1. 生涯
中原中也は、厳格な家庭環境の中で育ち、文学への情熱を燃やした。若くして経験した弟や長男の死は、彼の詩作に大きな影響を与えている。
1.1. 出生と家族
中原中也は1907年(明治40年)4月29日、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)にあった中原医院で、父・柏村謙助と母・フクの長男として柏村中也の名で生まれた。開業医である中原家は代々続く名家であり、両親は結婚後6年間子供に恵まれなかった上、中原家の当主であった養祖父の政熊にも実子がいなかったため、中也の誕生は大変喜ばれ、3日間にわたって誕生祝いが行われた。
父の謙助は当時陸軍軍医として関東州の旅順に赴任しており、生後6ヶ月の中也は母・フクと祖母・スヱとともに旅順に渡った。翌年、謙助が山口に転任したことで一家は中原家に戻り、その後広島や金沢への異動を経て、1914年に中也が学齢に達したためフクとともに山口の中原家に戻った。1915年には謙助が上司に申し出て山口に帰任し、中原家との養子縁組を届け出たため、中也の苗字も柏村から中原に変わった。1917年には謙助が予備役となり、中原医院を継承した。

1.2. 幼少期と成長過程
中也は prominent な医師の長男として、自らも医師になることを期待されており、父の謙助からは非常に厳格な教育を受けた。この厳しさは彼が普通の子供時代を送ることを妨げた。謙助は湯田温泉の風紀を心配し、中也が自分たちの階級とは異なる子供たちと外で遊ぶことを禁じた。また、弟たちとは異なり、溺れることを恐れて川で泳ぐことも許されなかった。成長するにつれて、彼は厳しい懲罰を受けるようになった。一般的な罰の一つは、壁に向かって直立させられることであり、突然動くと踵に煙草の火を押し当てられることもあった。しかし、最大の懲罰は納屋に閉じ込められることであり、中也は弟たちに比べて何十回もこれを経験した。これは謙助の跡を継ぎ、家長となるための準備とされていた。
小学校時代の中也は成績優秀で「神童」と呼ばれた。1918年に山口師範附属小学校に転校した後も、戦闘的でありながらひょうきんな性格でクラスの人気者だった。
1.3. 文学への目覚め
中也が文学に目覚めたのは、8歳であった1915年に弟の亜郎(亜郎つぐろう日本語)が脳膜炎で病死したことがきっかけだった。この深い悲しみから、彼は詩作へと向かった。小学校6年生の頃から短歌を作り始め、1920年には『婦人画報』や『防長新聞』に短歌を投稿し、入選している。同年4月、山口県立山口中学校に入学したが、読書に没頭するあまり学業成績は下降し、父の厳しさに対する反抗が始まった。謙助は文学が息子に与える影響を非常に恐れ、中也が隠していた小説を見つけた際には厳しく叱り、再び納屋に閉じ込めたこともあった。この頃から中也は飲酒や喫煙も覚えるようになり、成績はさらに下がっていった。

2. 教育と初期の文学活動
中也は学業面で挫折を経験するものの、京都での出会いを経て文学への道を本格的に歩み始めた。
2.1. 学業と進路
1923年、中也は山口中学校の3年生で落第した。彼は級友を勉強部屋に集めて万歳を叫び、答案用紙を破いたと言われている。これは彼が厳格な両親の監視下から逃れるための意図的な行動であったとされる。落第の報に謙助は深い屈辱を感じて落胆したが、中也は同校に戻らないことを主張。最終的に謙助は「教育方針」について謝罪し、中也は京都の立命館中学校3年に編入され、一人で下宿生活を送ることになったが、その生活費は生涯を通じて家族の仕送りによって支えられた。
1925年、中学を4年で中退した中也は、大学予科受験を理由に、同棲していた長谷川泰子とともに東京へ上京した。しかし、日本大学や早稲田大学への受験は書類不足や遅刻で失敗し、予備校に通うことを条件に仕送りを受け、東京での生活を始めた。1926年には日本大学予科文科に入学するも、試験を一度も受けずに9月に退学した。このことは実家には伝えられなかった。その後、アテネ・フランセ(旧・東京外国語学校予科私立高等仏語部)に通いフランス語を学んだ。
