1. 生涯
ラウラ・ガブリエラ・バデア=カルレスクは、選手としての輝かしいキャリアだけでなく、その後のスポーツ行政家としての活動においても、ルーマニアスポーツ界に多大な影響を与えた人物である。
1.1. 幼少期と教育
ラウラ・バデアは1970年3月28日、ルーマニアの首都ブカレストで4人兄弟の末っ子として生まれた。幼少期にはまずハンドボールと陸上競技を経験したが、13歳でフェンシングに転向した。彼女をフェンシングの世界に導いたのは、CSS 1ブカレストのコーチであるロディカ・ポペスクであり、その後マリア・ヴィコルに師事した。バデアはアレクサンドル・デュマの小説『三銃士』に魅了されており、すぐにこのスポーツに夢中になったという。後にCSAステアウア・ブカレストのフェンシング部門に所属した。
学業においても優秀で、1995年に国立体育スポーツアカデミーを卒業した。2003年にはブカレスト大学でコミュニケーションおよび人材管理の修士号を、2007年にはヤシのアレクサンドル・ヨアン・クザ大学でスポーツマネジメントおよびマーケティングの修士号を取得した。さらに、「Contribuții la clarificarea raportului dintre inteligența motrică și capacitatea de efort în scrima de performanță運動知能とハイレベルフェンシングにおける努力能力の関係性明確化への貢献ルーマニア語/モルドバ語」というテーマでスポーツ科学の博士号も取得している。
1.2. 初期キャリア
バデアは1992年のバルセロナオリンピックで初めてオリンピックに出場し、レカ・サボ、エリサベタ・トゥファン、クラウディア・グリゴレスク、オザナ・ドゥミトレスクと共に団体フルーレで銅メダルを獲得した。この大会でのメダル獲得は、彼女の国際舞台での初期の成功を象徴するものであった。その後、ルーマニア代表チームは1993年のエッセンで開催された世界選手権で団体銀メダルを、1994年のアテネで開催された世界選手権では団体金メダルを獲得し、チームとしての強さを示した。
2. 競技キャリア
ラウラ・ガブリエラ・バデア=カルレスクは、23年間にわたりルーマニア代表として活躍し、数々の国際大会で輝かしい成績を収めた。身長は1.68 m、体重は56 kgで、左利きであった。
2.1. オリンピックメダル
バデアはオリンピックで以下のメダルを獲得している。
- 1992年バルセロナオリンピック: 団体フルーレ 銅メダル
- 1996年アトランタオリンピック: 個人フルーレ 金メダル
- 1996年アトランタオリンピック: 団体フルーレ 銀メダル
特に、1996年のアトランタオリンピックでは、決勝でイタリアのヴァレンティーナ・ヴェッツァーリを破り、個人フルーレで金メダルを獲得した。これはルーマニアの女子フェンシング選手として史上初、かつ唯一のオリンピック金メダル獲得という歴史的快挙であった。団体フルーレでは、ルーマニアチームは決勝でイタリアに敗れたものの、銀メダルを獲得した。
2.2. 世界選手権およびヨーロッパ選手権
バデアは世界選手権およびヨーロッパ選手権で数多くのメダルを獲得している。
世界選手権
- 1993年 エッセン: 団体フルーレ 銀メダル
- 1994年 アテネ: 団体フルーレ 金メダル
- 1995年 ハーグ: 個人フルーレ 金メダル、団体フルーレ 銀メダル
- 1997年 ケープタウン: 団体フルーレ 銀メダル
- 1998年 ラ・ショー=ド=フォン: 団体フルーレ 銀メダル
- 2002年 リスボン: 団体フルーレ 銅メダル
- 2003年 ハバナ: 団体フルーレ 銅メダル
- 2004年 ニューヨーク市: 団体フルーレ 銀メダル
ヨーロッパ選手権
- 1993年 リンツ: 個人フルーレ 銅メダル
- 1994年 クラクフ: 個人フルーレ 銀メダル
- 1996年 リモージュ: 個人フルーレ 金メダル
- 1997年 グダニスク: 個人フルーレ 金メダル
- 1999年 ボルツァーノ: 個人フルーレ 銅メダル、団体フルーレ 銀メダル
- 2000年 マデイラ諸島: 団体フルーレ 銀メダル
