1. 概要
ダトゥ・モクタル・ダハリ(Dato' Mohd Mokhtar bin Dahariマレー語、Mohd Mokhtar bin Dahari英語、1953年11月13日 - 1991年7月11日)は、マレーシアの伝説的なサッカー選手であり、元マレーシア代表のフォワードである。彼は1970年代から1980年代にかけて活躍し、その卓越したスキルと強さ、そして驚異的な得点能力から「スーパーモク(Supermokh英語)」という愛称で広く親しまれた。FIFAは彼が代表チームで記録した89のゴールを公式に認定しており、これは一時期、男子A代表国際試合における世界最多得点記録であった。彼の活躍により、1977年にはマレーシア代表チームのWorld Football Elo Ratingsが61位に達した。ダハリはマレーシアサッカー史上最高の選手の一人とされており、彼の存在はマレーシア社会やスポーツ界に計り知れない肯定的な影響を与えた。
2. 幼少期と背景
モクタル・ダハリの初期の生涯は、彼のサッカーキャリアだけでなく、彼の人間性を形成する上でも重要な時期であった。
2.1. 出生と幼少期
モクタル・ダハリは1953年11月13日、現在のクアラルンプールの一部であるセランゴール州セタパクで、ダハリ・アベンの長男として生まれた。母はアミナ・シャリカンである。父のダハリはトラック運転手として生計を立てていたが、家族を養うには十分な収入ではなかったため、ダハリの家庭は決して裕福ではなかった。モクタルが11歳の時、一家はクアラルンプール市内のカンプン・パンダンに引っ越した。彼は6人兄弟の次男であった。
2.2. 教育と初期の興味
カンプン・パンダンへの転居後、モクタルは市内のビクトリア・インスティテューションで中等教育を受けた。幼少期から彼はサッカーへの強い関心と才能を示し、学校のサッカーチームで活躍した。また、サッカー以外にもバドミントン、セパタクロー、フィールドホッケーなど、様々なスポーツを嗜んでいた。彼の運動能力は多岐にわたり、これらが後のサッカー選手としての基礎を築いた。
3. 選手キャリア
モクタル・ダハリのサッカー選手としてのキャリアは、クラブと代表の両方で目覚ましい功績を残し、彼をマレーシアの国民的英雄へと押し上げた。

3.1. クラブキャリア
モクタルは、まずセランゴールFAのユースチームでバーンリー・ユースカップに出場し、チームを優勝に導いた。この活躍により、彼はクラブのトップチームで継続的にプレイするよう要請され、トップチームでの初シーズンにマレーシアリーグの得点王に輝いた。その後もセランゴールFAの中心選手として活躍し、クラブに数々のタイトルをもたらした。特に、彼の在籍中にクラブはマレーシアカップで10回の優勝(1972年、1973年、1975年、1976年、1978年、1979年、1981年、1982年、1984年、1986年)を達成した。彼はセランゴールFAで通算177ゴールを記録し、クラブの歴代最多得点者となっている。
また、彼はペルバダナン・クマジュアン・ネグリ・セランゴール(PKNS)、タラスコ、クオン・イック銀行(現在のRHB銀行)などのクラブでもプレーした。クオン・イック銀行では選手兼任監督も務めた。1982年にはディエゴ・マラドーナが率いるボカ・ジュニアーズとの親善試合に参加し、マラドーナと握手を交わした。彼はセランゴールFAへの深い忠誠心を示し、「私はセランゴールのために生き、セランゴールのために死ぬ!」という言葉を残している。
3.2. 代表キャリア
モクタルは19歳だった1972年にマレーシア代表に初招集され、同年6月5日のスリランカ代表との試合で国際Aマッチデビューを果たした。彼は代表チームの攻撃陣を牽引し、多くの国際大会で輝かしい成績を収めた。
主な代表での功績は以下の通りである。
- 1974年アジア競技大会では銅メダルを獲得し、フィリピン代表戦では5ゴールを挙げる活躍を見せた。
- 東南アジア競技大会では、1977年と1979年に金メダルを獲得した。また、1973年には銅メダル、1975年と1981年には銀メダルを獲得している。
- ペスタボラ・ムルデカでは、1973年、1974年、1976年、1979年の4回優勝に貢献した。
- キングスカップでは、1972年と1978年に優勝を果たした。
- 1976年AFCアジアカップにも出場し、中国代表戦で1ゴールを記録した。
- 1980年モスクワオリンピックの出場権獲得に貢献したが、マレーシアがボイコットに参加したため、本大会には出場できなかった。
また、彼は親善試合でもその才能を発揮した。1975年にはマレーシアリーグ XIの一員としてアーセナルFCと対戦し、2ゴールを挙げて2対0の勝利に貢献。この試合で、イングランドのトップクラブからの注目を集めた。さらに、レアル・マドリードからもオファーがあったが、マレーシアとセランゴールFAへの愛国心からこれを辞退した。
