1. 概要
ヴィンセント・キャンビー(Vincent Canby英語、1924年7月27日 - 2000年10月15日)は、アメリカ合衆国の著名な映画評論家および演劇評論家です。イリノイ州シカゴで生まれ、生涯を通じて批評活動に貢献しました。
彼は1969年から1994年初頭まで『ニューヨーク・タイムズ』の主任映画評論家を務め、その後は1994年から死去する2000年まで同紙の主任演劇評論家として活動しました。主任映画評論家として在任中、彼は1000本以上の映画をレビューしました。キャンビーのキャリアは、映画批評という分野に大きな足跡を残し、その影響力は後世の批評家にも及びました。彼の批評スタイルは時に偏りがあるとも評されましたが、その深い洞察力と独自の視点は多くの読者に影響を与え、アメリカ映画史において重要な役割を果たしました。
2. 生涯
ヴィンセント・キャンビーの生涯は、その個人的な経験が批評家としての視点に深く影響を与えたと考えられています。
2.1. 幼少期と教育
キャンビーは1924年7月27日にアメリカ合衆国のイリノイ州シカゴで、キャサリン・アン・(旧姓ヴィンセント)とロイド・キャンビーの間に生まれました。彼はバージニア州クライストチャーチの寄宿学校に通い、そこで後に小説家となるウィリアム・スタイロンと出会い、友人となりました。キャンビーはスタイロンにE・B・ホワイトやアーネスト・ヘミングウェイの作品を紹介しました。彼らは一緒にリッチモンドまでヒッチハイクし、ヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る』を購入した逸話があります。高校卒業後、彼はダートマス大学に進学し、1947年に卒業しました。
2.2. 軍役
大学卒業前の期間、キャンビーは第二次世界大戦中にアメリカ海軍予備役として軍役に就きました。1942年10月13日に少尉に任官し、1944年7月15日には戦車揚陸艦679号に乗艦しました。1946年1月1日には、日本近海を航行中のLST 679号艦上で中尉に昇進しています。彼の軍役経験は、後の批評活動における人間性や社会情勢に対する深い洞察の基盤となった可能性があります。
3. 職歴
キャンビーはジャーナリズムと批評の分野で長いキャリアを築き、その活動は主にニューヨークに拠点を置いていました。彼の職歴は、映画と演劇の二つの主要な批評分野に分けられます。
3.1. 初期ジャーナリズムと批評活動
1948年、キャンビーは『シカゴ・ジャーナル・オブ・コマース』で最初のジャーナリストとしての職を得ました。1951年にシカゴからニューヨークへ移り、雑誌『バラエティ』で6年間映画批評家として活動しました。この初期の経験が、彼の後のキャリアにおける基盤となりました。
3.2. ニューヨーク・タイムズの主任映画評論家として
『バラエティ』での活動後、キャンビーは『ニューヨーク・タイムズ』に入社しました。そして1969年2月、レナータ・アドラーの後任として、同紙の主任映画評論家としての地位に就きました。この役割は彼のキャリアにおいて最も長く、影響力のあるものでした。彼は1994年までこの職を務め、その間に1000本以上の映画を批評しました。
キャンビーの批評は、その独自の視点と率直な評価で知られていました。彼は、スタンリー・キューブリック、スパイク・リー、ジェーン・カンピオン、マイク・リー、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ジェームズ・アイヴォリー、ウディ・アレンといった監督たちの熱心な支持者でした。特にウディ・アレンは、キャンビーの映画『泥棒は蜜の味』に対する絶賛レビューが自身のキャリアにおいて決定的な転換点となったと述べています。
3.3. ニューヨーク・タイムズの主任演劇評論家として
1994年12月、キャンビーは映画批評から演劇批評へと活動の場を移し、『ニューヨーク・タイムズ』の日曜版演劇評論家となりました。彼の主任映画評論家としての後任はジャネット・マスリンでした。彼は2000年に亡くなるまでこの職を務め、演劇の世界でもその鋭い洞察力と評価基準を発揮し続けました。
4. 批評スタイルと特徴
ヴィンセント・キャンビーの批評スタイルは、その強い個性と明確な評価基準で広く知られています。彼は作品に対して満点を与えることは滅多になく、時に大衆的な人気を博した作品に対しても厳しい評価を下すことがありました。その一方で、特定の監督や作品には一貫して高い評価を与え、その才能を深く洞察しました。
4.1. 高く評価した作品と監督
