1. 生涯と教育
ヴィタリー・ムトコは、1958年12月8日にソビエト連邦クラスノダール地方アプシェロン地区クリンスカヤ村で、ヴィクトル・レオンチェヴィチ・ムトコとして生まれました。後に名前をヴィタリーに変更しています。
彼の教育は、レニングラード水上交通大学(旧レニングラード河川専門学校)で始まり、1987年に卒業しました。在学中にはコムソモール活動に参加し、同校のコムソモール書記を務めていました。さらに、1999年にはサンクトペテルブルク国立大学法学部を卒業し、法学の学位を取得しています。
2006年には、サンクトペテルブルク国立大学で「フィジカル・カルチャーとスポーツの発展における市場と公共の規制機関の相関関係」に関する博士論文を提出し、経済学の博士号を取得しました。
2. 初期キャリアと政治への道
ムトコのキャリアは、1977年に北西河川船舶会社レニングラード港湾管理部で船舶技師として社会活動を開始したことに遡ります。1980年にはソビエト連邦共産党に入党しました。
入党後、彼はレニングラード市ソビエトキーロフ地区執行委員会で勤務し、その後、地区執行委員会社会部長や書記に選出されました。1990年にはキーロフ地区人民代議員に選出され、翌1991年まで同執行委員会議長を務めました。
1992年から1996年まで、サンクトペテルブルク市役所で副市長および市社会問題委員会委員長を務めました。この時期、市対外関係委員会議長を務めていたウラジーミル・プーチンと協力し、1994年にソビエト連邦の崩壊後ロシア初となる大規模なスポーツイベントである1994年グッドウィルゲームズの開催に尽力しました。
3. スポーツ行政におけるキャリア
ムトコは、そのキャリアの大部分をスポーツ行政の分野に捧げてきました。

1997年、彼はFCゼニト・サンクトペテルブルクの会長に就任しました。彼の在任中、クラブはスポーツ面での躍進と経済的基盤の強化を遂げました。2001年にはロシア・プレミアリーグを設立し、2003年までその会長を務めました。
2002年にはロシアパラリンピック委員会の委員に任命され、精神障害者を支援するための委員会や慈善団体の議長も務めました。また、サンクトペテルブルクのサッカー支援・発展のための公的慈善財団「ゴールデン・ペリカン」の創設者兼会長でもあり、サンクトペテルブルク特別オリンピック委員会の会長として、知的障害を持つアスリートの競技会開催やリハビリテーションプログラムの開発に貢献しました。
2005年4月2日、ムトコはロシアサッカー連合の会長に選出され、2009年11月24日までその職を務めました。2009年にはFIFA理事会委員に任命され、2018年FIFAワールドカップのロシア招致委員会の委員長として、招致活動を成功させました。
2015年9月2日、彼は反対候補なくロシアサッカー連合会長に再任されました。ロシアでは政府関係者がスポーツ団体のトップを兼任することは原則として認められていませんでしたが、2015年7月、ムトコについては特例が認められました。2016年9月24日には、ヴァレリー・ガッザエフを相手に266対142票で勝利し、4年間の任期でロシアサッカー連合会長に3選を果たしました。
しかし、2017年3月、彼はFIFA理事会の再選から外されました。これは、彼の閣僚としての役割が、FIFAの政治的中立性に関する規約に反し、いかなる形の政府介入も防止するという原則に抵触するためでした。2017年12月25日には、オリンピックでの出場停止処分に異議を申し立てるため、一時的にロシアサッカー連合会長の職を6ヶ月間辞任すると発表しました。この処分は後にスポーツ仲裁裁判所によって解除されましたが、彼は2018年12月19日にロシアサッカー連合の会長を辞任しました。
4. 政治および政府におけるキャリア

