1. 幼少期と背景
q=ナタール|position=right
リシャルリソン・バルボーサ・フェリスビーノは、1982年12月27日にブラジルのリオグランデ・ド・ノルテ州、ナタールで生まれた。彼は幼少期からサッカーを始め、イトゥアーノFCのユースアカデミーでその才能を磨いた。彼の成長環境はサッカーに深く根ざしており、家族もまたサッカーと密接な関係を持っていた。特に父親のレラもかつてプロサッカー選手として活動しており、後にリシャルリソンが所属することになるECサント・アンドレでもプレーしていた。
1.1. 家族関係
リシャルリソンの家族はサッカー一家として知られている。父親のレラ(本名:ヘイナウド・フェリスビーノ)は元プロサッカー選手であり、息子のリシャルリソンがプレーしたECサント・アンドレにも所属していた経歴を持つ。
兄のアレクサンドロもフォワードとして活躍したサッカー選手で、2013年にはアトレチコ・ミネイロでリシャルリソンとチームメイトとなり、兄弟で同じチームでプレーするのはこれが初めての経験となった。
また、義兄のデコもサッカー選手である。このように、リシャルリソンの家族は、彼自身のサッカー経歴に大きな影響を与えた。
2. サッカー経歴
リシャルリソンのサッカー経歴は、ユース時代からプロ引退まで、数多くのブラジル国内クラブと一部の海外クラブでの活躍、そして代表経験によって彩られている。彼はキャリアを通じて、守備的ミッドフィールダーを主戦場としながらも、レフトバックやセンターバックもこなせる多才な選手として知られた。特にサンパウロFCとアトレチコ・ミネイロでの時期に、キャリアの絶頂期を迎え、数々のタイトル獲得に貢献した。
2.1. ユース・初期プロ経歴
リシャルリソンは、1998年から2001年までイトゥアーノFCのユース部門でキャリアをスタートさせ、その間にコパ・サンパウロ・ジ・ジュニオレスを制覇した。
その後、2002年にプロキャリアをECサント・アンドレで開始し、2005年まで在籍した。このクラブは、かつて彼の父親レラも所属していた縁のあるチームである。2003年には、フォルタレーザECへ期限付き移籍し、16試合に出場して1得点を記録した。同じく2003年から2005年にかけては、オーストリアのトップリーグクラブであるレッドブル・ザルツブルクへ期限付き移籍し、27試合に出場して2得点を挙げた。
初期のプロ活動で注目を集めたリシャルリソンは、ブラジルの大都市サンパウロの強豪クラブ、SEパルメイラスからの関心を引きつけた。しかし、彼のファーストネーム「リシャルリソン」からラストネーム「フェリスビーノ」へのニックネーム変更の可能性や、その発音・綴りの複雑さに関する懸念から、パルメイラスへの加入に難色を示した。最終的に、彼は土壇場でパルメイラスのライバルであるサンパウロFCへの移籍を決断した。この移籍は、サント・アンドレとの法廷闘争により、当初サンパウロでのデビューが遅れることになったものの、最終的に和解が成立した。
2.2. サンパウロFC
2005年から2010年にかけて、リシャルリソンはサンパウロFCでキャリアの重要な時期を過ごした。当初は出場機会に恵まれなかったが、ムリシ・ラマーリョ監督の就任により状況は一変した。ラマーリョ監督の下で、リシャルリソンはキャリア最高の時期を迎え、サンパウロFCが達成した3年連続のカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA優勝(2006年、2007年、2008年)に不可欠な選手として貢献した。彼はこの期間に、リーグ戦で147試合に出場し6得点を挙げた。
しかし、クラブでの成功にもかかわらず、リシャルリソンは同性愛嫌悪を巡る疑惑によって常に厳しい監視と誹謗中傷の対象となり、一部のサンパウロFCサポーターからも侮蔑的な同性愛嫌悪のチャントを受けるまでに至った。
キャリアの終盤には、彼のプレーは次第に無謀になり、重要な試合での退場が増加した。その例として、コパ・リベルタドーレスでのウニベルシタリオ・デポルテス戦や、フルミネンセFC戦が挙げられる。特にフルミネンセ戦では、退場時に審判に対し「ろくでなし」、「くたばれ」と叫び、怒りの中で「あいつは(それに加えて)ホモだ」と発言したとされる。これらの度重なる退場や、技術的な質の低下が、サンパウロFCに彼の放出を促すこととなった。
