1. Overview
入来智は、1967年に宮崎県都城市で生まれ、その生涯を野球に捧げた人物です。日本プロ野球(NPB)で大阪近鉄バファローズ、広島東洋カープ、読売ジャイアンツ、東京ヤクルトスワローズと渡り歩き、その後は韓国プロ野球(KBO)の斗山ベアーズ、台湾プロ野球(CPBL)のLa Newベアーズでもプレーした、数少ないアジア複数リーグでのプレー経験を持つ投手です。特に東京ヤクルトスワローズ時代には自己最多の10勝を挙げるなど、チームの優勝に大きく貢献しました。弟の入来祐作もプロ野球選手であり、読売ジャイアンツで兄弟共にプレーした時期は、球団史上初の現役兄弟選手として注目を集めました。引退後は故郷に戻り、様々な職を経験しながら地域社会に貢献しようとしましたが、2023年2月10日に交通事故により55歳で急逝しました。彼の「ケンカ投法」と称される強気なピッチングスタイル、そして波乱に富んだ野球人生は、多くのファンの記憶に残っています。
2. Early Life and Amateur Career
入来智の野球人生は、幼少期に宮崎県で始まり、プロの世界へと繋がっていきました。
2.1. Childhood and Education
入来智は1967年6月3日に宮崎県都城市で生まれました。小学4年生の時に野球を始め、野球への情熱を育んでいきました。その後、鹿児島実業高等学校に進学し、高校野球でも投手として活躍しました。1985年夏の鹿児島大会では、準決勝で3番手として登板しましたが、鹿児島商工に敗れ、惜しくも甲子園出場は叶いませんでした。
2.2. Amateur Baseball Career
高校卒業後、入来は社会人野球の強豪三菱自動車水島に入社し、プレーを続けました。社会人野球での実績が認められ、1989年度ドラフト会議において、近鉄バファローズから6位指名を受け、プロ入りを果たしました。この年のドラフトでは、後に近鉄のエースとなりメジャーリーグへと移籍する野茂英雄や、読売ジャイアンツでも共にプレーすることになる石井浩郎らが同期入団でした。
3. Professional Baseball Career
入来智は日本プロ野球を皮切りに、韓国、台湾とアジアの複数のプロリーグでそのキャリアを築き上げました。
3.1. Japan Professional Baseball (NPB)
入来智はNPBで12年間プレーし、様々なチームでその投球術を発揮しました。
3.1.1. Kintetsu Buffaloes (1990-1995, 1997-1998)
1990年に大阪近鉄バファローズに入団した入来は、先発、中継ぎ、抑えと、あらゆる役割をこなす「便利屋」的存在として活躍しました。特に1990年から1995年までの6年間で125試合に登板し、チームに貢献しました。1991年6月20日の日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)では、プロ入り後初勝利を完投勝利、そして完封勝利で飾り、その才能を示しました。1992年10月6日の西武ライオンズ戦(藤井寺球場)では、プロ初セーブを記録しています。
3.1.2. Hiroshima Toyo Carp (1996)
1996年6月、入来は吉本亮との交換トレードで広島東洋カープへ移籍しました。広島では6試合に登板しましたが、その年のオフには再び吉本亮との「返却トレード」という形で近鉄に復帰することになりました。
3.1.3. Yomiuri Giants (1999-2000)
1998年のオフシーズン、入来は佐藤裕幸との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍しました。この移籍により、弟の入来祐作も巨人所属だったため、球団史上初めての現役兄弟選手が同時に在籍するという歴史的な出来事となりました。1999年には22試合に登板しましたが、翌2000年には一軍での登板機会がなく、同年オフに戦力外通告を受けました。
3.1.4. Tokyo Yakult Swallows (2001-2002)
読売ジャイアンツを離れた入来は、東京ヤクルトスワローズへ移籍しました。当時の監督だった若松勉は、入来の入団テストの際に「最後まで絞ったときに、気迫、根性を感じて獲得した」と語っており、入来の強い精神力を評価していました。
2001年は入来のキャリアにおいて最も輝かしい年となりました。自己最多となる10勝(うち前半戦で9勝2敗)を挙げ、チームのリーグ優勝に大きく貢献しました。同年には監督推薦で自身初のオールスターゲームに出場し、第1戦では先発を務めた弟・祐作からマウンドを受け継ぐ「入来兄弟リレー」が実現し、NPBオールスターゲーム史上初の快挙として記録されました。
