1. 初期生と教育
ロバート・ブルームは1866年11月30日、スコットランドのレンフルーシャー、ペイズリーにあるバック・スネッドン・ストリート66番地で生まれた。父はジョン・ブルームで、キャラコプリントやペイズリー柄のショールをデザインする職人であった。母はアグネス・ハンター・シアラー。
1893年、ブルームは幼馴染のメアリー・ベアード・ベイリーと結婚した。彼はグラスゴー大学で医学を学び、特に産科学を専門とした。1895年に学位を取得した後、オーストラリアへ渡り、医師として生計を立てた。この時期、彼はオーストラリア固有の野生動物、特に有袋類に触れることで、哺乳類の起源に深い興味を抱くようになった。
2. 南アフリカでのキャリア
ブルームは1897年に南アフリカへ移住し、南アフリカ戦争の直前から医師としての活動を開始した。その後、大学での教職を経て、科学者としての道を歩んだ。
2.1. 医学活動
南アフリカに移住後、ブルームはカルー地方に医療施設を開設し、医師として地域医療に従事した。この地域はテラプシド(哺乳類型爬虫類)の化石が豊富に産出する場所であり、彼は医師としての活動と並行して、これらの化石の研究を続けた。
2.2. 学術活動と教育
1903年から1910年まで、ブルームは南アフリカのステレンボッシュにあるヴィクトリア・カレッジ(後のステレンボッシュ大学)で動物学および地質学の教授を務めた。しかし、彼は進化論を強く推進したため、この職を追われることとなった。その後、ケープタウンの南アフリカ博物館で脊椎動物古生物学の学芸員となった。
彼のテラプシドや哺乳類の解剖学に関する継続的な研究に基づき、1920年には王立協会フェローに選出された。レイモンド・ダートがタウング・チャイルドを発見して以来、ブルームは人類の祖先の探索に強い関心を持つようになり、ヨハネスブルグ北西のドロマイト洞窟、特にステークフォンテイン洞窟(現在は人類のゆりかご世界遺産の一部)でより新しい時代の化石の研究を開始した。
3. 古生物学および古人類学への貢献
ロバート・ブルームの科学的キャリアは、初期のテラプシド研究から始まり、タウング・チャイルドの発見を契機に古人類学へと深く関心を移していった。彼は南アフリカの重要な化石発掘現場で数々の画期的な発見を成し遂げ、初期人類進化の理解に不可欠な証拠を提供した。
3.1. テラプシド研究
ブルームは初期のキャリアにおいて、哺乳類型爬虫類であるテラプシドの研究で特に知られていた。彼は生涯で369点のテラプシドのホロタイプを記載し、そのうち168点を新属に分類した。彼は「スプリッター」(分類を細分化する傾向がある研究者)として知られており、2003年時点では彼の記載したホロタイプのうち約57%が現在も有効とされている。ブルームは「偉大なカルー(特にテラプシド)古生物学者の一人」と評されている。
3.2. 古人類学への移行
1925年にレイモンド・ダートがアウストラロピテクス・アフリカヌスの幼年期の化石であるタウング・チャイルドの発見を発表すると、ブルームの古人類学への関心は一気に高まった。この頃、ブルームのキャリアは行き詰まり、貧困に陥りつつあったが、ダートがヤン・スマッツにブルームの窮状を訴えた。スマッツは南アフリカ共和国政府に働きかけ、1934年にブルームはプレトリアのトランスバール博物館に古生物学助手として職を得ることができた。70歳を迎えた1936年、彼は本格的にアウストラロピテクスの研究を開始した。
3.3. 主要な化石発見
ブルームはトランスバール博物館での職を得て以来、ジョン・T・ロビンソンと共に、ステークフォンテイン、クロムドライ、スワートクランスといった遺跡で数々の目覚ましい発見を行った。これらの発見は、初期人類の進化の理解を大きく進めるものであった。
3.3.1. ミセス・プレス(アウストラロピテクス・アフリカヌス)

1947年、ブルームらはステークフォンテインでほぼ完全なアウストラロピテクス・アフリカヌスのメスの頭蓋骨を発掘した。ブルームはこの化石に「ミセス・プレス」(Mrs. Plesミセス・プレス英語)という愛称を付けた。これは元々「プレシアントロプス・トランスヴァーレンシス」(Plesianthropus transvaalensis)と名付けられたが、後に成体のアウストラロピテクス・アフリカヌスに分類された。同年には肋骨と大腿骨の一部も発見され、これらの化石はアウストラロピテクスが二足歩行をしていたことを示す重要な証拠となった。
3.3.2. パランソロプス・ロブストゥス
1937年、ブルームはクロムドライで、頑丈型ホミニン属である「パランソロプス」(Paranthropus)を定義する上で最も有名な発見となる「パランソロプス・ロブストゥス」(Paranthropus robustus)の化石を初めて発掘した。この発見はブルーム最大の功績の一つとされている。
