1. 生涯初期と背景
ペドロ・ジュリアォンは1210年から1220年の間に、リスボンでジュリアォン・パイス(ポルトガル王サンシュ1世およびポルトガル王アフォンソ1世の宰相)とその妻モル・メンデスの子として生まれたとされている。彼はリスボン大聖堂の司教学校で学び始め、後にパリ大学に進学した。ただし、一部の歴史家は彼がモンペリエ大学で教育を受けたと主張している。彼がどこで学んだにせよ、彼は医学、神学、論理学、哲学、形而上学、そしてアリストテレスの弁証法といった広範な学問分野に集中して探求した。彼は伝統的に、論理学と薬理学の発展に重要な役割を果たした医学者ペトルス・ヒスパヌスと同一人物であるとされている。
2. 学者としての経歴
教皇就任以前、ペドロ・ジュリアォンは「ペトルス・ヒスパヌス」として広く知られ、中世ヨーロッパの知性史に多大な貢献をした。彼の学術活動は、主に論理学と医学の分野に及び、その著作は後世に大きな影響を与えた。1240年代にはシエナ大学で教鞭を執り、その学術活動は彼の教皇としての経歴に先立つ重要な時期を形成した。
2.1. 論理学と『論理学綱要』
ペトルス・ヒスパヌスの最も有名な著作は、『論理学綱要』(Summulae Logicalesスムラエ・ロギカレスラテン語)である。この書は「ヨーロッパの13世紀に刊行された最も典型的なスコラの論理学書」と評され、中世の大学の教養課程で数百年にわたり教科書として使用され、数百版を重ねた著名なテキストであった。今日では、中世ヨーロッパの学問の基礎を理解するための必読書とされている。この著作は、アリストテレス論理学の発展に大きな影響を与え、その論理的思考の体系化に貢献した。
2.2. 医学およびその他の著作
ペドロ・ジュリアォンは、教皇グレゴリウス10世の主治医を務めるなど、医師としても活躍した。医学に関する彼の著作活動も特筆すべきものであり、特に『貧者の宝』(Thesaurus Pauperumテサウルス・パウペルムラテン語)が知られている。この書は、性交前後の避妊法に関する最も包括的な指南書の一つとされ、産児制限に関する助言や月経を誘発する方法などが述べられている。彼の説明する多くの方法は、現代の研究においても効果的であるとされており、古典古代の女性が以前考えられていたよりも産児をよく制限していたという近年の見解を裏付けるものともなっている。しかし、『貧者の宝』の著者がヨハネス21世であったかについては、一部に疑問も提出されている。他にも、彼の眼に関する研究をまとめた著作が現存している。
3. 教会および王室での奉仕
教皇に選出される前、ペドロ・ジュリアォンは教会および王室の両方で重要な奉仕活動を行った。彼はブラガ大司教区の首席司祭(Archdeacon of Vermoim)を務め、またギマランイスの修道院長でもあった。彼はリスボン司教の座を目指したが、その試みは成功しなかった。代わりに、彼はリスボン学校の校長となった。
ポルトガルの宮廷においては、彼はポルトガル王アフォンソ3世の顧問および教会関連事項のスポークスマンを務め、王室における教会との関係構築に貢献した。1273年3月にはブラガ大司教に選出されたが、この職には就任しなかった。その代わり、1273年6月3日、教皇グレゴリウス10世によってトゥスクルム(フラスカーティ)の枢機卿司教に叙任された。この枢機卿としての地位は、彼が教皇に選出される前段階における重要な役割であり、教皇庁内の要職を担うこととなった。
4. 教皇在任
ヨハネス21世の教皇としての在位期間は短かったが、彼の政策や活動は多岐にわたった。彼の在任中には、選出に関する教令の撤回、十字軍の組織化、東方教会との合同推進、そして外交使節の派遣などが行われた。
4.1. 選出と在任
1276年8月18日に教皇ハドリアヌス5世が死去した後、ペドロ・ジュリアォンは同年9月8日に教皇に選出された。彼は一週間後の9月20日に戴冠式を執り行った。彼の在位期間は1276年9月8日から1277年5月20日までのわずか8か月間であった。なお、彼は「ヨハネス」という名前の教皇としては20番目にあたるが、過去に「ヨハネス20世」と称する教皇が存在しないため、「ヨハネス21世」を名乗った。これは、中世における教皇名の数え間違いに起因するものである。