キャンビーは、そのキャリアを通じて、特定の監督や作品に対して継続的に高い評価を与えました。彼はスタンリー・キューブリック、ウディ・アレン、マーティン・スコセッシ、スパイク・リー、イングマール・ベルイマン、アルフレッド・ヒッチコック、ロバート・アルトマン、ジェーン・カンピオン、マイク・リー、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ジェームズ・アイヴォリーといった監督たちの作品に深い理解と共感を示しました。
具体的な作品では、ゲイリー・シニーズ監督の1992年版『二十日鼠と人間』や、サム・ペキンパーの代表作『ワイルドバンチ』を高く評価し、これらには満点を与えています。また、日本映画に対しても理解があり、小津安二郎監督の『彼岸花』や、森田芳光監督の『家族ゲーム』を絶賛しました。彼の肯定的な評価は、これらの作品が持つ芸術性や社会的メッセージに焦点を当てたものでした。
4.2. 批判した作品と論争
キャンビーは、一般的に高く評価されている作品や興行的に成功した映画に対しても、臆することなく厳しい批判を行いました。彼のこうした批評は、時に大きな論争を巻き起こすこともありました。
彼が酷評した映画には、『ロッキー』、『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』、『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』、『アフター・アワーズ』、『ブレージング・サドル』、『クリスマス・ストーリー』、『刑事ジョン・ブック 目撃者』、『マスク (映画)』、『ナチュラル』、『レインマン』、『エクソシスト』、『カッコーの巣の上で』、『脱出 (映画)』、『ゴッドファーザー PART II』、『エイリアン』、『遊星からの物体X』など、現代では傑作と見なされる作品が多数含まれています。特にマイケル・チミノ監督の『天国の門』に対する極めて否定的なレビューは、よく知られています。これらの批評は、作品が持つ芸術的価値や社会への影響について、多様な視点から再考を促すきっかけとなりました。
5. その他の文筆活動
ヴィンセント・キャンビーは、映画および演劇批評家としての活動のほかにも、小説家や劇作家としても作品を発表しています。彼の文筆活動は多岐にわたり、以下の作品を執筆しました。
- 小説**
- 『Living Quarters英語』(1975年)
- 『Unnatural Scenery英語』(1979年)
- 戯曲**
- 『End of the War英語』(1978年)
- 『After All英語』(1981年)
- 『The Old Flag英語』(1984年) - アメリカ南北戦争を舞台としたドラマ。
これらの作品は、批評家としての鋭い視点とは異なる、創作活動における彼の才能を示しています。
6. 私生活
ヴィンセント・キャンビーは生涯独身でしたが、長年にわたりイギリスの作家ペネロペ・ギリアットと交際関係にありました。ギリアットは1993年に死去しています。彼の私生活に関する情報は多くありませんが、長きにわたるパートナーシップは彼の人間関係の一面を物語っています。
7. 死去
ヴィンセント・キャンビーは2000年10月15日、ニューヨーク州マンハッタンの病院で癌のため76歳で死去しました。彼が亡くなる約3年前、キャンビーはすでにコメディアンロバート・ホープの訃報記事の大部分を執筆していました。ホープが2003年に死去した際、キャンビーの署名が『ニューヨーク・タイムズ』の一面を飾るという、稀有な出来事となりました。
8. 遺産と評価
ヴィンセント・キャンビーは、アメリカの映画および演劇批評界に多大な遺産を残しました。彼の批評は、その鋭い分析力と独特の視点から、多くの映画製作者や観客に影響を与えました。彼はアメリカで最も信頼された映画評論家の一人として評価されていますが、同時にその評価の偏りも指摘されることがありました。
彼のキャリアは、アメリカの映画批評の歴史をたどるドキュメンタリー映画『For the Love of Movies: The Story of American Film Criticism英語』の中でも取り上げられ、ザ・ネイション誌のスチュアート・クローワンズなど、同時代の批評家たちがキャンビーの影響力について語っています。キャンビーの功績は、単に作品の良し悪しを判断するだけでなく、映画や演劇が社会や文化に与える影響について深く考察し、議論を巻き起こすことで、批評の役割を再定義した点にあります。彼の批評は、大衆文化と芸術性、そして批評家の役割について、後世に多くの問いを残しました。