1. 概要
神奈川県厚木市出身の多村仁志は、1977年3月28日生まれの元プロ野球選手(外野手)であり、現在は野球解説者、eスポーツ解説者として多岐にわたる活動を行っている。右投右打。
1994年のドラフト会議で横浜ベイスターズに4位指名され入団した彼は、プロ入り後度重なる怪我に見舞われながらも、2004年には球団の日本人選手としては史上初となる「打率3割、40本塁打、100打点」という偉業を達成し、横浜の主軸打者としてチームを牽引した。
その後、福岡ソフトバンクホークス、横浜DeNAベイスターズへの復帰、そして中日ドラゴンズと、計4球団でプレー。特に、2006年に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本代表の一員として、その長打力と好守でチームの初代世界一に大きく貢献し、世界を舞台に存在感を示した。
現役時代を通じて、故障と闘いながらも卓越した打撃・守備・走塁能力を兼ね備えた「5ツールプレイヤー」として高く評価され、「メジャーに最も近い日本人野手」と称賛された。その功績は、出身地である厚木市からの市民功労賞や紫綬褒章受章にもつながっている。引退後も、その野球知識と経験を活かし、野球解説者やeスポーツ界の監督として、活動の幅を広げ続けている。
2. 幼少期とアマチュア経歴
多村仁志は神奈川県愛甲郡清川村に生まれたが、宮ヶ瀬ダム建設に伴う実家のある地区の水没により、1984年に厚木市へ転居した。厚木市立飯山小学校、厚木市立小鮎中学校で少年時代を過ごし、小学2年時に兄が所属していた野球チームに入り、野球を始めた。子どもの頃から足が速かったため、中学では一時陸上部に所属していたが、シニアリーグの監督からの誘いを受け、厚木シニアで再び野球を再開した。中学時代は遊撃手と投手を兼任していた。
中学卒業後、横浜高校に進学すると、1年生の春からベンチ入りを果たした。肩の強さを買われ、1年生の途中から内野手から外野手へ転向した。練習から離れた時期もあったが、3年時には斉藤宜之、紀田彰一とクリーンナップを組み、1994年の春夏連続で甲子園に出場した。特に3年夏の県大会では、準々決勝と準決勝で横浜スタジアムにおいて本塁打を放つなど、その長打力を発揮した。高校通算では14本塁打を記録している。
横浜高校の同学年には斉藤宜之、紀田彰一のほか、当時エース投手だった矢野英司がいた。また、2学年先輩には部坂俊之、中野栄一、鈴木章仁、1学年先輩には高橋光信、白坂勝史、1学年後輩には横山道哉、2学年後輩には阿部真宏、松井光介、幕田賢治がいた。
1994年のドラフト会議において、横浜ベイスターズから4位指名を受け入団。担当スカウトは稲川誠だった。入団時の背番号は52。
3. プロ経歴
多村仁志は、1995年の横浜ベイスターズ入団から2016年の中日ドラゴンズでの現役引退まで、22年間のプロ野球選手としてのキャリアを歩んだ。その間、横浜ベイスターズ、福岡ソフトバンクホークス、横浜DeNAベイスターズ、中日ドラゴンズの4球団に所属し、数々の記録を打ち立てた。
3.1. 横浜ベイスターズ時代 (1995-2006)
入団当初の1995年と1996年は、二軍の練習にも帯同することなく、同期入団の相川亮二、加藤謙如と共に基礎練習に打ち込む日々が続いた。しかし、1996年オフの教育リーグで本塁打と打点の記録を樹立する活躍を見せ、これがきっかけで一軍に呼ばれるようになる。
1997年4月4日、対中日ドラゴンズ戦で公式戦初出場を果たす。この試合はナゴヤドーム初の公式戦であり、多村は7回表に開幕投手の盛田幸希の代打として登場し、プロ初打席は山本昌から外野フライに終わった。同年4月8日には対阪神タイガース戦で田村勤からプロ入り初安打を記録し、4月25日の対中日ドラゴンズ戦では前田幸長からレフトスタンドへプロ初本塁打を放った。しかし、一軍定着に向けてアピールを続けていた最中、5月に試合中のアクシデントで右肩の腱板が断裂する重傷を負い、ボルトを4本入れる大手術を受けて長期離脱を余儀なくされた。
1998年は二軍(イースタン・リーグ)の試合にも出場できずリハビリ生活を送り、横浜が38年ぶりのリーグ優勝を決めた日に2回目の手術を行った。翌1999年も一軍出場はなかった。
2000年に背番号を55に変更して一軍に復帰し、主に代打や途中出場で一軍に定着。84試合に出場し、打率.257、7本塁打の成績を残した。2001年は33試合出場で打率.163、1本塁打に留まった。2002年は81試合に出場し、打率.235ながら5本塁打を記録した。2003年には91試合に出場し、規定打席には届かなかったものの、打率.293、18本塁打に加え、14盗塁を記録するなど、打撃面で回復の兆しを見せ始めた。
