1. 概要
ポルトガル出身のインファンタ、レオノール・デ・ポルトゥガルは、およそ1211年にポルトガル王アフォンソ2世とカスティーリャ王女ウラカ・デ・カスティーリャの一人娘として生まれました。彼女は1229年にデンマークのヴァルデマー若王と結婚し、デンマーク王妃となりました。王妃としての役割はわずか2年で終わり、1231年8月28日に出産中に若くして亡くなりました。レオノールの死後まもなく夫も事故死し、彼女の人生は悲劇的なものでした。彼女の遺骨は後に調査され、骨癌の痕跡や生後間もない幼児の遺骨が発見され、その短い生涯とその死因に新たな光が当てられました。
2. 生い立ちと出自
レオノール・デ・ポルトゥガル(Leonorレオノールポルトガル語、Eleonoraエレオノーラデンマーク語)は、およそ1211年にポルトガル王アフォンソ2世と王妃ウラカ・デ・カスティーリャの間に生まれた唯一の娘でした。彼女はポルトガル王室のインファンタとして生を受けました。
3. デンマーク王妃としての生涯
レオノールとヴァルデマー若王の結婚は、ヴィボー司教ゴナが最初に提案したものでした。この縁組が考えられたのは、レオノールの叔母であるベレンガリア・デ・ポルトゥガルがヴァルデマー若王の継母であったという繋がりがあったためです。結婚式は1229年6月24日にリーベ大聖堂で執り行われました。翌日、レオノールは夫から結婚祝いとしてフュン島の南半分を与えられました。
ヴァルデマー若王は父ヴァルデマー2世の共治王であり、レオノールは形式上は「若き王妃」(ジュニア・クイーン)でしたが、デンマークには彼女の叔母ベレンガリアが8年前に死去して以降、ヴァルデマー2世が再婚していなかったため、事実上唯一の王妃としてその地位を担いました。
4. 死と遺骨の発見
レオノールは結婚からわずか2年後の1231年8月28日、出産中に死去しました。彼女の死から3か月後には、夫であるヴァルデマー若王も狩猟中の不慮の事故により命を落としました。
レオノールの遺骨はリングステッド教会に埋葬され、後にその墓が調査されました。調査の結果、彼女の骨には骨癌の痕跡が見つかり、これが彼女の死に寄与した可能性が高いとされています。さらに、レオノールの墓の足元からは鉛製の棺が発見され、その中には生後およそ6か月とみられる幼児の骨が納められていました。この幼児は生まれた時から病弱で瘰癧を患っていたとされています。この発見は、レオノールが亡くなる直前に子供を出産し、その子供もわずか6か月で後を追うように死去した可能性を示唆しています。

5. 家系図
レオノール・デ・ポルトゥガルの家系図は以下の通りです。
世代 | 氏名 |
---|---|
1. | レオノール・デ・ポルトゥガル |
2. | アフォンソ2世 |
3. | ウラカ・デ・カスティーリャ |
4. | サンシュ1世 |
5. | ドゥルセ・デ・アラゴン |
6. | アルフォンソ8世 |
7. | エリナー・オブ・イングランド |
8. | アフォンソ1世 |
9. | マファルダ・デ・サボイア |
10. | ラモン・バランゲー4世 |
11. | ペトロニラ |
12. | サンチョ3世 |
13. | ブランカ・デ・ナバラ |
14. | ヘンリー2世 |
15. | アリエノール・ダキテーヌ |
16. | アンリ |
17. | テレサ |
18. | アメデーオ3世・ディ・サヴォイア |
19. | マオー・ダルボン |
20. | ラモン・バランゲー3世 |
21. | ドゥルセ1世・ド・プロヴァンス |
22. | ラミロ2世 |
23. | アニェス・ダキテーヌ |
24. | アルフォンソ7世 |
25. | ベレンゲラ・デ・バルセロナ |
26. | ガルシア6世 |
27. | マルグリット・ド・ライグル |
28. | ジョフロワ・プランタジネット |
29. | マティルダ |
30. | ギヨーム10世 |
31. | エノア・ド・シャテルロー |