1. 概要
ミイェーゴンボ・エンフボルド(Миеэгомбын ЭнхболдMiyégombīn Enhboldモンゴル語、1964年7月19日生)は、モンゴル国の政治家であり、同国の政治において重要な役割を果たしてきました。彼はモンゴル人民党(以前はモンゴル人民革命党)の党首を歴任し、首相(2006年1月~2007年11月)、副首相(2007年~2012年)、そして国家大会議議長(2016年~2019年)を務めました。また、首都ウランバートルの市長も経験しています。エンフボルドは、モンゴルが民主主義への移行期にあった1990年代初頭から政治活動を開始し、地方行政から国政へとその影響力を拡大しました。彼は、人民党の主要人物として、同党の政治的復権と議会での多数派形成に貢献し、モンゴルの政治情勢に大きな足跡を残しました。
2. 生い立ちと背景
ミイェーゴンボ・エンフボルドの個人的な背景と初期の形成期は、その後の政治家としてのキャリアの基盤を築きました。
2.1. 出生と家族
ミイェーゴンボ・エンフボルドは、1964年7月19日にモンゴルに生まれました。彼は結婚しており、二人の子供がいます。
2.2. 教育
エンフボルドは1982年に学校を卒業し、1983年から大学で学び始めました。1987年には、モンゴル国立大学を卒業し、中央計画経済を専攻する学士号を取得しました。
2.3. 初期キャリア
大学卒業後、エンフボルドは経済学者としてのキャリアをスタートさせました。1987年から、彼はウランバートル人民代議員会議執行局サービス室で経済学者として勤務しました。1989年には、公共事業省の計画・サービス機械部門の専門家となりました。その後、1991年にはウランバートル市サービス室の室長として復帰し、地方行政における実務経験を積みました。
3. 政治家としてのキャリア
エンフボルドは、そのキャリアを通じてモンゴルの地方政治から国家政府、そして議会における主要な指導者としての役割を担い、モンゴル人民党の復権に大きく貢献しました。
3.1. 政界入りと地方政治
エンフボルドは、モンゴル人民革命党(MPRP)が政治局を刷新し、モンゴルで民主化プロセスが始まったのと同じ年の1990年に同党に入党しました。
1992年から1996年まで、彼は党によってウランバートル市チンゲルテイ区の副区長に任命されました。1996年から1997年には、チンゲルテイ区人民代表会議幹部会議長を務めました。
1997年から2005年にかけて、彼は党からウランバートル市人民革命党評議会議長に指名されました。1999年には、MPRPが支配するウランバートル市人民代表会議によってウランバートル市長に選出されました。市長在任中、彼はウランバートル中心部のブラウンフィールド(再開発可能な旧工業用地など)を再配分し、市の住宅不足問題に取り組むことに尽力しました。
3.2. 党首としての活動
2005年、エンフボルドはナンバリン・エンフバヤルの大統領選挙キャンペーンに貢献しました。エンフバヤルが大統領に就任した際、彼はモンゴル人民革命党の党首の座を辞任する必要があり、その職はエンフボルドに引き継がれました。彼は2005年から2007年10月までMPRP(後のモンゴル人民党)の党首を務めました。
党は2010年に「革命」の名称を外し、「モンゴル人民党」(MPP)に改称しました。エンフボルドは、モンゴル人民党の第27回党大会で2度党首に選出されています。
3.3. 国家政府における役割
2006年1月、モンゴル人民革命党は連立政権からの離脱を決定し、党所属の10人の大臣が辞任しました。これにより閣僚の半数以上が空席となり、議会はツァヒアギーン・エルベグドルジ政権を解散せざるを得なくなりました。この決定は、数日前に民主党の一員がMPRPに移籍したことで、MPRPが議席の半分を占めることになったため、党がこの措置を取るに十分な強さを持っていると感じたからです。さらに4人の民主党議員がこの変更を支持した結果、MPRPは事実上の多数派を獲得しました。この構成の下、エンフバヤル大統領の指名により、議会は2006年1月25日にエンフボルドを新首相として承認しました。
エンフボルドは2007年11月5日に議会に辞表を提出し、議会は11月8日にそれを受理しました。彼はサンジャギーン・バヤルが2007年11月22日に首相に選出されるまで職務を継続しました。
2007年12月5日、エンフボルドはバヤル政権下で副首相に任命され、2012年までこの職を務めました。
3.4. 議会指導者としての活動
2012年の総選挙でモンゴル人民党が敗北した後、エンフボルドは国家大会議副議長に任命されました。
2016年6月の総選挙で、モンゴル人民党が議席の85%を獲得する地滑り的勝利を収めると、エンフボルドは国家大会議議長に選出され、2019年までその職を務めました。
4. 選挙履歴
ミイェーゴンボ・エンフボルドは、その政治キャリアの中でいくつかの重要な選挙に参加しました。

選挙名 | 役職名 | 次数 | 政党 | 1次得票率 | 1次得票数 | 2次得票率 | 2次得票数 | 結果 | 当落 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2017年選挙 | モンゴル国大統領 | 5代 | モンゴル人民党 | 30.75% | 411,748票 | 44.85% | 497,067票 | 2位 | 落選 |
2017年のモンゴル国大統領選挙では、モンゴル人民党の候補として出馬しましたが、民主党の候補であるハルトマーギーン・バトトルガに敗れ、落選しました。
5. 私生活
ミイェーゴンボ・エンフボルドは結婚しており、二人の子供がいます。彼の家族は、彼の政治キャリアを支える基盤となっています。
6. 評価と影響
ミイェーゴンボ・エンフボルドは、モンゴルの政治において多岐にわたる重要な役職を歴任し、その影響力は広範囲に及びました。
6.1. 貢献と業績
エンフボルドの主要な貢献の一つは、ウランバートル市長時代に、市の住宅不足問題に対処するため、中心部の旧工業用地(ブラウンフィールド)を再配分する政策を推進したことです。これは、都市開発と住民の生活環境改善に直接的に寄与しました。
また、彼はモンゴル人民革命党およびモンゴル人民党の党首として、党の再編と政治的勢力の拡大に尽力しました。特に2016年の総選挙では、人民党を議会の85%の議席を獲得する地滑り的な勝利に導き、党の指導者としての手腕を発揮しました。
首相、副首相、国家大会議議長といった国家の要職を歴任したことは、彼がモンゴルの政策決定と立法プロセスにおいて中心的な役割を果たし、国の発展に貢献したことを示しています。
6.2. 批判と論争
エンフボルドのキャリアにおいて、明確な法的・倫理的批判や大きな論争は報じられていません。しかし、2006年に首相に就任する際の政治的状況は、一部の民主党議員がモンゴル人民革命党に合流し、その後大臣職を得たという記述があり、これが政治的な駆け引きやインセンティブの問題として解釈される可能性はあります。この動きは、当時のツァヒアギーン・エルベグドルジ政権が崩壊し、エンフボルドが首相に就任する背景となりました。彼はまた、2017年の大統領選挙で敗北しており、これは彼の政治的影響力の限界を示す出来事でした。