1. 生涯
マンドゥールン・ハーンは、モンゴルを統一するハーンの地位に就くまでの波乱に満ちた人生を送りました。
1.1. 幼少期と背景
マンドゥールン・ハーンは1438年に誕生しました。異説では1426年生まれとも伝えられていますが、これは『蒙古源流』における誤記の可能性も指摘されています。彼の父はアジャイ太子で、母はオイラト部出身のハトンでした。彼はトクトア・ブハ(タイスン・ハーン)とアクバルジ晋王の異母弟にあたります。一部の資料では、彼の兄弟たちとは異なる母親から生まれたとされています。また、タイスン・ハーンの従兄弟とする説もあります。
彼の祖父はハルグチュク・ドゥレン・テムル太子でしたが、その出自もまた諸説あり、エルベク・ニグルセクチ・ハーンの子や弟、あるいはトグス・テムル・ウスハル・ハーンの子や孫とも言われています。マンドゥールンは、幼い頃に孤児となった父がオイラト部で育ったという複雑な背景を持っていました。彼の幼少期に関する詳細は不明ですが、兄弟のタイスンやアクバルジらと共に各地を転々としながら育ち、一時はオイラト部のトゴン・タイシの庇護下で生活していたと伝えられています。1452年、マンドゥールンは15歳の時、兄のタイスン・ハーンやアクバルジ晋王と共に、ドリヌ・ハラに陣取る四オイラトとの戦いに出陣しました。しかし、次兄アクバルジ晋王のタイスン・ハーンへの裏切りにより、この戦いは四オイラト側の勝利に終わりました。タイスン・ハーンが敗死した際、マンドゥールンはチョソタイ部族の下で遊牧していたと記録されています。その後、彼はチンギス・ハーンの兄弟であるカチウンの子孫の領地へ逃れ、足の不自由なタイジという別名で知られるジナン王トトガン(脱脱罕)によって受け入れられました。
1.2. 初期活動と権力空白期
モーロン・ハーンが1466年に殺害されて以降、モンゴルでは約9年間にわたるハーンの空位時代が続きました。この間、モーリハイ(毛里孩)や斉王ボルナイ(孛魯乃)、オロチュ少師(斡羅出)といった諸部族長が実権を握り、モンゴルの政治状況は混乱を極めました。マンドゥールンは、文献で確認できる限り、チャハル万戸部を統治した最初の人物の一人です。
1463年から1465年の間に、マンドゥールンはトルファンを拠点とする軍閥ベグ・アルスランの娘であるイェケ・カバルトゥ(あるいはネベクパリム・ハトン、鍾金、伊克哈氏とも)と結婚しました。しかし、この夫婦は互いに好まず、子をもうけることはありませんでした。1464年には、当時わずか16歳であったマンドゥハイ・セチェン・ハトンを第二のハトンとして迎えました。
1471年、モーリハイやボルナイ、オロチュらの勢力が次第に衰える中、マンドゥールンは河套地方に入り、自身をハーンと称しました。この時、ゾルゴルハイルハン山(Зорголхайрханゾルゴルハイルハンモンゴル語)やハスカランダでハーン即位を宣言したという説もあります。オイラトのベグ・アルスランがタイシ(太師)の地位に就きました。1473年には、マンドゥールンはバヤンモンケ・ボルフ・ジノンと共に明の韋州へ侵入しました。しかし、明の将軍王越が率いる軍に大敗し、それ以降、彼は河套への再侵攻を控えるようになりました。
1.3. ハーン即位
混乱が続く中、マンドゥールン・ハーンはついにモンゴルの正式なハーンとして即位しました。1475年、マンドゥールンは38歳で帝位に就きました。これはオイラト部のベグ・アルスラン・タイシの推挙によるもので、彼はオルドスのハスランタイ丘または黄河沿いの河套地方でモンゴル帝国のハーンとして即位しました。これにより、彼はオイラトを除く東モンゴル全域を統一することに成功しました。
即位後、マンドゥールンは直ちにマルコルギス・ウケクト・ハーンの仇を討つべく、トゥメト部へ出陣しました。この遠征で、彼はカチウン一族のドーラン・タイジを殺害し、七トゥメトの部族を征服しました。彼はドーラン・タイジの部下であったトゥルゲンをトゥメトの新たな支配者に任命し、ドーラン・タイジの娘をトゥルゲンの息子であるホサイと結婚させました。これにより、トゥメト部はカチウン家の支配から解放され、トゥルゲン家が新たな指導者として受け入れられることとなりました(後にダヤン・ハーンが自身の息子たちを派遣するまで)。
