1. 生い立ちと教育
モーリス・ラルフ・ヒルマンは1919年8月30日、モンタナ州カスター郡のマイルズシティ近郊の農場で、グスタフ・ヒルマンとアンナ・ウールスマン夫妻の8番目の子供として生まれた。彼の双子の姉妹は誕生したその日に亡くなり、母親もその2日後に死去した。彼は叔父のボブ・ヒルマンの家で育ち、幼少期には家族の農作業を手伝った。彼の成功の多くは、少年時代にニワトリの世話をした経験に起因すると彼は語っている。1930年代以降、ワクチンの製造には受精鶏卵がウイルス培養によく用いられていたためである。
彼の家族はルーテル教会ミズーリ・シノッドに属していた。8年生の時、彼はチャールズ・ダーウィンの思想に触れ、教会で『種の起源』を読んでいるところを見つかったことがある。後年、彼は宗教を捨てた。学費の不足から大学進学を諦めかけたが、彼の長兄のとりなしにより、奨学金と家族の支援を受けてモンタナ州立大学に入学し、1941年に首席で卒業した。その後、シカゴ大学の奨学金を獲得し、1944年に微生物学の博士号を取得した。彼の博士論文はクラミジア感染症に関するもので、当時ウイルスが原因と考えられていたこれらの感染症が、実際には細胞内でのみ増殖する細菌の一種であるトラコーマクラミジアによって引き起こされることを示した。
2. 経歴
モーリス・ヒルマンの科学者としてのキャリアは、戦時中の緊急対応から始まり、公衆衛生の基礎を築くに至るまで、多岐にわたる重要な活動によって特徴づけられる。
2.1. 初期キャリア
ブリストル・マイヤーズ スクイブの前身であるE.R. Squibb & Sons社に入社後、ヒルマンは第二次世界大戦の太平洋戦線で米軍兵士を脅かしていた日本脳炎に対するワクチンの開発に成功した。1948年から1957年にかけては、ウォルター・リード陸軍研究所(現在のウォルター・リード陸軍医療センター)の呼吸器疾患部門の責任者を務めた。この期間に彼は、インフルエンザウイルスが抗原シフトと抗原ドリフトとして知られる遺伝子変異を起こすことを発見し、この発見から毎年インフルエンザワクチン接種が必要になるという理論を提唱した。
2.2. メルク社での活動
1957年、ヒルマンはメルク・アンド・カンパニー(ニュージャージー州ケニルワース)に移籍し、ペンシルベニア州ウェストポイントに新設されたウイルス・細胞生物学研究部門の責任者に就任した。彼のキャリアで開発された約40種類の実験用および認可された動物・ヒト用ワクチンの大半は、このメルク社での活動中に生み出されたものである。彼は自ら研究室で実験を行うだけでなく、科学的リーダーシップを発揮し、多くの研究者を指導した。
メルク社退職後も、彼は新たに設立されたメルクワクチン研究所で2005年に亡くなるまで20年間働き続けた。この間、彼は世界保健機関(WHO)の諮問委員会をはじめ、アメリカ国立衛生研究所(NIH)のAIDS研究プログラム評価室や米国予防接種諮問委員会(ACIP)など、国内外の多くの学術的、政府的、民間の諮問委員会や委員会で重要な役割を果たした。
2.3. 主要なワクチン開発
モーリス・ヒルマンは、公衆衛生に計り知れない影響を与えた数多くの主要なワクチンを開発またはその開発に大きく貢献した。
2.3.1. インフルエンザワクチンとパンデミックへの対応
ヒルマンは、1957年に香港で発生したアジアかぜ(1957年-1958年のインフルエンザパンデミック)が大規模なパンデミックに発展する可能性をいち早く認識した一人である。彼は直感に基づいて、9日間にわたる連日14時間労働の末、同僚と共にそれが数百万人の命を奪う可能性のある新型のインフルエンザ株であることを特定した。この迅速な対応により、4000万回分のワクチンが準備・配布され、アメリカ国内で6万9000人が亡くなったものの、より多くの死者を出す可能性があったパンデミックの被害を大幅に軽減した。彼のこの功績に対し、米国軍は彼に公衆衛生功労勲章(Public Health Service Distinguished Service Medal)を授与した。彼のワクチンは、数十万人もの命を救ったと信じられている。
1968年の香港かぜパンデミックの際にも、ヒルマンと彼のチームはワクチン開発において重要な役割を果たし、わずか4か月で900万回分のワクチン供給を可能にした。
2.3.2. 小児用ワクチン
