1. 概要
勝矢 寿延(かつや としのぶ、勝矢 寿延Katsuya Toshinobu日本語、1961年9月2日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。現役時代のポジションはDF。サッカー日本代表およびフットサル日本代表の元選手であり、AFCアジアカップ1992優勝メンバーの一員である。現役引退後はセレッソ大阪でコーチ、スカウト、強化部長、スクールマスターなどを歴任している。
2. 生涯と教育
2.1. 出生と幼少期
勝矢寿延は1961年9月2日に長崎県で生まれた。彼の愛称は「ガッチャ」である。
2.2. 学歴
島原商業高校時代にはサッカー部に所属し、全国高等学校サッカー選手権大会に出場した経験を持つ。高校卒業後は大阪商業大学に進学し、大学でもサッカーを続けた。
3. 選手経歴
勝矢寿延は、本田技研工業、日産自動車(後の横浜F・マリノス)、ジュビロ磐田、セレッソ大阪といった複数のクラブでプレーし、日本サッカー界の第一線で活躍した。また、サッカー日本代表として国際舞台でも重要な役割を担い、フットサル日本代表としても国際大会に出場した。
3.1. クラブ歴
勝矢寿延のプロサッカー選手としてのクラブキャリアは以下の通りである。
- 本田技研工業 (1984年 - 1991年)**
1984年に大阪商業大学を卒業後、JSL1部の本田技研工業に入社した。彼はセンターバックとしてチームの主軸を担い、1985-86シーズンと1986-87シーズンの2度にわたりベストイレブンに選出された。また、JSLオールスターサッカーには1987年、1988年、1989年、1991年の計4回出場している。その他の公式戦では、1990年のコニカカップに4試合、1991年のコニカカップに7試合出場した。
- 日産自動車 / 横浜F・マリノス (1991年 - 1993年)**
1991年、同じJSL1部の日産自動車(後の横浜F・マリノス)へ移籍した。日産自動車ではその存在感を遺憾なく発揮し、これがハンス・オフト監督の下でサッカー日本代表に復帰するきっかけとなった。1992年にはゼロックス・チャンピオンズ・カップに1試合出場。Jリーグが開幕した1993年には、開幕戦となったヴェルディ川崎戦に先発出場。同年7月17日にはJリーグオールスターサッカーにも先発出場した。
- ジュビロ磐田 (1994年 - 1997年)**
1994年にジュビロ磐田へ移籍。この移籍は、彼を日本代表に復帰させたハンス・オフトがジュビロ磐田の監督に就任したことが背景にあった。同年11月19日に行われたシーズン最終節の鹿島アントラーズ戦で、Jリーグでの初ゴールを記録した。1994年には2年連続でJリーグオールスターサッカーのメンバーに選出されたものの、怪我のため出場は叶わなかった。ジュビロ磐田での最終年は控え選手としてのプレーが多かったものの、1997年にはJリーグセカンドステージで優勝を果たし、同年のJリーグ年間チャンピオンにも輝いた。
- セレッソ大阪 (1998年)**
1998年にセレッソ大阪へ移籍した。ファーストステージ開幕当初はレギュラーとしてプレーしたが、セカンドステージに入るとベンチを温める試合が増加した。最終節のアビスパ福岡戦に後半開始から出場したのを最後に、1998年シーズン終了をもって現役を引退した。
3.2. 代表歴
勝矢寿延のサッカー日本代表としてのキャリアは、ワールドカップ予選やアジアカップなど、数々の重要な国際舞台で展開された。
- 初期の代表活動 (1985年 - 1987年)**
1985年9月、1986 FIFAワールドカップ・アジア予選の日本代表に選出された。同年9月22日の香港戦でAマッチデビューを飾った。アジア地区最終予選の韓国戦の第2戦にも出場したが、0-1で敗れ、ワールドカップ出場は叶わなかった。1986年には1986年アジア競技大会にも出場。1987年には1988年ソウルオリンピック予選にも参加し、アジア地区最終予選まで進出したが、最終戦で中国に敗れて本大会出場を逃した。
- 代表復帰とアジアカップ優勝 (1992年)**
以降、約5年間代表から遠ざかっていたが、日産自動車への移籍で存在感を発揮し、新監督のハンス・オフトによって1992年に代表に復帰した。同年5月31日のキリンカップ、アルゼンチン戦で約5年ぶりにAマッチ出場を果たした。AFCアジアカップ1992のメンバーに選出され、決勝のサウジアラビア戦を含む3試合に出場し、日本代表の初優勝に貢献した。
- 「ドーハの悲劇」 (1993年)**