- 2002年 モスクワ: 個人フルーレ 銀メダル
- 2004年 コペンハーゲン: 個人フルーレ 金メダル、団体フルーレ 金メダル
2.3. その他の大会での成果
バデアはユニバーシアードでもメダルを獲得するなど、選手としての全体的な競技記録は非常に充実している。
- 1997年 シチリア島ユニバーシアード: 団体フルーレ 銅メダル
彼女は2004年に競技生活から引退するまでに、オリンピック、世界選手権、ヨーロッパ選手権、ユニバーシアードで合計23個のメダルを獲得した。
3. 私生活
バデア=カルレスクは、選手としてのキャリアと並行して、ルーマニア陸軍の士官としても勤務していた。1988年から2004年までルーマニア陸軍に所属し、最終的には大佐の階級まで昇進した。
1999年には、サーブルのフェンシング選手であったエイドリアン・カルレスクと結婚した。夫妻の間にはマリアという娘がいる。
4. 引退後の活動
ラウラ・ガブリエラ・バデア=カルレスクは、2004年に競技生活から引退した後、フェンシング指導者としての活動を経て、スポーツ行政家として多岐にわたるキャリアを築いた。
4.1. 指導者としての活動
選手引退後、バデア=カルレスクはフェンシング指導者としての道を歩み始めた。彼女の豊富な経験と知識は、次世代のフェンシング選手の育成に活かされた。
4.2. スポーツ行政とリーダーシップ
指導者としての活動と並行して、バデア=カルレスクはスポーツ行政の分野でも重要な役割を担い、ルーマニア国内外のスポーツ発展と公正な競争環境の醸成に貢献した。
4.2.1. ルーマニアオリンピック・スポーツ委員会 (COSR) での活動
彼女はルーマニアオリンピック・スポーツ委員会(COSR)において、以下のような主要な役職を歴任した。
- 選手委員会会長(2001年 - 2005年):選手たちの権利擁護と福祉増進に尽力した。
- オリンピック教育ディレクター(2005年 - 2012年):スポーツの価値とオリンピック精神の普及に貢献した。
- ルーマニアオリンピックアカデミーディレクター(2011年 - 2017年)
- COSR執行委員会委員
4.2.2. 国際および国内フェンシング連盟での活動
フェンシング界における彼女のリーダーシップは、国際および国内組織でも発揮された。
- 国際フェンシング連盟(FIE)規則委員会委員:スポーツ規則の合理的改善に貢献した。
- ルーマニアフェンシング連盟副会長(2005年 - 2011年)
- ルーマニアフェンシング連盟会長(2017年 - 2018年):国内フェンシングの発展を牽引した。
4.2.3. その他のスポーツ関連役職
バデア=カルレスクは、上記の他にも様々なスポーツ関連委員会で活動し、その専門知識と経験を活かした。
- ヨーロッパオリンピック委員会文化・オリンピック遺産委員会委員
- ルーマニア反ドーピング機関委員
- ルーマニア科学スポーツ評議会委員(2006年 - 2009年)
- 欧州評議会スポーツ・寛容・フェアプレイ大使(2004年 - 2011年)

5. 受賞歴と栄誉
ラウラ・バデア=カルレスクは、その輝かしい功績が認められ、数々の受賞歴と栄誉を受けている。
- 国際フェンシング連盟殿堂入り(2013年):フェンシング界における彼女の伝説的な地位を確立した。
6. 功績と影響
ラウラ・ガブリエラ・バデア=カルレスクの功績は、ルーマニアフェンシング界に計り知れない貢献をもたらした。彼女は、ルーマニア女子フェンシング選手として唯一のオリンピック金メダル獲得者として、後続の選手たちに大きなインスピレーションを与え、ルーマニアのフェンシングの地位を国際的に高めた。
また、引退後のスポーツ行政分野における彼女の活動は、倫理的なリーダーシップの模範となっている。ドーピング対策や公正な競争環境の推進、そしてオリンピック教育を通じたスポーツの価値の普及に尽力したことは、スポーツ界全体の健全な発展に寄与した。彼女の多岐にわたる役職での経験は、次世代のスポーツ行政家にとっても貴重な指針となっている。バデア=カルレスクは、その卓越した競技能力と、スポーツ界への献身的な貢献を通じて、ルーマニアだけでなく世界のスポーツ史にその名を刻んでいる。