ヒルマンは、子どもたちの命を救い、健康を守る上で不可欠な数々の小児用ワクチンの開発を主導した。彼は麻疹、ムンプス、風疹、水痘、ヘモフィルス・インフルエンザ菌、肺炎球菌、髄膜炎菌に対するワクチンを開発した。
特にムンプスワクチンにおいては、1963年に彼の娘ジェリル・リンがおたふくかぜにかかった際、娘から採取したウイルスを培養し、これを基に「ジェリル・リン株」として知られるムンプスワクチンを開発した。この株は現在も使用されており、彼が開発したMMRワクチン(麻疹、ムンプス、風疹の三価ワクチン)にも採用された。これは、複数の生ウイルス株を組み合わせた初めての承認ワクチンであった。
この時期に開発された多くのワクチンや医薬品と同様に、ムンプスワクチンも知的障害を持つ子供たちが暮らすグループホームで試験された。これは、当時の彼らの住環境における劣悪な衛生状態と過密な居住空間が、感染症のリスクを著しく高めていたためである。このような試験は、当時の科学的慣行としては一般的であったが、現代の倫理基準から見れば議論の対象となる。
2.3.3. 肝炎ワクチン
ヒルマンとそのチームは、A型肝炎およびB型肝炎のワクチン開発においても画期的な貢献を果たした。特にB型肝炎ワクチンについては、血清をペプシン、尿素、ホルムアルデヒドで処理する方法を考案し、1981年に認可された。このワクチンは1986年に米国で酵母由来のワクチンに置き換えられ、現在のB型肝炎ワクチンはこの酵母由来のものが広く使用されている。2003年までに、世界150カ国でB型肝炎ワクチンが使用され、米国では若年層におけるB型肝炎の罹患率が95%減少した。ヒルマン自身は、B型肝炎ワクチンの研究が自身の最大の業績であると考えていた。肝臓移植の先駆者であるトーマス・スターツルは、B型肝炎ウイルスを制御したヒルマンの業績を「20世紀の人類の健康への最も優れた貢献の一つであり、臓器移植分野の最も重要な障害の一つを取り除いた」と評している。
2.4. その他の科学的貢献
ヒルマンの科学的貢献はワクチン開発に留まらない。彼はウイルス学の基礎研究においても重要な発見を成し遂げた。
彼はSV40などのサルウイルスがワクチンを汚染する可能性について警告した数少ないワクチン開発者の一人であった。SV40はポリオワクチンのウイルス汚染物質として最もよく知られている。SV40の発見は、ジョナス・ソークのポリオワクチンが1961年に回収され、アルバート・サビンの経口ポリオワクチンに置き換えられるきっかけとなった。両方のワクチンに非常に低いレベルで汚染があったが、経口ワクチンは注射ではなく摂取されたため、有害な影響はなかったとされる。
ヒルマンはまた、アデノウイルス(風邪の原因となる)、肝炎ウイルス、そして潜在的に癌を引き起こすウイルスであるSV40の発見にも貢献した。さらに、彼は初めてインターフェロンを精製し、その生物学的構造を決定し、活性のメカニズムを解明した。
3. 研究手法と人物像
モーリス・ヒルマンは、その科学的業績とは裏腹に、謙虚な姿勢を貫いた人物であった。彼の開発したワクチンや発見のいずれも彼の名を冠していない。彼は自身の研究室を軍隊の部隊のように統率し、彼自身が司令官であった。一時期、彼は解雇した従業員一人ひとりを象徴する「縮んだ頭」(実際には彼の子供が作った偽物)をオフィスに飾っていた。議論を徹底するために、彼は遠慮なく罵詈雑言を浴びせ、怒鳴り散らすこともあった。メルク社の中間管理職をより礼儀正しくするための強制的な「マナー研修」への参加を拒否したという逸話も有名である。しかし、このような厳しい一面にもかかわらず、彼の部下たちは彼に強い忠誠心を持っていた。
4. 受賞歴と栄誉
モーリス・ヒルマンは、その卓越した科学的貢献に対し、数々の国内外の賞や栄誉を受けている。
彼は、米国科学アカデミー、医学研究所(Institute of Medicine)、アメリカ芸術科学アカデミー、アメリカ哲学協会の会員に選出された。1988年には、ロナルド・レーガン大統領から、アメリカ合衆国で最高の科学栄誉であるアメリカ国家科学賞を授与された。
その他の主要な受賞歴としては、公衆衛生の発展への貢献に対し、タイ国王からプリンス・マヒドール賞を受章した。また、世界保健機関(WHO)からは特別生涯功労賞、ラスカー・ブルームバーグ公益事業賞、そしてサビン・ゴールドメダルおよび生涯功労賞が贈られた。1975年には、アメリカン・アカデミー・オブ・アチーブメントのゴールデンプレート賞を受賞。さらに、1989年にはコッホ・ゴールドメダルを受賞している。
