1. 概要

レツィエ3世(Letsie IIIレツィエ3世英語、本名:Mohato Bereng Seeisoモハト・ベレン・セーイソ英語、またはDavid Mohato Bereng Seeisoデイヴィッド・モハト・ベレン・セーイソ英語)は、レソトの国王である。1990年に父モショエショエ2世が亡命を余儀なくされた際に即位し、その後1995年に父が一時的に復位したが、1996年初頭の交通事故で父が崩御したため、再び国王となった。
立憲君主制を採用するレソトにおいて、国王としてのレツィエ3世の職務のほとんどは儀礼的なものである。しかし、彼はその象徴的な役割を通じて、国家の安定と社会発展に貢献してきた。特に2000年には、レソトにおけるHIV/AIDSの蔓延を「自然災害」と宣言し、国内外の即時的な対応を促すことで、公衆衛生と社会的弱者の保護に尽力した。また、1994年の政治危機においては、一時的に親政を宣言し議会を解散したが、国民の抗議を受けて退位を余儀なくされるなど、民主主義の進展における課題にも直面した。
2. 幼少期と教育
レツィエ3世は、スコット病院でモハト・ベレン・セーイソとして生を受け、モショエショエ2世の長男として王太子となった。イギリスで初等・中等教育を受けた後、レソト国立大学で法学を学び、さらにイギリスの複数の大学で開発学や農業経済学を修めた。
2.1. 出生と家族
レツィエ3世は、1963年7月17日にマセル県モリヤにあるスコット病院で、モハト・ベレン・セーイソとして生まれた。父はモショエショエ2世国王、母はマモハト王妃(タビサ・マセンテ・レロトリ・モジェラ王女)である。1966年にレソト王国が成立し、父が国王に即位したことに伴い、彼は王太子となった。彼には弟のシーイソ王子と妹のコンスタンス・マセーイソ王女がいる。
2.2. 教育
レツィエ3世は、イギリスのアンプルフォース・カレッジで初等・中等教育を受けた。その後、レソト国立大学に進学し、法学の学士号を取得して卒業した。さらに、彼はイギリスの高等教育機関で学び、1986年にはブリストル大学で英語法学研究のディプロマを取得した。1989年にはケンブリッジ大学のウルフソン・カレッジで開発学を、ロンドン大学のワイ・カレッジで農業経済学を学んだ。1989年に学業を終えてレソトに帰国し、同年12月16日にはマツィエングの首長に就任した。
3. 統治
レツィエ3世の統治は、父モショエショエ2世の政治的動乱に始まり、幾度かの即位と退位を経験した。彼は立憲君主として儀礼的な役割を果たす一方で、1994年の政治危機やHIV/AIDS問題への対応など、国家の重要な出来事に関与してきた。
3.1. 即位と復位
レツィエ3世の治世は、父モショエショエ2世の政治的動乱と密接に結びついている。1990年、ジャスティン・レハンヤ率いる軍事政権がクーデターを起こし、父モショエショエ2世を亡命させたため、レツィエは第2代国王として即位した。しかし、1994年8月には、当時のヌツ・モヘレ首相との対立が激化し、レツィエ3世は一方的に憲法の停止と議会・内閣の解散を宣言した(レソト危機)。この親政宣言は、ゼネラル・ストライキや大規模な抗議デモを引き起こし、国民からの強い反発に直面した結果、彼は同年9月に退位を余儀なくされた。
その後、南アフリカ共和国を中心とした周辺国の仲介により、1995年1月には父モショエショエ2世が王位に復位した。しかし、翌1996年1月15日、モショエショエ2世が交通事故で崩御したことに伴い、レツィエ3世は同年2月7日に再び国王として即位し、第4代国王となった。
3.2. 戴冠式
1997年10月31日、レツィエ3世の公式な戴冠式がセツォト・スタジアムで執り行われた。この式典には、当時のウェールズ公チャールズ(現在のチャールズ3世国王)も参列し、国際的な注目を集めた。
3.3. 立憲君主としての役割
レツィエ3世は、レソトの立憲君主として、その役割は主に象徴的かつ儀礼的なものに限定されている。彼は国家元首ではあるが、実際の統治権限はレソト政府と議会にあり、国王は政治的な中立性を保ちながら、国家の統一と継続性を象徴する存在として機能している。彼の職務には、法律の公布、外交官の信任、軍の最高司令官としての名誉職などが含まれる。
3.4. 政治的出来事と統治
レツィエ3世の在位中には、いくつかの重要な政治的・社会的な出来事があった。1994年の政治危機では、彼の親政宣言とそれに続く国民の抗議、そして一時的な退位は、レソトにおける民主主義の脆弱性と、君主の権限の限界を浮き彫りにした。この危機は、警察や軍によるデモ鎮圧の過程で一部市民が犠牲になったという批判も伴った。
