB) 時代
1987年、マット・キーオは日本の阪神タイガースに入団し、1990年までの4年間、チームのエースとして大いに活躍しました。
当時の阪神は弱体化した投手陣に苦しんでいましたが、キーオはオープン戦で好成績を残し、入団1年目でいきなり開幕投手に抜擢されました。これは、日本球界でのプレー経験が全くない外国人投手が開幕投手を務める初のケースであり、阪神の外国人投手としては1965年のジーン・バッキー以来の快挙でした。
キーオはストレートとカーブを武器に、当時の打線が低迷していた阪神において、驚異的な記録と言える3年連続2桁勝利(特に1989年には自己最多の15勝)を達成しました。阪神在籍中の通算成績は45勝に上り、これは1985年の優勝後、最下位に沈むなど低迷期にあった阪神投手陣にとって数少ない明るい材料でした。
また、投手ながら日本プロ野球史上4組目の親子本塁打達成者でもあり、阪神在籍中に2本の本塁打を放っています。2本目は1989年5月23日に福井県営球場で行われた中日ドラゴンズ戦で、杉本正からソロ本塁打を打ちました。
1990年シーズンも活躍が期待されましたが、オープン戦での登板中に足を故障し、出遅れが響いて7勝に留まり、シーズン終了後に自由契約となりました。この自由契約の背景には、当時の中村勝広監督が元々キーオを高く評価していなかったことが挙げられます。中村監督自身は、1990年の就任当初からキーオの解雇を考えていたものの、年間15勝を挙げる投手を切ることはできなかったと述べています。阪神でチームメイトだった岡田彰布は、これまで一緒にプレーした外国人投手の中で最も印象に残っている選手としてキーオを挙げ、特に彼のカーブを「絶品」と評し、キーオが投げている姿を後ろから見て「今日の試合は勝てる」と感じたほどだったと語っています。
キーオは1989年にはセシル・フィルダーとも阪神でチームメイトとしてプレーしました。
キーオは幼少期に父マーティ・キーオが南海ホークスでプレーしていた際に日本に滞在した経験があり、ある程度の日本語を覚えていました。そのため、「ちょっとマット・キーオ(待っときいよ)」という洒落を飛ばすこともありました。幼少期にはアニメ「ひょっこりひょうたん島」をよく見ていたといい、特にドン・ガバチョがお気に入りでした。また、球宴休みには家族で宮崎旅行をし、その間一度も英語を使わなかったというエピソードもあります。
4. キャリアを終える怪我
1991年、キーオはカリフォルニア・エンゼルスのスプリングトレーニングでメジャーリーグ復帰を試みましたが、ロースター入りは果たせませんでした。しかし、1992年3月に再びエンゼルスと契約し、メジャーリーグのロースターに名を連ねました。
ところが、その直後のオープン戦で彼の野球人生を終わらせる不運な事故が起こりました。試合中にサンフランシスコ・ジャイアンツのジョン・パターソンが放ったファウルボールが、ダッグアウトで座って待機していたキーオの右こめかみに直撃しました。この事故によりキーオは重傷を負い、頭部の血の塊を取り除くための緊急手術を受けました。この怪我により、彼は不本意な形で選手としてのキャリアを終えることとなりました。
5. 引退後の活動
選手引退後、キーオは野球界で様々な役職を務めました。1992年から1999年にかけては、古巣のオークランド・アスレチックスとエンゼルスで巡回投手コーチや球団幹部を務めました。
その後、タンパベイ・デビルレイズでスカウトとして活動し、再びオークランド・アスレチックスの球団幹部となりました。2005年にはアスレチックスのGM補佐を務め、当時の監督は元中日ドラゴンズのケン・モッカでした。
日本野球界にも精通していたキーオは、元阪神タイガースの藪恵壹投手を高く評価していました。2004年のオフに藪がFA宣言した際、キーオはアスレチックスに藪の獲得を強く進言し、その入団に貢献しました。
作家マイケル・ルイスがこの時代のアスレチックスを題材に執筆した『マネー・ボール』には、チームの編成会議の場面でキーオの名前が一度記されています。
6. 私生活
マット・キーオは、父マーティ・キーオと叔父ジョー・キーオもメジャーリーグでプレーした野球一家の出身です。父マーティは1968年に日本の南海ホークスでもプレーしました。
6.1. 家族と人間関係
キーオは1984年に女優で1980年11月の『プレイボーイ』誌プレイメイトであったジーナ・トマシーノと結婚しました。彼らは1990年代に非公式に別居し、2004年には法的に別居、そして2019年に離婚しました。二人はリアリティ番組『The Real Housewives of Orange County』にも出演していました。
夫妻にはシェイン、カーラ、コルトンの3人の子供がいました。長男のシェインは、父や祖父に続いてプロ野球選手となり、オークランド・アスレチックスのA級傘下であるストックトン・ポーツまで到達しましたが、2010年に解雇されました。娘のカーラはNFL選手のカイル・ボスワースと結婚しました。
6.2. 法的な問題と健康
