1. 生涯
マトヴェイ・クズミンは、戦前のロシアにおける農民としての生活を送り、集団化に抵抗しつつも、故郷の村で自給自足の生活を営んでいました。

1.1. 幼少期と背景
マトヴェイ・クズミッチ・クズミンは1858年8月3日、ロシア帝国のプスコフ県(現在のプスコフ州)ヴェリーキエ・ルーキ地区クラキノ村で生まれました。彼はコルホーズ(集団農場)への参加を拒否し、自営農民として生計を立てていました。クズミンは、「ラスヴェット(「夜明け」の意)」と呼ばれるコルホーズの領域内で狩猟や漁労を続け、周囲からは「ビリューク」(「一匹狼」の意)という渾名で呼ばれていました。彼は孫のヴァシリーと共に暮らしていました。
2. 第二次世界大戦での功績
第二次世界大戦中、マトヴェイ・クズミンは故郷を占領したドイツ軍に対し、英雄的な行動をとりました。彼はドイツ軍を巧妙に欺き、ソ連軍による待ち伏せ作戦へと誘導することで、多大な犠牲を払って戦局に貢献しました。
2.1. ドイツ軍による占領
クズミンの故郷である地域は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍によって占領されました。1942年2月、ドイツ軍の大隊がクラキノ村に滞在することになり、クズミンは彼らの宿舎の手配を手伝いました。このドイツ部隊は、ヴェリーキエ・ルーキ周辺のソ連防衛線を突破し、マルキノ高地に布陣するソ連軍の背後へ進出するという命令を受けていました。
2.2. 待ち伏せ作戦への誘導
1942年2月13日、ドイツ軍の指揮官は83歳になっていたクズミンに対し、兵士たちを案内するよう要請し、その報酬として現金、小麦粉、灯油、そしてザウアー&ゾーン製の狩猟用ライフルを提供しました。クズミンはこれを受け入れたかのように振る舞いましたが、ドイツ軍の予定ルートを知ると、直ちに孫のヴァシリーをクラキノから6 km離れたペルシノに派遣し、ソ連軍に警告を送りました。彼はソ連軍に対し、マルキノ村の近くで待ち伏せ作戦を行うことを提案しました。その夜、クズミンはドイツ部隊を意図的に困難な道へと誘導し、夜明けにマルキノ村の郊外へと連れて行きました。
2.3. 犠牲と最期
マルキノ村の郊外に到着したドイツ軍を待ち受けていたのは、村の守備隊とカリーニン戦線第31士官候補生狙撃兵旅団第2大隊による攻撃でした。ドイツ大隊は激しい機関銃の集中砲火を浴び、約50人が戦死、20人が捕虜となる大きな損害を被りました。混乱の中、事態を悟ったドイツ将校の一人が拳銃をクズミンに向け、2発の銃弾を放ちました。クズミンはそのまま交戦中に命を落としました。
2.4. 埋葬
マトヴェイ・クズミンは、死から3日後に軍事的な栄誉をもって埋葬されました。その後、彼の遺体はヴェリーキエ・ルーキの軍事墓地に改葬されました。
3. 遺産と死後の栄誉
マトヴェイ・クズミンの自己犠牲は、ソ連社会に深く記憶され、多大な栄誉と記念の対象となりました。彼の物語は、人々の間で愛国的な模範として語り継がれ、様々な形でその功績が称えられています。
3.1. ソ連邦英雄の称号授与
クズミンの死は、ボリス・ポレヴォイが軍事特派員としてその地域に駐留していた際に執筆し、ソ連の主要新聞であるプラウダに掲載された記事によって広く知られることとなりました。ポレヴォイはクズミンの葬儀にも参列しています。クズミンの自己犠牲は、ロシアの伝説的な英雄イヴァン・スサーニンの行動になぞらえられ、高く評価されました。彼の功績に対し、1965年5月8日、ソ連最高会議幹部会は彼にソ連邦英雄の称号を死後追贈しました。これにより、彼はソ連邦英雄の称号を授与された人物の中で最も高齢な人物となりました。
3.2. 文学作品と社会的影響
1948年、ボリス・ポレヴォイは、クズミンの物語を基にした児童文学作品『マトヴェイ・クズミンの最後の日』を執筆しました。この物語は、現在もロシアの小学校の3年生の教科書に収録され、教育現場で愛国心や自己犠牲の精神を教えるために用いられています。クズミンの物語は、ソ連の教育と国家の物語に深く根差し、多くの人々に影響を与え続けています。
3.3. 記念碑と追悼
ソビエト連邦全体で、マトヴェイ・クズミンを称えるため、多くの通りが彼の名にちなんで名付けられました。また、ソビエト海軍のトロール船も彼の名前を冠しています。
1943年には、モスクワ地下鉄のイズマイロフスキー公園駅(現在のパルチザンスカヤ駅)の構内に、彼の像が建立されました。この像は、ソビエトの彫刻家マトヴェイ・マニゼルによって制作されました。