1. Overview
大徹忠晃(だいてつ ただみつ)は、福井県大野市出身の元大相撲力士であり、本名を南忠晃(みなみ ただみつ)という。1956年10月29日生まれ。現役時代の最高位は西小結。横綱千代の富士から金星を獲得するなど活躍した。その個性的な容姿(太く長い揉み上げと黄土色の廻し)と気さくな人柄で幅広い層のファンを獲得し、特にミュージシャンのデーモン閣下がパーソナリティを務めるラジオ番組『デーモン小暮のオールナイトニッポン』内の「大徹コーナー」を通じて絶大な人気を博した。引退後は日本相撲協会の年寄「湊川」として後進の指導や審判、評議員などを務め、長きにわたり相撲界に貢献した。2024年6月30日付で日本相撲協会を退職したが、その独自の存在感は今もなお多くの人々に記憶されている。
2. 経歴
大徹忠晃は、少年時代から大相撲入門、そして現役時代にかけて、そのキャリアを力強く築き上げていった。
2.1. 生い立ちと入門
南忠晃は1956年10月29日に福井県大野市で生まれた。中学時代は剣道に励み、その長身を見出されて二所ノ関部屋への入門を勧められた。家族、特に母親は彼の入門に強く反対したが、東京で名を上げたいという本人の強い意志により、泣きながら反対する母を振り切って入門を決意。中学在学中の1971年7月場所に初土俵を踏んだ。
1975年9月3日に発生した押尾川部屋独立騒動では、17代押尾川の側についたものの、最終的に移籍は認められず、二所ノ関部屋に残留することになった。
2.2. 現役時代
各階級での着実な昇進から幕内・三役での活躍、独自の相撲スタイル、そしてその個性と人気が彼の現役時代を彩った。
2.2.1. 各階級での昇進
大徹は、1971年7月場所に初土俵を踏んだ後、順調に番付を上げていった。1979年7月場所では幕下で全勝(7戦全勝)を記録したが、優勝決定戦で佐田の海に敗れ、優勝を逃した。1980年1月場所には念願の新十両へ昇進を果たした。しかし、一度は十両の壁に阻まれ、翌3月場所には幕下へ陥落した。この時、本人も「関取に昇進したのだから廃業しようか」と考えるほどであったが、福井県に縁のある後援会関係者から場所が終わるたびに「それが限界か」と再三にわたる激励を受けた。後援会関係者は、全力を出してなお大成しなかった場合には、自身の会社で面倒を見る意向を示しており、この支援が彼の現役続行の大きな支えとなった。
再び番付を上げて、1982年7月場所には十両に復帰。そして1983年11月場所において、ついに幕内への昇進を果たした。
2.2.2. 幕内・三役昇進と活躍
幕内昇進後も、大徹はその長身を活かした相撲で観客を魅了した。1985年7月場所2日目には、当時最強を誇った横綱・千代の富士をうっちゃりで破り、自身初となる金星を獲得した。この取組は、素早く両上手を引き付け、強引に寄る千代の富士に対し、大徹が無意識に左上手からの右へ振ると、勢いのついた千代の富士の左足が大きく土俵を割ったという劇的なものであった。
1987年3月場所には、西小結へ昇進。これは福井県出身力士としては昭和時代以降初めての三役昇進という歴史的な快挙であった。この小結の地位は1場所のみの在位となった。
1988年9月場所に麒麟児が引退すると、大徹は二所ノ関部屋で唯一の幕内力士となった。1989年1月場所に十両へ陥落したが、その後も1989年5月場所と7月場所に十両優勝決定戦に臨んだものの、それぞれ駒不動と龍興山に敗れ、各階級での優勝は一度もなかった。
2.2.3. 相撲スタイル
大徹は、右を差して左で前廻しを取る左四つを得意とする四つ相撲の力士であった。腰が高く、立合いが甘い傾向があったため、突きや押しを得意とする力士を苦手とした。しかし、身長193 cmの長身を活かし、寄り切りや吊り出しといった技をよく使った。また、上手投げも得意手の一つであった。
2.2.4. 個性と人気