1993年には1994 FIFAワールドカップ・アジア予選にも選出された。この最終予選では、負傷した左サイドバックの都並敏史の代役として、未経験のポジションながら安定した守備を見せ、チームの勝利に貢献した。第3戦の北朝鮮戦で三浦泰年に代わって先発出場して以降、第4戦以降も起用され続けた。ドーハの悲劇として知られるイラク戦にもフル出場した。このワールドカップ予選が、彼にとっての最後の日本代表戦となった。日本がアジア最終予選まで勝ち上がりながらも本大会出場を逃した3つの大会(1985年ワールドカップ予選、1987年オリンピック予選、1993年ワールドカップ予選)で、そのすべての最終予選に参加し、かつすべての大会で試合出場も果たしたのは勝矢寿延のみである。
3.3. フットサル歴
1989年にはフットサル日本代表に選出され、オランダで開催された1989 FIFAフットサル世界選手権に出場した。
4. プレースタイル
勝矢寿延は、主にDFとしてプレーし、センターバックや右サイドバック、そして左サイドバックもこなすユーティリティ性を持っていた。彼は空中戦に強く、強靭な肉体を活かしたマンマークを得意としていた。身長は175 cm、体重は76 kgである。
5. 指導歴
現役引退後、勝矢寿延はセレッソ大阪で様々な役職を歴任し、指導者およびクラブ運営の分野で貢献している。
1999年からセレッソ大阪で指導者としてのキャリアをスタートさせ、チーム統括部スカウト担当を務めた。2000年にはU-13監督に就任。2001年7月から12月にかけてはチーム統括部強化担当を務めた。2002年にはチーム統括部チーフスポーツディレクターに就任し、2003年から2004年まではチーム統括部テクニカルディレクターを務めた。2005年から2007年にはトップチームコーチを務め、2007年5月からは強化部スカウト統括責任者に就任し、2013年までその職を務めた。2013年12月にはセレッソ大阪の強化部長に就任した。2015年2月10日からはセレッソ大阪のサッカースクールのスクールマスターを務めている。
6. 個人成績
6.1. クラブ別成績
シーズン | クラブ | リーグ | リーグ戦 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
日本 | ||||||||||
1984 | 本田技研工業 | JSL1部 | 16 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 | 1 |
1985-86 | 22 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 22 | 0 | ||
1986-87 | 19 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 19 | 1 | ||
1987-88 | 22 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 25 | 1 | ||
1988-89 | 18 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 19 | 0 | ||
1989-90 | 22 | 2 | 0 | 0 | 2 | 1 | 24 | 3 | ||
1990-91 | 21 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 25 | 1 | ||
1991-92 | 日産自動車 | JSL1部 | 20 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 23 | 0 |
1992 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | - | 0 | 0 | 6 | 0 | 6 | 0 | |
1993 | 25 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 26 | 0 | ||
1994 | ジュビロ磐田 | 22 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 23 | 1 | |
1995 | 35 | 1 | 0 | 0 | - | 35 | 1 | |||
1996 | 27 | 0 | 1 | 0 | 13 | 1 | 41 | 1 | ||
1997 | 15 | 0 | 2 | 0 | 4 | 0 | 21 | 0 | ||
1998 | セレッソ大阪 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 0 | |
総通算 | 298 | 8 | 5 | 0 | 32 | 2 | 335 | 10 |
6.2. 代表別成績
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1985 | 2 | 0 |
1986 | 4 | 0 |
1987 | 6 | 0 |
1988 | 0 | 0 |
1989 | 0 | 0 |
1990 | 0 | 0 |