1978年にはボビー・ロブソンが監督を務めるイングランドB代表との親善試合で、ハーフウェーライン付近からシュートを放ち、相手ゴールキーパーのジョー・コリガンを破ってゴールを決めた。この試合は1対1の引き分けに終わったが、彼の驚異的なプレーは観客を魅了した。この試合後、イングランドのサッカー選手ゴードン・ヒルは雑誌『シュート!』のコラムでモクタルを「ヒーロー・ダハリ」と称賛した。
モクタルはマレーシア代表として142試合に出場し、89ゴールを記録した。これは、かつて男子国際Aマッチにおける世界最多得点記録であり、フェレンツ・プスカシュの84ゴールを抜いて1980年10月27日から2004年6月16日までその記録を保持した。また、22歳273日で50ゴールを達成し、男子国際Aマッチで50ゴールを達成した最年少選手でもある。彼はマレーシア、東南アジア、アジア太平洋、そして20世紀の男子国際Aマッチにおける歴代最多得点者である。
3.3. プレースタイルと影響
モクタル・ダハリは、そのスピード、シュート能力、そして強靭なフィジカルで知られ、「スーパーモク」という愛称は彼の並外れたプレースタイルに由来する。彼はたびたびその卓越した技術と強さから「スーパーモク」と呼ばれ、その名が観衆から熱狂的に叫ばれた。彼はマレーシアの若い世代にとって憧れの存在であり、多くの少年たちが彼のフィールドでの動きを真似しようとした。
23歳の時には、雑誌『ワールドサッカー』によって「アジア最優秀ストライカー」に選出された。彼はマレーシアと所属クラブであるセランゴールFAへの深い愛国心を持ち、世界有数のクラブであるレアル・マドリードからの獲得オファーを辞退したことは、彼の祖国と自国サッカーへの献身を象徴するエピソードとして語り継がれている。彼は「国旗の横に立つのが恥ずかしいのであれば、別の国を探すべきだ!」や「選手一人一人は高い精神を持ち、自分が国を代表しているということを考えるべきだ。もし何か(ひどい結果)が起こっても、国の名が損なわれるだろう。」といった言葉を残しており、その強い愛国心と責任感が窺える。
3.4. 引退と復帰
モクタル・ダハリは1986年5月、マレーシアカップをセランゴールFAで優勝した後、一度目の引退を宣言した。その際、彼はクラブの会長に自身の背番号10のジャージを手渡し、「クラブにジャージを預けておく」と語ったとされている。しかし、1987年1月には現役復帰を発表し、セランゴールFAでさらに1シーズンプレーした。その後、RHB銀行の前身であるクオン・イック銀行のサッカーチームで選手兼任監督として活躍し、1988年から1990年までプレーを続けた。彼の選手としての最後の活動は、1988年夏季オリンピックを控えたオリンピック代表チームの模範試合への出場であった。
4. 指導者キャリア
モクタル・ダハリは選手引退後、次世代のサッカー選手を育成するために指導者の道に進んだ。
4.1. 指導者への転身
選手生活中に負傷の問題を抱えるようになったモクタルは、若手選手の育成に貢献するため、地元のコーチとして活動を始めた。彼は、元セランゴールFAのチームメイトであるレドゥアン・アブドゥッラーに自身の生涯とキャリアについて本を書くよう依頼したこともある。
4.2. 指導哲学と影響
モクタルは、選手兼任監督としてクオン・イック銀行(現在のRHB銀行)のチームを率いた。また、時には古巣のセランゴールFAの選手たちにも指導を行った。彼の教え子の中には、後にリーダロノミクス社の共同創設者兼CEOとなるロシャン・ティラン氏がおり、ティラン氏はモクタルから受けた指導経験について度々語っている。彼の指導は、技術的な指導に留まらず、選手としての規律や精神的な強さを教えることに重点を置いていた。
5. 私生活
モクタル・ダハリは、公の場ではサッカー選手としての輝かしいキャリアで知られていたが、私生活においても堅実で献身的な一面を持っていた。
サッカー選手としてプロになる前は、バドミントン、セパタクロー、フィールドホッケーなど、様々なスポーツを楽しんでいた。彼は当初、セランゴール州開発公社で日中に働き、夜にサッカーをする生活を送っていたが、PKNSでの収入が少なかったため、自分と家族のためにより良い見通しを得るためにクオン・イック銀行(現在のRHB銀行)に転職した。
モクタルは友人を通じてテンク・ザリナ・テンク・イブラヒムと出会い、10年間の交際期間を経て、1979年2月24日に結婚した。夫妻の間には3人の子供がおり、長女のヌル・アゼラ(1982年生)、長男のモハマド・レザ(1980年生)、末娘のヌル・アリナ(1984年生)である。
彼は敬虔なイスラム教徒であり、論争やスキャンダルを避け、喫煙などの悪い習慣とは無縁であった。また、自己規律を重んじ、健康を非常に大切にし、練習中に邪魔されることを嫌うなど、その人柄は非常に disciplined なことで知られていた。
6. 病気と死
モクタル・ダハリの人生は、その最盛期に重い病魔によって突然終わりを告げた。
6.1. 診断と治療
モクタルは喉の不調を訴えるようになり、病院で診察を受けた。医師は彼に筋萎縮性側索硬化症(MND)と診断した。この診断結果は、モクタル本人と彼の妻であるテンク・ザリナにのみ伝えられ、外部には長らく秘密にされていた。病状の改善を求めて、彼は妻と共にロンドンへ渡り、治療を試みた。