3.3.3. その他の初期人類化石
1948年、ブルームらはステークフォンテイン近くのスワートクランスで、アウストラロピテクス属とは異なる化石を発見した。これはホモ・エレクトスの化石であった。また、彼はこれらの洞窟から多くの哺乳類化石も記載している。韓国の文献によると、ブルームは地域住民の少年たちから歯の化石を1シリングで買い取り、それらの化石が発見された場所を特定したという。
3.4. 初期人類進化研究への貢献
ブルームの発見は、レイモンド・ダートによるタウング・チャイルドの発見の正当性を強く裏付けるものとなった。彼は自身の著書『The South Africa Fossil Ape-Men, The Australopithecinae』(1946年)でアウストラロピテクス亜科を提唱し、この功績により1946年にアメリカ合衆国科学アカデミーからダニエル・ジロー・エリオット・メダルを授与された。彼のキャリアの残りの期間は、これらの遺跡の探査と、そこで発見された多くの初期ホミニンの遺骨の解釈に捧げられた。彼は最晩年まで執筆活動を続け、死去の直前にはアウストラロピテクスに関するモノグラフを完成させ、「これで終わりだ...そして私も終わりだ」と甥に語ったという。
4. 思想と哲学
ロバート・ブルームは非国教徒であり、超常現象や心霊主義に深く関心を持っていた。彼はダーウィニズムや唯物論の批判者であり、独自の霊的進化論を信奉していた。
4.1. スピリチュアル・エボリューション
ブルームは、進化の過程には「霊的な力」(spiritual agenciesスピリチュアル・エージェンシーズ英語)が関与していると主張した。彼の著書『The Coming of Man: Was it Accident or Design?』(1933年)の中で、動物や植物は偶然に生じたにはあまりにも複雑であると述べ、霊的な力が進化を導いたと主張した。ブルームによれば、少なくとも2種類の異なる霊的な力が存在し、霊能者はそれらを見ることができるとされた。
4.2. 進化論への見解
ブルームは、進化には計画と目的があり、ホモ・サピエンスの出現こそが進化の究極の目的であるという見解を持っていた。彼は、「進化の多くは、人類、そして人類が住むのに適した世界を作るための他の動物や植物をもたらすように計画されたかのようだ」と述べている。また、ミセス・プレスの頭蓋骨を発見した後、無作為に発掘したのかと問われた際、ブルームは「精霊たちがどこで発見すべきかを教えてくれた」と答えたという逸話がある。
5. コイサン族に関する研究
ロバート・ブルームはコイサン族の人々に対し特異な関心を示し、その遺骨を収集していた。これには、最近亡くなった人々の遺骨や、古い墓を掘り起こして得られた遺骨も含まれていた。
ブルームが現代人の遺骨収集を始めたのは、1897年に南アフリカに移住した直後のことである。同年、彼はポート・ノロス周辺で干ばつにより死亡した3人の高齢の「ホッテントット」の人々の遺骨を収集した。ブルームは、彼らの「頭を切り落とし、台所のストーブでパラフィン缶で煮た」と述べている。これらの頭蓋骨は後にエディンバラ大学の医学部に送られた。また、彼は7ヶ月の胎児の遺骨からも脳を取り出し、別に保存していた。
ブルームはまた、亡くなった囚人の遺骨も入手しており、「囚人が死んでその骨格が欲しい場合、おそらく2、3の規則が邪魔をするだろうが、熱心な者(研究者)はそのような規則を気にしない」と述べていた。彼は自分の庭に数体の遺体を埋め、腐敗させた後に骨を回収していたという。これには、ダグラス刑務所に収監されていた2人の男性の遺骨が含まれる。一人は18歳の!オーラ族の男性アンドレアス・リンクス(MMK 264として目録化)、もう一人はランゲベルク出身の無名の18歳の「ブッシュマン」(MMK 283として目録化)で、後者はブルームの要請で生前に写真撮影されたが、これは当時の方針に反する行為であった。両男性の骨格は1921年にマクレガー博物館のコレクションに加えられた。
ブルームは1907年にコイサン族を「退化した」そして「劣化した人種」と表現し、彼らが「ピラミッドを建設した人種」や「モンゴロイド」の子孫であるものの、南アフリカの暑い気候のために「退化した」と推測した。彼の後の著作では、コイサン族を、ブッシュマン、ホッテントット、コラナの3つの「人種」に分類しようと試みた。これは、彼が想定した類型学的な差異に基づいていた。コラナ人種のタイプ標本は、アンドレアス・リンクスの骨格とされた。しかし、同時代の他の人類学者たちはこの分類スキーム、特にコラナ人種について疑問を呈し、ブルーム自身も後に「コラナをでっち上げた」と語っている。