2.3. アトレチコ・ミネイロ
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サンパウロFCでの長い期間を経て、リシャルリソンは2010年12月にベロオリゾンテを本拠地とするクルーベ・アトレチコ・ミネイロに移籍した。彼はその年のチームにとって「最高の補強」として期待され、主力選手として活躍した。
アトレチコ・ミネイロでは、2012年のカンピオナート・ミネイロ優勝に貢献し、2012年のカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでも目覚ましい活躍を見せた。この活躍により、クラブは13年ぶりにコパ・リベルタドーレス出場権を獲得した。2013年には、兄のアレクサンドロもアトレチコ・ミネイロに加入し、兄弟で初めて同じチームでプレーすることになった。彼はこの期間に、リーグ戦で66試合に出場し1得点を記録した。
2.4. 後期経歴と引退
アトレチコ・ミネイロを離れた後、リシャルリソンはECヴィトーリアで2014年を過ごし、24試合に出場して1得点を挙げた。ヴィトーリアがカンピオナート・ブラジレイロ・セリエBに降格したことを受け、彼は2014年12月にプロサッカーからの引退を発表した。
しかし、2015年1月27日、彼は引退を撤回し、アソシアソン・シャペコエンセ・ジ・フチボウと契約して現役復帰を果たした。シャペコエンセでは13試合に出場したが、得点はなかった。その後も複数のクラブでプレーを続けた。
- グレミオ・ノヴォリゾンチーノ (2016年): 5試合出場、1得点
- FCゴア (2016年): 12試合出場、1得点
- グアラニFC (2017年): 22試合出場、1得点
- シアノルテFC (2018年): 9試合出場、1得点
- ECノロエスチ (2019年): 16試合出場、1得点
- カンピネンセ・クルーベ (2019年): 2試合出場、0得点
- ECノロエスチ (2020年): 11試合出場、2得点
- アメリカ-RJ (2021年): 7試合出場、1得点
- ECノロエスチ (2021年): 11試合出場、1得点
これらのクラブを経て、2021年を最後にプロサッカー選手としてのキャリアを終えたと見られる。
2.5. 代表経歴
リシャルリソンは、2008年にブラジル代表に選出され、当時のドゥンガ監督の下で代表デビューを果たした。ドゥンガ監督は、リシャルリソンの多才さを高く評価していた。
彼は国際Aマッチで2試合に出場したが、得点記録はなかった。
代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
ブラジル | 2008 | 2 | 0 |
合計 | 2 | 0 |
3. プレースタイルとポジション
リシャルリソンは、主に守備的ミッドフィールダーとしてプレーしたが、そのキャリアを通じてサイドバック(特にレフトバック)やセンターバックもこなすことができる多才な選手として知られていた。
彼のプレースタイルは、高いタックル能力、ボール奪取力、そして戦術理解に基づいた堅実な守備が特徴であった。中盤では、守備ラインの前に位置し、相手の攻撃を食い止める「フィルター」としての役割を担い、また正確なパスで攻撃の起点となることもあった。ドゥンガ監督がブラジル代表に彼を招集した際にも、その「多才さ」が特に評価された。
しかし、キャリア後期には、時には無謀なプレーや感情的な行動が見られ、重要な試合での退場も経験している。それにもかかわらず、その守備的貢献と複数のポジションをこなせる能力は、所属クラブにとって貴重な存在であった。
4. 私生活とパブリックイメージ
リシャルリソンの私生活は、彼の性的指向に関する公的な発表と、それに伴う社会的議論によって特徴づけられる。彼は長年にわたり、サッカー界における同性愛嫌悪の対象とされてきたが、後に自身が両性愛者であることを公表し、ブラジルサッカー界におけるLGBTQ+の権利推進に大きな影響を与えた。
4.1. 両性愛者のカミングアウト