大徹は、その個性的な外見と気さくな人柄で、幅広い層のファンを獲得した。トレードマークは、極端に太く長い揉み上げと、珍しい黄土色の廻し(本人は「金色」と主張していた)であった。後に闘牙や隆の鶴といった力士も同様の揉み上げで知られるようになる。
地方巡業では、ファンに対して非常に気さくで陽気な態度で接し、気軽にサインや写真撮影に応じた。日本相撲協会の二所ノ関部屋の稽古場は屋上にあり、通常は一般客が見学できない場所であったにもかかわらず、大徹のサインや写真撮影は例外的に認められていたほどであった。
さらに、ミュージシャンのデーモン閣下がパーソナリティを務めるラジオ番組『デーモン小暮のオールナイトニッポン』内の「大徹コーナー」や、集英社・『週刊少年ジャンプ』の読者投稿コーナー『ジャンプ放送局』における「まわしリニューアル投稿」を通じて、それまで相撲に縁のなかった若い世代にもその名が知れ渡り、新たなファン層を開拓することに大きく貢献した。
3. 引退後の活動
現役引退後も、大徹は日本相撲協会の年寄として、また地域社会の一員として相撲界に尽力した。
3.1. 年寄としての活動
大徹は1990年9月場所限りで現役を引退し、年寄「湊川」を襲名した。初土俵から引退まで一度も休場することなく、1199回の連続出場を果たした。怪我は稽古で治すものとされた当時の相撲界の背景もあり、肋骨にひびが入り、手指の根元が裂けても休場しなかったという。
引退後は、当初所属していた二所ノ関部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たった。しかし、2013年1月場所後に二所ノ関部屋が閉鎖されたため、同じ二所ノ関一門の松ヶ根部屋へ移籍。その後、2014年11月場所後に松ヶ根部屋が「二所ノ関部屋」に改称されたため、再び二所ノ関部屋所属に戻った。さらに2021年12月24日に二所ノ関部屋が再度改称されたため、その後は放駒部屋に所属していた。
彼は2006年1月場所まで審判部に所属し、2010年7月場所では大相撲野球賭博問題で謹慎処分を受けた佐渡ヶ嶽親方の代理として、4年半ぶりに審判業務に復帰。同年9月場所からは正式に審判部員として復帰した。
2014年には、公益財団法人化された日本相撲協会の評議員に就任。これに伴い、2014年3月場所から2018年3月場所までの25場所の間、番付上では本名の「南忠晃」名義で記載された。2018年3月26日に評議員を退任し、2018年5月からは役員以外の親方衆で構成される年寄会の副会長を務めた。
現在も出身地の福井県で子供たちを対象とした相撲教室を行うなど、精力的に地域活動に取り組んでいる。また、JA福井県経済連が作成した若狭牛のリーフレットにも登場している。
3.2. 日本相撲協会退職
大徹は2021年10月に65歳の誕生日を迎え、日本相撲協会の年寄としての停年退職を迎えた。その後、再雇用制度によって「参与」として引き続き協会に在籍したが、2024年6月30日付でこのコンサルタント職も早期退職した。退職時、彼の体重は現役時の130 kgを上回る140 kgとなっていたことが明かされた。
彼の退職後、年寄名跡「湊川」は、当時大関でありながら角番で引退の危機に瀕していた同じ一門の貴景勝が襲名することになった。これは、大徹が自身の名跡を若手有望株の貴景勝に譲る形で、相撲界における次世代の育成と伝統の継承に一肌脱いだものとされている。
4. デーモン閣下との交流
大徹忠晃と好角家として知られるミュージシャン・デーモン閣下との独特な交流は、1987年4月から1990年5月まで放送されたラジオ番組『デーモン小暮のオールナイトニッポン』がきっかけで始まった。