1930年9月、中央大学予科に編入学し、1931年4月には中央大学予科に籍を置いたまま東京外国語学校専修科仏語部(現在の東京外国語大学)に入学。授業は午後5時から2時間だけの夜学だった。中也はフランス留学を志し、外務書記生試験の受験も考えていたが、最終的にはその道を諦め、近所の学生にフランス語を教えることで小遣いを得ていた。1933年3月に東京外国語学校専修科を卒業している。
2.2. 京都での出会い
京都での生活は、中也を詩人として形作る上で多くの影響を与えた。京都では高橋新吉のダダイスム詩を読んで衝撃を受け、再び詩作を始めた。この芸術運動は彼の詩的生き方の一部となり、後に「ダダさん」の愛称を得ることにつながった。
1924年4月には、3歳年上の女優・長谷川泰子と出会い、同棲を開始した。泰子はマキノ・プロダクションの大部屋女優として月給を得ていたが、解雇されてからは中也の居候となったため、中也の仕送りが増やされた。同年には6歳年上の詩人、富永太郎と親交を結び、富永は連日中也の下宿を訪ねて語り合った。富永の紹介で、京都大学文学部国文科に在学中で立命館中学の非常勤講師を務めていた冨倉徳次郎と知り合い、大学生グループと交流するようになった。1924年12月初旬、富永は結核のため東京に戻った。
2.3. 東京への上京と文学界入り
1925年、中也は泰子とともに上京。富永太郎の紹介で東京大学文学部仏文科1年の小林秀雄と知り合った。小林は中也にフランスの象徴主義詩人であるアルチュール・ランボーやポール・ヴェルレーヌを紹介し、中也は彼らの詩を日本語に翻訳した。ランボーの影響は詩作だけでなく、中也の「ボヘミアン」的なライフスタイルにも及び、彼はその生活様式でも知られるようになった。
1926年には、富永太郎や小林が参加していた同人雑誌『山繭』に「夭折した富永」を寄稿し、これが中也の書いたものが東京で初めて活字になった作品となった。1928年には作曲家諸井三郎と出会い、彼が中也の詩「臨終」「朝の歌」に曲をつけて歌われるという珍しい出来事も起きた。同年5月、父・謙助が死去したが、母のフクは世間体を気にして葬儀には帰省させず、中也は病気ということにして喪主を務めた。
1929年4月、中也は河上徹太郎、大岡昇平らとともに同人誌『白痴群』を創刊し、後に『山羊の歌』に収録される詩や翻訳を毎号発表した。しかし、中原が大岡らと対立したり、原稿の集まりが悪くなったりしたことで、翌1930年4月に6号をもって廃刊となり、この後「雌伏」の時期となり詩作が一時的に止まった。
1925年11月、富永太郎が結核で死去したのと同時期に、泰子が中也のもとを去り、小林秀雄と同棲を開始した。しかし、中也はその後も小林とは生涯にわたり親しい友人であり続けた。1930年12月、小林と別れた泰子が演出家山川幸世の子を出産すると、中也はその子に「茂樹」と名付け、種痘を勧めたり、手紙で体調を気遣ったり、時には一日預かるなど可愛がった。1931年9月には4歳下の弟・恰三(恰三こうぞう日本語)が肺結核で死去し、中也は看病後、母のフクに死に顔を見せてから火葬場へ連れて行ってほしいと伝え、その通りになった。
1932年6月、初の詩集『山羊の歌』の出版を計画したが、資金が集まらず断念。年末から年明けの帰省でノイローゼから回復した。1933年12月には、翻訳作品である『ランボオ詩集〈学校時代の歌〉』が三笠書房より刊行され、これが中也にとって初めての商業出版となった。この翻訳は高い評価を受け、中也は小林秀雄とともにランボーの代表的翻訳者として名を残すことになった。
3. 文学世界
中原中也の詩は、多岐にわたる文学的影響を受けつつ、彼自身の内面的な苦悩や世界への問いかけを独自の詩風で表現した。
3.1. 文学的影響
