1. 概要
ロバート・トリフィン(Robert Triffin英語、Robert Triffinフランス語、1911年10月5日 - 1993年2月23日)は、ベルギー生まれでアメリカ合衆国で活躍した経済学者である。特にブレトン・ウッズ体制の固定相場制に対する批判、後に「トリフィンのジレンマ」として知られる理論で最もよく知られている。国際金融論、特に通貨改革に関心を抱き、第二次世界大戦後の国際経済体制に大きな影響を与えた。彼の研究は、国際通貨システムの安定性、流動性の確保、信頼性の維持、そして時代に応じた改革の必要性を一貫して主張するものであった。
2. 生涯
ロバート・トリフィンは、ベルギーに生まれ、アメリカ合衆国で教育と初期のキャリアを積み、国際的な経済機関で重要な職務を歴任した。晩年にはヨーロッパに戻り、欧州統合の推進に貢献した。
2.1. 出生と幼少期
トリフィンは1911年10月5日、ベルギーのフローベックで生まれた。1929年にはルーヴァン・カトリック大学の法学部に進学し、法学と哲学を学んだ。1934年には経済学の学習も開始し、1935年に卒業した。学生時代には、進歩主義的なカトリックのサークルで活動し、平和主義的な信念を育んだ。
2.2. 教育
1935年、トリフィンはベルギー系アメリカ人教育財団から奨学金を受け、アメリカ合衆国に移住した。彼はハーバード大学で学び、1938年に経済学の博士号(Ph.D.)を取得した。彼の博士論文のタイトルは「独占的競争と一般均衡論(Monopolistic Competition and General Equilibrium Theory英語)」であった。
2.3. 初期キャリアとアメリカでの活動
ハーバード大学で1942年まで講師を務めた後、同年にはアメリカ合衆国に帰化した。彼はアメリカの連邦準備制度理事会(1942年 - 1946年)でラテンアメリカ部門の議長を務め、IMF(1946年 - 1948年)では為替管理局長官を務めた。また、経済協力局に勤務しながらマーシャル・プランの運営を支援し、OEEC(1948年 - 1951年)ではヨーロッパ内収支委員会の米国代表、さらにヨーロッパ収支連合の米国副代表を務めた。1951年にはイェール大学の経済学教授に就任し、学者としての生活に戻った。彼は1969年から1977年まで、イェール大学のバークレー・カレッジの学寮長も務めた。
2.4. ヨーロッパへの帰還と晩年
1977年にイェール大学を退職した後、トリフィンはヨーロッパに戻り、ベルギーに居住した。彼は欧州統合の強力な支持者であり、EMSの発展に貢献した。また、ECBの設立と発展も支援した。イェール大学退職後も、ベルギーのルーヴァン・カトリック大学で非常勤講師として教鞭をとった。1989年には、ボードゥアン国王によって男爵の爵位を授けられた。
3. 主な業績
ロバート・トリフィンの主な業績は、国際金融システムの安定性に関する鋭い分析と、欧州経済統合への献身的な支援に集約される。
3.1. トリフィンのジレンマとブレトン・ウッズ体制批判
1959年、トリフィンはアメリカ合衆国議会で証言し、ブレトン・ウッズ体制に深刻な欠陥があると警告した。彼の理論は、ドル過剰、すなわちアメリカ合衆国外にドルが蓄積される現象を観察することに基づいていた。ブレトン・ウッズ体制下では、アメリカはドルを金に転換することを約束していたが、1960年代初頭までに、ドル過剰によりアメリカ国外で利用可能なドルが財務省の保有する金よりも多くなっていた。
戦後、アメリカは世界の流動性を確保し、増大する富に対応するためのドル準備を供給するために、国際収支の経常収支において赤字を計上する必要があった。しかし、経常収支の赤字が継続的に発生することで、海外で保有されるドルの在庫は増え続け、1オンスあたり35ドルのブレトン・ウッズの平価でドルが金に転換され続けるという信頼が損なわれた。
トリフィンは、このシステムが流動性と信頼性の両方を維持することはできないと予測した。この理論は後に「トリフィンのジレンマ」として知られるようになった。彼のアイデアは1971年までほとんど無視されていたが、彼の仮説が現実となり、当時のアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンがドルの金への転換を停止せざるを得なくなった。この措置は通称「ニクソン・ショック」として知られ、事実上ブレトン・ウッズ体制を終焉させた。
トリフィンはかつて、「国際通貨システムの根本的な改革は、長い間延期されてきた。その必要性と緊急性は、かつて強大だったアメリカドルの差し迫った脅威によって、今日さらに浮き彫りになっている」と述べている。