2004年、背番号を6に変更し、開幕戦でプロ入り初の先発出場を果たした。この年からレギュラーとして定着し、8月15日には横浜在籍の日本人打者としては田代富雄以来23年ぶりとなる30本塁打を記録。10月6日には、球団の前身である大洋ホエールズ時代も含め、横浜在籍の日本人打者として球団史上初の40本塁打を達成した。この年は123試合に出場し、初めて規定打席に到達。在籍した外国人選手を含めても球団史上初となる「打率3割、40本塁打、100打点」という驚異的な成績を残し、大きく飛躍した。また、10盗塁を記録し、2年連続の二桁盗塁を達成している。前年まで主に右翼手の守備についていたが、この年から金城龍彦と守備位置を入れ替え、2006年に移籍するまでレギュラーで中堅手を守った。
2005年は、横浜スタジアムでの本拠地開幕戦となった4月5日の対読売ジャイアンツ戦に出場。延長12回にダン・ミセリからプロ初となるサヨナラ適時打を放った。この年から始まったセ・パ交流戦では、通算12本塁打を記録し、他の3人とともに初代本塁打王に輝いた。6月18日には試合終了時点で打率.344、21本塁打を記録し、一時的に二冠王に立っていた。しかし、6月に事故により一時入院するほどの大怪我を負いながらも、7月29日の対広島東洋カープ戦から復帰。9月17日の対巨人戦では、8回に酒井順也から通算100号本塁打を達成し、球団日本人初の2年連続「打率3割、30本塁打」を達成した。
2006年は、開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。同大会では全試合に出場し、好守や特大本塁打など攻守にわたって活躍。3本塁打、9打点はチームの本塁打王、打点王となり、日本代表の初代世界一に大きく貢献した。出身地である厚木市は、この活躍を称え、大会終了後に多村へ市民功労賞を贈呈することを決定している。
シーズンでは、4月4日に横浜スタジアムで催された対中日ドラゴンズ戦で9回裏に岩瀬仁紀から同点2ランを放つなど、チームの主軸として牽引していた。しかし、6月7日にフルキャストスタジアム宮城で催された対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で、本塁クロスプレーの際に捕手との接触により肋骨を4本折る重傷を負い、長期離脱してシーズンの大半を欠場することとなり、39試合の出場に留まった。
2006年12月5日、寺原隼人との1対1のトレードで福岡ソフトバンクホークスへ移籍することが発表された。背番号は横浜時代と同じ6。
3.2. 福岡ソフトバンクホークス時代 (2007-2012)
2007年は、福岡ソフトバンクホークスの開幕戦に3番打者として出場し、2本塁打を放つなど3安打猛打賞を記録した。シーズン中に4度の肉離れを起こしつつも、自己最多の132試合に出場し、打率.271、13本塁打、68打点で2年ぶりに規定打席に到達した。北京オリンピック野球日本代表候補に背番号1番で選出されていたが、治療のため直前にメンバーから外れた。
2008年も開幕から順調に出場を続けていたが、4月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦で3回表の守備中、大塚明の左中間への打球を追い左翼手の長谷川勇也と交錯し、右足腓骨を骨折。これにより前半戦を棒に振る形となった。9月上旬から一軍に復帰し、2試合連続で猛打賞を記録するなど活躍を見せたが、長期離脱が響き、最終的に39試合の出場に終わった。
2009年に登録名を多村 仁志(読みは同じ)に変更。このシーズンは93試合で打率.282、17本塁打、57打点の成績を収めた。海外移籍も可能なFA権を取得したが、権利を行使せずチームに残留した。
2010年5月8日の対埼玉西武ライオンズ戦で、6回にプロ通算150号本塁打を記録。5月26日からは小久保裕紀に代わり、ソフトバンクの4番打者として出場を続ける。セ・パ交流戦では史上最高打率となる.415を記録し、首位打者を獲得した。7月23日にはファン投票により16年目にして初めてオールスターに出場し、福岡Yahoo! JAPANドームで開催された第1戦では4番で出場した。8月24日の対オリックス・バファローズ戦では、1回裏に近藤一樹から6年ぶりとなる満塁本塁打を放った。この年は自己最多の140試合に出場し、打率.324、27本塁打、166安打、出塁率.374を記録。チームの7年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。外野手では最高得票でベストナインを獲得。11月15日にメジャーリーグ移籍も視野に入れてFA権を行使したが、ソフトバンクの会長である王貞治の一言により、11月24日に残留を表明。2011年1月28日に単年契約を結んだ。