しかし、レツィエ3世は社会問題への深い関心も示している。特に、2000年にはHIV/AIDSがレソトで蔓延している状況を「自然災害」と宣言し、この疫病に対する国家および国際社会の即時的な対応を促した。この宣言は、公衆衛生の改善と社会的弱者の保護に向けた彼の積極的な姿勢を示すものであり、その後の対策強化に大きく貢献した。
4. 私生活
レツィエ3世は2000年にマセナテ・モハト・セーイソ王妃と結婚し、2人の娘と1人の息子をもうけた。彼は敬虔なカトリック教徒であり、その信仰は公的な役割にも影響を与えている。
4.1. 結婚と子供

レツィエ3世は2000年にマセナテ・モハト・セーイソ王妃(Karabo Motšoenengカラボ・モチョエネング英語)と結婚した。夫妻の間には2人の娘と1人の息子がいる。
- マリー・セナテ・モハト・セーイソ王女(Princess Mary Senate Mohato Seeisoマリー・セナテ・モハト・セーイソ王女英語) - 2001年10月7日、マセル私立病院で誕生。
- マセーイソ・モハト・セーイソ王女(Princess 'Maseeiso Mohato Seeisoマセーイソ・モハト・セーイソ王女英語) - 2004年11月20日、マセル私立病院で誕生。
- レロトリ・デイヴィッド・モハト・ベレン・セーイソ王子(Prince Lerotholi David Mohato Bereng Seeisoレロトリ・デイヴィッド・モハト・ベレン・セーイソ王子英語) - 2007年4月18日、マセル私立病院で誕生。彼は現在の王位継承者である。
4.2. 宗教
レツィエ3世は敬虔なカトリック教徒であり、非ヨーロッパ系の君主としては、マオリの女王であるンガー・ワイ・ホノ・イ・テ・ポーと並び、世界でわずか2人しかいないカトリックの君主の一人である。彼は聖ジョージ軍事コンスタンティヌス騎士団のメンバーでもあり、レソトにおけるカトリック信仰の原則を推進していると評価されている。彼の信仰は、公的な役割や社会問題へのアプローチにも影響を与えていると考えられている。
5. 栄典と後援活動
レツィエ3世は、レソトの最高位勲章のグランドマスターを務めるほか、様々な国内および海外の栄典を受章している。また、青少年の教育や開発を目的としたプリンス・モハト賞の後援者として、社会貢献活動にも積極的に関与している。
5.1. 国内栄典
レツィエ3世はレソトの最高位勲章のグランドマスターを務めている。
- モショエショエ勲章(Most Dignified Order of Moshoeshoe英語) - 尊厳勲章
- レソト勲章(Most Courteous Order of Lesotho英語) - 礼儀勲章
- モフロミ勲章(Most Meritorious Order of Mohlomi英語) - 功績勲章
- ラマツェアツァネ勲章(Most Loyal Order of Ramatseatsane英語) - 功労勲章
- マコアニャネ勲章(Most Gallant Order of Makoanyane英語) - 勇気勲章
- 優秀功労勲章(Outstanding Service Medal (Lesotho)英語)
5.2. 海外栄典
- 両シチリア王家:聖ジョージ軍事コンスタンティヌス騎士団のバイリフ騎士大十字章(2013年10月8日)
5.3. 後援活動
レツィエ3世は、プリンス・モハト賞(Prince Mohato Award英語、Khau ea Khosana Mohatoソト語)の後援者である。この賞は、青少年の教育や開発を目的とした活動を支援しており、国王の若者への関心と社会貢献への意欲を示している。
6. 祖先
レツィエ3世の祖先は、レソト王国の歴史と深く結びついており、歴代の最高首長や王族の系譜を継いでいる。彼の家系は、レソトの独立と発展に貢献した主要な人物たちによって形成されている。
世代 | 氏名 |
---|---|
1 | レツィエ3世 |
2 | モショエショエ2世 |
3 | マモハト王妃(タビサ・マセンテ・レロトリ・モジェラ王女) |
4 | バストランドのシーイソ(サイモン・シーイソ) |
5 | マベレン |
6 | レロトリ・モジェラ(ツァコロ首長) |
8 | ナサニエル・グリフィス・レロトリ(バストランド最高首長) |
9 | セブエン |
12 | モジェラ・レツィエ(ツァコロ首長) |
16 | レツィエ2世・レロトリ(バストランド最高首長) |
17 | マニーラ・マレチャビサ |
18 | ンクエベ・レツィエ(首長) |
24 | レツィエ1世・モショエショエ(バストランド最高首長) |
7. 国際関係と訪問

レツィエ3世は、レソトの国際的な地位向上と外交関係の強化に積極的に取り組んでいる。
