1. 幼少期と背景
ヴァルデマー1世の出生は、彼の父が殺害される直前という劇的な状況下で起こり、その後の成長はデンマーク貴族の元で、後に彼の最も重要な協力者となる人物と共に過ごした。
1.1. 出生と家系
ヴァルデマー1世は、1131年1月14日にシュレースヴィヒ公クヌーズ・レーヴァートの息子として生まれた。クヌーズ・レーヴァートは、デンマーク王エーリク1世の長男であり、勇敢で人気のある騎士として知られていた。しかし、ヴァルデマーの誕生からわずか数日前に、彼の父はスウェーデン王マグヌス1世によって殺害された。
ヴァルデマーの母親はキエフのインゲボリャであり、キエフ大公ムスチスラフ1世とスウェーデン王族クリスティーナ・インゲスドッテルの娘であった。ヴァルデマー1世は、母方の祖父であるキエフ大公ウラジーミル2世モノマフにちなんで名付けられた。
1.2. 幼少期と教育
ヴァルデマーは、デンマークの貴族であるアッサー・リー(1080年頃 - 1151年)の宮廷で育てられた。アッサー・リーはHvide家の一員であり、ヴァルデマーの父クヌーズ・レーヴァートと共に育った人物であった。アッサーは自身の息子たち、すなわち後にロスキレ司教となりヴァルデマーの主要な助言者となるアブサロン(1128年頃 - 1201年)と、王室の宰相および十字軍戦士となるエスバーン・スネール(1127年 - 1204年)と共にヴァルデマーを養育した。ヴァルデマーは彼らと共に育ち、特にアブサロンとエスバーンとは生涯にわたる親密な関係を築き、強固な同盟を結んだ。
2. 王位継承をめぐる争い
1146年のエーリク3世の退位後、デンマークは長きにわたる内戦に突入した。ヴァルデマー1世はこの王位継承争いの主要な当事者となり、最終的にライバルを排除して単独の国王としての地位を確立した。
2.1. 内戦と王位争い
1146年、ヴァルデマーが15歳の時、デンマーク王エーリク3世が王位を退位したことにより、激しい内戦が勃発した。ヴァルデマーは次期国王の有力候補の一人となった。他にも、エーリク2世の息子スヴェン3世と、スウェーデン王マグヌス1世の息子クヌーズ5世が王位を主張し、1146年には両者ともにデンマーク王を称した。この内戦はその後10年近くにわたって続いた。
1154年、ヴァルデマーはクヌーズ5世と同盟を結び、クヌーズと共に共同王としてデンマーク王に即位することが合意された。しかし、王位をめぐる争いは続き、1157年7月には、ヴァルデマー、スヴェン、クヌーズの三者が共同統治者としてデンマーク王国を分割統治するという一時的な妥協が成立した。
2.2. 権力の統合
しかし、この妥協は長くは続かなかった。1157年8月、ロスキレで開かれた宴会の最中に、スヴェン3世の兵士によってクヌーズ5世が殺害される事件が発生した。この事件は「ロスキレの血祭り」として知られている。ヴァルデマーはかろうじてこの場から脱出し、ユトランド半島に逃れた。
その後、1157年10月23日、ヴァルデマー軍はグラーテ・ヘーゼの戦い(Slaget på Grathe Hedeスラゲット・ポー・グラテ・ヘーゼデンマーク語)でスヴェン3世の軍を撃破した。スヴェン3世は戦場から逃亡中に、偶然遭遇した農民の一団によって殺害されたとされている。これにより、ヴァルデマーは全てのライバルを排除し、デンマークの単独国王として即位することとなった。10年以上続いた内戦は終結し、ヴァルデマーの治世が本格的に始まった。
3. 統治と主な活動
ヴァルデマー1世の治世は、内戦で荒廃した国家の再建、強力な防衛体制の構築、そしてバルト海沿岸における積極的な軍事活動によって特徴づけられる。また、国内の安定を維持するための政策も展開された。
3.1. 国家再建と防衛体制の構築
1158年、ヴァルデマーの盟友であるアブサロンがロスキレ司教に選出され、ヴァルデマーは彼を筆頭顧問に任命した。ヴァルデマーはアブサロンの助言を得て、長引く内戦で疲弊したデンマーク王国の再編と再建に奔走した。