番組開始当時、聖飢魔IIの楽曲の歌詞がNHK内で「放送に適さない」とされ、これに対しデーモン閣下が「迫害だ」と繰り返し怒りを表明していた。そんな中、番組内の「大相撲を666倍楽しむ方法」というコーナーに、「聖飢魔IIと同様、NHKに迫害されている力士」として大徹の名前を挙げる投稿が寄せられた。その投稿には、当時幕内中位に定着していた大徹が登場する際、NHKの相撲中継で「5時のニュース」や「明日の取り組み」などの速報に邪魔され、満足に放送してもらえないという内容が記されていた。この投稿に大笑いしたデーモン閣下が「お前ら大徹を応援しろ」と呼びかけたところ、翌週から大徹に関する投稿が激増。ついには独立した「大徹コーナー」が設けられるほどの人気を博した。少年隊の楽曲『stripe blue』の一節「♪抱いて強く~」が「大徹、強く~」と聞こえることから、大徹が負け越している時には頻繁にこの曲が流された。
「大徹コーナー」の人気はさらに加速し、南野陽子が同番組にゲスト出演した際に発した「大徹さんがんばってね」というセリフをサンプリングしたラップ調の専用ジングル(通称・大徹ラップ)まで製作された。そして1987年6月29日、名古屋場所を直前に控えた時期に、ついに大徹本人が番組にゲスト出演した。大徹は、ファンからの「(大徹は)和式便所の蓋に似ている」という投稿話をまるで他人事のように大笑いし、「若い人たちの声援が増えて嬉しい」と、ネタにされたことすら肯定的に受け止める気さくさを見せた。デーモン閣下に対しても「多くの人に相撲に興味を持ってもらえるよう、これからもよろしくお願いします」と真摯に語りかけた。この時の大徹の自己紹介「大徹です」は、前述の大徹ラップに追加され、「ダダダダ大徹 ダダダダ大徹 大徹大徹『がんばってね』『大徹です』」という完成形に至った。
番組出演後も交流は続き、大徹がデーモン閣下のバスタオルを身にまとって花道に登場したり、聖飢魔IIの黒ミサ(コンサート)を観に行ってファンに歓迎されるなど、親密な関係を築いた。引退後も断髪式でデーモン閣下が鋏を入れたり、『VAN VAN相撲界』誌上で対談を行うなど、長きにわたる友情を育んだ。後にデーモン閣下がNHKの大相撲中継に出演するようになり、勝負審判として土俵下に座る湊川親方(大徹)がテレビカメラに映されると、「ダダダダ大徹...」とつぶやくこともあったという。
5. エピソード
大徹の生涯とキャリアには、その人柄や相撲界での存在感を象徴する数々の逸話が残されている。
5.1. 人物像と逸話
大徹の黄土色(本人は金色と主張)の廻しの色は、見る者に強烈な印象を与えていた。当時、『週刊少年ジャンプ』の読者投稿コーナー『ジャンプ放送局』では、大徹の廻しの色がグリーンに変わった際には、1ページ丸ごと大きくそれを知らせる投稿記事が掲載されたほどである。この投稿コーナーは、大徹の人気をさらに高め、多くの新たなファンを生み出すきっかけともなった。地方のラジオ局の替え歌投稿コーナーでも、大徹をネタにした楽曲が投稿され、採用されたことがある。
NHK総合テレビの大相撲中継に小沢昭一がゲストとして呼ばれた際、アナウンサーが贔屓の力士を尋ねると、小沢は「大徹です」と答えた。アナウンサーがニヤニヤしながら理由を問うと、小沢はいたって真面目に「勝つ気が全く見られない無欲の取組が素晴らしい」と評したという。
1985年7月場所で横綱・千代の富士を破った一番では、取組前に二所ノ関親方から「勝ったら100.00 万 JPYやる」と言われたが、大徹は「勝てるはずがないからいいです」と断った。当初は「負けたら10.00 万 JPY払う」という条件だったが、最終的には「1.00 万 JPYでも断った」とされる。しかし、実際に勝利した後には「半分でいいから下さい」と申し出て、二所ノ関親方を呆れさせながらも怒らせたという。千代の富士戦の勝利後、NHKのインタビュールームで最初に受けた質問は「ここへの道はわかりましたか?」というものであった。また、翌日の地元の福井新聞は、この金星獲得を一面で報じ、特集記事を組むほどの大々的な扱いをした。
