1. 初期人生と軍務
リチャード・サイクス卿の初期人生と軍務経験は、彼の後の外交官としてのキャリアの基盤を築いた。
1.1. 初期人生と教育
リチャード・サイクスは1920年5月8日に陸軍准将A.C.サイクスの息子として生まれた。彼はウェリントン・カレッジで教育を受け、その後オックスフォード大学のクライスト・チャーチで学んだ。
1.2. 第二次世界大戦での従軍
第二次世界大戦中、サイクスは1940年から1946年までイギリス陸軍の王立通信隊に所属し、少佐の階級に達した。1945年にはその功績を認められ、ミリタリー・クロスとフランスの戦功十字章を受章した。
2. 外交官としての経歴
リチャード・サイクスは、第二次世界大戦での軍務を終えた後、イギリスの外交官として長きにわたるキャリアを歩み、複数の国で重要な役職を務めた。
2.1. 初期外交活動 (1947-1969)
サイクスは1947年にイギリス外交局に入省し、1947年から1948年まで外務省に勤務した。その後、南京(1948年 - 1950年)、北京(1950年 - 1952年)に赴任し、1952年から1956年には再びイギリスの外務省で勤務した。
彼の次の海外赴任は、ブリュッセル(1956年 - 1959年)、サンティアゴ(1959年 - 1962年)、アテネ(1963年 - 1966年)であった。その後、1967年から1969年まで再び外務省に戻り、国内での職務に就いた。
2.2. 主要な海外大使・役職 (1970-1979)
サイクスが初めて大使に任命されたのは、キューバのハバナへの赴任(1970年 - 1972年)であった。その後、ワシントンD.C.のイギリス大使館で公使を務め(1972年 - 1975年)、1975年から1977年にかけては外務省の事務次官補として帰国した。そして、1977年にオランダ駐在大使に任命され、その職に就いた。
3. 暗殺事件
リチャード・サイクス大使の暗殺は、冷戦期のテロリズムが国際社会に与えた衝撃的な影響を示すものとなった。
サイクス大使は1979年3月22日午前9時、ハーグの自身の公邸を出て、銀色のロールス・ロイス製のリムジンに乗り込もうとした際に銃撃された。彼は車内でアリソン・ベイルズの隣に座っていた。車のドアは、大使館で働いていた19歳のオランダ人従者カール・ストラウブが開けていた。ストラウブもまたこの攻撃で撃たれた。
サイクス大使の運転手であるジャック・ウィルソンは負傷せず、サイクスをウェストエンデ病院に搬送したが、彼はその2時間後に死亡した。ストラウブも救急車で同じ病院に搬送されたが、彼もまた死亡した。
警察の報告によると、銃弾は2人の男によって約10 ydの距離から発射され、彼らはビジネススーツを着用しており、攻撃後徒歩で逃走したという。事件の同じ日の遅く、ベルギーの銀行幹部であるアンドレ・ミショーがブリュッセルの自宅前で殺害されたが、これはIRAが誤って殺害したものであった。ミショーの向かいに住んでいたNATO駐在イギリス副大使ジョン・キリック卿が、IRAの真の標的であったと考えられている。
3.1. 事件の背景とIRAの動機
サイクス大使暗殺の容疑者は当初、パレスチナ人またはイラク人であるとされたが、そのような証拠は提出されなかった。最終的に、IRAが殺害を実行したことが確認された。
IRAは1980年2月に暗殺の責任を認める声明を発表した。彼らはサイクスについて、「単なる英国のプロパガンダ担当者ではなく、全英国大使と同様に、我々の組織に対する情報活動に従事していたからだ」と述べた。
声明で言及された「情報活動」とは、1976年にIRAによって殺害されたアイルランド共和国駐在イギリス大使クリストファー・イワート=ビッグスの暗殺後にサイクスが作成した政府報告書に関連するものであった。サイクスはその報告書の一部として、外交官の安全に関するガイドラインを策定していた。
サイクス大使のオランダでの立場は、IRAに同情的な一部のオランダの団体が存在し、それに伴う武器密輸活動があったため、困難な状況にあった。
4. 私生活
サイクスはアン・フィッシャー夫人と結婚し、3人の子供をもうけた。サイクス夫人は2018年に死去した。
5. 記念
イギリスのウィルトシャー州ウィルスフォードにある聖ミカエル教会には、サイクス大使を追悼する記念プレートが設置されている。