さらに、古巣である大阪近鉄バファローズ(1999年に「大阪近鉄バファローズ」に改称)との2001年の日本シリーズでは、10月23日の第3戦(神宮球場)で古田敦也とバッテリーを組み、5回1失点と好投し勝利投手となりました。この勝利により、日本シリーズでの勝利を含め、NPBの全12球団から勝利を挙げたことになります。
2002年は足首の故障と個人的な事情により1勝に終わり、同年オフに2度目の戦力外通告を受けました。ヤクルト時代には、弟の祐作との兄弟対決は実現しませんでした。
3.2. Korea Baseball Organization (KBO)
2003年、入来は韓国プロ野球(KBO)の斗山ベアーズに入団しました。これは、KBOにおいて外国人選手枠で登録された初の日本人投手であり、歴史的な出来事でした。KBOは1982年の発足以来、外国人選手の導入に慎重な姿勢をとっていましたが、日韓プロ野球スーパーゲームなどを通じて自国の実力向上を実感し、1998年から外国人選手を受け入れるようになりました。ただし、入来以前にも、知人の韓国人から協力を得て在日コリアンと偽って入団した宮城弘明(元ヤクルト)の例はありました。
3.3. Chinese Professional Baseball League (CPBL)
2004年には台湾のCPBLに属するLa Newベアーズへ移籍しました。4勝をマークしたものの、シーズン途中で解雇され、同年限りで現役を引退しました。
4. Playing Style and Personal Characteristics
入来智は、その独特な投球スタイルと個性的な言動で知られています。
彼は先発、中継ぎ、抑えとあらゆる役割をこなし、最速140 km/h台後半の直球を武器に内角を強気に攻めるピッチングが持ち味でした。その投球スタイルは「ケンカ投法」と称され、感情を前面に出した熱いプレーでファンを魅了しました。
1994年の対オリックス・ブルーウェーブ戦では、打者の小川博文が放った打球が頭部に直撃するというアクシデントに見舞われました。ナインが駆け寄る中、入来本人は全く痛がる様子を見せず、そのまま続投したという逸話があります。このシーンは、テレビ番組「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」で度々放送され、彼の強靭な精神力を象徴するエピソードとして知られています。
1995年の対千葉ロッテマリーンズ戦では、打者のピート・インカビリアの頭部に死球を与え、乱闘騒ぎに発展しました。その際、インカビリアにマウンド上で張り倒されるという場面もありました。
1997年8月24日のロッテ戦では、近鉄が10点差を逆転し11対10で勝利するという劇的な展開の中で、入来が決勝点となる11点目を記録したという珍しい出来事がありました。彼は山本和範の代走として四球で出塁しており、当時のパシフィック・リーグでは交流戦がなかったため投手が打席に立つことはほとんどなく、この年の入来の打撃成績は打席数0ながら得点1が記録されました。
1997年8月30日の対福岡ダイエーホークス戦(大阪ドーム)で近鉄復帰後初の先発勝利を飾った際には、「(同年読売ジャイアンツに入団した)弟に負けられない」とコメントし、復活への強い意欲を示しました。
東京ヤクルトスワローズへ移籍した際、入来は「僕は巨人に復讐する為にやってきました! だから他の4球団の投手の方は、僕に巨人攻略法を聞きに来てください」と、かつて所属した巨人への反発心を公言しました。この反発心が功を奏したかのように、2001年のヤクルトのリーグ優勝に大きく貢献しました。
また、ヤクルト時代にバッテリーを組んだ古田敦也は、入来の投球スタイルに大きな影響を与えました。それまで力任せの一辺倒な投球だった入来は、古田からスローカーブなどを交えた緩急の投球を教わったことで、投球の幅を広げ、ヤクルト移籍初年度の活躍に繋がりました。入来は古田のことを「僕にとってまさに運命の人」と語るほど、絶大な信頼を寄せていました。入来はキャッチャーのサインにうなずいても自分の直感で異なる球種を投げることもしばしばあり、それが原因でキャッチャーが捕球ミスをすることも度々ありましたが、古田は敵にも味方にもサイン違いと気づかれないほど自然にキャッチングをしていたといいます。弟の祐作がオールスターで古田に「兄は古田さんのサイン通りに投げてるんですか?」と尋ねたところ、古田は「投げてへんよ」と涼しい顔で答えたというエピソードも残っています。
5. Post-Retirement Life
プロ野球引退後、入来智は故郷の都城市で新たな人生を歩み始めました。引退後は、義兄(妻の兄)が経営する仕出し・手作り弁当屋「かかし亭」に勤務しました。2008年4月には、その熱心な仕事ぶりが評価され、宮崎市内にオープン予定だった2号店の運営を任されるまでになりましたが、後にこの職場を退職しています。