1991 | 0 | 0 |
1992 | 9 | 0 |
1993 | 6 | 0 |
合計 | 27 | 0 |
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1985年09月22日 | 香港 | 香港 | ○2-1 | 森孝慈 | ワールドカップ予選 | |
2. | 1985年11月03日 | ソウル | 韓国 | ●0-1 | ワールドカップ予選 | ||
3. | 1986年07月25日 | クアラルンプール | シリア | ○2-1 | 石井義信 | ムルデカ大会 | |
4. | 1986年08月01日 | クアラルンプール | マレーシア | ●1-2(延長) | ムルデカ大会 | ||
5. | 1986年09月20日 | 大田 | ネパール | ○5-0 | アジア大会 | ||
6. | 1986年09月22日 | 大田 | イラン | ●0-2 | アジア大会 | ||
7. | 1987年09月02日 | バンコク | タイ | △0-0 | オリンピック予選 | ||
8. | 1987年09月15日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ネパール | ○5-0 | オリンピック予選 | |
9. | 1987年09月18日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ネパール | ○9-0 | オリンピック予選 | |
10. | 1987年09月26日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | タイ | ○1-0 | オリンピック予選 | |
11. | 1987年10月04日 | 広州 | 中国 | ○1-0 | オリンピック予選 | ||
12. | 1987年10月26日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | 中国 | ●0-2 | オリンピック予選 | |
13. | 1992年05月31日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | アルゼンチン | ●0-1 | ハンス・オフト | キリンカップ |
14. | 1992年06月07日 | 愛媛県 | 愛媛県総合運動公園陸上競技場 | ウェールズ | ●0-1 | キリンカップ | |
15. | 1992年08月22日 | 北京 | 韓国 | △0-0 | ダイナスティカップ | ||
16. | 1992年08月24日 | 北京 | 中国 | ○2-0 | ダイナスティカップ | ||
17. | 1992年08月26日 | 北京 | 北朝鮮 | ○4-1 | ダイナスティカップ | ||
18. | 1992年08月29日 | 北京 | 韓国 | △2-2(PK4-2) | ダイナスティカップ | ||
19. | 1992年10月30日 | 広島県 | 広島県立びんご運動公園陸上競技場 | UAE | △0-0 | アジアカップ | |
20. | 1992年11月01日 | 広島県 | 広島広域公園陸上競技場 | 北朝鮮 | △1-1 | アジアカップ | |
21. | 1992年11月08日 | 広島県 | 広島広域公園陸上競技場 | サウジアラビア | ○1-0 | アジアカップ | |
22. | 1993年03月07日 | 福岡県 | 東平尾公園博多の森陸上競技場 | ハンガリー | ●0-1 | キリンカップ | |
23. | 1993年03月14日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | アメリカ合衆国 | ○3-1 | キリンカップ | |
24. | 1993年04月30日 | ドバイ | バングラデシュ | ○4-1 | ワールドカップ予選 | ||
25. | 1993年10月21日 | ドーハ | 北朝鮮 | ○3-0 | ワールドカップ予選 | ||
26. | 1993年10月25日 | ドーハ | 韓国 | ○1-0 | ワールドカップ予選 | ||
27. | 1993年10月28日 | ドーハ | イラク | △2-2 | ワールドカップ予選 |
7. 受賞歴・タイトル
勝矢寿延が選手として獲得した個人賞およびチームタイトルは以下の通りである。
- 個人賞**
- JSLベストイレブン: 1985-86シーズン、1986-87シーズン
- Jリーグオールスターサッカー: 1993年、1994年(1994年は選出のみで出場はなし)
- チームタイトル**
- AFCアジアカップ1992: 優勝
- Jリーグセカンドステージ優勝: 1997年
- Jリーグ年間チャンピオン: 1997年