彼はまず、王国南部のダネヴィルケ要塞を強化し、国防体制の整備に着手した。また、アルス・スンド海峡の小島にスンナーボー城を建設し、要塞化した。この小島は後にアルス島と地続きになった。さらに、ヴァルデマーはかつてデーン人ヴァイキングが用いた襲撃戦術を刷新し、重騎兵を効果的に用いた水陸両用戦術を開発した。この戦術は、彼の後継者であるクヌーズ6世の時代にさらに改良されることとなる。
3.2. 軍事活動と領土拡大
アブサロンの主導により、ヴァルデマーはデンマーク沿岸部を襲撃していたヴェンド人に対して宣戦布告した。当時、ヴェンド人はポメラニア地方とリューゲン島を占領しており、その兵力はデンマーク軍の約2倍にも上り、バルト海におけるデンマークにとって明確な脅威となっていた。
デンマーク軍はヴェンド人の支配地域沿岸部への襲撃作戦を敢行し、最終的にリューゲン島を征服した。リューゲン島はその後、デンマーク軍によるヴェンド人支配地域へのさらなる侵攻の新たな拠点となった。デンマークの影響力は、ポメラニア地方やオボトリート族の支配地域にまで及び、これらの地域はデンマーク軍によって定期的に襲撃され続けた。
1168年には、リューゲン島のヴェンド人の首都アルコナが征服され、ヴェンド人はキリスト教への改宗とデンマークへの服属を強いられた。1170年頃には、ヴァルデマーとアブサロンが率いる少数のデンマーク艦隊がオーデル川河口付近でポメラニア公カジミール1世の軍勢と艦隊による奇襲攻撃を受けた(ユリン橋の戦い)。この戦いで、デンマーク艦隊は騎兵を乗せていたことが功を奏し、数で勝るポメラニア軍を打ち破った。1175年には、ヴァルデマーはドイツ沿岸部への防衛拠点および襲撃拠点としてヴォアディングボー城を建設した。
3.3. 国内政策と統治
1180年、デンマーク王国内で最も豊かな地域の一つであるスコーネ地方で政情不安が広がった。スコーネの民衆は、ヴァルデマーが任命したユトランド地方出身の「外国人」統治者に対し反発し、かつてスコーネ地方を統治していたスコーネランド出身の貴族を新たな領主として任命するよう要求した。さらに、彼らは十分の一税の納税も拒否した。
ヴァルデマーは当初これらの要求を拒否したが、民衆の反発はさらに強まり、国王に対しても教会に対しても納税を拒否するに至った。反乱軍の規模は非常に大きく、ヴァルデマーは自身の召集兵だけでは対処しきれず、ブレーキンゲ地域からも民兵を召集する必要に迫られた。ヴァルデマー軍と反乱軍はスコーネ地方西部で激突し、ヴァルデマー軍が反乱軍を撃破した。
戦後、農民反乱軍はヴァルデマーに降伏したものの、依然として十分の一税の支払いを拒み続けた。そこでヴァルデマーは、税としての支払いではなく、教会への「寛大な贈り物や寄付」という形で財を納めるよう農民たちを促した。また、ヴァルデマーはスコーネ地方の統治者に関する民衆の要求には譲歩し、ユトランド出身の統治者を解任し、スコーネ出身の貴族を新たな支配者として任命した。この「ユトランドはユトランド人が、リューゲンはリューゲン人が統治する」という原則は、その後デンマーク王国の他の地域にも適用され、王国内の平和維持に大きく貢献し、後のカルマル同盟にも影響を与えた。
4. 私生活
ヴァルデマー1世の私生活は、彼の結婚と、その間に生まれた多くの子供たちによって彩られた。
4.1. 結婚と子女
ヴァルデマー1世は、1157年10月23日にヴィボーでミンスクのソフィア(1141年頃 - 1198年)と結婚した。ソフィアは、スウェーデン王妃リクサ・ボレスワヴヴナとミンスク公ヴォロダール・グレボヴィチの娘であり、クヌーズ5世の異母妹にあたる。
ヴァルデマーとソフィアの間には、以下の子供たちが生まれた。
画像 | 氏名 | 生没年 | 備考 |
---|---|---|---|
![]() | クヌーズ6世 | 1163年 - 1202年11月12日 | デンマーク王。1177年2月にバイエルンのゲルトルートと結婚。子なし。 |