7.1. FAO特別大使
2016年12月1日、レツィエ3世はローマにおいて、国際連合食糧農業機関(FAO)のジョゼ・グラツィアーノ・ダ・シルヴァ事務局長により、栄養に関するFAOの最新の特別大使に任命された。これは、世界の食料安全保障と栄養改善に向けた国際的なイニシアチブにおける彼の役割を強調するものである。
7.2. 外国訪問
レツィエ3世は、国王として様々な国を訪問し、外交活動を行っている。
- 日本への訪問**
2016年11月下旬には、マセナテ・モハト・セーイソ王妃と共に日本を訪問した。これはレソト国王としては27年ぶり、レツィエ3世個人としては初めての訪日であった。夫妻は首都圏と関西を訪問したほか、東日本大震災で被災した福島県相馬市にも行幸した。相馬市役所では内堀雅雄福島県知事や立谷秀清相馬市長と会談し、「今後も東日本大震災の被災者に気持ちを寄り添っていく」と述べ、「震災で県民や市民は大変な思いをしたが、復興に向け前に進んでいる。失われた命は戻らないが、復興に寄せる努力は犠牲者の鎮魂になり、今後の力になる」と、復興に向かう福島県民を温かく激励した。また、夫妻は相馬市滞在中に伝承鎮魂祈念館での慰霊碑への献花や松川浦環境公園での植樹なども行った。
2019年10月21日には、迎賓館赤坂離宮で安倍晋三内閣総理大臣と会談を行い、翌22日の即位礼正殿の儀に参列した。
- タイへの訪問**
レツィエ3世はタイ王国にも複数回訪問している。
- 2006年6月11日:プーミポン・アドゥンヤデート国王の即位60周年記念式典に、王妃と共に王室賓客として参列した。これは夫妻にとって初めてのタイ訪問であった。滞在中、夫妻はバンコクの主要な観光地やチェンマイ県のフアイホンクライ王室開発研究センターを非公式に訪問した。
- 2016年11月2日:ワット・プラケーオのドゥシット・マハプラサート宮殿で、プーミポン・アドゥンヤデート国王の遺体に敬意を表した。
- 2017年10月25日:プーミポン・アドゥンヤデート国王の火葬式に、王妃と共に政府賓客として参列した。
- 2019年9月8日:アワサダ・パクモンツリーの母であるモム・ラチャウォン・キティワッタナー・チャイヤンの葬儀に、王妃と共に参列した。
- 2019年9月9日:王妃と共に非公式にタイ農業・協同組合省のチャルームチャイ・シーオン大臣と面会し、農業分野における経験を交換した。
- 2019年9月11日:王妃と共に「ザ・シンプリー・エクセプショナル2019ガラディナー」に参加し、タイ王室およびベルギー王室の代表者らと交流した。
- 2019年9月12日:ソンクラーナカリン大学から農業学の名誉博士号を授与された。これは、彼が新農業理論をレソトに導入し、具体的な成果を上げたことが評価されたものである。
8. 評価と遺産
レツィエ3世の統治は、公衆衛生や農業開発における肯定的貢献と、1994年の政治危機に見られるような権力行使の限界という両面から評価されている。彼はレソトの国際的な地位向上にも尽力し、そのリーダーシップは国家の発展に多大な影響を与えた。
8.1. 肯定的貢献
レツィエ3世は、特に公衆衛生と社会福祉の分野で顕著な貢献をしてきた。2000年にHIV/AIDSを「自然災害」と宣言したことは、この病気に対する国民的および国際的な意識を高め、対策を強化する上で極めて重要な転換点となった。この行動は、社会的弱者への配慮と人権保護に向けた彼の深い関心を示すものとして高く評価されている。
また、彼は農業開発にも強い関心を示しており、タイのソンクラーナカリン大学から農業学の名誉博士号を授与されたことは、彼がレソトの農業生産性向上に貢献した証である。国際的な舞台では、国際連合食糧農業機関(FAO)の栄養に関する特別大使として、世界の食料安全保障と栄養改善に向けた取り組みを支援し、レソトの国際社会における役割を強化している。彼の敬虔なカトリック信仰も、レソトにおける道徳的価値観の推進に寄与しているとされている。
8.2. 批判と論争
レツィエ3世の在位中には、政治的な不安定さが伴う時期もあった。特に、1994年8月に彼が一方的に憲法を停止し、議会と内閣を解散した「レソト危機」は、民主主義の原則に対する重大な挑戦として批判された。この行動は、大規模なゼネラル・ストライキや抗議デモを引き起こし、警察や軍による鎮圧の過程で市民が犠牲になったという報告もある。結果として、彼は国民の強い反発に直面し、わずか1ヶ月後に退位を余儀なくされた。この出来事は、彼の統治における権力行使の限界と、民主主義体制における君主の役割の複雑性を示すものとして、現在も議論の対象となっている。
9. 関連項目
- レソトの国王一覧
- モショエショエ2世