1. 概要
園部逸夫(そのべ いつお、園部逸夫そのべ いつお日本語、1929年4月1日 - 2024年9月13日)は、日本の法学者、弁護士、および裁判官である。専門は行政法。京都大学で法学博士の学位を取得し、後に筑波大学や成蹊大学で教鞭を執った。1989年から1999年まで最高裁判所判事を務め、特に外国人の地方参政権に関する1995年の最高裁判決において、その「傍論」とされる部分の解釈を巡る論争で大きな注目を集めた。
彼の法曹としてのキャリアは、一般的な司法試験ルートを経ずに裁判官に任官するなど異色の経歴を持つ。最高裁判事退官後も、皇室典範に関する有識者会議の座長代理として、女性天皇や女系天皇の容認を主張する報告書作成に深く関与するなど、日本の社会および法制度の重要な議論において影響力を行使し続けた。
本記事では、園部逸夫の生涯とその主要な業績を詳細に記述するとともに、特に彼の判決に対する見解や発言が、日本の司法、人権、そして多文化共生に関する議論に与えた多角的な影響を、中央左派的な視点から考察する。
2. 生涯と背景
園部逸夫は、激動の時代に生まれ、その個人的な背景と教育、初期の社会活動が、後の彼の法曹としてのキャリアと法解釈に大きな影響を与えた。
2.1. 生い立ちと教育
園部逸夫は1929年(昭和4年)、日本統治時代の朝鮮で生まれた。彼の祖父の代から裁判官書記として朝鮮に渡っており、本籍は岐阜県本巣市である。名の由来は、父がドイツ留学中に園部が生まれたことによる。
1936年(昭和11年)には、行政法学者であった父の園部敏が京城法学専門学校を経て台北帝国大学教授に就任したため、家族で台北市に転居した。園部は台北で幼少期を過ごし、旧制台北一中、旧制台北高校で学んだ。
太平洋戦争末期の1945年3月20日、台北高校入学直前というタイミングで、園部は警備召集により二等兵として大日本帝国陸軍第10方面軍に入隊する。同年5月31日には台北大空襲を経験するが、目立った上陸戦に遭遇することなく、終戦により除隊した。この警備召集について、園部は後年、「17歳未満の召集には本人の志願の手続きが必要だったが、その覚えがない。(中略)どうしても気になって、裁判官になってから『警備召集』の法的根拠を調べたが、結局はっきりしませんでした」と語っており、その法的根拠に疑問を抱いていたことが示唆されている。
終戦後、園部は日本本土へ引揚げ、金沢市の旧制第四高等学校を経て、京都大学法学部を卒業した。
2.2. 法学研究者および初期の法曹キャリア
父と同じく行政法を専門とした園部は、京都大学法学部を卒業後、1954年(昭和29年)に同大学の助手となり、1956年(昭和31年)には助教授に昇任した。指導教官は須貝脩一であった。1959年(昭和34年)からはコロンビア大学法科大学院に留学し、国際的な視野を広げた。帰国後の1967年(昭和42年)には、学位論文『行政手続の法理』で京都大学より法学博士の学位を取得した。
1970年(昭和45年)、園部は司法試験および司法修習を経ずに、東京地方裁判所判事に任官した。これは、司法試験を経ない裁判官任官という極めて稀なケースであり、彼の行政法学者としての専門性と実績が高く評価されたことを示している。
その後、1975年(昭和50年)には東京高等裁判所判事、次いで前橋地方裁判所判事を務めた。1978年(昭和53年)には最高裁判所調査官に就任し、1981年(昭和56年)には最高裁判所上席調査官(行政)に昇格。1983年(昭和58年)からは東京地方裁判所部総括判事を務めるなど、司法の要職を歴任し、実務家としての経験を積んだ。
2.3. 大学教授としての活動
司法実務の経験を積んだ後、園部は再び教育の場に戻り、その知識と経験を次世代の法曹に伝えた。1985年(昭和60年)、筑波大学社会科学系教授に転じ、翌年には同大学第一学群長に就任した。さらに1987年(昭和62年)には成蹊大学法学部教授に就任し、法学教育の発展に貢献した。
3. 最高裁判所判事在任期間
園部逸夫の最高裁判所判事としての在任期間は、平成時代初の最高裁判事としての象徴的な意味合いを持ち、その後の日本の法解釈に大きな影響を与えた。
3.1. 任命と在任期間
園部逸夫は1989年(平成元年)9月21日に最高裁判所判事に就任した。彼は元号が平成に変わって初めて任命された最高裁判事であり、同時に昭和生まれで初の最高裁判事でもあった。これは、時代の転換期における司法の中核を担う存在としての彼の位置付けを象徴するものであった。
最高裁判事としての資質を問う国民審査が1990年(平成2年)2月18日に行われ、罷免を可とする票は6,882,349票、罷免を可とする率は11.48%で、国民の信任を得てその職務を続けた。園部は1999年(平成11年)3月31日に定年退官した。
