1. 概要
六角義治(六角義治ろっかく よしはる日本語)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、南近江を拠点とした戦国大名、六角氏の第16代当主である。別名に六角義弼(六角義弼ろっかく よしすけ日本語)がある。父は六角義賢。義治の生涯は、家督相続から織田信長との対立による六角氏の衰退、そして豊臣政権下での活動に至るまで、激動の時代を色濃く反映している。特に、家中の動揺を招いた観音寺騒動や、主君の権限を抑制する分国法である六角氏式目の制定は、彼の統治の困難さと、当時の六角氏が抱えていた権力基盤の不安定さを象徴する出来事として知られている。本記事では、六角義治の生涯と主要な活動、そしてその行動が当時の社会に与えた影響に焦点を当て、その人物像と歴史的評価を包括的に解説する。
2. 生涯
六角義治は、六角氏の当主として激動の時代を生き抜き、その生涯は六角氏の衰退と密接に結びついている。
2.1. 出生と幼少期
六角義治は天文14年(1545年)に、六角氏第15代当主である父・六角義賢の嫡男として誕生した。母は能登国の戦国大名・畠山義総の娘である。父・義賢は当初、義総の娘を正室として迎えていたが、彼女が早世したため、その妹を継室として迎えた。義治はこの継室を生母とする。しかし、義治の生母も天文16年(1547年)に早世している。
2.2. 教育と初期の活動
義治は元服に際して、初名として義弼(義弼よしすけ日本語)を名乗った。「義」の字は、当時の室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝から偏諱を受けたものである。
初期の公的な活動としては、永禄4年(1561年)に河内国の畠山高政と共闘し、三好氏を攻めた際に、父・義賢の下で弟の義定と共に京へ出兵している。
2.3. 家督相続と父・義賢の影響
義治は弘治3年(1557年)または永禄2年(1559年)に、父・義賢が隠居して承禎と号したことに伴い、家督を継承して六角氏の当主となった。しかし、実権は依然として父・承禎が握り続けていた。
永禄3年(1560年)には、浅井氏が六角氏から離反したことに対抗するため、父・承禎が美濃斎藤氏との縁組を進めようとした際、義治は父の怒りを買って一時的に飯高山へ逼塞させられる事態に陥った。この時、父・承禎の信任が厚かった「年寄衆」または「宿老衆」と称された重臣である平井定武、蒲生定秀、後藤賢豊、布施公雄、狛定の5名が譴責を受けている。この出来事は、義治が当主でありながらも、父・承禎の強い影響下に置かれていたことを示している。
3. 主要な活動
六角義治は当主として、六角氏の命運を左右する数々の重要な出来事に関与した。
3.1. 観音寺騒動
永禄6年(1563年)、義治は六角家中でも特に信望の厚かった重臣である後藤賢豊とその子である壱岐守を観音寺城内で誅殺するという事件を起こした。この事件は「観音寺騒動」として知られ、これを契機として六角氏の家中は大きく動揺した。敵対していた浅井長政に主替えする家臣も現れ始め、六角氏の権力基盤は著しく揺らいだ。
この騒動により、義治は一時的に父・承禎と共に反発した家臣団によって観音寺城を追われる事態となったが、重臣の蒲生定秀・賢秀父子らの尽力により、観音寺城に戻ることができた。この一連の騒動は、後藤氏の影響力の強さと、大名としての六角氏の権力基盤が揺らいでいたことを象徴するものであり、六角氏が絶対的な戦国大名へと移行する過程が頓挫したと評価されている。『足利季世記』には、この騒動が「佐々木家滅亡の端相(兆し)」と記された。
近年の研究では、この騒動は承禎と義治の対立に関連して、義治とその側近が承禎の影響力を排除するために、承禎の信任が厚かった後藤親子の粛清を図ったものの、それが裏目に出たとする新説も提唱されている。この頃、義弼は名を義治に改めたとされる。
3.2. 足利義昭との関係
永禄8年(1565年)、京で三好三人衆などが将軍・足利義輝を殺害する永禄の変が発生した。この変後、義輝の弟である一乗院覚慶(後の足利義昭)が亡命してくると、義治は彼を一時的に匿った。しかし、三好三人衆が管領職などの好条件を提示して義治を誘うと、義治はこれに応じて覚慶と距離を取り始めた。このため、覚慶は近江から出国することとなった。
3.3. 六角氏式目
