1. 概要
大道寺将司は、日本の極左テロリストであり、東アジア反日武装戦線の創設者にしてその反日主義思想を確立した主要人物である。1974年の三菱重工業本社爆破事件をはじめとする一連の連続企業爆破事件を主導し、社会に甚大な被害と混乱をもたらした。本稿では、彼の生い立ちから思想形成、過激な活動、逮捕、裁判、そして獄中での晩年に至る生涯を詳述する。特に、彼の急進的なイデオロギーと暴力的な行動が社会に与えた影響、およびそれらが引き起こした批判と論争に焦点を当て、その歴史的文脈と遺産を包括的に概観する。
2. 生い立ちと背景
大道寺将司の思想形成には、幼少期の環境や社会問題への初期の関心が深く影響している。
2.1. 幼少期と教育
大道寺将司は1948年6月5日に北海道釧路市で生まれた。彼の父親は満洲国で公務員として勤務していた。幼少期から新聞を丹念に読み、スクラップブックを作成するなど、政治への関心を育んだ。この関心は、彼の継母の義理の兄である北海道議会議員や、高校生ながら60年安保反対運動の先頭に立っていたその息子、太田昌国らの影響も大きかった。
中学校入学後、学区内にアイヌ居住区が含まれていたため、多くのアイヌの同級生と交流する機会を得た。この経験を通じて、アイヌの人々の厳しい生活状況や、中学3年時に目撃したアイヌに対する就職差別を目の当たりにし、強い問題意識を抱くようになった。この経験は、後の彼の世界観形成に決定的な影響を与えたとされる。
2.2. 初期の影響
北海道釧路湖陵高等学校入学後、大道寺は様々なデモ活動に参加するようになった。高校卒業後、大阪外国語大学を受験したが不合格となり、そのまま大阪に残り、釜ヶ崎(山谷に相当する日雇い労働者街)近辺で約1年間を過ごし、日雇い労働者と共に働く経験もした。その後、早稲田大学受験を口実に上京したが、実際には試験を受けず、浪人生活を送りながら高校の同級生らとデモ活動に参加し続けた。この時期、高校の先輩たちが中心となっていた社会主義研究会に参加するようになる。この研究会の意向を受け、同会の運動の足場を固めるため、法政大学文学部史学科に入学した。
3. 大学時代と初期の活動
大学在学中、大道寺は既存の学生運動とは一線を画し、独自の急進的な思想集団を結成するに至った。
3.1. 大学生活と学生運動
法政大学入学当初、大道寺は文学部の自治会を掌握していた社青同解放派と行動を共にした。しかし、セクト特有の上意下達の雰囲気に馴染めず、大学のクラスメイトであった片岡利明らと共に、ノンセクトの「法政大学Lクラス闘争委員会」を結成した。この委員会は、他学科の哲学科や日本文学科の学生にも参加を呼びかけ、一時は百数十名規模に膨れ上がった。しかし、全共闘運動や70年安保闘争の「敗北」とともに、この組織は自然消滅した。
3.2. 思想形成と研究会組織
大学を中退した後も、大道寺は闘争の継続を決意し、片岡らLクラス闘争委員会のメンバー数人と共に研究会を結成した。この時期、高校の同級生であった大道寺あや子を運動に引き込み、後に結婚している。1970年7月7日に華僑青年闘争委員会が発表した新左翼各派への「決別宣言」に衝撃を受けたことをきっかけに、この研究会は「日本帝国主義」がアジアで行ってきた「悪行」について集中的に学習し、過激な反日主義思想を醸成させていった。彼らは、三菱などの日本企業が日本占領下の朝鮮における強制労働から利益を得ていた実態を調査した。大道寺自身は、北海道出身者としてアイヌへの贖罪意識が深く、これが反日思想の根底にあったと述べている。
4. 東アジア反日武装戦線
大道寺将司は、東アジア反日武装戦線を創設し、その主要な活動とイデオロギーを主導した。
4.1. 反日主義
大道寺は、東アジア反日武装戦線のイデオロギーである「反日主義」の確立に中心的な役割を果たした。この思想は、日本人全体を日本帝国主義の共犯者と規定するものであり、大道寺自身は以下のように述べている。
「日本人は全て日本帝国主義の宗主国民である。我々は、資本家によって搾取され、権力によって抑圧されている者であっても、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの被抑圧民族に対しては加害者であるという構造的関係にあると認識する。自らを被害者だと思っていた日本人が、実は加害者であると認識すること、それが『反日』の基本である。」
この思想は、日本人全てを「加害者」と断定することで、テロリズムを正当化する論理的根拠となった。
4.2. 主要な活動と事件
研究会は都市ゲリラ闘争への転換を決意し、東アジア反日武装戦線が正式に結成される以前の1971年に「興亜観音・殉国七士之碑爆破事件」と「風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件」を実行した。
1972年末に東アジア反日武装戦線「狼」部隊を正式に結成した後、大道寺らはさらに過激な活動を展開した。彼らは昭和天皇の乗車するお召し列車を爆破しようとする「虹作戦(お召し列車爆破未遂事件)」を企てた。
4.2.1. 連続企業爆破事件
東アジア反日武装戦線は、1970年代に日本社会を震撼させた一連の連続企業爆破事件を実行した。その中でも特に大規模な事件が、1974年8月30日に発生した三菱重工業本社爆破事件である。