中也は初期には日本の伝統的な短歌形式を好んだが、その後は高橋新吉や富永太郎といったダダイスム詩人によって提唱された現代の自由詩へと傾倒した。東京へ上京後、小林秀雄を通じてフランスの象徴主義詩人であるアルチュール・ランボーやポール・ヴェルレーヌを知り、彼らの作品に深く影響を受けた。中也はこれらの詩を日本語に翻訳し、特にランボーの影響は詩作のみならず、彼のボヘミアン的なライフスタイルにも及んだ。
宮沢賢治の詩集『春と修羅』にも深く感銘を受け、渋谷の夜店で投げ売りされていた同書を複数買い込んで友人に配るなどした。中也は賢治の作品に「我々の感性に近いもの、寧ろ民謡でさへある殉情詩」として高い評価を与え、その不思議な宇宙観と口語による響きに魅了された。
3.2. 詩風と主題
中也の詩は、しばしば難解で告白的な性質を持ち、詩人の生涯にわたる痛みとメランコリーが全体に漂う。彼は日本の俳句や短歌に用いられる伝統的な5音・7音の拍子を応用したが、リズミカルで音楽的な効果を得るために、頻繁にこれらの拍子に変化を加えた。彼の詩のいくつかは楽曲の歌詞としても使用されており、この音楽的効果は最初から計算されたものであった可能性もある。
中也の詩には「混乱、倦怠、怒り、憂鬱、無感動」といった多様な感情が表現されている。彼の詩の多くは孤独や人生の暗黒について語り、人間が外界とどのように繋がるかについて、子供のような驚きを頻繁に表現した。キリスト教が優勢な地域で育った中也は、詩の中でしばしば信仰について疑問を投げかけ、人間には到達できない精神世界や別世界について問いを投げかけた。
3.3. 主要作品
中也の作品は生前には多くの出版社に拒否され、主に『山繭』などの小規模な文学雑誌で発表された(時には『四季』や『文學界』に掲載されることもあった)。
彼の主要な詩集には以下のものがある。
- 『山羊の歌』(山羊の歌日本語、1934年)
- 生前に唯一刊行された詩集で、自費出版により200部が刷られた。装丁は高村光太郎が手掛け、美装豪華本として文圃堂から出版された。
- 『在りし日の歌』(在りし日の歌日本語、1938年)
- 彼の死の直前に編纂された第二詩集で、死後創元社から刊行された。
また、翻訳作品としては『ランボー詩集』や、アンドレ・ジッドの作品などがある。
3.3.1. 著作一覧
- 詩集
- 『山羊の歌』文圃堂、1934年
- 『在りし日の歌』創元社、1938年
- 翻訳
- 『ランボオ詩集(学校時代の詩)』三笠書房、1933年
- 『ランボオ詩抄』山本書店〈山本文庫17〉、1936年
- 『ランボオ詩集』野田書店、1937年
- 全集
- 『中原中也全集』(全3巻)、創元社、1951年
- 『中原中也全集』(全1巻)角川書店、1960年
- 『中原中也全集』(増補版:全5巻別巻1)角川書店、1967年 - 1971年
- 『新編 中原中也全集』(全5巻別巻1)角川書店、2000年 - 2004年
- 文庫判(主に近年刊)
- 『中原中也全詩集』 角川ソフィア文庫、2007年
- 佐々木幹郎編 『汚れつちまつた悲しみに... 中原中也詩集』 角川文庫、2016年
- 『山羊の歌』 角川文庫クラシックス、1997年
- 『在りし日の歌』 角川文庫クラシックス、1997年
- 『中原中也詩集』 ハルキ文庫、新版2005年
- 『汚れつちまつた悲しみに 中原中也詩集』 集英社文庫、1991年
- 大岡昇平編 『中原中也詩集』 岩波文庫、初版1981年
- 『中原中也訳 ランボオ詩集』 岩波文庫、2013年
- 吉田凞生編 『中原中也詩集』 新潮文庫、2000年
- 吉田凞生編 『中原中也全詩歌集』 講談社文芸文庫(上下)、初版1991年
- 『中原中也全訳詩集』 講談社文芸文庫、初版1990年
- 『中原中也の手紙』 安原喜弘編著、講談社文芸文庫、2010年
3.4. 同人活動と音楽的展開
中也は河上徹太郎や大岡昇平らとともに詩誌『白痴群』(「愚か者たちの集団」の意)を創刊し、詩作活動を行った。しかし中原と大岡の間で争いが生じたり、原稿が集まらなくなったりしたことで、翌年に廃刊となった。