酒豪が多い相撲界において、大徹は徹底的な下戸であることで知られており、現役時代から現在に至るまで、酒は一滴も飲めない。
5.2. 審判時の誤審事件
大徹は審判部に所属していた2012年11月場所9日目(2012年11月19日)の豪栄道と日馬富士の取組において、日馬富士の足が土俵外に出たと判断し、「勝負あった」として取組を止めさせた。しかし、実際にはまだ勝負がついておらず、誤審であったことが判明した。このため、相撲史上初の「やり直し」という事態となり(やり直しの結果は日馬富士の勝ち)、後日、鏡山審判部長と共に北の湖理事長のもとを訪れて謝罪した。
この一件以降、相撲の審判規定が変更され、微妙な判定が発生した場合でも、すぐに取組を止めずに行司が軍配をどちらかに上げてから審判委員が協議を行うことになった。
6. 主な成績
6.1. 通算成績の概要
- 通算成績:587勝612敗 (勝率.490)
- 幕内成績:209勝256敗 (勝率.449)
- 現役在位:115場所
- 幕内在位:31場所
- 三役在位:1場所(小結1場所)
- 通算連続出場:1199回(序ノ口以来、1971年9月-1990年9月)
- 金星:1個(千代の富士。1985年7月場所2日目)
6.2. 場所別成績
場所 | 東/西 | 番付 | 成績 |
---|---|---|---|
1971年 | | | 前相撲 | ||
東 | 序ノ口9 | 4勝3敗 | |||
東 | 序二段75 | 2勝2敗 | |||
1972年 | 東 | 序二段63 | 0勝3敗 | ||
西 | 序二段87 | 0勝0敗 | |||
西 | 序二段87 | 5勝2敗 | |||
西 | 序二段28 | 3勝4敗 | |||
東 | 序二段36 | 4勝3敗 | |||
東 | 序二段22 | 3勝4敗 | |||
1973年 | 東 | 序二段32 | 5勝2敗 | ||
東 | 三段目71 | 2勝5敗 | |||
西 | 序二段10 | 3勝4敗 | |||
西 | 序二段22 | 5勝2敗 | |||
西 | 三段目66 | 4勝3敗 | |||
東 | 三段目51 | 3勝4敗 | |||
1974年 | 東 | 三段目64 | 5勝2敗 | ||
東 | 三段目38 | 4勝3敗 | |||
東 | 三段目29 | 3勝4敗 | |||
東 | 三段目39 | 3勝4敗 | |||
東 | 三段目47 | 4勝3敗 | |||
西 | 三段目35 | 3勝4敗 | |||
1975年 | 東 | 三段目44 | 2勝5敗 | ||
東 | 三段目62 | 4勝3敗 | |||
西 | 三段目48 | 5勝2敗 | |||
西 | 三段目21 | 3勝4敗 | |||
西 | 三段目32 | 5勝2敗 | |||
西 | 三段目4 | 4勝3敗 | |||
1976年 | 東 | 幕下53 | 4勝3敗 | ||
西 | 幕下45 | 3勝4敗 | |||
西 | 幕下57 | 3勝4敗 | |||
西 | 三段目9 | 5勝2敗 | |||
西 | 幕下45 | 4勝3敗 | |||
西 | 幕下32 | 2勝5敗 | |||
1977年 | 東 | 幕下55 | 4勝3敗 | ||
西 | 幕下43 | 4勝3敗 | |||
西 | 幕下31 | 5勝2敗 | |||
東 | 幕下16 | 3勝4敗 | |||
東 | 幕下23 | 5勝2敗 | |||
東 | 幕下11 | 3勝4敗 | |||
1978年 | 西 | 幕下16 | 3勝4敗 | ||
西 | 幕下23 | 4勝3敗 | |||
東 | 幕下18 | 3勝4敗 | |||
西 | 幕下26 | 3勝4敗 | |||
西 | 幕下35 | 4勝3敗 | |||
東 | 幕下28 | 4勝3敗 | |||
1979年 | 東 | 幕下22 | 6勝1敗 | ||
西 | 幕下4 | 2勝5敗 | |||