6.2. 死とその後
3年間にわたる闘病生活の後、モクタルは病状が悪化し、1991年7月11日にスバン・ジャヤ医療センター(SJMC)で37歳で死去した。当時の報道では、彼の死因は筋ジストロフィーによるものと伝えられた。彼の遺体は、セランゴール州アンパンジャヤのタマン・ケラマッ・ペルマイ・イスラム霊園に埋葬された。
彼の死因は長らく謎に包まれていたが、死から約19年後の2010年8月30日、ナショナルジオグラフィックチャンネルで放送されたドキュメンタリー番組『スーパーモクの語られざる真実(The Untold Truth About Supermokh英語)』で、彼の生前の友人や家族の協力のもと、その生涯とともに真の死因が初めて明らかにされた。このドキュメンタリーは、彼の功績と、病に侵されながらも最後の瞬間まで秘密を守り続けた彼の強さを改めて世に知らしめることとなった。
7. キャリア統計
モクタル・ダハリは、そのキャリアを通じて数々の得点を記録した。彼はマレーシア代表としてクラブチームやナショナルBチーム、選抜チームとの試合を含む合計167試合に出場し125ゴールを記録している。そのうち、国際Aマッチでは142試合に出場し89ゴールを挙げた。
7.1. 代表ゴール
以下は、モクタル・ダハリがマレーシア代表として国際Aマッチで記録したゴールの詳細である。スコア欄は、モクタル・ダハリのゴール後のスコアを示す。
No. | 日付 | 会場 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1972年6月5日 | ジャカルタ、インドネシア | スリランカ | 3-0 | 3-0 | 1972年 ジャカルタ創立記念トーナメント |
2 | 1972年6月9日 | ジャカルタ、インドネシア | ラオス | 2-1 | 2-1 | 1972年 ジャカルタ創立記念トーナメント |
3 | 1972年6月15日 | ジャカルタ、インドネシア | ビルマ | 2-0 | 2-2 | 1972年 ジャカルタ創立記念トーナメント |
4 | 1972年7月19日 | ペラ・スタジアム、イポー、マレーシア | クメール共和国 | 6-1 | 6-1 | 1972年 ムルデカ大会 |
5 | 1972年11月20日 | バンコク、タイ | タイ | 2-0 | 2-0 | 1972年 キングスカップ |
6 | 1972年11月28日 | バンコク、タイ | タイ | 1-0 | 1-0 | 1972年 キングスカップ |
7 | 1973年8月1日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | タイ | 2-0 | 2-2 | 1973年 ムルデカ大会 |
8 | 1973年8月4日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | インド | 4-0 | 4-0 | 1973年 ムルデカ大会 |
9 | 1973年8月12日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | クウェート | 1-1 | 3-1 | 1973年 ムルデカ大会 |
10 | 3-1 | |||||
11 | 1973年9月7日 | カラン・スタジアム、シンガポール | シンガポール | 2-0 | 3-0 | 1973年 東南アジア半島競技大会 |
12 | 1973年9月23日 | ソウル、韓国 | タイ | 4-1 | 5-1 | 1973年 大統領杯サッカー大会 |
13 | 1973年11月1日 | サイゴン、南ベトナム | 南ベトナム | 1 | 5-1 | 1973年 南ベトナム独立杯 |
14 | 2 | |||||
15 | 1973年11月3日 | サイゴン、南ベトナム | シンガポール | 2-0 | 2-1 | 1973年 南ベトナム独立杯 |
16 | 1973年12月20日 | バンコク、タイ | クメール共和国 | 1-0 | 3-2 | 1973年 キングスカップ |
17 | 2-1 | |||||
18 | 3-2 | |||||
19 | 1973年12月23日 | バンコク、タイ | タイ | 1-0 | 1-0 | 1973年 キングスカップ |
20 | 1973年12月25日 | バンコク、タイ | 韓国 | 1-2 | 1-2 | 1973年 キングスカップ |
21 | 1974年6月7日 | ジャカルタ、インドネシア | インドネシア | 2-3 | 3-4 | 1974年 ジャカルタ創立記念トーナメント |
22 | 3-3 | |||||
23 | 1974年7月27日 | ペラ・スタジアム、イポー、マレーシア | 香港 | 1-0 | 1-0 | 1974年 ムルデカ大会 |
24 | 1974年8月1日 | ペラ・スタジアム、イポー、マレーシア | タイ | 1-0 | 1-0 | 1974年 ムルデカ大会 |
