1. 概要
大久保忠隣(おおくぼ ただちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、徳川家康およびその嫡男徳川秀忠に仕えた譜代大名です。相模国小田原藩の初代藩主として知られ、徳川政権の初期において老中を務めるなど、幕府の中枢で重要な役割を担いました。しかし、慶長19年(1614年)に突如として改易され、晩年は不遇を囲むことになります。彼の生涯は、徳川氏の天下統一を支えた忠臣としての功績と、政争に巻き込まれ失脚した波乱の側面を併せ持ちます。特に、堀川城攻めにおける惨劇の目撃者として、またキリシタン追放令の執行に携わった人物として、その行動と時代の負の側面に対する批判的な視点も重要です。本稿では、忠隣の生涯を詳細に追いながら、その功績と失脚の背景、そして歴史的評価を多角的に検証します。
2. 生涯
大久保忠隣の生涯は、父である大久保忠世と同じく、徳川家の家臣として数々の戦功を立て、江戸幕府の要職に就任するまでの前半生と、突如として失脚を余儀なくされる後半生に分かれます。
2.1. 若年期と家系
忠隣は天文22年(1553年)に、松平氏(後の徳川氏)の重臣である大久保忠世の長男として、三河国額田郡上和田(現在の愛知県岡崎市)で生まれました。母は近藤幸正の娘でした。彼は小田原藩大久保家の初代当主となります。
2.2. 徳川家康への仕官と活躍
忠隣は永禄6年(1563年)に11歳で徳川家康に仕え始め、永禄11年(1568年)の遠江堀川城攻めが初陣となりました。この戦いで敵将の首を挙げ、武功を立てています。しかし、堀川城は翌永禄12年(1569年)に陥落した後、家康の命により石川半三郎が捕虜や城内の住民、女性や子供を含む約700人を都田川の河原で斬首するという虐殺が行われました。忠隣はこの惨劇を目撃し、自身が著した年代記『三河物語』において、「男女共に切り刻むことができた」と証言しています。
この後も、忠隣は家康の主要な軍事作戦に数多く参加し、武功を重ねました。主な参戦歴には、三河一向一揆、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐などがあります。特に三方ヶ原の戦いでは、徳川軍が総崩れとなる中で、家康の側を離れず浜松城まで随伴し、その忠節を家康に高く評価されました。この功績により、彼は奉行職に任命され、これは後に老中のような重要な役職を示すもので、徳川政権の黎明期において枢要な地位にあったことを示唆しています。
天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、家康の危険な伊賀越えにも同行しました。また、甲斐・信濃の平定事業においても、切り取った領国の経営に尽力し、この時、大久保長安が抜擢され、忠隣のもとでその辣腕を発揮し、忠隣から「大久保」の姓を与えられました。
天正14年(1586年)に家康が上洛した際、忠隣は従五位下治部少輔に叙任され、豊臣姓を賜りました。家康が関東に入国した際には、武蔵国羽生に2万石を拝領しています。文禄2年(1593年)には家康の嫡男である徳川秀忠付の家老となりました。文禄3年(1594年)に父・忠世が死去すると、その家督と遺領を相続し、相模国小田原6万5,000石の領主となり、後に初代小田原藩主となりました。これにより、彼の領地は合計7万石の価値となりました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍の主力として秀忠に従い中山道を進みましたが、途中の信濃国上田城に籠城する西軍の真田昌幸への攻撃を主張し、本多正信らと対立しました(上田合戦)。この遅延により、秀忠軍は関ヶ原本戦に間に合いませんでした。
慶長6年(1601年)には、上野高崎藩13万石への加増を打診されましたが、これを固辞しています。
2.3. 老中就任と幕府内での影響力
慶長15年(1610年)、徳川幕府の成立後、忠隣は老中に就任し、第2代将軍・徳川秀忠政権の有力者となりました。彼は徳川家康の最も経験豊富で信頼された相談役の一人として、本多正信とともに幕府の中枢を担いました。
慶長19年(1614年)1月、徳川秀忠はキリシタン迫害を命じ、忠隣は京都に赴いて伴天連寺の破却、信徒への改宗強制、改宗拒否者の追放など、キリシタン追放令の伝達と執行に重要な役割を果たしました。この任務は、当時の幕府の宗教政策における強硬な姿勢を示すものであり、忠隣はその執行者として名を残すことになります。
3. 大久保家の改易事件
大久保忠隣は徳川幕府の要職を担いながらも、一連の事件によってその信任を失い、大久保家は改易という悲劇に見舞われます。
3.1. 改易の背景
忠隣の権勢に陰りが見え始めたのは、慶長16年(1611年)10月10日に嫡男である大久保忠常を病で失ったことがきっかけでした。この際、幕府に無断で忠常の弔問に訪れた者が閉門処分を受けるという出来事がありました。嫡男の死に意気消沈した忠隣は、その後政務を欠席することがあり、徳川家康の不興を買う原因となります。また、忠常の死後、秀忠が忠隣のために精進落としの宴を開こうとしましたが、忠隣がこれを断ったことで、他の老中たちの不興も買いました。