永禄10年(1567年)4月28日、義治は主君の権限を抑える性質を持つ分国法である「六角氏式目」に署名することを余儀なくされた。この式目は、家中の重臣たちの影響力が強まる中で、六角氏の統治体制が変化していたことを示している。従来の通説では、この際に家督も強制的に弟・義定に譲らされたとされてきたが、これには異説も存在する。この式目の制定は、観音寺騒動と並び、六角氏の当主権力が相対的に弱体化していたことを示す重要な出来事である。
3.4. 織田信長との対立
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を企図し、六角父子にもこの軍勢に加わるよう要請してきた。しかし、六角父子はこれを拒否したため、信長は上洛戦を敢行すべく六角領に攻め込んできた。
六角父子は、三好三人衆の岩成友通らの援助を受けて徹底抗戦を図った。激戦の末、観音寺城の向かいに位置する箕作城が落城するや、六角父子は観音寺城を放棄せざるを得なかった(観音寺城の戦い)。
その後、父・承禎は甲賀郡の石部城に、義治は愛知郡の鯰江城にそれぞれ立て籠もった。彼らはその後も浅井長政や朝倉義景と連携し、信長を苦しめた。この時期には、長光寺城の戦いや野田城・福島城の戦いなど、織田軍との激しい攻防が繰り広げられた。
信長の要請による朝廷の介入により、信長と六角・浅井・朝倉の間で和議が結ばれたが、体勢を立て直した信長は一方的に和議を破棄した。天正元年(1573年)に朝倉氏、次いで浅井氏を滅ぼすと、ついに義治は信長と和睦し、鯰江城から退城した。
しかし、父・承禎はその後も石部城を拠点に、足利義昭による新たな信長包囲網(上杉氏や甲斐武田氏なども加わった)の構築を画策するなどして信長との戦いを続けた。だが、天正2年(1574年)4月に石部城が落とされると、承禎は信楽に落ち延びた。
なお、義治はこの頃、「佐々木」または「佐々木次郎」を名乗っていたという。また、「佐々木義堯」と名乗る人物が、京都を追放された足利義昭の下で毛利輝元やその家臣との外交交渉を行っていたことが判明しており、義治と義堯の関係性については同一人物説と別人説があるが、両者の花押がほぼ一致することから、義堯と改名した義治が西国に追われた義昭と合流し、その京都帰還まで行動を共にしたと推測されている。
3.5. 豊臣政権下での活動
織田信長の死後、豊臣氏の時代が訪れると、義治は豊臣秀吉に仕えた。関白・豊臣秀次が主催した犬追物(流鏑馬の一種)には、弓馬指南役として出席していることが確認されている。また、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)の一人として、足利義昭や斯波義銀らと共に秀吉に仕えた。秀吉の死後は、その子である豊臣秀頼の弓矢の師範を務めるなど、武芸の指南役として活動した。
4. 私生活と晩年
豊臣政権下での活動の後、義治は出家したとされている。晩年は比較的穏やかな生活を送ったものと推測される。
5. 死去
六角義治は慶長17年(1612年)10月22日(または11月14日)に加茂にて死去した。享年68歳であった。彼の位牌は、父・承禎(義賢)と共に、現在の京都府京田辺市にある一休寺に安置されている。
6. 評価と影響
六角義治の歴史的評価は、六角氏の衰退期における当主としての苦悩と、その行動がもたらした結果という観点から多角的に分析される。
6.1. 後世の評価
六角義治の治世は六角氏の権力が大きく揺らぎ、最終的に織田信長によって近江を追われる結果となった。しかし、彼の血筋はその後も存続し、江戸時代にはその子孫が高家に列せられるなど、一定の地位を保った。これは、六角氏が武家社会において築いてきた伝統と格式が、完全に失われたわけではないことを示している。
6.2. 批判と論争
六角義治の統治は、特に「観音寺騒動」において、家中の動揺を招き、六角氏の権力基盤を弱体化させたとして批判的な評価を受けることが多い。この騒動は、六角氏が戦国大名としての絶対的な権力を確立しきれなかった要因の一つと見なされている。また、六角氏式目の制定は、当主の権限が重臣によって抑制されたことを意味し、その統治能力に対する疑問が呈されることもある。
織田信長の上洛に際して、六角氏がこれを拒否し徹底抗戦を選んだことは、結果的に領土の喪失と独立性の終焉を招いた。この判断が六角氏の命運を決定づけたという見方もある。
「佐々木義堯」と名乗る人物が義治と同一人物であるか否かという論争も、彼の晩年の活動や人物像を考察する上で重要な論点となっている。これらの出来事は、義治が直面した厳しい時代背景と、その中で彼が下した決断が、六角氏の歴史に与えた影響の大きさを物語っている。