現役引退後、入来は確認されているだけで実に10回もの転職を経験しました。これは、引退後のセカンドキャリアを築くことの難しさを物語っています。そして、彼が最期に就いていた職業は介護士でした。プロ野球選手から一転して介護という社会貢献性の高い仕事に就いたことは、彼の人間的な深さを示すものと言えるでしょう。
6. Death
入来智は2023年2月10日、突然の交通事故によりその生涯を終えました。
6.1. Traffic Collision
2023年2月10日の21時50分頃、入来智は故郷である宮崎県都城市内で軽乗用車を運転中、普通乗用車と出合い頭に衝突しました。入来が乗っていた軽乗用車は前方部分が大破し、衝突の勢いで畑に転落しました。意識不明の状態で市内の病院へ搬送されましたが、約2時間後の同日23時45分、重症頭部外傷のため55歳で死亡が確認されました。
事故現場は都城市野々美谷町の信号機のない交差点でした。衝突相手の33歳の団体職員の男性に怪我はありませんでした。また、男性が通行していた道路には、交差点進入手前に一時停止の標識が設置されていました。
6.2. Funeral and Aftermath
入来智の訃報を受け、当時オリックス・バファローズの投手コーチとして宮崎市のキャンプ地に滞在していた弟の入来祐作は、約50 km離れた都城市へ駆け付けました。
2月12日には通夜が営まれ、祐作をはじめ、キャンプで宮崎に滞在していたオリックスの福良淳一ゼネラルマネージャー、読売ジャイアンツの久保康生巡回投手コーチらが参列しました。また、清原和博をはじめとする多くの球界関係者から供花が届けられ、故人を偲びました。翌2月13日には告別式が執り行われ、現役時代にプレーした球団の帽子や、巨人、ヤクルトのユニフォームが副葬品として柩に納められました。入来智の戒名は「慈恩院法智信士」です。
7. Awards and Records
入来智は現役選手生活において、個人の栄誉と複数の記録を達成しました。
7.1. Awards
; NPB
- 月間MVP:1回(投手部門:2001年6月)
7.2. First Records (NPB)
- 初登板:1990年4月18日、対オリックス・ブレーブス2回戦(日生球場)、8回表2死に2番手として救援登板、1/3回4失点
- 初奪三振:1990年4月19日、対オリックス・ブレーブス3回戦(日生球場)、9回表に弓岡敬二郎から
- 初先発:1990年8月12日、対ロッテオリオンズ17回戦(藤井寺球場)、1回4失点
- 初勝利・初完投勝利・初完封勝利:1991年6月20日、対日本ハムファイターズ10回戦(東京ドーム)
- 初セーブ:1992年10月6日、対西武ライオンズ26回戦(藤井寺球場)、6回表に2番手として救援登板・完了、4回無失点
7.3. Other Records (NPB)
- オールスターゲーム出場:1回(2001年)
8. Career Statistics
入来智のプロ野球選手としての年間成績を以下に示します。
8.1. Pitching Statistics by Year
年 度 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990 | 近鉄 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | .000 | 39 | 7.2 | 14 | 2 | 4 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 10 | 9 | 10.57 | 2.35 |
1991 | 10 | 4 | 4 | 2 | 0 | 4 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 205 | 51.2 | 35 | 3 | 17 | 0 | 3 | 23 | 0 | 0 | 16 | 14 | 2.44 | 1.01 | |
1992 | 15 | 7 | 1 | 0 | 1 | 4 | 3 | 1 | -- | .571 | 245 | 53.1 | 66 | 8 | 19 | 0 | 3 | 38 | 3 | 0 | 41 | 40 | 6.75 | 1.59 | |
1993 | 26 | 9 | 1 | 1 | 0 | 5 | 5 | 0 | -- | .500 | 340 | 80.2 | 68 | 5 | 33 | 2 | 6 | 70 | 0 | 0 | 36 | 30 | 3.35 | 1.25 | |
