1. 幼少期
ロベール・アンリ・ジョンケは、1925年5月3日にパリの第14区で生まれました。幼少期、彼は南パリ郊外のシャトネ=マラブリーでサッカーを始め、その後「Société Sportive Voltaireフランス語」というクラブでプレーしました。さらに、「ロビンソン」や「SSヴォルテール・ド・パリ」といったユースクラブを経て、1942年から1945年までスタッド・ランスのユースチームに所属しました。
2. 選手経歴
ジョンケはプロサッカー選手として、主にスタッド・ランスとRCストラスブールで輝かしいキャリアを築き、フランス代表としても重要な役割を果たしました。彼はそのプレースタイルにおいて、従来の力強いセンターバックとは異なり、「liberoイタリア語」(最終ラインのスイーパー)としてエレガントさと才能を発揮し、背番号5番を背負ってチームの守備の要となりました。
2.1. クラブ経歴
ジョンケのクラブキャリアは、その大半をスタッド・ランスで過ごし、その後のRCストラスブールでの短期間のプレーを経て引退しました。
2.1.1. スタッド・ランス時代 (1945-1960)
ジョンケは1945年にスタッド・ランスで選手キャリアをスタートさせ、1946-47シーズンにはディビジョン1で最初のシーズンを迎え、すぐに主力選手としての地位を確立しました。彼の在籍中、スタッド・ランスはフランスサッカー界の強豪となり、多くのタイトルを獲得しました。彼は、アルベール・バトー、レイモン・コパ、ジュスト・フォンテーヌといった当時のフランスサッカー界を代表する選手たちと共に活躍しました。また、ドミニク・コロンナ、ミシェル・イダルゴ、レオン・グロヴァツキ、ジャン・ヴァンサン、ロジェ・ピアントニ、ルネ・ブリアールといった攻撃陣、そしてロジェ・マルシュ、アルマン・パンヴェルヌ、ミシェル・ルブロン、ジャン・ヴェンドリングといった堅実な守備陣に囲まれていました。ジョンケは、2度のヨーロピアンカップ決勝と2度のラテン・カップ決勝に出場した唯一の選手でした。
ランスでの主な業績は以下の通りです。
- フランスリーグ優勝: 5回(1948-49, 1952-53, 1954-55, 1957-58, 1959-60)
- フランスリーグ準優勝: 2回(1946-47, 1953-54)
- フランスカップ優勝: 2回(1949-50, 1957-58)
- フランス・スーパーカップ優勝: 3回(1955, 1958, 1960)
- ラテン・カップ優勝: 1回(1953)。準優勝: 1955
- ヨーロピアンカップ準優勝: 2回(1955-56, 1958-59)。1956年にはレアル・マドリードに3-4で、1959年には0-2でそれぞれ敗れました。
アルベール・バトーは、ジョンケのキャリアにおいて、選手(1950年まで)、監督(1950年-1959年)、そしてフランス代表監督(1955年から)として、3つの異なる立場で彼を支えました。
2.1.2. RCストラスブール時代 (1960-1962)
35歳になった1960年夏、ジョンケはスタッド・ランスを離れ、RCストラスブールへ移籍しました。当時ディビジョン2に降格していたストラスブールにおいて、彼はチームのディビジョン1昇格に貢献し、1961年にそれが選手としての最後の主要な成功となりました。彼はこのクラブで2シーズンプレーした後、1962年に現役を引退しました。
2.2. フランス代表経歴
ジョンケは1948年4月から1960年7月までの期間、フランス代表として58試合に出場し、そのうち9試合で主将を務めました。

彼は1954年FIFAワールドカップ・スイス大会(1試合出場)と1958年FIFAワールドカップ・スウェーデン大会(5試合出場、主将)の2度のワールドカップに出場しました。ジョンケの身長は1.76 mと、センターバックとしては比較的小柄でした。
特に有名なのは、1951年10月にロンドンのハイベリーで行われたイングランド代表との親善試合です。当時アルフ・ラムジーやビリー・ライトを擁するイングランドに対して、ジョンケは圧倒的なパフォーマンスを披露し、フランスは2-2の引き分けに持ち込みました。この試合の翌日、新聞は彼を「le heros de Highburyフランス語」(ハイベリーの英雄)と称賛しました。この「英雄」は、1955年にはヨーロッパ選抜の一員としてもプレーし、親善試合でイングランドを破っています。
1958年のスウェーデン大会では、フランスのベスト4進出に大きく貢献しました。しかし、準決勝のブラジル戦では、35分にヴァヴァとの衝突により腓骨を骨折するという不運に見舞われました。当時、選手交代が認められていなかったため、チームドクターはハーフタイムに鎮痛剤を投与し、ジョンケは再びピッチに戻ることができました。しかし、彼は後半をほとんど使い物にならず、左ウィングで足を引きずりながら過ごしました。この負傷により、彼は3位決定戦(西ドイツに6-3で勝利)への出場を断念せざるを得ませんでした。しかし、わずか5ヶ月後には代表チームに復帰するという驚異的な回復力を見せました。
彼のフランス代表としての最後の試合は、1960年7月6日に行われた欧州ネイションズカップ準決勝のチェコスロバキア戦でした。
3. 指導者経歴
選手引退後、ジョンケは指導者の道に進みました。彼はまずRCストラスブール(1961年-1964年)で指揮を執り、その後、古巣のスタッド・ランス(1964年-1967年、1980年-1981年)の監督を務めました。また、USMロミイ(1967年-1974年)、RCエペルネー(1974年-1977年)、COシャロン(1977年-1980年)といった小規模なクラブの監督も務めています。

彼は、現代サッカーにおける金銭の台頭に非常に失望しており、自身が活躍したスタッド・ランス時代のサッカーを懐かしんでいました。この見解は、彼の誠実な人物像と、スポーツの本質を重んじる姿勢を浮き彫りにしています。
4. 獲得タイトル
ロベール・ジョンケが選手として獲得した主なタイトルは以下の通りです。
大会名 | 獲得年 | 備考 |
---|---|---|
ディビジョン1 | 1948-49, 1952-53, 1954-55, 1957-58, 1959-60 | 5回優勝 |
ディビジョン1 | 1946-47, 1953-54 | 2回準優勝 |
フランスカップ | 1949-50, 1957-58 | 2回優勝 |
トロフェ・デ・シャンピオン | 1955, 1958, 1960 | 3回優勝 |
ラテン・カップ | 1953 | 1回優勝 |
ラテン・カップ | 1955 | 1回準優勝 |
ヨーロピアンカップ | 1955-56, 1958-59 | 2回準優勝 |
FIFAワールドカップ | 1958 | 3位 |
5. 死去と功績
ロベール・ジョンケは、2008年12月17日にマルヌ県ランスで83歳で死去しました。彼の死後、長年所属したスタッド・ランスは、彼の功績を称え、ホームスタジアムであるスタッド・オーギュスト・ドゥローヌのスタンドの一つに彼の名前を冠しました。これは、彼がクラブとフランスサッカー界全体に残した永続的な影響と貢献を象徴するものです。ジョンケは、その卓越した守備技術、リーダーシップ、そして何よりもスポーツへの誠実な姿勢によって、フランスサッカー史にその名を深く刻んでいます。