東 | 幕下22 | 2勝5敗 | |||
西 | 幕下41 | 7勝0敗 | |||
東 | 幕下5 | 4勝3敗 | |||
西 | 幕下3 | 4勝3敗 | |||
1980年 | 西 | 十両12 | 2勝13敗 | ||
西 | 幕下11 | 3勝4敗 | |||
東 | 幕下18 | 2勝5敗 | |||
西 | 幕下37 | 3勝4敗 | |||
東 | 幕下46 | 6勝1敗 | |||
東 | 幕下22 | 5勝2敗 | |||
1981年 | 東 | 幕下10 | 4勝3敗 | ||
東 | 幕下7 | 2勝5敗 | |||
西 | 幕下19 | 4勝3敗 | |||
西 | 幕下11 | 4勝3敗 | |||
西 | 幕下8 | 1勝6敗 | |||
西 | 幕下32 | 6勝1敗 | |||
1982年 | 東 | 幕下10 | 4勝3敗 | ||
東 | 幕下7 | 4勝3敗 | |||
西 | 幕下4 | 5勝2敗 | |||
西 | 十両13 | 8勝7敗 | |||
東 | 十両9 | 10勝5敗 | |||
西 | 十両3 | 6勝9敗 | |||
1983年 | 東 | 十両8 | 9勝6敗 | ||
西 | 十両4 | 9勝6敗 | |||
東 | 十両1 | 5勝10敗 | |||
東 | 十両7 | 9勝6敗 | |||
西 | 十両4 | 11勝4敗 | |||
西 | 前頭11 | 8勝7敗 | |||
1984年 | 東 | 前頭9 | 8勝7敗 | ||
西 | 前頭4 | 5勝10敗 | |||
西 | 前頭9 | 8勝7敗 | |||
西 | 前頭6 | 6勝9敗 | |||
東 | 前頭11 | 8勝7敗 | |||
西 | 前頭7 | 8勝7敗 | |||
1985年 | 西 | 前頭3 | 4勝11敗 | ||
西 | 前頭12 | 8勝7敗 | |||
東 | 前頭8 | 8勝7敗 | |||
東 | 前頭4 | 4勝11敗 (金星1) | |||
東 | 前頭12 | 9勝6敗 | |||
西 | 前頭3 | 5勝10敗 | |||
1986年 | 西 | 前頭10 | 8勝7敗 | ||
西 | 前頭7 | 7勝8敗 | |||
東 | 前頭10 | 7勝8敗 | |||
西 | 前頭11 | 8勝7敗 | |||
東 | 前頭7 | 8勝7敗 | |||
西 | 前頭1 | 5勝10敗 | |||
1987年 | 東 | 前頭6 | 9勝6敗 | ||
西 | 小結1 | 3勝12敗 | |||
西 | 前頭7 | 6勝9敗 | |||
西 | 前頭11 | 9勝6敗 | |||
東 | 前頭4 | 4勝11敗 | |||
西 | 前頭10 | 8勝7敗 | |||
1988年 | 東 | 前頭5 | 5勝10敗 | ||
西 | 前頭11 | 9勝6敗 | |||
東 | 前頭6 | 5勝10敗 | |||
西 | 前頭13 | 8勝7敗 | |||
東 | 前頭8 | 6勝9敗 | |||
西 | 前頭11 | 5勝10敗 | |||
1989年 | 東 | 十両2 | 6勝9敗 | ||
西 | 十両5 | 6勝9敗 | |||
東 | 十両10 | 10勝5敗 | |||
西 | 十両3 | 5勝10敗 | |||
東 | 十両9 | 10勝5敗 | |||
東 | 十両5 | 5勝10敗 | |||
1990年 | 東 | 十両11 | 9勝6敗 | ||
東 | 十両5 | 7勝8敗 | |||
東 | 十両7 | 8勝7敗 | |||
東 | 十両4 | 5勝10敗 | |||
西 | 十両10 | 6勝9敗(引退) |
- 1971年11月から1972年3月までは中学生のため特別扱い。
- 各欄の数字は、「勝ち-負け」を示す。
- 金星:特記した場合のみ表記。