(2011年7月20日、福岡ドームにて)
2011年4月23日の対ロッテ戦で、日本プロ野球通算1000試合出場を達成。10月2日の対西武戦では、3回表に石井一久から右前適時打を放ち、日本プロ野球通算1000安打を達成した。このシーズンは100試合の出場で打率.241、4本塁打に終わった。しかし、自身初出場となった中日ドラゴンズとの日本シリーズには、骨折をしながらも強行出場。第3戦でチーム初本塁打となる2点本塁打を放ち、チームに勢いを与えた。第5戦でも2打点を挙げるなど日本一に貢献し、表彰式では相手チームの中日勢から「MVPは多村だろ」と称賛されるほどの活躍を見せた。
2012年はさらなる出場機会の減少に見舞われ、79試合出場で前年とほぼ変わらない成績だった。2012年11月5日、吉村裕基、江尻慎太郎、山本省吾とのトレードで、神内靖、吉川輝昭と共に横浜DeNAベイスターズへ移籍し、7年ぶりに古巣へ復帰した。背番号は横浜時代のプロ入り当初と同じ52となった。
3.3. 横浜DeNAベイスターズ復帰時代 (2013-2015)
2013年、横浜DeNAベイスターズ復帰後の4月11日、対広島東洋カープ戦(ホームゲーム)の6回に今季第1号となる代打本塁打を放った。5月10日の対読売ジャイアンツ戦(ホームゲーム)では、3対10と7点差をつけられた7回裏に代打で2ラン本塁打を放ち、その後1点差まで追い上げる猛攻を見せた。9対10で迎えた9回一死一、二塁の場面では西村健太朗からプロ入り初のサヨナラ3ラン本塁打を放ち、同一試合で代打本塁打とサヨナラ本塁打を記録したのは日本プロ野球史上5度目という快挙だった。この年は96試合に出場し、3年ぶりの2桁本塁打をマークするなど随所で活躍し、チームの6年ぶりとなる最下位脱出に貢献した。
2014年は、梶谷隆幸と筒香嘉智が外野にコンバートされ、この2人がスタメンにほぼ固定されたことで、残る外野1枠を荒波翔や金城龍彦らと日替わりオーダーで出場するか、右の代打要員としての起用が多くなり、73試合の出場に留まった。
2015年はチームの若返りの方針により、一軍公式戦4試合に出場したのみで、本塁打を放つことができず、連続本塁打記録は16年で途切れた。同年5月3日に出場選手登録を抹消される。抹消後は若手選手の育成を重視するチーム事情から、イースタン・リーグ公式戦への出場機会が「1試合につき2打席」に限られた。このような制限の下でも、打率.319、7本塁打を記録したが、一軍への復帰は叶わないまま、10月3日に球団から戦力外通告を受けた。同年12月2日付でNPBから自由契約選手として公示された。
3.4. 中日ドラゴンズ時代 (2016)
2015年11月10日に草薙球場で開催された12球団合同トライアウトには参加しなかったが、2015年12月末に、横浜時代のチームメイトである谷繁元信が一軍監督を務める中日ドラゴンズの関係者が多村に接触。横浜時代の2001年秋季キャンプで臨時コーチとして指導を受けた落合博満ゼネラルマネジャーとの面談を経て、その場で入団が決定した。
2016年1月15日、育成選手として中日へ入団することが正式に発表された。背番号は215。球団は当初、2016年の早い段階で多村の支配下登録を検討しており、開幕前には2007年に育成選手として中日に入団し、後に支配下選手登録されて同年の日本シリーズでMVPを獲得した中村紀洋のような活躍が期待されていた。
同年4月12日、ナゴヤ球場で行われたオリックス・バファローズとのウエスタン・リーグ公式戦において、代打出場で実戦復帰を果たした。4月19日にはタマホームスタジアム筑後で行われた福岡ソフトバンクホークスとの公式戦で4番指名打者として初スタメン出場。4月22日に公式戦初安打を記録し、4月24日には2点適時二塁打を放ち初打点を記録するなど、活躍を見せていた。5月18日にはナゴヤ球場場外となる公式戦初本塁打と初猛打賞を記録した。しかし、シーズン中に支配下登録とはならず、ウエスタン・リーグ公式戦28試合に出場し、打率.279、1本塁打、8打点を記録した。
同年10月1日に現役引退を表明したが、規定により、育成選手は引退扱いとはならず、10月31日に自由契約公示された。自由契約後に受けたインタビューでは、支配下復帰できなかった時点で引退を模索しており、自ら球団に引退を申し入れたことを明かしている。