中也の詩のいくつかは楽曲の歌詞としても使用された。詩「朝の歌」と「臨終」は、中也がまだ詩集も発表しておらず無名であった1928年に、作曲家諸井三郎によって楽曲化され、前衛音楽グループ「スルヤ」の第二回発表演奏会で歌われた。この際、機関誌『スルヤ』に歌詞として掲載され、中也の詩で最初に活字になったものとなった。諸井は中也の生前にも「空しき秋」「妹よ」「春と赤ン坊」に曲をつけ、「妹よ」はNHK大阪放送局で放送された。また、スルヤの同人であった内海誓一郎も1930年に「帰郷」「失せし希望」に作曲している。
中也の死後も、石渡日出夫、清水脩、多田武彦をはじめとする多くの作曲家が彼の詩に曲を寄せた。これらの楽曲はクラシック系の歌曲や合唱曲が多いが、演歌やフォークソングも生まれた。特に友川かずきは、アルバム『俺の裡で鳴り止まない詩』や『中原中也作品集』などで、中也の詩を歌詞に用いた楽曲を多数発表している。作家の大岡昇平も「夕照」や「雪の宵」の2篇に作曲した。
海援隊の楽曲「思えば遠くへ来たもんだ」は、中也の「頑是ない歌」と多くの点で一致しており、盗用を指摘されることもある。作詞した武田鉄矢は、テレビ番組で20代後半に中也の詩を無我夢中で読み、かなりの影響を受けたと語り、「中也の詩から『思えば遠くへ来たもんだ』というフレーズが浮かんだ」と述べている。
「汚れつちまつた悲しみに......」は、おおたか静流により曲が付けられ、NHKの『にほんごであそぼ』で歌われている。歌手の桑田佳祐もこの詩に曲を付けている。GLAYの楽曲「黒く塗れ!」の歌詞にもこのフレーズが登場する。GRANRODEOの楽曲「SUGAR」の曲間には中也に宛てた台詞があり、このフレーズが登場する。GRANRODEOのボーカルで声優の谷山紀章は、後にアニメ『文豪ストレイドッグス』で中原をモデルとしたキャラクター「中原中也」役(「汚れっちまった悲しみに」という名の能力を持つ)を演じている。「月の光」は石川浩司により曲が付けられ、たまのアルバム『そのろく』に収録されている。最近では、たつの市出身の作曲家・薮田翔一が中也の詩による歌曲を数多く作曲している。
4. 私生活
中也の私生活は、複雑な人間関係、家族との絆、そして精神的な苦悩に彩られていた。
4.1. 人間関係
京都で出会った女優・長谷川泰子とは1924年から同棲を開始したが、1925年11月に泰子は中也のもとを去り、友人である小林秀雄と同棲を始めた。この出来事にもかかわらず、中也は小林秀雄とは生涯にわたって親密な友人関係を保った。
1933年12月、中也は遠縁にあたる6歳下の上野孝子と結婚した。結婚は中原家の地元の温泉旅館「西村屋」で行われ、身内だけの結婚式と盛大な披露宴が催された。中原思郎の著書『兄中原中也と祖先たち』によると、中也は孝子との結婚においては最も素直な子であり、母のなすがままになっていたという。
中也は酒乱としても知られ、交友関係に影響を与えた。22歳の時には、同人誌『白痴群』の同人と酒を飲んだ帰り道に外灯を壊し、15日間も留置された経験がある。青山二郎が経営するバー「ウィンゾア」では、中也が毎日顔を出し、誰彼構わず喧嘩を仕掛けるため、1年で閉店に追い込まれた。坂口安吾は「ウィンゾア」で中也と知り合ったが、中也が気に入っていた女給が安吾と親しいのを気に入り、いきなり殴りかかった。しかし、大柄な安吾から少し離れたところから拳を振り回していただけであったため、安吾は大笑いしたという。大岡昇平も『白痴群』の同人会で酔った中也に殴られたことがあり、中村光夫も「お前を殺すぞ」と言われビール瓶で殴られた経験がある。