1994 | 44 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 6 | 1 | -- | .400 | 468 | 107.0 | 128 | 12 | 34 | 1 | 2 | 67 | 0 | 0 | 56 | 50 | 4.21 | 1.51 | |
1995 | 23 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | -- | .000 | 225 | 50.2 | 61 | 7 | 14 | 0 | 3 | 43 | 0 | 0 | 30 | 30 | 5.33 | 1.48 | |
1996 | 広島 | 6 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | -- | .000 | 80 | 17.0 | 20 | 2 | 8 | 0 | 2 | 14 | 1 | 0 | 17 | 10 | 5.29 | 1.65 |
1997 | 近鉄 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 50 | 13.1 | 14 | 1 | 1 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 4 | 4 | 2.70 | 1.13 |
1998 | 25 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | -- | .571 | 208 | 47.2 | 46 | 2 | 26 | 2 | 2 | 37 | 1 | 2 | 30 | 29 | 5.48 | 1.51 | |
1999 | 巨人 | 22 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 104 | 21.2 | 24 | 3 | 17 | 1 | 1 | 23 | 1 | 0 | 10 | 10 | 4.15 | 1.89 |
2001 | ヤクルト | 24 | 20 | 1 | 0 | 1 | 10 | 3 | 0 | -- | .769 | 528 | 129.1 | 117 | 16 | 32 | 2 | 4 | 80 | 1 | 0 | 42 | 41 | 2.85 | 1.15 |
2002 | 6 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 117 | 25.2 | 33 | 6 | 6 | 0 | 1 | 11 | 1 | 0 | 19 | 19 | 6.66 | 1.52 | |
2003 | 斗山 | 39 | 20 | 5 | 1 | -- | 7 | 11 | 5 | 0 | .389 | 676 | 159.0 | 155 | 17 | 53 | 3 | 9 | 87 | 2 | 0 | 68 | 66 | 3.74 | 1.31 |
2004 | La New | 11 | 11 | 3 | 0 | 0 | 4 | 6 | 0 | 0 | .400 | 331 | 77.0 | 81 | 6 | 19 | 0 | 7 | 59 | 3 | 0 | 39 | 29 | 3.39 | 1.30 |
NPB:12年 | 214 | 58 | 7 | 3 | 2 | 35 | 30 | 2 | -- | .538 | 2609 | 605.2 | 626 | 67 | 211 | 8 | 28 | 422 | 8 | 2 | 311 | 286 | 4.25 | 1.38 | |
KBO:1年 | 39 | 20 | 5 | 1 | -- | 7 | 11 | 5 | 0 | .389 | 676 | 159.0 | 155 | 17 | 53 | 3 | 9 | 87 | 2 | 0 | 68 | 66 | 3.74 | 1.31 | |
CPBL:1年 | 11 | 11 | 3 | 0 | 0 | 4 | 6 | 0 | 0 | .400 | 331 | 77.0 | 81 | 6 | 19 | 0 | 7 | 59 | 3 | 0 | 39 | 29 | 3.39 | 1.30 |
9. Uniform Numbers
入来智が各プロチームで着用した背番号は以下の通りです。
- 41(1990年 - 1995年)- 大阪近鉄バファローズ
- 40(1996年)- 広島東洋カープ
- 42(1997年 - 1998年)- 大阪近鉄バファローズ
- 44(1999年 - 2000年)- 読売ジャイアンツ
- 28(2001年 - 2002年)- 東京ヤクルトスワローズ
- 29(2003年)- 斗山ベアーズ
- 29(2004年)- La Newベアーズ