25 | 1974年9月7日 | テヘラン、イラン | フィリピン | 2-0 | 11-0 | 1974年 アジア競技大会 |
26 | 3-0 | |||||
27 | 7-0 | |||||
28 | 9-0 | |||||
29 | 10-0 | |||||
30 | 1974年12月10日 | バンコク、タイ | タイ | 2-0 | 2-0 | 1974年 キングスカップ |
31 | 1974年12月20日 | バンコク、タイ | クメール共和国 | 2-0 | 3-0 | 1974年 キングスカップ |
32 | 3-0 | |||||
33 | 1975年3月16日 | バンコク、タイ | 韓国 | 2-1 | 2-1 | 1976年 AFCアジアカップ予選 |
34 | 1975年6月16日 | ジャカルタ、インドネシア | 韓国 | 1-1 | 1-1 (5-4 P.S.O) | 1975年 ジャカルタ創立記念トーナメント |
35 | 1975年7月29日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | 韓国 | 1-3 | 1-3 | 1975年 ムルデカ大会 |
36 | 1975年8月4日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | タイ | 1-0 | 1-0 | 1975年 ムルデカ大会 |
37 | 1975年8月6日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | バングラデシュ | 3-0 | 3-0 | 1975年 ムルデカ大会 |
38 | 1975年8月8日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | 香港 | 2-0 | 3-1 | 1975年 ムルデカ大会 |
39 | 1975年8月10日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | ビルマ | 2-1 | 2-1 | 1975年 ムルデカ大会 |
40 | 1975年12月9日 | バンコク、タイ | タイ | 1-1 | 1-1 (3-4 P.S.O) | 1975年 東南アジア半島競技大会 |
41 | 1975年12月13日 | バンコク、タイ | ビルマ | 1-0 | 1-0 | 1975年 東南アジア半島競技大会 |
42 | 1975年12月16日 | バンコク、タイ | タイ | 1-2 | 1-2 | 1975年 東南アジア半島競技大会 |
43 | 1976年2月15日 | ジャカルタ、インドネシア | パプアニューギニア | 1-0 | 10-1 | 1976年 オリンピック予選 |
44 | 7-0 | |||||
45 | 1976年2月21日 | ジャカルタ、インドネシア | シンガポール | 2-0 | 6-0 | 1976年 オリンピック予選 |
46 | 6-0 | |||||
47 | 1976年6月5日 | タブリーズ、イラン | 中国 | 1-0 | 1-1 | 1976年 AFCアジアカップ |
48 | 1976年8月7日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | 韓国 | 1-0 | 2-1 | 1976年 ムルデカ大会 |
49 | 1976年8月12日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | インド | 2-0 | 5-1 | 1976年 ムルデカ大会 |
50 | 3-0 | |||||
51 | 1976年8月14日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | インドネシア | 4-0 | 7-1 | 1976年 ムルデカ大会 |
52 | 5-0 | |||||
53 | 1976年8月17日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | ビルマ | 1-0 | 3-1 | 1976年 ムルデカ大会 |
54 | 1976年8月22日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | 日本 | 1-0 | 2-0 | 1976年 ムルデカ大会 |
55 | 2-0 | |||||
56 | 1976年9月11日 | 東大門運動場、ソウル、韓国 | 韓国 | 4-1 | 4-4 | 1976年 大統領杯サッカー大会 |
57 | 1976年9月13日 | ソウル、韓国 | シンガポール | 3-0 | 2-0 | 1976年 大統領杯サッカー大会 |
58 | 4-0 | |||||
59 | 1977年7月18日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | タイ | 2-0 | 3-0 | 1977年 ムルデカ大会 |