3.2. 欧州経済統合への支援
トリフィンは、EEC(現在のEU)の通貨統合をかなり詳しく主張するなど、欧州経済統合の強力な支持者であった。彼はEMSの発展を支援し、ECBの設立と発展にも貢献した。彼の活動は、ヨーロッパにおける経済的安定と協調の実現に向けた重要な一歩であった。
3.3. 学術キャリアと著作
イェール大学の経済学教授として、トリフィンは数多くの重要な著作を発表した。彼の主著は1960年に出版された『金とドルの危機--新国際通貨制度の提案(Gold and the Dollar Crisis: The Future of Convertibility英語)』である。この著作では、戦後の国際通貨制度が「ドル不足」から「ドル過剰」へと移行した状況を分析し、新たな国際通貨制度の必要性を提唱した。彼は金価格の改訂や変動相場制を否定し、ケインズ案に近い独自の改革案(トリフィン案)を主張した。
主要な著作には以下のものがある。
- 『独占的競争と一般均衡論』(Monopolistic Competition and General Equilibrium Theory英語、1940年)
- 「国民中央銀行と国際経済」("National central banking and the international economy"英語、1947年)
- 『ヨーロッパと通貨の混乱』(Europe and the Money Muddle英語、1957年)
- 『金とドルの危機--新国際通貨制度の提案』(Gold and the Dollar Crisis: The Future of Convertibility英語、1960年)
- (産業研究協会・国立国会図書館調査及び立法考査局共著)『交換性回復後の諸問題とその対策』(1960年)
- 『金融の源泉と用途の統計、1948年-1958年』(Statistics of Sources and Uses of Finance, 1948-1958英語、Stuvel et al.との共著、1960年)
- 「欧州経済統合と金融政策」("Intégration économique européenne et politique monetaire"フランス語、1960年)
- 『国際通貨制度の進化:歴史的評価と将来の展望』(The Evolution of the International Monetary System: historical appraisal and future perspectives英語、1964年)
- 『世界の通貨迷路:国際決済における各国通貨』(The World Money Maze: National currencies in international payments英語、1966年)
- 『国際通貨制度入門--歴史・現状・展望』(1968年)
- 『我々の国際通貨システム:昨日、今日、明日』(Our International Monetary System: Yesterday, today and tomorrow英語、1968年)
- 「国際通貨改革における歴史の流れ」("The Thrust of History in International Monetary Reform"英語、1969年)
- 『ポンドの運命』(1970年)
- 「SDR金融の集団合意目的への利用」("The Use of SDR Finance for Collectively Agreed Purposes"英語)
- 「ドルの国際的役割と運命」("The international role and fate of the dollar"英語、1978年)
- 「欧州通貨制度:墓碑銘か礎石か?」("The European Monetary System: Tombstone or cornerstone?"英語、1984年)
- 「欧州通貨制度とECUの未来」("The future of the European Monetary System and the ECU"英語、1984年)
- 「アメリカ合衆国の国際収支とその世界への影響」("The international accounts of the United States and their impact upon the rest of the world"英語、1985年)
- 「中央銀行機能を備えた欧州通貨銀行」("Une Banque Monétaire Européenne avec des fonctions de banque centrale"フランス語、1986年)