2022年、リシャルリソンはポッドキャスト「Nos Armários dos Vestiários」のインタビューで、自身が両性愛者であることを公にカミングアウトした。このカミングアウトにより、彼はブラジル代表(男子チーム)でプレーした選手として、またカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでプレーした選手として、初めて公にLGBTQ+であることを表明した選手となった。
彼のカミングアウトは、ブラジルおよび世界のサッカーコミュニティにおける性的指向と多様性に関する議論に具体的な影響を与えた。これは、サッカー界に根強く残るステレオタイプや偏見に挑戦し、より開かれた、包摂的な環境を築くための重要な一歩として評価された。リシャルリソンの行動は、多くの人々、特にスポーツ界のLGBTQ+アスリートにとって、勇気とインスピレーションの源となっている。
4.2. 名誉毀損訴訟とホモフォビア論争
リシャルリソンはキャリアを通じて、自身の性的指向に関する疑惑と、それに伴う同性愛嫌悪的な中傷に直面してきた。特に2007年には、彼の性的指向を巡る論争が表面化した。
2007年6月25日、新聞『Agora São Paulo』が、有名クラブのサッカー選手が週刊ニュースマガジン『Fantástico』の独占インタビューでカミングアウトすると報じた。翌日、ブラジルのスポーツコメンテーターであるミルトン・ネベスは、自身のテレビ番組「Debate Bola」にSEパルメイラスのサッカーディレクターであるジョゼ・シリロ・ジュニオールを招いた。番組中、ネベスはシリロ・ジュニオールに、カミングアウトするとされる選手が彼のチームの選手であるかと尋ねたところ、シリロ・ジュニオールは「リシャルリソンはパルメイラスにほとんど獲得されかかっていた」と答えた。
この発言は、公衆やメディア全体からリシャルリソンの性的指向を示唆するものと受け取られたが、選手本人はこの件についてコメントしなかった。リシャルリソンが直前でパルメイラスからのオファーを断り、ライバルであるサンパウロFCと契約したという事実が、パルメイラスの元サッカーディレクターサルバドール・ウーゴ・パライアとの確執を生んでおり、パルメイラスが同性愛嫌悪的であるという憶測も生んだが、後にこれは誤りであることが判明した。
この件を受け、リシャルリソンの弁護士レナト・サルゲは、シリロ・ジュニオールに対し損害賠償と名誉毀損で訴訟を起こした。しかし、マノエル・マキシミアノ・ジュンケイラ・フィーリョ判事は訴訟を棄却し、その判決理由として「サッカーは男性的で活発なスポーツであり、同性愛者のものではない」と述べ、この理由に基づいて「リシャルリソンはFIFAによって永久に追放され、二度とサッカーをすることを許されるべきではない」とまで言い放った。判事は、同性愛者の選手はチームを去るか、自分自身のチームを始めるべきだと示唆した。
この判決の後、ジュンケイラ・フィーリョ判事はサンパウロの司法評議会に対し15日以内に説明を求められることになり、サルゲ弁護士からも訴訟を起こされた。この一連の事件は、ブラジルサッカー界および司法における根深い同性愛嫌悪を浮き彫りにし、スポーツにおける人権保護と平等の緊急の必要性を示した。また、リシャルリソンがこのような偏見に勇敢に立ち向かった回復力と、その行動が社会に与えた広範な影響を強く印象づけた。
4.3. その他の公的活動
リシャルリソンはサッカー選手としての活動以外にも、公の場に姿を見せている。2023年には、リアリティ歌唱コンテスト番組『The Masked Singer Brasil』シーズン3に出演し、素焼きのフィルターのマスクをかぶってパフォーマンスを披露した。
5. 引退後の経歴
プロサッカー選手を引退した後、リシャルリソンはメディアの世界に進出した。2022年1月からは、ブラジルの大手スポーツ専門チャンネルであるSporTVで解説者として活動している。彼はこの新しい役割を通じて、自身のサッカーに関する深い知識と経験を視聴者に伝え、新たなキャリアを築いている。
6. 獲得タイトル
リシャルリソンは、そのキャリアにおいて数々の主要なチームタイトルおよび個人賞を獲得している。
- ECサント・アンドレ**
- コパ・ド・ブラジル: 2004
- サンパウロFC**
- カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA: 2006、2007、2008
- FIFAクラブワールドカップ: 2005
- クルーベ・アトレチコ・ミネイロ**
- コパ・リベルタドーレス: 2013
- カンピオナート・ミネイロ: 2012、2013
- 個人**
- カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA チーム・オブ・ザ・イヤー: 2007
- ボーラ・ジ・プラッタ: 2007
7. 経歴統計
リシャルリソンのクラブおよび代表チームでの出場試合数と得点記録に関する統計データは以下の通りである。
- クラブ経歴(一部抜粋)**
- ECサント・アンドレ: 33試合出場、9得点
- フォルタレーザEC: 16試合出場、1得点
- レッドブル・ザルツブルク: 27試合出場、2得点
- サンパウロFC: 147試合出場、6得点
- アトレチコ・ミネイロ: 66試合出場、1得点
- ECヴィトーリア: 24試合出場、1得点
- シャペコエンセ: 13試合出場、0得点
- グレミオ・ノヴォリゾンチーノ: 5試合出場、1得点
- FCゴア: 12試合出場、1得点
- グアラニFC: 22試合出場、1得点
- シアノルテFC: 9試合出場、1得点
- ECノロエスチ (2019): 16試合出場、1得点
- カンピネンセ・クルーベ: 2試合出場、0得点
- ECノロエスチ (2020): 11試合出場、2得点
- アメリカ-RJ: 7試合出場、1得点
- ECノロエスチ (2021): 11試合出場、1得点
- 代表経歴**
8. 評価と遺産
リシャルリソンは、そのサッカーキャリアを通じて、多才な選手としての能力だけでなく、社会的な偏見に立ち向かい、LGBTQ+の人権促進に貢献したパイオニアとしての影響力においても評価されている。彼はピッチ上で数々のタイトルを獲得し、ブラジルサッカー界のトップレベルで活躍した一方で、私生活では自身の性的指向を巡る困難な状況に直面しながらも、その回復力と勇気を示した。
8.1. サッカー界のLGBTQ+人権への影響
リシャルリソンの両性愛者としてのカミングアウトは、ブラジルおよび世界のサッカーコミュニティにおける性的指向と多様性に関する議論に、具体的かつ大きな影響を与えた。彼は、伝統的に「男性的」とされるスポーツにおいて、自身の真のアイデンティティを公にすることで、長年の沈黙を破り、見えない壁を打ち破る先例となった。
特に、2007年の名誉毀損訴訟とその際に下された同性愛嫌悪的な判決は、スポーツ界、ひいては社会全体に蔓延する偏見と差別を浮き彫りにした。しかし、この困難な経験にもかかわらず、リシャルリソンは後に自身の性的指向を公表するという行動に出た。これは、単なる個人的な宣言に留まらず、多くの人々、特にサッカー選手やスポーツ界のLGBTQ+コミュニティに、自分らしく生きる勇気を与え、連帯を促す象徴となった。
彼の行動は、ブラジルサッカー界における包摂性と多様性への意識を高め、より開かれた対話を促進するきっかけとなった。リシャルリソンは、個人の尊厳と人権が、いかなる偏見や差別よりも尊重されるべきであるというメッセージを、自身の存在を通じて明確に示した。彼の遺産は、ピッチ上の功績に加えて、サッカー界における人権擁護と偏見に立ち向かった闘いの歴史の一部として、深く刻まれている。9. 外部リンク
- [http://www.accademiapulia.org/en/members/richarlyson-barbosa-felisbino-football-player.html Accademia Apulia UKによるインタビュー]
- [http://globoesporte.globo.com/ESP/0,,AAL3505-4286,00.html globoesporte.globo.com]
- [https://web.archive.org/web/20090602085533/http://en.sambafoot.com/players/1172_Richarlyson.html sambafoot (アーカイブ)]