60 | 1977年7月26日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | 韓国 | 1-1 | 1-1 | 1977年 ムルデカ大会 |
61 | 1977年7月29日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | インドネシア | 1-1 | 5-1 | 1977年 ムルデカ大会 |
62 | 1977年11月21日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | フィリピン | 2-0 | 5-0 | 1977年 東南アジア競技大会 |
63 | 4-0 | |||||
64 | 1977年11月23日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | ブルネイ | 3-0 | 7-0 | 1977年 東南アジア競技大会 |
65 | 1977年11月25日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | ビルマ | 2-0 | 9-1 | 1977年 東南アジア競技大会 |
66 | 3-0 | |||||
67 | 4-0 | |||||
68 | 7-1 | |||||
69 | 8-1 | |||||
70 | 1977年11月26日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | タイ | 2-0 | 2-0 | 1977年 東南アジア競技大会 |
71 | 1978年7月14日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | シンガポール | 1-0 | 6-0 | 1978年 ムルデカ大会 |
72 | 4-0 | |||||
73 | 1978年7月16日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | タイ | 1-0 | 2-0 | 1978年 ムルデカ大会 |
74 | 1978年7月19日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | インドネシア | 1-0 | 1-0 | 1978年 ムルデカ大会 |
75 | 1979年5月2日 | バンコク、タイ | スリランカ | 1-0 | 3-1 | 1980年 AFCアジアカップ予選 |
76 | 3-1 | |||||
77 | 1979年5月5日 | バンコク、タイ | インドネシア | 4-1 | 4-1 | 1980年 AFCアジアカップ予選 |
78 | 1979年6月29日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | ビルマ | 1-0 | 4-1 | 1979年 ムルデカ大会 |
79 | 2-0 | |||||
80 | 3-0 | |||||
81 | 1979年9月23日 | セナヤン・スタジアム、ジャカルタ、インドネシア | シンガポール | 2-0 | 2-0 | 1979年 東南アジア競技大会 |
82 | 1979年9月30日 | セナヤン・スタジアム、ジャカルタ、インドネシア | インドネシア | 1-0 | 1-0 | 1979年 東南アジア競技大会 |
83 | 1980年10月15日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | モロッコ | 2-0 | 2-0 | 1980年 ムルデカ大会 |
84 | 1980年10月20日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | タイ | 1-0 | 2-2 | 1980年 ムルデカ大会 |
85 | 1980年10月27日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | クウェート | 1-1 | 2-1 | 1980年 ムルデカ大会 |
86 | 1980年10月30日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | ニュージーランド | 1-0 | 2-0 | 1980年 ムルデカ大会 |
87 | 1981年4月5日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | シンガポール | 1-0 | 1-1 | 1981年 オバルチンカップ |
88 | 1981年9月9日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | インドネシア | 1-0 | 2-0 | 1981年 ムルデカ大会 |