太宰治は同人誌「青い花」を創刊する際、檀一雄や中也を誘ったが、中也は酒の席で太宰に「青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」「お前は何の花が好きなんだい」と絡み、太宰が「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると「チエッ、だからおめえは」とこき下ろした。これにより「青い花」は1号で終わり、太宰は中也を「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃないよ」と拒絶するようになった。しかし、中也の死に際して太宰は「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原(道造)は死んで天才ということになっているが、君どう思う? 皆目つまらねえ」と、その才能を惜しむ言葉を残している。
4.2. 家族と子供
1933年12月に上野孝子と結婚し、1934年10月には郷里で長男・文也(文也ふみや日本語)が生まれた。中也は文也を溺愛し、一緒に遊ぶというより、文也が遊んでいるのを黙って見守るような接し方だったという。しかし、1936年11月、2歳だった文也が小児結核により急逝した。中也は3日間一睡もせず看病したが叶わず、葬儀では文也の遺体を抱いて離さず、母のフクが何とか諦めさせて棺に入れた。四十九日の間は毎日僧侶を呼んで読経してもらい、文也の位牌の前を離れなかった。
文也の死後、1936年12月に次男・愛雅(愛雅よしまさ日本語)が生まれたが、文也の死による悲しみは癒えることはなかった。
続柄 | 氏名 | 生年月日 | 没年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
実祖母 | スヱ | 1857年12月 | 1932年9月 | 旧吉敷毛利家家臣の次女 |
父 | 中原謙助 | 1876年6月 | 1928年5月 | 軍医・開業医、旧姓柏村 |
母 | フク | 1879年10月 | 1980年 | 旧吉敷毛利家家臣中原助之の長女 |
弟 | 亜郎(つぐろう) | 1910年 | 1915年 | 4歳で病死 |
弟 | 恰三(こうぞう) | 1911年 | 1931年 | 20歳で病死 |
弟 | 思郎(しろう) | 1913年 | 1982年 | 京都帝国大学卒、中也研究に取り組む |
弟 | 呉郎(ごろう) | 1916年 | 1975年 | 長崎医科大学卒、医師として中原医院を再開 |
弟 | 拾郎(じゅうろう) | 1918年 | 2003年3月19日 | 早稲田大学卒、ハーモニカ奏者 |
妻 | 孝子 | 生没年不明 | 生没年不明 | 上野一治の長女 |
長男 | 文也(ふみや) | 1934年10月18日 | 1936年11月10日 | 小児結核により病死 |
次男 | 愛雅(よしまさ) | 1936年12月15日 | 1938年1月12日 | 文也と同じ病により病死 |
4.3. 健康と個人的苦悩
長男・文也の死は、中也を神経衰弱へと陥らせた。彼はこの悲しみから完全に回復することはなく、次男の誕生後もその苦しみは続いた。幻聴や幼児退行のような言動が出始めたため、妻の孝子から連絡を受けた母のフクと思郎が上京している。
経済的にも苦しい状況にあり、フクは毎月100 JPY以上の仕送りを続けていた。中也は1936年に日本放送協会の初代理事だった親戚の中原岩三郎の斡旋で、放送局の面接に出かけたことがある。定職についてほしいというフクの希望だったが、中也にその気はなく、履歴書に「詩生活」とだけ記すなどしたため、不採用となった。
5. 死
中原中也は、長男を亡くした悲しみが癒えぬまま、若くして短い生涯を閉じた。
5.1. 死没の経緯
1937年1月9日、母フクは中也を千葉市千葉寺町の道修山(山ではなく丘)にある中村古峡療養所に入院させた。ここで作業療法や日誌を書く指導を受け、2月15日に帰宅した。しかし、だまされて入院させられたと感じた中也は孝子に暴力を振るったため、再びフクが呼ばれることになった。文也を思い出させる東京を離れるため、中也は鎌倉町扇ガ谷の寿福寺境内にある借家へと転居した。