4. 国際経歴
多村仁志は、日本を代表する選手として国際舞台でも活躍した。
2004年には日米野球に出場。
2006年に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、日本代表に選出された。この大会では全試合に出場し、攻守にわたる活躍を見せた。特に、長打力のある打撃と堅実な守備はチームの勝利に貢献し、3本塁打、9打点という成績はチームの本塁打王、打点王となった。彼の活躍は日本代表の初代世界一という偉業に大きく寄与した。この功績を称え、出身地である厚木市から市民功労賞が贈呈され、さらに紫綬褒章も受章している。
5. 選手としての特徴
多村仁志は、その身体能力の高さと野球センスを活かし、打撃、守備、走塁の三拍子が揃った選手として評価された。特に、広角に長打を打ち分ける打撃と、広い守備範囲から繰り出される強肩が持ち味だった。
5.1. 打撃
多村の打撃は、強く柔軟なリストを活かしたスイングから、広角に長打を打ち分けることが持ち味だった。ボールを手元まで引きつけて右方向にも長打を放つ技術に加え、ソフトバンク移籍後から2010年までの得点圏打率が.322と、状況に関わらず自分の打撃ができる柔軟さも兼ね備えていた。
横浜時代に打撃コーチの竹之内雅史に打球を遠くに飛ばす方法を教わったことで、プロ入り3年目から飛距離が伸びるようになった。2001年のキャンプでは、臨時コーチの落合博満から、それまでのロバート・ローズを参考にした打撃フォームからの改造を勧められたことをきっかけに、独特の神主打法に変えた。しかし、この時は完全に受け入れたわけではなく、翌2002年の秋季キャンプ以降は再びローズ打法に戻している。最終的には両者の折衷ともいえるフォームに落ち着き、パワーと確実性を兼ね備えた主力打者に成長した。

全盛期には、その高い打撃能力と身体能力から「メジャーに最も近い日本人野手」と称賛されるほどの評価を得ていた。
5.2. 守備
球界屈指の身体能力の高さを誇り、優れた打球判断を生かした広い守備範囲にも定評があった。プロ入り時から遠投120 mをノーステップで投げられるほどの強い肩を持ち、若手時代に肩にボルトを入れる大手術を行った後もその強肩は健在だった。2010年にはリーグの右翼手中2位のUZR2.3を記録するなど、守備指標においても高い評価を得ていた。横浜時代には、同じく守備に定評のあった右翼手の金城龍彦と球界屈指の右中間コンビとして、鉄壁の守備を誇った。
5.3. 走塁
一塁到達まで4.13秒を記録する俊足も兼ね備えていた。レギュラーに定着した2003年と2004年には2年連続で2桁盗塁を記録するなど、走塁面でもチームに貢献した。
6. 人物
多村仁志は、その野球での活躍に加え、人間性や社会貢献活動においても注目された。
第1回WBCでの活躍は、野球の盛んなキューバにおいて多村の知名度と人気を飛躍的に高めた。フレデリク・セペダは多村がソフトバンク時代に使っていたバットを愛用しており、グリップには「H6」と刻まれているという。ユリエスキ・グリエルもDeNAで多村とチームメイトになった際には、「多村さんはキューバで伝説の人。一緒にプレーできるのがうれしい」と目を輝かせ、本塁打を放った際には多村と熱い抱擁を交わすのが定番となっていた。
横浜・ソフトバンク時代は、当時の背番号6に合わせて、5ツールプレイヤー(打撃技術、パワー、走力、守備、肩)にファッションを加えた「6ツールプレイヤー」を自称していた。自身が使う用具にも「6TOOLS」と刻印し、公式サイト名にも使用していた(当初は「6TOOL」だった)。しかし、2009年からはファッションをメンタリティに変更し、精神面での強さを追求する姿勢を示した。
プロ入り以来毎年のように怪我に泣かされ続けていたことから、一部のファンからは主人公が非常に弱々しいテレビゲームの名前とかけて「スペランカー」という愛称で呼ばれることもあった。
使用していた野球用具は、ミズノ、SSK、プーマ(スパイク)を経て、最終的にアンダーアーマー製品を使用。日本人プロ野球選手でアンダーアーマー製野球用具を使用した第一号選手でもある。若手時代にロバート・ローズからバットをもらい、その重さと長さを利用して飛距離を伸ばせるこのバットが、リストの強さを活かす自身の打撃スタイルに合っていたため、現役を終えるまでローズと同じ形のバットを使い続けた。