今日、このような類型学的な人種分類スキームは、曖昧な基準に基づき、最終的に恣意的な厳格な分類をもたらすため、全て信用されていない。解剖学者ゴラン・シュトルカルジは、「ブルームの人類学的研究は...当時の人種差別的なステレオタイプや偏見に影響されていたことは明らかである」と記している。
6. 受賞歴と評価
ロバート・ブルームの科学的業績は、数々の権威ある賞や会員資格によって社会的に高く評価された。
6.1. 会員資格
1920年、ブルームは王立協会フェロー(FRS王立協会フェロー英語)に選出された。また、王立エディンバラ協会のフェロー(FRSE王立エディンバラ協会フェロー英語)でもあった。これらの会員資格は、彼の科学界における傑出した地位を示すものである。
6.2. 主要科学メダル
ブルームは以下の主要な科学メダルを受賞している。
- クルーニアン・メダル(1913年)
- ロイヤル・メダル(1928年)
- ダニエル・ジロー・エリオット・メダル(1946年) - 著書『The South Africa Fossil Ape-Men, The Australopithecinae』の功績に対して授与された。
- ウォラストン・メダル(1949年)
7. 著書
ブルームは科学雑誌に数百の論文を寄稿したほか、以下の主要な学術書を執筆している。
- Fossil Reptiles of South Africa (1905) - 『南アフリカの化石爬虫類』
- Reptiles of Karroo Formation (1909) - 『カルー層の爬虫類』
- Development and Morphology of the Marsupial Shoulder Girdle (1899) - 『有袋類の肩帯の発達と形態』
- Comparison of Permian Reptiles of North America with Those of South Africa (1910) - 『北米と南アフリカのペルム紀爬虫類の比較』
- Structure of Skull in Cynodont Reptiles (1911) - 『キノドン類爬虫類の頭蓋骨構造』
- The South Africa Fossil Ape-Men, The Australopithecinae (1946) - 『南アフリカの化石類人猿、アウストラロピテクス亜科』
書籍
- The origin of the human skeleton: an introduction to human osteology (1930) - 『人類の骨格の起源:人類骨学入門』
- The mammal-like reptiles of South Africa and the origin of mammals (1932) - 『南アフリカの哺乳類型爬虫類と哺乳類の起源』
- The coming of man: was it accident or design? (1933) - 『人類の到来:それは偶然か、それとも設計か?』
- The South African fossil ape-man: the Australopithecinae (1946) - 『南アフリカの化石類人猿:アウストラロピテクス亜科』
- Sterkfontein ape-man Plesianthropus (1949) - 『ステークフォンテインの類人猿プレシアントロプス』
- Finding the missing link (1950) - 『失われた環を探して』
8. 私生活
ロバート・ブルームは、化石の発掘現場に常にスーツを着て現れるなど、その風変わりな人物像でも知られていた。70歳を過ぎてから世界的な大発見を成し遂げた彼の行動力は高く評価されている。彼は幼馴染のメアリー・ベアード・ベイリーと結婚し、生涯を共にした。
9. 死

ロバート・ブルームは1951年4月6日に南アフリカのプレトリアで死去した。彼は最晩年まで研究と執筆活動を続け、死去の直前にはアウストラロピテクスに関するモノグラフを完成させ、「これで終わりだ...そして私も終わりだ」と甥に語ったという逸話が残されている。
10. 遺産
ロバート・ブルームの功績は、数々の生物種にその名が冠される形で記念されている。彼の名にちなんで命名された種には、オーストラリアのメクラヘビの一種であるAnilios broomi、三畳紀の主竜形類爬虫類Prolacerta broomi、リネスクス科の両生類Broomistega、ペルム紀のディキノドン類Robertia broomiana、ミレレッティド科Broomia、そしてアロエの一種Aloe broomiiがある。

彼の研究は、初期人類の進化に関する理解を深める上で不可欠な基盤を築いた。特に南アフリカの人類化石遺跡群における彼の発見は、人類のゆりかごとして世界的に認識される地域における研究の礎となっている。