1937年5月、『文學界』に「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」ではじまる『春日狂想』を発表。7月には小林秀雄や三好達治ら友人たちの間で第二詩集の出版話が持ち上がった。しかし中也は心身を休めるため故郷の山口への帰郷を考えていた。
夏頃から体調を崩し、9月には左手中指の痛みを訴え痛風と診断された。9月15日には訳詩集『ランボオ詩集』が野田書店より刊行され、売れ行きは好調だった。9月23日には『在りし日の歌』の原稿清書を終え、翌日小林秀雄に託している。体調はさらに悪化し、10月4日に横浜の安原喜弘を訪ねた際には、頭痛や電線が二つに見える視力障害を訴えた。歩行も困難になり、ステッキをついて歩いていた。10月5日には鎌倉駅前の広場で倒れ、翌日鎌倉養生院(現・徳洲会清川病院)に入院した。当初は脳腫瘍が疑われたが、その後急性脳膜炎と診断された(今日では結核性の脳膜炎とされている)。
10月15日、母フクと弟思郎が駆けつけた時には、既に中也の意識は混濁していた。明治大学で教えていた小林秀雄は1週間休講にして病室に詰めた。河上徹太郎も毎日東京から病院に通った。そして1937年10月22日午前0時10分、中也は鎌倉養生院で永眠した。苦しむことなく安らかな死だったと伝えられている。通夜は22日と23日の2日間にわたって自宅で行われ、24日に寿福寺本堂での告別式を経て、逗子町小坪の誠行社で荼毘に付された。葬儀からほぼ1ヶ月後、遺骨は中也の詩『一つのメルヘン』で歌われた吉敷川近くの経塚墓地に葬られた。
中也の死から約3ヶ月後の1938年1月には、次男の愛雅も長男・文也と同じ病で死去した。同年4月には、中也が死の直前に編纂した詩集『在りし日の歌』が創元社から刊行された。
6. 文学的遺産と評価
中原中也は生前は主流の詩人とは見なされなかったが、死後にその作品は高く評価され、文学界に大きな影響を与え、多くの人々に愛され続けている。
6.1. 死後の評価
生前の中也は『山羊の歌』の詩人として、小林秀雄、河上徹太郎ら友人から高く評価されただけでなく、室生犀星、草野心平、萩原朔太郎らもその独特な歌の世界を貴重なものと見ていた。
中也の死後、『文學界』『紀元』『四季』などの文学雑誌があいついで追悼号を企画し、中也の評価は高まっていった。第二次世界大戦後には、復員した大岡昇平の編集解説による『中原中也詩集』が1947年に創元社より刊行され、大きな反響を呼んだ。1949年には『ランボオ詩集』、そして1951年には『中原中也全集』全3巻が刊行された。その後、中也の詩は各種文庫や詩歌全集に収録されるようになり、広範な読者層を獲得した。現在では日本の学校教育の対象にもなっており、帽子を被って虚ろな表情をした彼の肖像写真は広く知られている。
中也が死の床で『在りし日の歌』の原稿を託した小林秀雄は、中也の死後の作品普及に尽力した。また、大岡昇平は、詩人の未収録詩、日記、多くの書簡を含む『中原中也全集』の収集と編集を担当した。

6.2. 中原中也賞
中也の死の翌年から『四季』誌上で詩人への賞が設けられたことがあったが、これは長谷川泰子の発案で、夫の中垣竹之助が援助したが3回で終了した。
現在の「中原中也賞」は、1996年に中也の故郷である山口市が、出版社(思潮社、KADOKAWA)の支援を受けて中也を記念して設立された文学賞である。この賞は毎年、現代詩の優れた詩集に贈られ、「新鮮な感受性」(新鮮な感受性日本語)が評価基準とされる。受賞者には賞金100.00 万 JPYが贈られる。設立当初は受賞作品の英訳版も出版されていたが、近年では翻訳は行われなくなっている。
6.3. 文化的影響
中也の詩は、音楽界に大きな影響を与えている。友川かずきは中也の詩を歌詞にした2枚のアルバム『俺の裡で鳴り止まない詩』や『中原中也作品集』などを発表している。また、海援隊の楽曲「思えば遠くへ来たもんだ」は、中也の「頑是ない歌」からの影響を強く受けていることが指摘されている。