子どもの頃から家族や親戚も地元の大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)ファンで、横浜にドラフト指名された時は親族から「よくやった」と大いに喜ばれたという。また、当時から兄の影響でメジャーリーグも見るようになり、メジャーリーガーに憧れていた。プロ入り当初は目標とする選手にメジャーリーグの盗塁記録を持つリッキー・ヘンダーソンを挙げていた。
地元への恩返しと、ボランティアの人々が頑張っている団体の力になりたいという思いから、現役時代には慈善事業チーム「来夢ロード多村」を立ち上げた。神奈川県厚生保護法人や日本盲導犬協会など、いくつかの団体に寄付を行い、支援を継続するなど、社会貢献活動にも積極的に取り組んでいた。
7. 引退後の活動

2016年の現役引退後、2017年からは野球評論家として活動を開始した。メジャーリーグ中継を中心に、J SPORTS、SPOTV、テレビ神奈川、TBSチャンネル、DAZN、東京MX、RKBラジオ、TBSラジオ、eスポーツ関連など、数多くの媒体で解説を務めている。
2020年には、DAZNが特別協賛となって新設されたプロ野球最優秀バッテリー賞の月間賞において、セ・リーグおよびパ・リーグ双方の選考委員を務めた。
2021年からは、NPBとKONAMIが共催するプロ野球eスポーツリーグ「eBASEBALLプロスピAリーグ」において、横浜DeNAベイスターズの初代監督に就任し、eスポーツ界でもその活躍の場を広げている。
8. 表彰と記録
多村仁志は、プロ野球選手としてのキャリアを通じて、数々の表彰と記録を打ち立ててきた。
8.1. 主要な表彰と栄誉
- ベストナイン:1回(2010年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回(2004年)
- 厚木市民功労賞(2006年):WBC優勝貢献を称えて
- 紫綬褒章(2006年):WBC優勝貢献を称えて
8.2. 節目となる記録
多村仁志がプロ野球で達成した主な初記録と節目の記録は以下の通り。
; 初記録
- 初出場:1997年4月4日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤドーム)、7回表に盛田幸希の代打として出場
- 初安打:1997年4月8日、対阪神タイガース1回戦(横浜スタジアム)、8回裏に田村勤から
- 初打点:1997年4月10日、対阪神タイガース3回戦(横浜スタジアム)、8回裏に古溝克之から
- 初先発出場:1997年4月22日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、8番・右翼手として先発出場
- 初本塁打:1997年4月25日、対中日ドラゴンズ4回戦(横浜スタジアム)、5回裏に前田幸長から
- 初盗塁:2000年9月15日、対読売ジャイアンツ25回戦(東京ドーム)、9回表に二盗(投手:三澤興一、捕手:村田真一)
- 初満塁本塁打:2004年4月21日、対読売ジャイアンツ2回戦(東京ドーム)、3回表に工藤公康から
- 初サヨナラ安打:2005年4月5日、対読売ジャイアンツ1回戦(横浜スタジアム)、12回裏にダン・ミセリから
- 初サヨナラ本塁打:2013年5月10日、対読売ジャイアンツ6回戦(横浜スタジアム)、9回裏に西村健太朗から
; 節目の記録
- 100本塁打:2005年9月17日、対読売ジャイアンツ19回戦(横浜スタジアム)、8回裏に酒井順也から右中間へソロ ※史上243人目
- 150本塁打:2010年5月8日、対埼玉西武ライオンズ8回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、6回裏に許銘傑から左越ソロ ※史上153人目
- 1000試合出場:2011年4月23日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、6番・右翼手で先発出場 ※史上440人目
- 1000安打:2011年10月2日、対埼玉西武ライオンズ23回戦(西武ドーム)、3回表に石井一久から右前適時打 ※史上267人目
; 本塁打に関する記録
- 3打席連続本塁打
- 2004年(7月17日の対広島東洋カープ戦で高橋建・佐竹健太・林昌樹からそれぞれ記録)
- 4試合連続本塁打
- 2004年(4月21日の対読売ジャイアンツ戦から同年4月24日の対広島東洋カープ戦で記録)
- 2006年(5月19日の対西武ライオンズ戦から同年5月23日の対福岡ソフトバンクホークス戦で記録)
