1. 生涯と人物
1.1. 出生と生育環境
今井雅隆は1959年4月2日に静岡県清水市(現在の静岡県静岡市清水区)で生まれました。興津中学校の2年生からGKとしてのキャリアをスタートさせました。
1.2. 学歴
静岡県自動車工業高校(現在の静岡北高校)に進学し、サッカー部で活躍しました。高校時代には国民体育大会で優勝を経験し、インターハイ全国大会では主将としてチームをベスト8に導きました。高校卒業後は国士舘大学に進み、ここでもサッカーを続けました。
2. 選手キャリア
今井雅隆は、クラブチームでの活動に加え、フットサル日本代表としても国際舞台を経験しました。
2.1. クラブキャリア
国士舘大学を卒業後、1982年にJSLの強豪である本田技研工業に入団しました。本田技研工業ではゴールキーパーとして7年間プレーし、日本サッカーリーグ1部で通算115試合に出場しました。1990年に選手としてのキャリアを引退しました。
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | ||||||||||||
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年度 | 所属 | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |||||
1982 | 本田技研 | 25 | 日本サッカーリーグ1部 | 0 | 0 | |||||||||||
1983 | 17 | 0 | ||||||||||||||
1984 | 1 | 18 | 0 | |||||||||||||
1985 | 21 | 0 | ||||||||||||||
1986-87 | 22 | 0 | ||||||||||||||
1987-88 | 17 | 0 | ||||||||||||||
1988-89 | 20 | 0 | 0 | 0 | ||||||||||||
1989-90 | 30 | 0 | 0 | 0 | 0 | |||||||||||
総通算 | 115 | 0 |
2.2. フットサルキャリア
1989年にはフットサル日本代表に選出され、オランダで開催された1989 FIFAフットサル世界選手権に出場しました。フットサル日本代表として3試合に出場し、得点はありませんでした。
3. 指導者キャリア
今井雅隆は、選手引退後すぐに指導者の道に進み、日本のクラブチームから海外のナショナルチームまで、幅広い経験を積んできました。
3.1. 指導者キャリアの概要
今井雅隆の指導者としてのキャリアは、1989年に選手として所属していた本田技研工業の監督に就任したことから始まりました。その後、日本のJリーグクラブやユースチームの監督・コーチを歴任する傍ら、フィリピン代表やマカオ代表といった海外のナショナルチームの指揮も執るなど、国際的な経験も豊富です。
3.2. クラブ指導
1989年から1992年まで本田技研工業の監督を務めました。監督退任後は2年間、本田技研の社員として働きながら日本サッカー協会のナショナルトレセンコーチを務めました。
1995年からは名古屋グランパスエイトに移籍し、1997年までサテライトチームの監督を務めました。1997年にはトップチームのアシスタントコーチに、1998年から1999年まではトップチームのコーチを務めました。この時期のトップチームには、後にアーセナルを率いることになるアーセン・ベンゲルも監督の一人として在籍していました。
2002年にはJ2に降格したアビスパ福岡の監督に就任しました。1年でのJ1復帰が目標とされていましたが、シーズンが始まると、ベテラン選手が多いチーム編成から試合後半での息切れが目立つようになり、今井の戦術も二転三転しました。このため、開幕から足踏み状態が続き、7月24日のセレッソ大阪戦では前半で江口倫司がハットトリックを達成し3-0とリードしながらも、後半に5失点を喫して逆転負けを喫しました。続く7月27日の水戸ホーリーホック戦でも、それまでJ2リーグ戦で3得点が最高だった水戸に5失点を許して大敗しました。この結果を受け、今井は監督を辞任しました。辞任時の順位は6位でした。
2005年にはジュビロ磐田のトップチームコーチを務め、2006年はジュビロ磐田サテライトチームの監督を務めました。
2007年には徳島ヴォルティスの監督に就任しましたが、チームはJ2最下位に終わり、シーズン終了後に解任されました。
2010年よりモンテディオ山形ユース(U-18)の監督に就任しました。2014年には、監督として天皇杯にモンテディオ山形ユースを初めて出場させました。
2019年12月21日にアスルクラーロ沼津の監督に就任しました。しかし、2022年8月23日にアスルクラーロ沼津の監督を解任されました。
2023年からはFC刈谷の監督を務めています。
3.3. 代表チーム指導
2000年にはアジアサッカー連盟の「弱小国援助プログラム」に基づき、日本サッカー協会から派遣され、マカオ代表のコーチを務めました。
2001年にはフィリピン代表の監督に就任し、日本人として初めて海外のナショナルチームを指揮しました。
2003年から2004年まで、再び日本サッカー協会に派遣され、マカオ代表の監督を務めました。
3.4. 監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | |||||||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | ||||||||
1989-90 | 日本サッカーリーグ1部 | 本田技研 | 6位 | 22 | 32 | 10 | 2 | 10 | 2回戦 | 2回戦 | |||||
1990-91 | 3位 | 22 | 38 | 10 | 8 | 4 | ベスト4 | ベスト4 | |||||||
1991-92 | 10位 | 22 | 23 | 5 | 8 | 9 | 準優勝 | ベスト4 | |||||||
2002 | J2 | 福岡 | - | 21 | 28 | 7 | 7 | 7 | - | - | |||||
2007 | 徳島 | 13位 | 48 | 33 | 6 | 15 | 27 | - | 4回戦 | ||||||
2020 | J3 | 沼津 | - | - |
- 2002年のアビスパ福岡監督時は、第21節で辞任しました。辞任時の順位は6位でした。
- 2020年のアスルクラーロ沼津のリーグ戦成績は、出典に詳細な記録がありません。
その他
- コニカカップ 準優勝(1991年)
- 山形県サッカー総合選手権大会(兼天皇杯山形県代表決定戦)優勝(2014年)
4. 個人情報
今井雅隆の身長は180 cmです。選手時代のポジションはGKでした。
5. 評価と功績
今井雅隆は、選手として日本サッカーリーグ1部で長年にわたり活躍し、フットサル日本代表としても国際大会に出場しました。指導者としては、本田技研工業で日本サッカーリーグ1部3位やJSLカップ準優勝を経験するなど、チームを上位に導きました。また、コニカカップでも準優勝を果たしています。
特に、フィリピン代表の監督を務めたことは、日本人として初めて海外のナショナルチームを率いた事例として特筆されます。さらに、モンテディオ山形ユースの監督時代には、チームを天皇杯に初出場させるなど、若手育成においても顕著な功績を残しました。そのキャリアは、日本のサッカー界における選手育成、指導、そして国際交流の発展に多大な貢献をしてきたものと評価されています。