キーオは飲酒運転に関連する複数の法的問題を抱えていました。2005年には飲酒運転により180日間の禁固刑を言い渡されました。この際、彼は赤信号で停止していた車に衝突し、その車が人をはねたにもかかわらず現場から逃走したために逮捕されています。その後、2008年12月にも飲酒に関するトラブルで警察に拘束され、保護観察期間中に飲酒したため180日間の禁固刑を科されました。さらに、2010年にも飲酒運転で1年間の禁固刑を言い渡されています。これらの飲酒傾向については、1992年に頭部を負傷したこととの関連性が指摘されることもありました。
7. 死去
マット・キーオは2020年5月1日、アメリカ合衆国カリフォルニア州南部で64歳で死去しました。彼の死去は、5月3日に古巣のオークランド・アスレチックスの公式Twitterを通じて明らかにされました。当初、死因は公表されていませんでしたが、後に元妻のジーナ・キーオによって肺塞栓症であることが明かされました。
8. 評価と遺産
8.1. 実績と肯定的な評価
メジャーリーグでは、1980年に16勝を挙げ、アメリカンリーグカムバック賞を受賞するなど、一度の挫折から見事に復活する能力を示しました。また、1978年にはMLBオールスターゲームに選出されるなど、その潜在能力は高く評価されました。
日本プロ野球の阪神タイガースでは、1987年から1990年まで4年間エースとして活躍し、3年連続2桁勝利(1989年には15勝)という安定した成績を残しました。これは低迷期の阪神投手陣にとって大きな支えとなり、ファンからの支持も厚いものでした。阪神時代には、投手ながら2本の本塁打を放ち、NPB史上4組目の親子本塁打達成者となるなど、打撃面でも注目を集めました。1989年には優秀JCB・MEP賞も受賞しています。
彼はまた、時折スピットボールを投げていたことでも知られています。ある時、そのスピットボールが裏目に出たエピソードがあります。ボストン・レッドソックスの二塁手、ジェリー・レミーに対してキーオがスピットボールを投げると、レミーは完全にボールを空振りし、三振に見えました。しかし、球審はその投球の大きく変化する様子を見て、レミーがファウルしたと判断し、レミーは2ストライクのまま打席に残されました。そして次の投球で、レミーは本塁打を放ちました。これはレミーにとってキャリア最後の本塁打となりました。
8.2. 論争と批判
キーオのキャリア後半から引退後にかけて、彼の私生活における飲酒運転による逮捕・収監は、その評価に影を落としました。これらの法的問題は、1992年の頭部負傷との関連性が指摘されることもあり、彼の健康状態やその後の人生に大きな影響を与えた可能性があります。野球選手としての功績は高く評価される一方で、これらの個人的な問題は、彼の人生の複雑な側面として記憶されています。
年度 | 所属球団 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 打者 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 敬遠 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977 | オークランド・アスレチックス | 7 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 183 | 42.2 | 39 | 4 | 22 | 0 | 1 | 23 | 0 | 0 | 25 | 23 | 4.85 | 1.43 |
1978 | 32 | 32 | 6 | 0 | 1 | 8 | 15 | 0 | -- | .348 | 837 | 197.1 | 178 | 9 | 85 | 2 | 4 | 108 | 12 | 3 | 90 | 71 | 3.24 | 1.33 | |
1979 | 30 | 28 | 7 | 1 | 0 | 2 | 17 | 0 | -- | .105 | 800 | 176.2 | 220 | 18 | 78 | 2 | 7 | 95 | 13 | 0 | 115 | 99 | 5.04 | 1.69 | |
1980 | 34 | 32 | 20 | 2 | 1 | 16 | 13 | 0 | -- | .552 | 1041 | 250.0 | 218 | 24 | 94 | 3 | 5 | 121 | 13 | 2 | 94 | 81 | 2.92 | 1.25 | |
1981 | 19 | 19 | 10 | 2 | 0 | 10 | 6 | 0 | -- | .625 | 579 | 140.1 | 125 | 11 | 45 | 0 | 0 | 60 | 5 | 2 | 56 | 53 | 3.40 | 1.21 | |
1982 | 34 | 34 | 10 | 2 | 0 | 11 | 18 | 0 | -- | .379 | 946 | 209.1 | 233 | 38 | 101 | 1 | 5 | 75 | 10 | 3 | 144 | 133 | 5.72 | 1.60 | |
1983 | 14 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 210 | 44.0 | 50 | 7 | 31 | 1 | 0 | 28 | 2 | 1 | 29 | 27 | 5.52 | 1.84 | |