2. 統治と主要な業績
マンドゥールン・ハーンの短い統治期間は、モンゴルの混乱を収拾し、後の時代に大きな影響を与える重要な業績によって特徴づけられました。
2.1. 権力強化と国内政治
マンドゥールン・ハーンは、その治世において、長年にわたる部族間の対立で弱体化していたハーンの権力を強化し、貴族(ノヤンや王公族)の権限を大幅に縮小する政策を推し進めました。この中央集権化の努力は、モンゴルの政治的安定を取り戻す上で不可欠なものでした。彼は、ハーンが名目的な存在に留まらず、実際にモンゴル全域を統治する強力な権力を持つべきだと考えていました。
彼の政策は、貴族の勢力を抑え、ハーン直属の権威を確立することを目指しました。この改革は、彼の死後、ダヤン・ハーン(バトゥ・モンケ)がモンゴルを再統一し、広範な行政改革を行うための強固な基盤を築くことになりました。マンドゥールン・ハーンが築いた集権的な統治システムは、その後のモンゴル社会の安定と発展に大きく貢献したと評価されています。
2.2. 対外活動と戦争
マンドゥールン・ハーンの治世は、対外的な軍事活動や内部の紛争が頻繁に発生した時期でもありました。1473年には、彼はバヤンモンケ・ボルフ・ジノンと共に明の韋州を攻撃しましたが、明の将軍王越に大敗し、その後は河套地方への侵攻を停止せざるを得ませんでした。
1475年の即位後、彼はトゥメト部を攻撃し、カチウン一族のドーラン・タイジを撃破、征服しました。これは、ハーンの権威を示す重要な軍事行動でした。
しかし、彼の治世の後半は、後継者問題とそれに伴う内部対立によって影を落とされました。マンドゥールン・ハーンと、彼が兄弟のように信頼していたボルフ・ジノンの間には、ハリューチンのホンホラやヨンシエブのイスマイル・タイシといった者たちによる讒言が吹き込まれ、両者の関係は次第に悪化していきました。当初はホンホラの言葉を信じず処刑しましたが、イスマイル・タイシの扇動によって最終的にボルフ・ジノンを疑うようになり、イスマイル・タイシに命じてボルフ・ジノンを攻撃させました。ボルフ・ジノンは逃れたものの、彼の民と家畜は奪われ、妻であったシキル太后はイスマイル・タイシに与えられました。この内部紛争は、モンゴル社会の不安定さを増幅させ、ハーンの権威にも大きな打撃を与えました。この時期から、モンゴルの実権はイスマイルの手に渡り始めたとされています。
2.3. 後継者問題と晩年
マンドゥールン・ハーンには直系の男子後継者がいないという深刻な問題がありました。正宮ハトンであるイェケ・カバルトゥ(あるいはネベクパリム・ハトン)は病弱であり、彼との間に子供をもうけることはありませんでした。一方、マンドゥハイ・セチェン・ハトン(丞相エンゴン(Ân Cổnアン・コンベトナム語)の娘)との間には、ボルクチンとエシゲという二人の娘がいました。マンドゥールンはボルクチン公主をウイグトのベグ・アルスラン・タイシに、エシゲ公主をモンゴルジン・トゥメンのチェグト部のホサイ・タブナンに嫁がせました。
当初、マンドゥールンは甥であるバヤンモンケ・ボルフ・ジノンを後継者として定めていましたが、前述のような讒言や不信感から彼を殺害しようとしました。この対立が、彼の晩年の統治に大きな影響を与え、モンゴル内部にさらなる混乱をもたらしました。1478年、マンドゥールン・ハーンはボルフ・ジノンとの交戦中に敗北し、部下たちと共に逃亡しました。
3. 家族関係
マンドゥールン・ハーンの家族構成は、彼の後継者問題に直接関係していました。
- 配偶者:**
- イェケ・カバルトゥ(あるいはネベクパリム・ハトン、鍾金、伊克哈氏)。トルファンの軍閥ベグ・アルスランの娘。1463年から1465年の間に結婚しましたが、夫婦仲は悪く、子はありませんでした。
- マンドゥハイ・セチェン・ハトン(丞相エンゴン(Ân Cổnアン・コンベトナム語)の娘)。1464年に結婚。結婚当時16歳でした。彼女との間に二人の娘をもうけました。
- 子女:**
- 娘ボルクチン:マンドゥハイ・セチェン・ハトンとの間の娘。ウイグトのベグ・アルスラン・タイシに嫁ぎました。