89 | 1981年9月15日 | ムルデカ・スタジアム、クアラルンプール、マレーシア | インド | 2-1 | 2-2 | 1981年 ムルデカ大会 |
8. 栄誉と受賞
モクタル・ダハリは、その輝かしいキャリアの中で、クラブと代表チーム双方で多くの栄誉と受賞を経験し、個人としても数々の記録を樹立した。
8.1. クラブでの栄誉
所属クラブであるセランゴールFAで、以下の主要大会での優勝に貢献した。
- マレーシアリーグ: 1984年
- マレーシアカップ: 1972年、1973年、1975年、1976年、1978年、1979年、1981年、1982年、1984年、1986年(計10回)
- マレーシア・チャリティカップ: 1984年、1985年、1987年
8.2. 代表での栄誉
国家代表チームとして、以下の国際大会でメダルや優勝を記録した。
- ペスタボラ・ムルデカ: 1973年、1974年、1976年、1979年
- キングスカップ: 1972年、1978年
- 東南アジア競技大会:
- 金メダル: 1977年、1979年
- 銀メダル: 1975年、1981年
- 銅メダル: 1973年
- アジア競技大会:
- 銅メダル: 1974年
8.3. 個人賞と記録
モクタルは、個人としても数々の賞を受賞し、多くの重要な記録を樹立した。
- 国家スポーツマン賞: 1976年
- ワールドサッカー誌「アジア最優秀ストライカー」: 1976年
- AFCアジアオールスターズ: 1982年
- AFCセンチュリークラブ: 1999年
- IFFHS「20世紀マレーシア男子最優秀選手」(1901年 - 2000年)
- IFFHS「男子マレーシア歴代ドリームチーム」: 2022年
- マレーシアオリンピック評議会殿堂: 2004年
- マレーシア元州・元代表サッカー選手協会表彰: 2011年
- 『FourFourTwo』誌「マレーシア歴代ベスト25選手」第1位: 2014年
- Goal.com「マレーシア歴代ベストイレブン」: 2020年
- 記録**
8.4. 国家および州からの勲章
モクタル・ダハリは、その功績に対し、マレーシア国家および各州から以下の名誉ある勲章や騎士号を授与された。
- マレーシア
マレーシア守護者章 Ahli Mangku Negara(AMN): 1977年
- パハン州
パハン州王冠勲章騎士級 Darjah Indera Mahkota Pahang(DIMP)- ダトゥ(Dato'): 2000年(死後追贈)
- セランゴール州
セランゴール功労勲章 功労勲章(PJK): 1977年
セランゴール・スルタン・サラフディン・アブドゥル・アジズ・シャー勲章騎士級 Dato' Setia Sultan Salahuddin Abdul Aziz Shah(DSSA)- ダトゥ(Dato'): 2001年(死後追贈)
9. 遺産と記念施設
モクタル・ダハリの死後、彼の功績を称え、その名を後世に伝えるための様々な施設が設立・命名され、彼の生涯と業績はマレーシアの文化に大きな影響を与え続けている。
9.1. 彼にちなんで命名された場所と機関
- モクタル・ダハリ・コミュニティ・スクエア(Dataran Komuniti Mokhtar Dahariマレー語):クアラルンプールのカンプン・パンダンにあるコミュニティホール。モクタルがかつて住み、時にはサッカーをしていた場所にちなんで名付けられた。
- ゲランガン・モクタル・ダハリ(モクタル・ダハリ・フットサル場):プトラジャヤのプトラジャヤ・フットサル・コンプレックス内にあるフットサルコート。
- アカデミ・ボラ・セパク・ネガラ・モクタル・ダハリ(モクタル・ダハリ国立サッカーアカデミー):パハン州のガンバンに位置する国立サッカーアカデミー。2014年4月10日に設立された。
- プルシアラン・モクタル・ダハリ(Persiaran Mokhtar Dahariマレー語):シャー・アラムとプンチャック・アラムを結ぶ高速道路。元々はシャー・アラム=バトゥ・アラン高速道路と呼ばれていたが、2014年に現在の名称に変更された。
9.2. 文化的影響
モクタル・ダハリの生涯と業績は、マレーシアのポップカルチャーおよび社会全体に多大な影響を与えた。
- 2014年、Googleは彼の61回目の誕生日を祝し、特別なGoogle Doodleを公開した。
- 彼の伝説的なサッカーキャリアを描いたミュージカル『スーパーモク(SuperMokhマレー語)』がイスタナ・ブダヤで上演され、マレーシアの歌手兼俳優アウィーがモクタル・ダハリ役を演じた。
- 彼の死因を巡る真実が明かされたドキュメンタリー番組『The Untold Truth About Supermokh』が2010年8月30日にナショナルジオグラフィックチャンネルで放送された。
10. フィルモグラフィー
モクタル・ダハリは、彼の生涯や功績を扱った作品に出演している。
年 | タイトル | 役柄 |
---|---|---|
1983年 | 『Mekanik』 | 本人役 |