この日、大道寺将司と東アジア反日武装戦線メンバーの片岡利明は、丸の内にある三菱重工業本社へタクシーで向かった。大道寺は、合計40 kgの爆薬が入った2つの容器を建物正面に設置した。東アジア反日武装戦線メンバーの佐々木規夫は、三菱本社の職員に電話で警告したが、建物周辺は時間内に避難が完了しなかった。爆弾は同日12時45分に爆発し、8人が死亡、約400人が負傷するという甚大な被害をもたらした。この事件は、戦後日本における企業テロとして最大級の規模であり、社会に大きな衝撃と不安を与えた。
この事件の他にも、大道寺らは合計9件の連続企業爆破事件に関与した。
5. 逮捕、裁判、および有罪判決
大道寺将司は三菱重工業本社爆破事件などの後、逮捕され、長期にわたる裁判を経て死刑判決が確定した。
5.1. 逮捕と法的手続き
1975年5月19日、大道寺将司は、大道寺あや子、佐々木規夫、片岡利明(益永利明)、斎藤和、浴田由紀子、黒川芳正、そして協力者1名と共に、一斉に逮捕された。大道寺は、三菱重工業本社爆破事件を含む9件の爆破事件で起訴された。
逮捕当初、大道寺は比較的容易に自供に応じたが、後にこの自供に対する後悔の念を抱くようになった。彼は、初期の支援団体を率いていた「狼」のメンバーである佐々木規夫の兄らに焚き付けられるように、激しい獄中闘争および法廷闘争を展開した。
この裁判の渦中、日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件(1975年)およびダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)において、日本赤軍側の要求を呑んだ日本国政府による超法規的措置として、東アジア反日武装戦線のメンバーであった佐々木規夫、大道寺あや子、そして「大地の牙」メンバーであった浴田由紀子が釈放・出国し、海外で日本赤軍に合流した。しかし、大道寺将司は逮捕者の中で唯一、この釈放を拒否し、獄中に留まることを選択した。
5.2. 死刑判決と獄中生活
大道寺将司は、三菱重工業本社爆破事件などに対する責任を問われ、1987年3月24日に最高裁判所において死刑判決が確定した。死刑確定後も、大道寺は複数回にわたり再審を請求したが、2008年の最高裁で棄却され、死刑判決は完全に確定した。
しかし、彼の死刑は執行されなかった。これは、かつての「狼」メンバーであり、連続企業爆破事件に関与した佐々木規夫および大道寺あや子が、前述のハイジャック事件の際に超法規的措置で釈放・出国した後、日本赤軍に合流し、その消息が不明となっているためとされている。彼らの裁判が終了していないため、共犯者との公平性を保つ観点から、大道寺の死刑執行が猶予される形となった。事実上、彼は無期懲役に等しい形で収監され続けた。
6. 文芸活動と晩年
大道寺将司は、獄中での厳しい生活の中で文芸活動を開始し、晩年まで創作を続けた。
6.1. 獄中での文芸活動
大道寺は、獄中から松下竜一、中山千夏、辺見庸といった知識人との交流を深める過程で、自身も文芸活動を開始した。彼は特に俳句の創作に力を入れ、その作品は高い評価を受けた。彼の句集『棺一基』は、2013年に日本一行詩大賞の俳句部門を受賞している。
6.2. 死
大道寺将司は、再審請求中の2017年(平成29年)5月24日、多発性骨髄腫のため、収監されていた東京拘置所で死去した。享年68歳であった。彼の死は、かつての連続企業爆破事件の主犯格の死として、社会に改めて事件の記憶を呼び起こすこととなった。
7. 評価と影響
大道寺将司の思想と活動、そして彼が遺した遺産は、日本の社会運動史において複雑な評価と批判の対象となっている。
7.1. 批判と論争
大道寺将司の提唱した「反日主義」思想と、それに基づくテロリズムは、社会から強い批判と非難を浴びた。日本人全体を「加害者」と断定する彼の急進主義的な思想は、集団的責任を問うものであり、人権侵害を正当化する危険性を孕んでいた。
彼の実行した連続企業爆破事件は、無関係な市民の命を奪い、多数の負傷者を出した点で、社会正義の実現を標榜しながらも、その方法論が倫理的・法的に許容されるものではないという根本的な問題を提起した。テロ行為は、いかなる理由であれ暴力によって社会に恐怖と混乱をもたらすものであり、民主主義社会における問題解決の手段としては決して認められないという批判が根強い。
7.2. 歴史的影響
大道寺将司の思想と東アジア反日武装戦線の活動は、その後の日本の急進主義運動や社会運動に一定の影響を与えた。彼の反日主義は、一部の新左翼や反体制派に共鳴する者を生み出した一方で、過激な暴力行為が社会の広い層からの支持を失わせ、運動全体の孤立を招いた側面も大きい。
また、彼の活動は、日本の戦争責任や植民地支配の歴史に対する議論を、極端な形で社会に突きつけることとなった。しかし、その暴力的な手段は、正当な歴史認識の議論を阻害し、むしろ歴史修正主義的な言説を助長する結果を招いたという批判もある。大道寺の行動は、社会に深い傷跡を残し、テロリズムの危険性と、思想の過激化がもたらす悲劇的な結末を象徴する事例として、日本の現代史に刻まれている。
8. 著書
- 『腹腹時計』
- 『明けの星を見上げて-大道寺将司獄中書簡集』れんが書房新社、1984年2月
- 『死刑確定中』太田出版、1997年12月
- 『友へ-大道寺将司句集』ぱる出版、2001年
- 『鴉の目-大道寺将司句集 2』現代企画室・海曜社、2007年1月1日
- 『棺一基 大道寺将司全句集』太田出版、2012年4月3日
- 『残の月 大道寺将司全句集』太田出版、2015年11月9日
- 『最終獄中通信』河出書房新社、2018年3月24日
9. 関連メディア
- 『失われた言葉をさがして 辺見庸 ある死刑囚との対話』(ETV 2012年4月15日放送)