ムトコはスポーツ行政だけでなく、ロシア政府の要職も歴任しました。
2003年10月29日、彼はサンクトペテルブルク政府の代表として、ロシア連邦議会の上院議員に選出され、2008年まで務めました。
2008年5月12日、ドミートリー・メドヴェージェフ大統領によって、ロシア連邦スポーツ・観光・青年政策大臣に任命されました。2012年5月21日には、ウラジーミル・プーチン大統領の復帰に伴い、ロシア連邦スポーツ大臣に再任されました。
2016年10月19日、彼はロシア連邦副首相に昇進しました。彼の後任として、彼の副官であったパーヴェル・コロブコフがスポーツ大臣に任命されました。2018年5月18日には、第2次ドミートリー・メドヴェージェフ内閣で副首相に再任されましたが、この際にはスポーツ問題ではなく、地域の建設と発展を監督する役割を担いました。
2020年1月15日、プーチン大統領が連邦議会への年次教書演説で憲法改正案を提案した後、内閣の一員として辞任しました。1月21日にはマラート・フスヌーリンが彼の後任となりました。同年1月29日、ムトコは住宅ローンおよび不動産市場に関わる国有企業DOM.RFの最高経営責任者(CEO)に任命されました。
5. 論争と主な出来事
ムトコ氏のキャリアは、数々の論争や注目すべき出来事によって特徴付けられています。
5.1. ワールドカップ招致に関する論争
2018年FIFAワールドカップ招致委員会委員長として成功を収めた一方で、彼はライバルであったイングランドの招致に対するコメントで批判を浴びました。彼はイングランドのサッカー界に汚職があると示唆する発言をしましたが、その釈明として「私が言いたかったのは、イングランドのメディアがロシアに汚職があると言うことがあるが、深く掘り下げればどの国にも汚職は見つかるという意味だった」と述べました。
5.2. 汚職疑惑
2010年のバンクーバーオリンピック期間中、ムトコはロシア代表チームに同行しましたが、その後のロシア議会監査院の報告書によって、経費の不適切な請求が指摘されました。彼はカナダ滞在中の20日間で合計97食分の朝食を請求し、その総額は4500 USDに上りました。また、宿泊したホテルの部屋は1泊あたり1499 USDと請求され、彼の総支出は公式な上限の12倍に達したとされています。この件に対し、ムトコは新聞「ヴェドモスチ」に対し、「なぜ私を非難したい人々は、フランスのスポーツ大臣が宿泊費にいくら支払ったのかに関心を持たないのか」と反論しました。また、バンクーバーオリンピックでのロシアチームの惨敗後、メドヴェージェフ大統領が責任者の辞任を求めた際にも、ムトコは「惨敗は誰の責任でもない」と述べて辞任を拒否しました。
5.3. ドーピングスキャンダルと処分
2015年11月9日、WADAの独立委員会による報告書は、ムトコがロシアの陸上競技における広範なドーピング計画を監督していたと非難しました。委員会の責任者であるディック・パウンドは、「彼(ムトコ)がそれに気づかないことは不可能だった。もし彼が気づいていたなら、彼はそれに加担していたことになる」と述べました。さらに、ムトコの機関が、政府やアスリートの影響から独立して運営されるべきロシアアンチ・ドーピング機関(RUSADA)に不当な影響力を行使していたとされました。
このドーピング共謀における彼の役割を理由に、2017年12月5日、IOCはムトコを将来のオリンピック大会から永久追放しました。しかし、彼はこのIOCの決定を覆すようCASに提訴し、2019年7月に処分は解除されました。
5.4. 国際的な制裁
ロシア・ウクライナ戦争に関連して、ヴィタリー・ムトコはロシア政府に重要な収入源を提供する経済分野の商業活動に従事しているとされています。このため、彼はウクライナで軍事作戦と民間人のジェノサイドを開始したロシア政府を支援していると見なされ、2023年2月19日にはウクライナの制裁リストに追加されました。
5.5. 英語スピーチ事件
2010年12月、2018年ワールドカップ開催国の決定に関するFIFA理事会会議がチューリッヒで開催された際、当時のスポーツ大臣であったムトコは歓迎スピーチを英語で行いました。しかし、そのスピーチは強いロシア訛りの英語であり、「Let me speak from my heart(心を込めて話させてください)」という一節が印象的で、「Лет ми спик фром май харт」としてインターネット上で爆発的な人気を博しました。
スピーチ後、ムトコは家族の前でも練習するなど、2週間にわたってスピーチを暗記していたこと、そしてその英語のスピーチがキリル文字で書かれていたことを明かしました。彼の独特の英語は、ロシア政府内でもジョークの対象となりました。2015年には、ドミートリー・メドヴェージェフが彼に奇妙な英語で誕生日を祝い、ウラジーミル・プーチンもムトコに英語の自己啓発本を贈っています。
6. 私生活
ヴィタリー・ムトコはタチアナ・イワノヴナ・ムトコ夫人と結婚しており、エレーナとマリヤという二人の娘がいます。彼はまた、ウラジーミル・プーチン大統領のスキー仲間としても知られており、個人的な関係も深いとされています。
7. 栄典と表彰
ムトコは、その功績に対して数々の栄典と表彰を受けています。
- 祖国功労勲章3等(2014年)および4等(2008年)
- 名誉勲章(1994年)
- 友好勲章(2002年)
- サンクトペテルブルク300周年記念メダル(2003年)
- カザン建都1000周年記念メダル(2005年)
8. 評価と遺産

ヴィタリー・ムトコは、ロシアのスポーツおよび政治分野において多大な影響を与えた人物です。FCゼニト・サンクトペテルブルクの会長としてクラブを躍進させ、ロシア・プレミアリーグの設立に貢献するなど、ロシアサッカーの発展に尽力しました。特に、2018年FIFAワールドカップのロシア招致を成功させたことは、彼の重要な業績の一つとして評価されています。
その一方で、彼のキャリアは汚職疑惑や国家主導のドーピングスキャンダルへの関与といった、数々の論争を伴いました。特にドーピング問題では、IOCから永久追放処分を受けるなど、国際的な信頼を損なう事態も招きました(後にスポーツ仲裁裁判所によって処分は解除)。これらの論争は、彼の遺産に複雑な影を落としています。
政府の要職を歴任し、ウラジーミル・プーチン大統領との緊密な関係を背景に、ロシアのスポーツ政策を主導してきたムトコは、その功績と同時に、権力とスポーツ界の癒着、透明性の欠如といった批判に常に晒されてきました。彼の活動は、ロシアにおけるスポーツと政治の密接な関係を象徴するものであり、その全体的な遺産は肯定的な評価と論争の余地のある側面の両方を包含しています。