テレビ番組『にほんごであそぼ』では、おおたか静流が作曲した「汚れつちまつた悲しみに......」が歌われている。他にも、桑田佳祐やGLAYの「黒く塗れ!」、GRANRODEOの「SUGAR」の歌詞にも中也の詩の一節が登場する。GRANRODEOのボーカルで声優の谷山紀章は、後にアニメ『文豪ストレイドッグス』で中原をモデルとしたキャラクター「中原中也」役(「汚れっちまった悲しみに」という名の能力を持つ)を演じている。「月の光」は石川浩司により曲が付けられ、たまのアルバム『そのろく』に収録されている。最近では、たつの市出身の作曲家・薮田翔一が中也の詩による歌曲を数多く作曲している。
アニメやゲームといった現代のポップカルチャーにも影響を与えている。アニメ『宇宙戦艦ヤマト2199』では、士官の真田志郎が常に中也の詩集を携帯している。また、アニメやゲーム『文豪ストレイドッグス』、ゲーム『文豪とアルケミスト』では、中原中也をモデルとした同名のキャラクターが登場する。
6.4. 評価と批評
中也の性格について、弟の呉郎は、百姓から立志した父の「荒い血」と封建的な武士の血を引く母方の「静かな血」が混血したものだと解釈している。中也は自分の名前を森鷗外がつけたものだと称していたが、母のフクによると、旅順の軍医大佐「中村六也」からとったものだという。中也は自身の珍しい読みを周囲に揶揄われたこともあり、あまり自分の名前が好きではなかったという。
中也の代表作「サーカス」は本人にとっても自信作であり、中也と初めて会った人は大抵その朗読を聞かされた。「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」というオノマトペを、仰向けになって目を閉じ、口を突き出して独特な節回しで歌ったという。
中也の遺族によれば、彼は帰郷すると東京での交友関係を大げさに吹聴していた。例えば、小林秀雄を「三代続いた江戸っ子」、青山二郎を「青山と名の付く町全部の大地主」などと語った。これは、両親に仕送りを続けさせて東京に在住するためだと友人たちに説明していたという。
『白痴群』時代の中也は、身長が151.5 cmに満たない体を黒いルパシカや吊り鐘マントで覆い、「お釜帽子」と呼ばれた黒いソフト帽をかぶっていた。後に黒い背広に黒いベレー帽、冬は黒い外套に変わったが、黒ずくめの服装は中也のイメージとして定着した。
大岡昇平は、中原の「道化」は一種の抗議者の役目を自らに割り当てているようだったと語っている。ふざけて面白がっている部分も多く、人に毒づいている時は楽しそうだったという。また、大岡は「中原の中には、疑うべくもない魂の美しさとともに、何とも言えない邪悪なものがあった」と記している。現在広く知られている黒帽子の肖像写真について、嵐山光三郎が大岡昇平に聞いたところ、複写とレタッチを繰り返したため中也本人とはかなり違うもので、「皺が多いどこにでもいるオトッツアン顔だよ」と語ったという。
父親の謙助が死去した年、母のフクは中也が大学に行っていないことを親族から知らされ、手紙で問い質したが、中也は偽名を使って他人を装い、仕送りを送り続けるよう工作した手紙をフクに送りつけた。フクは筆跡から中也本人と疑いつつも、仕送りを続けたという。
7. 年譜
年 | 月日 | 出来事 |
---|---|---|
1907年(明治40年) | 4月29日 | 山口県吉敷郡下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)で、父・柏村謙助、母・フクの長男として生まれる。父謙助は当時陸軍軍医として旅順にいた。 |
1909年(明治42年) | 父謙助の転任に従って広島に移り住む。 | |
1912年(明治45年・大正元年) | 金沢に移り住む。 | |
1914年(大正3年) | 3月 | 父謙助が朝鮮龍山聯隊の軍医長となったため、家族は山口に戻る。 |