- 全球団から本塁打:2009年6月2日、対横浜ベイスターズ1回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、4回裏にトム・マストニーから左中間へ決勝2ラン ※史上16人目
; その他の記録
- リーグ外野手レンジファクター(RF/G)1位:1回(2004年:2.09)
- オールスターゲーム出場:1回(2010年)
9. 年度別成績
多村仁志の年度別打撃成績、守備成績、および国際大会での成績を以下に示す。
9.1. 年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁< 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997 | 横浜 | 18 | 27 | 26 | 2 | 7 | 1 | 0 | 1 | 11 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | .269 | .259 | .423 | .682 |
2000 | 84 | 245 | 226 | 21 | 58 | 6 | 1 | 7 | 87 | 29 | 2 | 0 | 0 | 2 | 13 | 3 | 4 | 64 | 3 | .257 | .306 | .385 | .691 | |
2001 | 33 | 54 | 43 | 8 | 7 | 2 | 0 | 1 | 12 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | 2 | 15 | 1 | .163 | .321 | .279 | .600 | |
2002 | 81 | 196 | 183 | 23 | 43 | 8 | 0 | 5 | 66 | 16 | 3 | 1 | 2 | 0 | 9 | 1 | 2 | 54 | 1 | .235 | .278 | .361 | .639 | |
2003 | 91 | 260 | 242 | 29 | 71 | 12 | 0 | 18 | 137 | 46 | 14 | 7 | 1 | 0 | 12 | 1 | 5 | 65 | 7 | .293 | .340 | .566 | .906 | |
2004 | 123 | 492 | 449 | 80 | 137 | 19 | 2 | 40 | 280 | 100 | 10 | 7 | 1 | 1 | 39 | 0 | 2 | 126 | 8 | .305 | .363 | .624 | .987 | |
2005 | 117 | 499 | 450 | 71 | 137 | 26 | 2 | 31 | 260 | 79 | 2 | 4 | 0 | 1 | 43 | 1 | 4 | 108 | 6 | .304 | .369 | .578 | .947 | |
2006 | 39 | 145 | 127 | 24 | 35 | 3 | 0 | 8 | 62 | 20 | 5 | 1 | 0 | 1 | 14 | 2 | 3 | 29 | 5 | .276 | .359 | .488 | .847 | |
2007 | ソフトバンク | 132 | 553 | 509 | 61 | 138 | 28 | 3 | 13 | 211 | 68 | 3 | 2 | 2 | 1 | 38 | 0 | 3 | 117 | 8 | .271 | .325 | .415 | .739 |
2008 | 39 | 158 | 149 | 17 | 45 | 6 | 1 | 3 | 62 | 15 | 0 | 1 | 0 | 1 | 6 | 0 | 2 | 29 | 6 | .302 | .335 | .416 | .752 | |
2009 | 93 | 338 | 308 | 39 | 87 | 17 | 1 | 17 | 157 | 57 | 0 | 1 | 0 | 4 | 22 | 1 | 4 | 66 | 11 | .282 | .334 | .510 | .844 | |
2010 | 140 | 559 | 513 | 74 | 166 | 33 | 1 | 27 | 282 | 89 | 2 | 2 | 0 | 3 | 33 | 2 | 10 | 93 | 11 | .324 | .374 | .550 | .924 | |
2011 | 100 | 356 | 323 | 28 | 78 | 16 | 0 | 4 | 106 | 36 | 1 | 1 | 0 | 1 | 29 | 0 | 3 | 66 | 11 | .241 | .309 | .328 | .637 | |