6.3. 幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
青葉城 | 5 | 5 | 安芸乃島 | 0 | 1 | 朝潮 | 0 | 5 | 旭富士 | 2 | 1 |
天ノ山 | 0 | 1 | 板井 | 8 | 5 | 恵那櫻 | 5 | 1 | 大潮 | 1 | 1 |
巨砲 | 7 | 6 | 大錦 | 6 | 9 | 大乃国 | 1 | 2 | 大乃花 | 1 | 0 |
大豊 | 1 | 0 | 魁輝 | 6 | 3 | 騏ノ嵐 | 0 | 1 | 霧島 | 5 | 10 |
起利錦 | 4 | 6 | 蔵間 | 9 | 6 | 高望山 | 7 | 9 | 港龍 | 1 | 3 |
琴稲妻 | 2 | 3 | 琴ヶ梅 | 3 | 2 | 琴千歳 | 1 | 0 | 琴富士 | 1 | 0 |
小錦 | 0 | 4 | 斉須 | 1 | 1 | 逆鉾 | 4 | 5 | 佐田の海 | 6 | 8 |
薩洲洋 | 2 | 6 | 嗣子鵬 | 0 | 1 | 陣岳 | 6 | 7 | 太寿山 | 7 | 7 |
隆の里 | 0 | 2 | 孝乃富士 | 4 | 5 | 隆三杉 | 6 | 12 | 高見山 | 0 | 1 |
多賀竜 | 14 | 7 | 玉龍 | 4 | 8 | 竹葉山 | 1 | 0 | 千代の富士 | 1 | 5 |
寺尾 | 5 | 5 | 出羽の花 | 4 | 3 | 闘竜 | 6 | 8 | 栃赤城 | 1 | 1 |
栃司 | 3 | 8 | 栃剣 | 8 | 5 | 栃乃和歌 | 1 | 1 | 栃光 | 3 | 1 |
栃纒 | 1 | 0 | 豊ノ海 | 0 | 1 | 南海龍 | 1 | 2 | 花乃湖 | 2 | 9 |
花ノ国 | 2 | 0 | 飛騨乃花 | 5 | 3 | 藤ノ川 | 4 | 2 | 富士乃真 | 2 | 4 |
双羽黒 | 0 | 2 | 北天佑 | 0 | 4 | 北勝海 | 0 | 3 | 前乃臻 | 3 | 2 |
舛田山 | 5 | 2 | 益荒雄 | 1 | 5 | 三杉磯 | 2 | 1 | 三杉里 | 0 | 1 |
水戸泉 | 3 | 4 | 両国 | 0 | 3 | 若嶋津 | 0 | 5 | 若瀬川 | 2 | 2 |
若の富士 | 2 | 1 | 鷲羽山 | 1 | 1 |
7. 評価と影響
大徹忠晃は、その力士としてのキャリアを通じて、単なる勝敗の記録にとどまらない、多大な影響を相撲界と社会に与えた。
彼の独特な個性、特に長身と揉み上げ、そして黄土色の廻しといった外見は、ファンに強烈な印象を与え、強いアイデンティティを確立した。さらに、陽気で気さくな人柄は、地方巡業でのファンサービスや、ラジオ番組『デーモン小暮のオールナイトニッポン』といったメディアを通じた露出により、従来の相撲ファンに加え、若年層やライトな層のファンをも獲得し、相撲人気の間口を広げることに大きく貢献した。このことは、相撲という伝統文化が時代とともに変化し、多様な層に受容される可能性を示唆するものであった。
引退後も、日本相撲協会の年寄として、後進の指導や審判、評議員といった要職を歴任し、相撲界の運営と発展に貢献した。また、出身地である福井県での子供相撲教室の開催や、地元経済連のリーフレットへの登場など、地域社会との繋がりを重視し、相撲文化の普及活動にも積極的に取り組んだ。
審判としての誤審事件は、彼のキャリアにおける困難な局面であったが、その後の審判規定の変更に繋がるなど、相撲界の公正性向上に間接的に貢献する結果となった。大徹は、そのユニークな存在感と相撲への献身を通じて、多くの人々に愛され、記憶される力士・親方として、相撲史にその名を刻んでいる。
8. 関連項目
- 小結一覧
- 日本相撲協会
- デーモン閣下
- 週刊少年ジャンプ
- オールナイトニッポン
- 二所ノ関部屋