4月 | 下宇野令尋常小学校入学。 | |
1915年(大正4年) | 1月 | 弟の亜郎が病死。弟の死を歌ったのが最初の詩作だと、中也は後に記している。 |
8月 | 父謙助山口に帰任。 | |
10月 | 中原家との養子縁組を届け出て、一家は中原姓となる。 | |
1917年(大正6年) | 4月 | 父謙助は願によって予備役に編入され、中原医院を受け継いだ。 |
1918年(大正7年) | 5月 | 山口師範附属小学校(現・山口大学教育学部附属山口小学校)に転校。 |
1920年(大正9年) | 2月 | 雑誌『婦人画報』、『防長新聞』に投稿した短歌が入選。 |
4月 | 県立山口中学(現山口県立山口高等学校)に入学。 | |
1922年(大正11年) | 5月 | 2人の友人とともに歌集『末黒野』を刊行。 |
1923年(大正12年) | 3月 | 落第。京都の立命館中学第3学年に転入学。 |
晩秋 | 高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイスムに傾倒するようになる。 | |
冬 | 劇団女優(表現座)の長谷川泰子(広島出身)を知り、翌年より同棲。 | |
1924年(大正13年) | 富永太郎と出会い、フランス詩への興味を抱く。 | |
1925年(大正14年) | 小林秀雄と出会う。 | |
3月 | 泰子とともに上京。当初早稲田大学予科を希望していたが受験失敗。 | |
11月 | 泰子が小林の元に去る。富永太郎病没。 | |
1926年(大正15年・昭和元年) | 4月 | 日本大学予科文科へ入学するも9月に退学する。 |
11月頃 | アテネ・フランセへ通う。『山繭』に『夭折した富永』を寄稿。 | |
1927年(昭和2年) | 12月 | 作曲家諸井三郎と出会い、音楽団体「スルヤ」に出入りするようになる。 |
1928年(昭和3年) | 5月 | 「スルヤ」第2回発表会にて、諸井三郎が中也の詩に作曲した『朝の歌』『臨終』が歌われる。父謙助死去。葬儀には帰省参列しなかった。 |
1929年(昭和4年) | 4月 | 河上徹太郎、大岡昇平らとともに同人誌『白痴群』を創刊。翌年終刊するまでに6号を刊行。 |
1930年(昭和5年) | 9月 | 中央大学予科に編入学。フランス行の手段として外務書記生を志す。 |
1931年(昭和6年) | 4月 | 東京外国語学校専修科仏語部に入学。 |
1933年(昭和8年) | 『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を三笠書房より刊行。 | |
3月 | 東京外国語学校を修了。 | |
12月 | 遠縁にあたる上野孝子と結婚する。 | |
1934年(昭和9年) | 10月 | 長男文也(ふみや)が生まれる。年末には、『山羊の歌』を刊行。 |
1935年(昭和10年) | 5月 | 『歴程』が創刊され同人となる。 |
1936年(昭和11年) | 11月 | 長男文也死去。子供の死にショックを受け、精神が不安定になる。次男愛雅(よしまさ)が生まれる。 |
1937年(昭和12年) | 1月 | 千葉市の中村古峡療養所に入院。 |
2月 | 退院後、神奈川県鎌倉町扇ガ谷に転居。 | |
9月 | 『ランボオ詩集』(野田書店)を刊行。『在りし日の歌』原稿を清書、小林秀雄に託す。 | |
10月22日 | 故郷に移住の予定であったが、結核性脳膜炎を発症し、同月22日午前0時10分に死去。 | |
1938年(昭和13年) | 1月 | 次男愛雅死去。 |
4月 | 創元社より『在りし日の歌』を刊行。 | |
1972年(昭和47年) | 湯田の生家が火災で焼失。 | |
1994年(平成6年) | 山口市湯田温泉の生家跡地に中原中也記念館が開館。 | |
1996年(平成8年) | 山口市等が新たに中原中也賞を創設。 |