4.2. 主要政策と活動
ヨハネス21世の短い教皇在任中における数少ない行動の一つは、1274年に開催された第2リヨン公会議で採択された教令を撤回したことであった。この教令は、枢機卿が後継の教皇を選出するまで隔離されるだけでなく、審議が長引くにつれて食料やワインの供給を段階的に制限するというものであった。
彼はまた、聖地への十字軍を組織しようと試み、東方教会との合同を推進し、キリスト教諸国間の平和維持に尽力した。彼の他の行動としては、司教の選出に干渉したポルトガル王アフォンソ3世を破門したことや、クビライ・ハーンへ使節を派遣したことが挙げられる。さらに、彼はタタール人を改宗させるための宣教を計画したが、その計画が開始される前に死去した。
4.3. 教皇庁行政と影響
ヨハネス21世の短い教皇在任期間の多くは、強力な枢機卿ジョヴァンニ・ガエターノ・オルシーニ(後に教皇ニコラウス3世として彼の後を継ぐ)によって支配されていた。これは、当時の教皇庁内の権力構造において、枢機卿団、特に有力な枢機卿が教皇の統治に大きな影響力を持っていたことを示している。
ヨハネス21世は、医学研究に必要な静寂を確保するため、ヴィテルボの教皇宮殿に個人的なアパートメントを増築させた。これは、彼が学術的な探求を続けることを重視していたことを示している。
5. 死去
ヨハネス21世は、1277年5月14日、ヴィテルボの教皇宮殿に増築させたアパートメントで一人でいる際に、天井が崩落する事故に遭遇した。彼は瓦礫の下から生きたまま救出されたものの、重傷を負い、その6日後の5月20日に死去した。この死因は、初期のクラッシュ症候群の記録された症例である可能性も指摘されている。偶発的な建物の崩壊によって死去した教皇は、彼が唯一であると考えられている。

彼の遺体はヴィテルボ大聖堂に埋葬され、現在もその墓を見ることができる。元々の斑岩製の石棺は16世紀の大聖堂改修時に破壊され、より簡素な石製の石棺に教皇の肖像を刻んだものが設置された。19世紀には、ポルトガル大使であったジョアン・カルロス・デ・サルダニャ・オリヴェイラ・エ・ダウンによって、彼の遺骨はフィリッポ・ニャッカリーニが彫刻した新しい石棺に移された。さらに2000年には、リスボン市議会が主導し、教皇の元の石像を冠した新しいリオス石製の記念碑が建設され、より尊厳ある場所である翼廊に移設された。
6. 遺産と歴史的評価
ヨハネス21世の死後、彼に関する様々な噂が広まり、文学作品にも言及された。しかし、彼の学術的業績は歴史的に高く評価され、後世に継続的な影響を与えている。
6.1. 文学的言及と死後の噂
ヨハネス21世の死後、彼はネクロマンサー(魔術師)であったという噂が広まった。これは、中世の教皇の中でも数少ない学者であった者たち(例えば教皇シルウェステル2世)に対してしばしば向けられた疑念であった。また、彼の死は異端の論文を完成させるのを阻止するための「神の業」であるとも言われた。
しかし、彼の学術的功績は高く評価され、ダンテ・アリギエーリは自身の『神曲』の『天国篇』において、「ピエトロ・スパノ」(ペトルス・ヒスパヌス)を他の偉大な宗教学者たちの魂と共に太陽の天に配置し、肯定的に言及している。
6.2. 学術的影響力と評価
ペトルス・ヒスパヌスとしての彼の著作、特に『論理学綱要』は、中世の大学で数百年にわたり教科書として使用され、論理学の発展に不可欠な役割を果たした。この書は「中世ヨーロッパの学問の基礎を理解するための必読書」とされ、彼の知的遺産は後世の学術界に多大な影響を与えた。
また、医師としての彼の著作、特に『貧者の宝』は、当時の医学知識と実践に関する貴重な洞察を提供し、その内容の一部は現代の観点からも有効であると評価されている。彼の眼に関する研究も、中世医学史における彼の貢献を示すものである。このように、ヨハネス21世は、教皇としての短い在位期間を超えて、学者としての深い洞察と貢献によって、歴史にその名を刻んでいる。