4. 退官後の活動
最高裁判所判事退官後も、園部逸夫は法務および公的な活動に精力的に取り組み、日本の社会に大きな影響を与え続けた。
4.1. 弁護士および顧問活動
最高裁判所判事を定年退官した直後の1999年(平成11年)4月、園部は弁護士登録を行い、同年6月には住友商事株式会社の監査役に就任した。さらに、2001年(平成13年)9月には外務省参与(監察査察担当)として、外交政策の法的な側面を補佐する役割を担った。2009年(平成21年)からは虎ノ門法律経済事務所の客員弁護士を務め、2014年(平成26年)7月1日からは弁護士法人名古屋総合法律事務所の顧問に就任するなど、退官後も多岐にわたる法務および顧問としての役割を通じて、その専門知識と経験を社会に還元した。
4.2. 皇室典範に関する議論への参加
園部逸夫は、退官後も日本の皇室制度の根幹に関わる重要な議論に深く関与した。2004年(平成16年)12月、小泉内閣が設置した皇室典範に関する有識者会議において座長代理に就任した。この会議は、皇位継承資格を巡る問題、特に女性天皇や女系天皇の是非について検討を行うものであった。
会議の結果、2005年(平成17年)11月には、皇室典範改正の方向性として女系・女帝(女性天皇)の容認を盛り込んだ報告書が作成された。園部はこの報告書の取りまとめに主導的な役割を果たし、皇室制度の現代化に向けた重要な一歩を提言した。
その後、2012年(平成24年)1月には、民主党野田政権下で「女性宮家」検討担当内閣官房参与に就任し、皇族の減少が懸念される中で、女性皇族が結婚後も皇室にとどまることができる制度の導入について検討を行った。
晩年の2019年には、園部は「本来なら愛子天皇にするのが望ましい」としつつも、「いま女性天皇の議論を持ち出すのは現実的ではない。愛子天皇にするのは難しい」と現実的な課題に言及した。また、女性天皇を実現する場合には、その伴侶の問題が生じる可能性についても指摘していた。これらの発言は、彼の皇室制度への深い理解と、その維持に向けた多角的な視点を示している。
5. 外国人地方参政権裁判と「傍論」問題
園部逸夫が最高裁判事在任中に最も社会的な注目を集めたのは、外国人地方参政権に関する1995年の最高裁判決、およびその中で示された、いわゆる「傍論」の解釈を巡る論争における彼の見解と発言であった。この論争は、日本の司法の独立性、憲法解釈のあり方、そして外国人住民の人権保障という多角的な側面から議論を巻き起こした。
5.1. 1995年最高裁判決の背景と内容
最高裁判所第三小法廷は、1995年(平成7年)2月28日、外国人地方参政権に関する裁判において、原告の上告を棄却する判決を下した。この判決は、在日韓国人の日本国民ではない者に対する地方参政権を否定するものであったが、その判決理由の第二段落に示された憲法判断が、後に大きな議論の対象となった。
問題とされた第二段落は、「憲法は法律をもって居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至った定住外国人に対し地方参政権を付与することを禁止していない」と述べた部分である。この記述は、外国人の地方参政権付与を求める運動や賛成派によって、「最高裁判決の傍論」として、付与の根拠とされてきた。この解釈は、外国人参政権を部分的に許容し得るという「部分的許容説」として知られている。
判例における「先例」は、その後の判決に法的な拘束力を持ち影響を及ぼす一方、「傍論」は判決の結論に直接影響しない付随的な意見であり、法的な拘束力を持たないとされる。しかし、園部はこの第二段落部分が一般に「傍論」とされてきたことに対し、自身の見解を表明した。彼は、この部分が判決判断を行う上での理由を説明したものに過ぎず、「傍論」でさえもないと主張した。
5.2. 「傍論」解釈に対する彼の見解
園部は、2001年および2007年の論文などを通じて、1995年最高裁判決の「傍論」解釈に対する自身の見解を明確に示した。
2001年の論文では、巷間でこの判決理由の第二段落が「傍論」と理解されたり、逆に重視されたりすることに対し、それは正確ではないと指摘した。園部は、判決の構成を以下の三段論法で説明した。
- (1) 憲法93条は在留外国人に選挙権を保障したものではない。
- (2) 在留外国人の永住者であって、その居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至った者に対して、選挙権を付与する措置を講ずることは憲法上禁止されていないが、それは国の立法政策にかかわる事柄であり、措置を講じないからといって違憲の問題は生じない。