慶長18年(1613年)1月8日には、山口重政が幕府の許可なく忠隣の養女を子の山口重信に娶らせたとして改易される事件が発生しました。この件に関して忠隣は、以前に養女の実祖父である石川家成が婚姻の件を伝え許可を得たため、改めて自身が許可を得る必要はないと考えて秀忠の許可を得ようとしなかったとされています。忠隣は幕府の決定に甚だしく腹を立て、翌日には子と共に江戸城へ出仕しています。同年4月には、忠隣の与力であった大久保長安の死後、その不正蓄財が露見し、長安の子が切腹させられるという大久保長安事件が発生しました。
このような状況下で、同年12月には江戸から駿府へ帰国する家康が、相模国中原に数日逗留した後、突然江戸へ引き返しました。公式には翌年の東金での鷹狩のためとされましたが、実際には土井利勝が秀忠の使者として訪れたことや、旧穴山衆の浪人である馬場八左衛門が忠隣が謀反を企んでいると訴え出たことが理由とされています。ただし、馬場の訴えは全くの虚言であったとされています。
3.2. 改易の経緯と晩年
忠隣がキリシタン追放の命を受け京都に上っていた慶長19年(1614年)1月19日、彼は突如として幕府から改易を申し渡されました。この時、忠隣は京都の藤堂高虎の屋敷で将棋を指しており、家康の上使として京都所司代の板倉勝重が現れたことで全てを悟り、「流人の身になっては将棋も楽しめぬ。この一局が終わるまでお待ちいただきたい」と告げたという逸話が残っています。小田原城は本丸を除き破却され、同年2月2日には前年に無嗣断絶となっていた忠隣の叔父、大久保忠佐の居城であった三枚橋城も破却されました。
改易後、忠隣は近江国に配流され、井伊直孝の預かりの身となりました。この時、栗太郡中村郷に5,000石の知行地を与えられました。3月1日には、忠隣は天海を通じて徳川家康に弁明書を提出しましたが、家康からの反応は特にありませんでした。3月15日には、堀利重も忠隣に連座して改易されています。
忠隣はその後、出家して渓庵道白と号し、寛永5年(1628年)6月27日(英語文献では7月28日)に死去しました。享年75。将軍家からの許しが下ることはついになく、その晩年は配流地で不遇のまま終わりました。

3.3. 改易を巡る歴史的議論
大久保忠隣の改易の理由については、様々な歴史的議論が存在します。公式には、前述の無断婚姻事件や、馬場八左衛門の訴えが挙げられています。また、土井利勝が家康に、秀忠が忠隣と親しい者が多いことに腹を立てていると報告したことで、忠隣とその子との音信を禁じる項を含む起請文が幕閣に提出されるなど、幕府内部の人間関係が複雑に絡んでいたことが示唆されています。
江戸時代から存在する見解として、本多正信・本多正純父子が、政敵であった忠隣を排斥するために策謀を巡らせたとする「本多親子陰謀説」があります。正純は岡本大八事件に部下が関与したことで政治的な地盤が揺らいでおり、忠隣を排斥することで足場を固めようとした可能性が指摘されています。『徳川実紀』もこの陰謀説を支持していますが、当時の史料でこれに直接言及したものはなく、細川忠興が書状で忠隣の改易により正信の権勢が10倍になったと評している程度です。しかし、大久保忠教は正信が忠隣に恩義があることから、両者の対立は作りごとであると否定しています。
また、豊臣氏を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく、和平論を唱える可能性があった忠隣を遠ざけたとする説も存在します。これは、豊臣氏との最終決戦を前に、幕府内部に不和の種を残したくない家康の思惑があったことを示唆しています。
3.4. 大久保家の復権と後裔
忠隣の改易後、大久保家は一時は没落しましたが、忠隣の累代にわたる武功が大きかったことから、家督は嫡孫の大久保忠職が継ぐことが許されました。その後、忠職の従弟で養子となった大久保忠朝の時に、小田原藩主として復帰を果たし、大久保家は名誉を回復しました。
また、連座で謹慎していた忠隣の次男である石川忠総は、養家の祖である石川家成の功労を考慮され復帰を許されました。さらに大坂の陣で戦功を挙げたことから、最終的に近江国膳所藩主となり、その子孫は後に伊勢亀山藩主となりました。
4. 著作: 『三河物語』
忠隣の主要な著作の一つに、寛永9年(1632年)に著された『三河物語』があります。この作品は、徳川家康の権力上昇の過程と、その後の江戸幕府草創期を記録した年代記であり、忠隣自身の体験や見聞が豊富に盛り込まれています。
特に、堀川城攻めにおける住民虐殺の描写は、『三河物語』における重要な証言の一つです。忠隣は、家康の命により城内の捕虜や住民が虐殺された様子を、「男女共に切り刻むことができた」と詳細に記述しており、当時の戦乱における残虐行為を率直に伝える史料として貴重です。この記述は、後の徳川氏の天下統一の裏に隠された暴力の側面を垣間見せるものとして、歴史的評価の対象となっています。