- 「国際通貨金融システムの未来:慢性的な危機管理か根本的改革か?」("L'avenir du système monétaire et financier international : gestion de crises chroniques ou réformes fondamentales?"フランス語、1986年)
- 「IMS(国際通貨システム...あるいはスキャンダル?)とEMS(欧州通貨制度)」("The IMS (International Monetary System ... or Scandal?) and the EMS (European Monetary System)"英語、1987年)
- 「世界経済における欧州通貨制度」("The European Monetary System in the World Economy"英語、1989年)
- 「世界の通貨スキャンダルにおける政治と経済の相互依存:診断と処方」("L'interdépendance du politique et de l'économique dans le scandale monétaire mondial : diagnostic et prescription"フランス語、1989年)
- 「国際通貨システム:1949年-1989年」("The International Monetary System : 1949-1989"英語、1990年)
4. 経済思想と哲学
ロバート・トリフィンの経済思想は、国際通貨システムの安定性と、その持続可能性のための絶え間ない改革の必要性を中心に展開された。
4.1. 経済哲学
トリフィンは、国際通貨システムが安定性を保つためには、十分な流動性が確保され、同時にその通貨に対する信頼性が維持されなければならないと主張した。彼は、戦後の国際通貨制度が「ドル不足」から「ドル過剰」へと移行する中で、この二つの目標が両立しがたい「トリフィンのジレンマ」に陥ることを指摘した。
彼の経済哲学の根底には、国際的な経済協調と、通貨システムの時代に応じた根本的な改革への強い信念があった。彼は、金価格の改訂や変動相場制といった単純な解決策を否定し、ケインズが提唱した国際クリアリング連合の概念に近い、より包括的な国際通貨制度の創設を提案した。これは、国際的な中央銀行のような機関が、国際的な準備資産を発行し、流動性と信頼性を同時に管理する仕組みであった。トリフィンは、このような改革が、国際貿易と投資の安定的な成長を支えるために不可欠であると考えていた。
5. 私生活
ロバート・トリフィンの私生活に関する公に知られている情報は限られている。
6. 死去
ロバート・トリフィンは、その生涯を国際経済学の研究と国際金融システムの改革に捧げた後、ベルギーで死去した。
6.1. 死去の状況
トリフィンは1993年2月23日にベルギーのオステンドで死去した。81歳であった。
7. 評価と遺産
ロバート・トリフィンは、その業績と経済思想を通じて、国際経済学の分野に永続的な影響を与えた。
7.1. 受賞と栄誉
トリフィンは、その学術的貢献と国際金融システムへの提言が評価され、数々の栄誉と賞を受章している。1970年にはラバレイ賞とグーヴァヌール・コーネ賞を受賞した。1972年にはルーヴァン・カトリック大学とイェール大学から名誉学位を授与され、1991年にはパヴィア大学から名誉学位を授与された。また、1989年にはベルギー国王ボードゥアンによって男爵に叙せられ、その功績が国家レベルで認められた。
7.2. 歴史的評価と影響
トリフィンの理論、特に「トリフィンのジレンマ」は、国際通貨システムの根本的な脆弱性を明らかにし、その後の経済学、国際金融政策、および政策決定に多大な影響を与えた。彼の予測は1971年のニクソン・ショックによって現実のものとなり、ブレトン・ウッズ体制の崩壊を予見した洞察力は高く評価されている。彼の提言は、国際的な準備通貨の多様化や、SDRのような新たな国際準備資産の創設に関する議論に大きな影響を与え、国際通貨制度の改革に向けた継続的な努力の基礎となった。また、欧州通貨統合への彼の支援は、ユーロ創設への道筋において重要な役割を果たした。
7.3. 批判と論争
ロバート・トリフィンの主要な業績は、既存の国際通貨システム、特にブレトン・ウッズ体制に対する鋭い批判であった。彼の理論や政策提言そのものに対する具体的な批判や論争については、現存する情報源には詳細な記述が見られない。彼の分析は、国際金融の不安定性という現実的な問題に対する警鐘として広く受け入れられ、その後の国際通貨制度の変革の必要性を認識させる上で重要な役割を果たした。