- 娘エシゲ:マンドゥハイ・セチェン・ハトンとの間の娘。モンゴルジン・トゥメンのチェグト部のホサイ・タブナンに嫁ぎました。
- 養子:**
- ダヤン・ハーン(バトゥ・モンケ)。マンドゥールン・ハーンには直系の男子がいなかったため、彼は甥であり後継者と定めていたボルフ・ジノンの息子であるダヤン・ハーンを養子とし、自身の後継者としました。この血統の継承は、後にダヤン・ハーンがモンゴルを再統一する上で重要な意味を持ちました。
4. 死去
マンドゥールン・ハーンは、その治世の末期に起きた後継者ボルフ・ジノンとの激しい対立の中で命を落としました。
彼の死没年は1478年または1479年とされています。一部の資料では1467年とする誤った記述もあります。彼の死因は、ボルフ・ジノンとの戦闘中の戦死が有力です。1478年、マンドゥールン・ハーンはボルフ・ジノンとの戦闘で敗れ、部下と共に逃亡中に殺害されたと伝えられています。異説では、バヤンモンケ・ボルフ・ジノンは1470年には既に死去していたとも言われ、その場合、マンドゥールン・ハーンがボルフ・ジノンを殺害したという説も存在します。しかし、その後のダヤン・ハーンの即位経緯を考えると、彼がボルフ・ジノンに敗れて亡くなったという説がより広く受け入れられています。
彼の遺体は、モンゴル黄金史によると「マゴ・ウンドゥル」という場所に埋葬されたと記されていますが、具体的な場所は現在不明です。マンドゥールン・ハーンの死後、彼には男子後継者がいなかったため、マンドゥハイ・ハトンは、殺害されたボルフ・ジノンの息子であるバトゥ・モンケを探し出し、彼を次期ハーンとして擁立することになります。これにより、モンゴルのハーン位は、彼の血を引くダヤン・ハーンへと引き継がれていきました。
5. 評価と遺産
マンドゥールン・ハーンの歴史的な評価は、モンゴルの混乱期における彼の役割と、その後の統一時代への影響に焦点を当てています。
5.1. 歴史的評価
マンドゥールン・ハーンは、短期間の統治ではありましたが、北元の政治的安定化に大きく貢献したハーンとして評価されています。彼の最大の功績は、ハーンの権力を強化し、諸貴族の権限を抑制した点にあります。この中央集権化の努力は、マルコルギス・ウケクト・ハーンやモーロン・ハーンの死後、約10年近く続いたハーンの空位時代を経て、部族間の争いによって分断されていたモンゴルを再統合するための重要な礎となりました。
彼が築いたハーンの権威と政治的基盤は、彼の死後、マンドゥハイ・ハトンによって擁立された養子のダヤン・ハーンがモンゴルを再統一し、大規模な改革を実行するための土台となりました。マンドゥールン・ハーンがいなければ、ダヤン・ハーンの統一事業ははるかに困難であったと考えられています。
一方で、彼と後継者であるボルフ・ジノンとの対立、そしてその結果としての戦死は、彼の治世の負の側面として語られます。この後継者問題は、不安定な政治状況の中で権力者が抱える課題を示すものでした。しかし、最終的にこの混乱の中からダヤン・ハーンが選ばれ、モンゴルの再興が始まったことを考えると、マンドゥールン・ハーンの統治は、まさにその過渡期において不可欠な役割を果たしたと言えるでしょう。彼は、モンゴルが再び強大な国家へと発展する道筋をつけた、歴史上重要な人物として記憶されています。
5.2. 大衆文化におけるマンドゥールン・ハーン
マンドゥールン・ハーンは、その波乱に満ちた生涯と、後のダヤン・ハーンの時代へと繋がる重要な役割から、いくつかの歴史フィクション作品で描かれています。
スター・Z・デイヴィスによる歴史フィクションシリーズ『Fractured Empire Saga』(2021年-2022年刊行)では、第一巻『Daughter of the Yellow Dragon』と第二巻『Lords of the Black Banner』において、マンドゥールン・ハーンの晩年が脚色されて描かれています。
また、ドイツの作家ターニャ・キンケルが2014年に発表した歴史小説『Manduchai』にも、登場人物の一人としてマンドゥールン・ハーンが登場しています。これらの作品は、歴史上の人物としてのマンドゥールン・ハーンの姿を、より広範な読者に紹介する役割を果たしています。