2012 | 79 | 218 | 200 | 16 | 50 | 9 | 1 | 4 | 73 | 20 | 0 | 1 | 0 | 0 | 18 | 0 | 0 | 43 | 7 | .250 | .312 | .365 | .677 | |
2013 | DeNA | 96 | 277 | 238 | 26 | 62 | 11 | 1 | 12 | 111 | 39 | 1 | 1 | 0 | 3 | 33 | 0 | 3 | 54 | 5 | .261 | .354 | .466 | .820 |
2014 | 73 | 166 | 147 | 11 | 40 | 5 | 1 | 4 | 59 | 23 | 0 | 2 | 1 | 1 | 15 | 1 | 2 | 23 | 4 | .272 | .345 | .401 | .747 | |
2015 | 4 | 8 | 7 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .143 | .250 | .143 | .393 | |
通算:17年 | 1342 | 4551 | 4140 | 531 | 1162 | 202 | 14 | 195 | 1977 | 643 | 43 | 31 | 7 | 20 | 333 | 14 | 49 | 962 | 94 | .281 | .340 | .478 | .819 |
- 横浜(横浜ベイスターズ)は、2012年にDeNA(横浜DeNAベイスターズ)に球団名を変更
9.2. WBCでの打撃成績
年 度 | 代 表 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006 | 日本 | 8 | 35 | 27 | 6 | 7 | 0 | 0 | 3 | 16 | 9 | 0 | 0 | 1 | 0 | 6 | 0 | 1 | 9 | 2 | .259 | .412 | .593 |
9.3. 年度別守備成績
年 度 | 球 団 | 外野 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
1997 | 横浜 | 7 | 5 | 1 | 0 | 0 | 1.000 |
2000 | 72 | 130 | 5 | 1 | 1 | .993 | |
2001 | 27 | 27 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | |
2002 | 69 | 84 | 3 | 1 | 1 | .989 | |
2003 | 85 | 122 | 2 | 2 | 1 | .984 | |
2004 | 119 | 243 | 6 | 3 | 2 | .988 | |
2005 | 115 | 240 | 5 | 3 | 1 | .988 | |
2006 | 34 | 58 | 0 | 1 | 0 | .983 | |
2007 | ソフトバンク | 126 | 223 | 2 | 2 | 1 | .991 |
2008 | 36 | 71 | 0 | 1 | 0 | .986 | |
2009 | 79 | 120 | 3 | 1 | 1 | .992 | |
2010 | 136 | 226 | 3 | 2 | 0 | .991 | |
2011 | 83 | 136 | 2 | 2 | 0 | .986 | |
2012 | 48 | 85 | 0 | 1 | 0 | .988 | |
2013 | DeNA | 69 | 96 | 5 | 0 | 0 | 1.000 |
2014 | 44 | 63 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | |
2015 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
通算 | 1152 | 1931 | 40 | 20 | 9 | .990 |
10. 背番号
多村仁志がプロ野球生活で着用した背番号の変遷は以下の通り。
- 52(1995年 - 1999年、2013年)
- 55(2000年 - 2003年)
- 6(2004年 - 2012年)
- 8(2014年 - 2015年)
- 215(2016年)
11. 登録名
多村仁志の登録名の変遷は以下の通り。
- 多村 仁たむら ひとし日本語(1995年 - 2009年5月21日)
- 多村 仁志たむら ひとし日本語(2009年5月22日 - )