5. 遺産と評価
モーリス・ヒルマンの科学的遺産は、現代の公衆衛生と医療に計り知れない影響を与え続けている。彼の功績は、多くの人々から多大な評価を受けている一方で、彼の研究活動の一部には批判や論争も存在する。
5.1. 影響力と認知
ヒルマンは「現代ワクチンの父」として広く認識されており、数百万人の命を救ったと評価されている。エイズウイルス(HIV)の共同発見者であるロバート・ガロは、2005年に「もし人類の健康に最も貢献し、かつ最も評価されていない人物を挙げるなら、それはモーリス・ヒルマンだろう。モーリスは歴史上最も成功したワクチン学者として認められるべきだ」と述べた。
アメリカ国立アレルギー・感染症研究所所長のアンソニー・ファウチは、2005年にヒルマンの貢献について「一般市民の間では最高の秘密であった。ワクチン学の分野全体を見ても、彼ほど影響力のある人物はいなかった」と語った。さらにファウチは「ヒルマンは20世紀の科学、医学、公衆衛生における真の巨人たちの一人だ。モーリスが世界を変えたと言っても、決して誇張ではない」と付け加えた。
2007年には、ポール・オフィットがヒルマンの伝記『Vaccinated: One Man's Quest to Defeat the World's Deadliest Diseases英語(予防接種:世界で最も致命的な病気を打ち破るための一人の男の探求)』を出版した。2007年にアンソニー・S・ファウチはヒルマンの伝記的論文で次のように記している。「モーリスは、救われた数百万の命と、彼の仕事のおかげで苦しみから解放された数え切れない人々を考慮すれば、おそらく20世紀で最も影響力のある公衆衛生の人物であった。彼のキャリアを通じて、モーリスと同僚たちは40種類以上のワクチンを開発した。現在アメリカで推奨されている14種類のワクチンのうち、モーリスは8種類を開発した。」
5.2. 批判と論争
ヒルマンの輝かしい業績の一方で、彼の研究活動に関連する倫理的な側面から批判や論争も存在した。
最も知られているのは、ポリオワクチンにおけるSV40ウイルスの汚染問題である。ヒルマン自身はサルウイルスがワクチンを汚染する可能性について警告していたが、この問題は1961年にジョナス・ソークのポリオワクチンが回収され、アルバート・サビンの経口ポリオワクチンに置き換えられる事態を招いた。この汚染は両方のワクチンにごく低いレベルで存在したが、経口ワクチンは注射ではなく摂取されたため、健康被害にはつながらなかったとされている。
また、ムンプスワクチンなどの試験において、知的障害を持つ子供たちが暮らすグループホームの子供たちを対象とした点が挙げられる。当時のグループホームの環境では感染症のリスクが非常に高かったという背景があったものの、現代の倫理基準から見れば、被験者の脆弱性を考慮した上で、その試験方法について議論が提起されることがある。
5.3. 記念と追悼
ヒルマンの功績を称え、後世に記憶するために、様々な記念事業や追悼活動が行われている。
2005年3月、ペンシルベニア大学医学部小児科およびフィラデルフィア小児病院は、メルク財団と共同で「モーリス・R・ヒルマンワクチン学講座」を設立すると発表した。2008年には、メルク社がノースカロライナ州ダーラムにあるワクチンの製造施設を、ヒルマンを記念して「モーリス・R・ヒルマンワクチン製造センター」と命名した。
2009年、アメリカ微生物学会(ASM)は、病原性、ワクチン発見、ワクチン開発、ワクチンで予防可能な疾病の制御における主要な貢献を称えるために「モーリス・ヒルマン/メルクワクチン学賞」を設立した。この年次賞は2008年から2018年まで授与され、初代受賞者はスタンリー・プロトキンであった。
2016年には、ヒルマンの生涯とキャリアを記録したドキュメンタリー映画『Hilleman: A Perilous Quest to Save the World's Children英語(ヒルマン:世界の子どもたちを救う危険な探求)』が公開された。また、2016年にはヒルマンの母校であるモンタナ州立大学が、彼の名を冠した「ヒルマン・スカラシップ・プログラム」を設立した。これは、「通常の期待を超えて教育に励み、将来の学者を助けることを約束する」新入生を対象とした奨学金である。