ニューヨーク・ヤンキース | 12 | 12 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 0 | -- | .429 | 246 | 55.2 | 59 | 12 | 20 | 0 | 2 | 26 | 1 | 0 | 42 | 32 | 5.17 | 1.42 | |
'83計 | 26 | 16 | 0 | 0 | 0 | 5 | 7 | 0 | -- | .417 | 456 | 99.2 | 109 | 19 | 51 | 1 | 2 | 54 | 3 | 1 | 71 | 59 | 5.33 | 1.61 | |
1985 | セントルイス・カージナルス | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 43 | 10.0 | 10 | 0 | 4 | 1 | 1 | 10 | 0 | 0 | 5 | 5 | 4.50 | 1.40 |
1986 | シカゴ・カブス | 19 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | -- | .500 | 129 | 29.0 | 36 | 4 | 12 | 2 | 1 | 19 | 4 | 2 | 17 | 16 | 4.97 | 1.66 |
ヒューストン・アストロズ | 10 | 5 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | -- | .600 | 143 | 35.0 | 22 | 5 | 18 | 2 | 1 | 25 | 2 | 0 | 14 | 12 | 3.09 | 1.14 | |
'86計 | 29 | 7 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | -- | .556 | 272 | 64.0 | 58 | 9 | 30 | 4 | 2 | 44 | 6 | 2 | 31 | 28 | 3.94 | 1.38 | |
1987 | 阪神タイガース | 27 | 27 | 6 | 2 | 3 | 11 | 14 | 0 | -- | .440 | 696 | 168.0 | 162 | 24 | 43 | 4 | 5 | 119 | 7 | 0 | 79 | 71 | 3.80 | 1.22 |
1988 | 28 | 26 | 7 | 1 | 4 | 12 | 12 | 0 | -- | .500 | 742 | 179.2 | 174 | 16 | 37 | 0 | 8 | 97 | 4 | 0 | 65 | 55 | 2.76 | 1.17 | |
1989 | 28 | 28 | 8 | 1 | 4 | 15 | 9 | 0 | -- | .625 | 828 | 201.0 | 203 | 19 | 39 | 0 | 2 | 110 | 8 | 0 | 90 | 83 | 3.72 | 1.20 | |
1990 | 24 | 23 | 1 | 0 | 0 | 7 | 9 | 0 | -- | .438 | 592 | 129.2 | 153 | 15 | 53 | 4 | 4 | 72 | 5 | 0 | 80 | 72 | 5.00 | 1.59 | |
MLB:9年 | 215 | 175 | 53 | 7 | 2 | 58 | 84 | 0 | -- | .408 | 5157 | 1190.0 | 1190 | 132 | 510 | 14 | 27 | 590 | 62 | 13 | 631 | 552 | 4.17 | 1.43 | |
NPB:4年 | 107 | 104 | 22 | 4 | 11 | 45 | 44 | 0 | -- | .506 | 2858 | 678.1 | 692 | 74 | 172 | 8 | 19 | 398 | 24 | 0 | 314 | 281 | 3.73 | 1.27 |
- 表彰
- MLB
- カムバック賞 (1980年)
- NPB
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (1989年)
- MLB
- 記録
- MLB
- MLBオールスターゲーム選出:1回 (1978年)
- NPB
- 初登板・初先発:1987年4月10日、対ヤクルトスワローズ1回戦(阪神甲子園球場)、6回2/3を5失点で敗戦投手 ※開幕投手
- 初勝利・初完投:1987年4月15日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(横浜スタジアム)、9回2失点
- 初完封:1987年5月31日、対読売ジャイアンツ9回戦(後楽園球場)
- 初本塁打:1988年4月26日、対横浜大洋ホエールズ4回戦(阪神甲子園球場)、2回裏に遠藤一彦から3ラン
- MLB
- 背番号
- 27 (1977年 - 1983年途中)
- 34 (1983年途中 - 同年終了)
- 33 (1985年 - 1986年途中)
- 48 (1986年途中 - 同年途中)
- 46 (1986年途中 - 同年終了)
- 4 (1987年 - 1990年)