- (3) 選挙権を日本国民たる住民に限るものとした地方自治法11条、18条、公職選挙法9条2項の規定は違憲ではない。
彼は、このうち(3)こそが「先例法理」(stare decisis)であり、(1)と(2)は本判決の先例法理を導くための理由付けに過ぎないと主張した。そして、「判例は、これを利益に援用する者や批判する者の解釈によって、その理論と射程が不正確に紹介されることがあるので注意しなければならない」と述べ、判決理由の一部を「傍論」として切り出し、判決の主旨を無視して議論されることを批判した。また、「日本の裁判所の判決では、判決要旨とそれ以外の部分に分けて構成したり理解することはあるが、先例法理と傍論という分け方はしない」と、日本の司法実務における「傍論」の概念の特殊性を指摘した。園部はさらに、「最高裁判所の判決では、私の経験では、傍論的意見は裁判官の個別意見か調査官解説に譲るのが原則である」とも述べている。この点について、園部は「裁判の紹介・研究には、調査官の解説とコメントを必ず参照しなければならない」とし、その理由を「最高裁判所の判例と解説は一体不可分の関係にある。補足意見を付けるまでには至らないが、評議で話題になり、協議されたことを後々の参考のために調査官の解説に譲っていることがよくある」ためとしている。
しかし、園部が「傍論でさえもない」と主張する一方で、この第二段落部分を「傍論」として論じる法学論文は多数存在し、長谷部恭男東京大学教授や青柳幸一東北大学教授をはじめとする多くの法学者がこの見解を支持している。また、別の最高裁判決(最判平成17・1・26)の最高裁判所調査官解説においても、この説示は「傍論」であると明示されており、2010年3月5日には(弁護士資格を有する)当時の鳩山由紀夫政権の「法令解釈」担当であった枝野幸男内閣府特命担当大臣も、「傍論といえども最高裁の見解」と発言している。
2007年の論文でも、園部は同様に、上記三つの判断のうち第三の部分が判例であり、第一と第二は判例の先例法理を導くための理由付けに過ぎないとした。そして、「第一、第二とも裁判官全員一致の理由であるが、先例法理ではない。第一を先例法理としたり第二を傍論又は少数意見としたり、あるいは第二を重視したりするのは、主観的な批評に過ぎず、判例の評価という点では、法の世界から離れた俗論である」と改めて強調した。
5.3. 新聞インタビューと「政治的配慮」発言
園部逸夫の「傍論」に関する発言は、彼の論文に留まらず、複数の新聞インタビューでさらに具体的な動機が明かされることで、一層の論争を巻き起こした。特に「政治的配慮」という発言は、司法の独立性や判決の公平性に対する様々な評価を引き出した。
1999年、朝日新聞のインタビュー記事において、園部は「傍論」とされる判決理由(2)を付した動機について、日本の植民地支配と差別の歴史に触れ、かつて日本の軍人・軍属として戦地で死傷した台湾住民とその遺族が、国に補償を求めた裁判の判決を参照したと語った。その台湾遺族の補償請求裁判では、「日本国籍を持たないことを理由に原告が救援法や恩給法の補償を受けられなくても、法の下の平等を保障した憲法に違反しないし、どのような措置を講ずるかは立法政策の問題である」と記された。園部は、この結論には賛成であったものの、「自らの体験から身につまされるもの」があったと述懐している。それゆえ、平成7年の最高裁判決において、「国籍条項適用の結果生じている状態が法の下の平等の原則に反する差別となっていることは、率直に認めなければならない」「根本的な解決については、国政関与者の一層の努力に待つほかない」と書かざるをえなかったとした。
さらに園部は、これらの思い(園部の若き日の思い出、台湾住民の補償に関する裁判についての思い)が参政権裁判判決にも反映され、いわゆる「傍論」とされる「地方公共団体の長や議員の選挙で、定住外国人に選挙権を与えることは憲法上禁止されていない」という判断に至ったと語った。彼は、在日コリアンの人々の中には、戦争中に強制連行され、帰国したくてもできない人々が大勢いることに言及し、「『帰化すればいい』という人もいるが、無理やり日本に連れてこられた人たちには厳しい言葉である」と、その歴史的背景と人道的な問題を深く認識していたことを明かした。そして、「裁判所としては、すでに政府間の取決めで決まった補償の問題を覆すところまで積極的な政策決定はできないという限界がある。しかし、傍論で政府や立法による機敏な対応への期待を述べることはできる」とも語った。