![]() | ヴァルデマー2世 | 1170年5月9日 - 1241年3月28日 | デンマーク王。1205年にボヘミアのダグマルと結婚(ヴァルデマー若王、死産の子)。1214年5月18日にポルトガルのベレンガリアと再婚(エーリク4世、ソフィア、アーベル、クリストファ1世、死産の子)。 |
![]() | インゲボルグ | 1174年 - 1237年7月29日 | 1193年8月15日にフランス王フィリップ2世と結婚し、フランス王妃となった。子なし。 |
![]() | リキサ | 1178年頃 - 1220年5月8日 | 1210年にスウェーデン王エリク10世と結婚し、スウェーデン王妃となった(ソフィア、マルタ、インゲボルグ、マリアンナ、エリク11世)。 |
- | ソフィア | 1159年 - 1208年 | ヴァイマル=オーラミュンデ伯ヴァイマル=オーラミュンデ伯ジークフリート3世と結婚した(アルベルト2世、ヘルマン2世)。 |
- | マリア | 1165年頃生 | 1188年にロスキレで修道女となった。 |
- | マルガレータ | 1167年頃 - 1205年頃 | 1188年にロスキレで修道女となった。 |
- | ヘレネ | 1176年頃 - 1233年11月22日 | 1202年にリューネブルク公ヴィルヘルムと結婚した(オットー1世)。 |
- | ヴァルブルギス | 没年1177年 | ポメラニア公ボギスラフ1世と結婚した(ラティボール、ヴァルティスラフ2世)。 |
ソフィアは美しく、国王に大きな影響力を持つ一方で、残忍な性格であったと記録されている。年代記によれば、ソフィアはヴァルデマーの愛妾であったフリーリ・トーヴェを殺害させ、ヴァルデマーの妹であるキルステンを負傷させたとも伝えられているが、これは歴史的な証拠によって確認されているわけではない。
また、ヴァルデマー1世には愛妾フリーリ・トーヴェとの間に非嫡出子クリストファ(1150年 - 1173年)がおり、彼は1170年頃から1173年までユトランド公(dux Iuciaeドゥクス・ユキアエラテン語)を務めた。
ヴァルデマー1世の死後、ソフィアは1184年にテューリンゲン方伯ルートヴィヒ3世と再婚した。
5. 死
ヴァルデマー1世は1182年5月12日に死去した。彼はヴォアディングボー城でその生涯を終えた。彼の死後、長男であるクヌーズ6世がデンマーク王位を継承した。
6. 遺産と評価
ヴァルデマー1世の治世は、デンマークの歴史において極めて重要な転換点となり、その後の王国の発展に多大な影響を与えた。
6.1. 歴史的意義
ヴァルデマー1世は、その偉大な業績から「ヴァルデマー大王」(Valdemar den Storeデンマーク語)と称されるようになった。彼の治世は、長きにわたる内戦によって疲弊し、分裂の危機にあったデンマークを再建し、強力な中央集権国家としての基盤を築いた時期であった。特に、ヴェンド人に対する軍事的な成功は、デンマークのバルト海における影響力を確立し、その後の領土拡大の足がかりとなった。彼の統治は、デンマークが中世における最盛期を迎えるための礎を築いたものとして、歴史的に高く評価されている。
6.2. 影響力
ヴァルデマー1世の統治と政策は、彼の息子であるヴァルデマー2世の治世に大きな影響を与えた。ヴァルデマー2世の時代には、デンマーク王国は中世最大の版図を誇るまでに拡大した。ヴァルデマー1世が導入した軍事改革、特に重騎兵を用いた水陸両用戦術は、クヌーズ6世によってさらに改良され、デンマークの軍事力を強化し続けた。
また、スコーネ地方の反乱に対する彼の柔軟な対応、すなわち民衆の要求に耳を傾け、統治者の交代や税制の代替案を提示した政策は、王国内の平和と安定を維持する上で重要な役割を果たした。この統治原則は、後にカルマル同盟の時代にも適用されることとなり、デンマークの広大な領域を統治する上での重要な指針となった。ヴァルデマー1世は、単に領土を拡大しただけでなく、国家の制度的基盤を強化し、その後のデンマーク王国の繁栄に不可欠な遺産を残したのである。