『三河物語』は、徳川氏の歴史を語る上で欠かせない一次史料であり、忠隣が幕府要職にいたことから、その記述は高い信憑性を持つとされています。
5. 人物・逸話
大久保忠隣の人物像は、その生涯における様々な逸話から垣間見ることができます。
- 改易通告時の態度**: 慶長19年(1614年)1月19日、京都で改易を言い渡された忠隣は、その時藤堂高虎の屋敷で将棋を指していました。突然、家康の上使である京都所司代の板倉勝重が現れたのを聞き、自らの運命を悟った忠隣は、「流人の身となっては将棋も楽しめぬ。この一局が終わるまでお待ちいただきたい」と告げ、勝重はそれを承知したと伝えられています。この冷静な態度は、忠隣の胆力を示唆するものです。また、忠隣の改易を知った京都の市民は、「洛中洛外、物騒がしかりしに、京童ども、忠隣罪蒙ると聞きて、すはや事の起こるぞとて資財雑具等ここかしこに持ち運び、以ての外に騒動す」(『藩翰譜』)と記されるほど、大いに動揺したとされます。
- 家康への忠誠心**: 井伊直孝が、家康の死後に忠隣の冤罪を将軍秀忠に嘆願しようとした際、忠隣は家康に対する不忠になるとして、これを断ったとされています。これは、彼が最晩年まで家康への強い忠誠心を貫いたことを示唆する逸話です。
- 後継者推薦の逸話**: 関ヶ原の戦いの後、家康が重臣を集めて後継者に関する相談をした時、秀忠の兄である結城秀康や弟の松平忠吉の名前が挙がる中で、忠隣は秀忠を推薦したという逸話があります(『台徳院殿御実記』)。これは、忠隣が秀忠を幼少の頃から見守り、その器量を評価していたことを示しています。
- 秀次事件での機転**: 豊臣秀次事件の際、豊臣秀次が秀忠を人質にして家康に仲介してもらおうと画策しましたが、忠隣は秀次が送ってきた二度の使者を巧みに追い返し、その間に秀忠を伏見屋敷に避難させて難を逃れさせたという逸話が『藩翰譜』に記されています。
- 茶道への関心**: 忠隣は茶の湯を好み、古田織部に学んだ茶人でもありました(『茶人系譜』)。彼は数寄屋や植え込みに工夫を凝らし、上方大名との接待に用いていました。また、使者にも茶を出し、さらに馬を与えるなど手厚いもてなしをしていたといいます。このため、忠隣は奥州から大量の馬を購入し、江戸や小田原に置いていました。本多正信はこれらの行為に異議を唱え、小田原からの転封を申し出るべきだと忠隣に助言しましたが、忠隣は自身が小田原を拝領するのは当然だと答え、その発言が問題になったと『石川正西聞見集』にあります。
6. 評価と遺産
大久保忠隣に対する歴史的な評価は、その功績と失脚の背景から多岐にわたります。
6.1. 功績と肯定的評価
忠隣は、徳川家康の家臣として、また徳川秀忠を支える老中として、徳川幕府の礎を築く上で多大な貢献をしました。彼は数々の戦場で武功を挙げ、家康からの深い信頼を得て、その行政能力と政治的識見は高く評価されています。特に、家康の伊賀越えへの同行や、秀忠の家老としての補佐役、そして幕府の要職である老中としての役割は、徳川政権の安定に寄与しました。
6.2. 批判と論争
忠隣の行動や決断については、いくつかの批判的な視点と論争が存在します。特に、慶長19年(1614年)のキリシタン追放令の執行に携わったことは、彼の歴史的評価における重要な側面です。彼は京都において伴天連寺の破却や信徒への改宗強制を行い、改宗を拒否する者を追放するなど、幕府の宗教政策を厳しく実行しました。これは、当時の社会における宗教的少数派への迫害という、近代的な人権意識からは批判されるべき側面です。
また、彼の失脚と改易は、単なる不正行為や規律違反だけでなく、幕府内部の権力闘争や徳川家康の豊臣氏打倒への思惑が複雑に絡み合った結果と見なされることがあります。本多正信・正純父子との政敵説や、西国大名との親交が家康の警戒心を招いた可能性など、彼の政治的失脚を巡る論争は、当時の幕府政治の不透明性や権力者の行動の複雑さを浮き彫りにしています。彼の運命は、個人の能力だけでは乗り越えられない政治的な圧力の犠牲となった側面も持ち合わせています。
7. 系譜
大久保忠隣の家系は以下の通りです。
項目 | 氏名 | |
---|---|---|
父 | 大久保忠世 | |
母 | 近藤幸正の娘 | |
正室 | 石川家成の娘 | |
長男 | 大久保忠常 | |
次男 | 石川忠総 | |
三男 | 大久保教隆 | |
男子 | 大久保幸信 | |
男子 | 石川成堯 | |
男子 | 大久保忠尚 | |
男子 | 大久保忠村 | |
男子 | 大久保貞義 | |
長女 | 依田康真室 | |
女子 | 久貝忠左衛門室 | |
女子 | 勝蔓寺教了室 | |
養女 | 森川重俊室 (実父:設楽貞清) | |
養女 | 山口重信室 (実父:石川康通) | |
養女 | 春 | (実父:不明、後に竹腰正信室) |