2010年2月19日の産経新聞のインタビューでは、この発言はさらに踏み込んだ形で展開された。園部は、判決理由(2)の判断について、「韓国人でも祖国を離れて日本人と一緒に生活し、言葉も覚え税金も納めている。ある特定の地域と非常に密接な関係のある永住者には、非常に制限的に選挙権を与えても悪くはない。地方自治の本旨から見て全く憲法違反だとは言い切れないとの判断だ」と説明した。
そして、最も大きな波紋を呼んだのが、以下の発言である。「韓国や朝鮮から強制連行してきた人たちの恨み辛みが非常にきつい時代ではあった。なだめる意味があった。日本の最高裁は韓国のことを全く考えていないのか、といわれても困る。そこは政治的配慮があった」。この発言に対し、当時鳩山由紀夫政権の「法令解釈」担当も兼任していた枝野幸男内閣府特命担当大臣(当時)は、「最高裁判事は法と事実と良心に基づいて判決をしているのであって、政治的配慮に基づいて判決したのは最高裁判事としてあるまじき行為だ」と厳しく批判した。
園部はさらに、明示的に「在日韓国人」とは書かなかったが、判決理由では「非常に限られた、歴史的に人間の怨念のこもった部分、そこに光を当てなさいよ、ということを判決理由で言った」と説明し、その対象が限定的であるべきことを強調した。「選挙権を即、与えることは全然考えていなかった」「判決とは怖いもので、独り歩きではないが勝手に人に動かされる」と述べ、自身の意図とは異なる解釈が広がったことへの懸念を示した。民主党の法案(特別永住者のみならず一般永住者をも地方参政権付与の対象とする)に対しては、「ありえない」「どかーっと開いたら終わりです」と強い反対を表明し、議員立法ではなく政府が法案を提出することについても「賛成できない。これは国策であり、外交問題であり、国際問題でもある」と、司法の判断を超えた政治的・外交的側面を強調した。
園部逸夫の一連の発言は、司法が判決を下す際に、法解釈だけでなく、歴史的背景や社会情勢、さらには人権に関する「政治的配慮」がどこまで許容されるのかという、日本の司法におけるデリケートな問題を露呈させた。彼の発言は、司法の独立性という原則と、裁判官が社会的な責任を果たす中で、どのようにその判断を形成していくかという問いを、社会全体に投げかけることとなった。
6. 主な著作
園部逸夫は、行政法を専門とする法学者として、多くの重要な著作を残している。彼の著作は、行政法学の研究と実務に多大な貢献を果たした。
- 『行政手続の法理』有斐閣、1969年
- 『現代行政法の展望』日本評論社、1969年
- 桑原昌宏共著『公務員労使関係法の展開 アメリカとカナダの現状』有信堂、1973年
- 『現代行政と行政訴訟』行政争訟研究双書 弘文堂、1987年
- 『裁判行政法講話』日本評論社、1988年
- 『オンブズマン法』行政法研究双書 弘文堂、1989年、増補版1992年。新版・枝根茂共著、1997年
- 須貝脩一共著『日本の行政法』ぎょうせい、1999年
- 山下薫・前田雅英共著『21世紀の司法界に告ぐ! 司法の近未来』ぎょうせい、2000年
- 『最高裁判所十年 私の見たこと考えたこと』有斐閣、2001年
- 『皇室法概論 皇室制度の法理と運用』第一法規出版、2002年、新装復刊2016年
- 『皇室制度を考える』中央公論新社、2007年
- 『皇室法入門』筑摩書房ちくま新書、2020年。電子書籍も刊
彼の古稀を記念して、以下の論集も出版されている。
- 『憲法裁判と行政訴訟 園部逸夫先生古稀記念』佐藤幸治・清永敬次編、有斐閣、1999年
7. その他の公職および栄誉
園部逸夫は、最高裁判所判事としての職務以外にも、様々な公的および民間の役職を歴任し、社会貢献活動にも積極的に関わった。また、その功績に対して国から栄誉を授与されている。
7.1. その他の役職
園部が歴任したその他の役職には以下のようなものがある。
- 公益財団法人痛風財団理事
- 財団法人台湾協会会長
- 公益財団法人千賀法曹育英会副理事長
- 日本寮歌振興会会長
これらの役職を通じて、彼は学術、社会貢献、文化振興といった多岐にわたる分野で指導的な役割を果たした。
7.2. 栄誉
園部逸夫は、長年の法曹としての功績が認められ、2001年(平成13年)11月に日本の最高位の勲章の一つである勲一等瑞宝章を受章した。この栄誉は、彼の行政法学への貢献、最高裁判事としての公正な職務遂行、そして退官後の社会活動が国家によって高く評価された証である。
8. 死去
園部逸夫は2024年9月13日に死去した。95歳であった。彼の死没日付をもって、国からは正三位が追叙された。